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社会人編
〜志奈子・7〜
「そっか、産むんだ?」
「はい……母が、帰ってきてもいいと言ってくれたので」
帰ってすぐに、わたしは実家に戻って出産することになったと正岡先生と日高先生に告げた。
「そう、よかったね!日高っちの話しだと親御さんとは絶縁状態だって聞いてたからさ……ほんと、よかった」
「はい……ご心配かけてすみませんでした」
実家に泊まったその夜、わたしは久しぶりに母と同じ部屋で眠った。下の和室に布団を二組敷いて、今更甘えられないけど、母の方を向いて母の顔を見ながら……
『ありがとう』
そう口にしたわたしに、母も同じくありがとうと返してきた。
『許してくれて……ありがとう』
そう、ずっと……母を求めながらも許せなかった。母が子に与える当たり前のモノを貰えなかったことに憤りを感じて、そのことを反省もしなければ謝罪もしない母に反発しまくっていた。謝らせなかったのは頑なな自分だったというのに……
母の隣で目覚めた朝、鞄の中の携帯を覗くと、正岡先生から何度も連絡をもらっていた。マナーモードにしていたのでまったく気がつかなかった。さすがに昨日はそんな余裕もなく、母との時間を過ごしていたから……
結局心配した日高先生と正岡先生は、わたしが帰ってきてからアパートを訪ねて来てくれていた。
二日ほど部屋を空けていたのを心配して、二人で何度か部屋まで足を運んでくれていたらしい。
「でも、本当に良かった……心配したんだよ?」
正岡先生は目を真っ赤にして泣き出してた。この人は……人の事でも自分の事の様に想って泣ける人なんだ。素直に育ったのだろう……今は羨ましいというよりも、そんな人が側にいてわたしのために泣いくれている……そんな自分でいられることが嬉しかった。
「正岡先生……」
「あーあ、また泣いてら。智恵先輩は泣き出すぐらい船橋先生が心配でしょうがなかったんだよね?」
「もう……それは言わないでって!恥ずかしいから」
実は……もしかしたら、わたしが黙って堕胎手術を受けに行ったんじゃないかと、正岡先生は心配して泣きながら探し回ってくれていたそうだ。それについては十分謝ったのだけれども、彼女は自分が早合点しただけだから謝らないでと、何度もわたしに言ってくれた。
「学校はどうするんだ?」
照れてる正岡先生に優しい視線を送りながら、日高先生はわたしに聞いてきた。
「退職します……父親のいない子供を産むなら、やはり辞めるしかないですから」
「船橋先生がそう決めたんなら……止めないよ。でも、助けがいる時はすぐに言ってこいよな」
どこまでも優しい人だ。だけど、その優しさは隣にいるその人と、生徒達の為に使って欲しい。
「ありがとうございます……その気持ちだけで十分です」
「父親役は……やっぱりいらないか?」
「いつか出来る先生の本当の子供さんの為に、その役はとっておいてください。嘘でも他に子供がいるなんて言ったらその子が悲しむでしょうから」
「……ああ、そうだな」
「莫迦な事言ってもしょうがないってことだよ。さっさと諦めれば、日高っち!」
ドンと日高先生の背中を叩いて正岡先生が笑う。でも……その内心を思うと、今でも本当に申し訳なかった。
「とうに諦めてるよ、それは。ちょっと格好つけたかっただけだよ。智恵先輩に」
「……え?」
あぁ、目の前の二人の視線が繋がった。日高先生にも判ったんだよね?本当に優しくていい女は誰かって事が。
「それじゃオレたち帰るけど……無理はしないように。3学期終わるまでは残るんだろ?」
「はい……そのつもりで、辞表を出そうかと」
「子供のことは言わなくていいからな」
「ええ、そうします」
二人ほっとした顔をわたしに向けてくれた。わたしの落ち着いた様子を見て安心したようだ。
「志奈子先生、すごく優しい顔になってるよ」
「え?そう……ですか?」
そういう正岡先生のほうこそ、すごく優しい笑顔だ。
「うん、なんか憑きものが落ちたみたいに穏やか……悪阻も楽になった?」
「はい、すごく」
不思議なほど身体も落ち着いていたし、気分も比較的すっきりしている。
今までは、やはりこの新しい命を生み出す事に、戸惑いと恐れがあったのかもしれない。幾ら自分が欲しかったとしても、本当はしてはいけない事だ……他に家庭がある人の子供を産むなんてことは。知らず知らずの間に身体が拒否していたのかもしれない。それが、母の『産んでいいよ』のたった一言で、こんなにも楽になるなんて、信じられなかった。
「それじゃそろそろ帰りましょうか、智恵先輩。オレと、付き合って貰えますか?」
「えっ?な、なによ、どこへ?」
正岡先生、判ってないんだ……日高先生が言ってる言葉の意味。
「飲みながら話しますよ……その方がオレ達らしいから」
そういって日高先生はにっこり笑うと会釈して、まだ判ってないままポカンとしてる正岡先生の腕を掴んで立ち上った。
「本当に、ありがとうございました……」
わたしは頭を下げて感謝するとともに、やさしいふたりの未来を心の底から祈った。
週明け、日高先生から正岡先生と付き合うことになったと聞かされた。
「本当ですか?」
「ああ、その……船橋先生のことで智恵先輩が、あんなに親身になってくれるとは思ってなかったんだ。面倒見がいいと思ってたけど、とことんなんだよな、あの人」
「そうですね。とても……とてもやさしくて暖かくて、芯の強い方です。あんな先生になりたかった……ううん、正岡先生みたいな女性になりたいです」
自分がずっと好きだった人と付き合っていた相手のことを、ずっと心配したり、調子の悪い時はご飯作りに来てくれたり。それから病院にまで付き合ってくれた。裏表のない、教師としても、人としても尊敬できる人だ。正岡先生のような女性に、教師になりたかったと切望する。以前はなれないと思っていたけれども、今なら……少しだけでも近づけるんじゃないかなって。
「そうだ、智恵先輩は船橋先生に言わなかっただろうけど……相手の男に滅茶苦茶腹立てててね。オレに話した時、荒れて大変だったんだ」
「正岡先生が?」
「オレを振ったのはしょうがないけど、結婚する相手が居るのに子供作るようなことして……でもって責任とらない男は最低だって。でもそれ言ったら船橋先生が悲しむから言えないって……泣くんだよ。それ見てオレは完全にほだされたな」
「……だったら、どうしてあんなこと言ったんですか?」
父親になるって……そんな無茶なこと。
「智恵先輩が男だったら……そう言うかなと思ったんだ。オレの理想の先輩教師なんだよな、彼女は。元気で強くって、指導してるクラブの成績伸ばして、子供達にも好かれて……あんな先生になりたいってずっと思ってたからさ。正直、女性としてはあまり見てなかった……今回の事があるまで、本当にオレにとっては尊敬できる先輩教師でしかなかったんだ。なかなか追いつけなくて……いまでもまだ全然だけどね。いつもちょっと小馬鹿にされてると思ってたから……全然気がつかなかった」
「聞いたんですね?正岡先生の気持ち」
「……ああ。まさか、ずっと想ってくれてたなんて……信じられなかったけど、オレが付き合ってくださいって言ったら、またぼろぼろ泣くんだよな……それが、ほんと可愛くてさ」
日高先生の、幸せそうに照れた笑顔を見せられて、こっちまで嬉しくなってしまった。
「おめでとうございます。お二人ならきっといい教師夫婦になられますね」
「ありがとう……って、まだ気が早いよ」
そうは言ってたけれども、真面目な二人のことだからすぐにそんな話しになることは目に見えていた。
「なんかあっという間に決まっちゃって……」
照れながら薬指に嵌った婚約指輪を眺める正岡先生は、年上で先輩なのにすごく可愛らしいと思えた。
「おめでとうございます。春にはお式ですってね」
「春休みぐらいしかないからね、わたしたちの休みなんて」
二人は特に部活を指導しているから余計だと思う。空いてる日を探すのが大変だ。
「4月3日でしたね?新婚旅行は行けそうにないんですか?」
「それはもう無理っぽいね。ゴールデンウィークも大会が入ってるし、夏休み以外長期の休みなんてとれないからね。志奈子先生は、式……やっぱり出にくい?」
「わたしはいいんですけど……こちらの先生方はわたしたちが付き合ってたの知ってますし、わたしもちょうど3月の末に引っ越そうと思ってるんです」
「そっか、寂しくなるわね……引っ越しは手伝いに行くよ。重いもの持ったらだめだから!指示してくれたらやるからね」
「でも、挙式前で忙しいんじゃ……」
「大丈夫、どうせ志奈子先生は荷物も少ないんでしょ?ここ、ほんとに無駄なものひとつないんだから」
それは今までの癖で、余分なものを持たない、そして持って行かないから。
「それと、赤ちゃん生まれたら、二人で見にいくから、ちゃんと知らせてよ?」
「はい、もちろんです」
わたしは……あれから校長に辞表を出した。一身上の都合と言うことで、ちょうど日高先生と正岡先生の結婚が教員間でも噂になっていたから、二人の側にいるのが辛いだろうと、勝手に憶測されてしまったのだ。
一応、両親の体調が悪いので実家に帰る為と説明はしていた。
「そういう格好してるとちょっとだけ目立ってきた?服装によるけど……お腹とかもちょっと出てきたんじゃないの」
「そうですね、16週目、5ヶ月目に入ったんです。この間実家の近くの産婦人科で見て貰って……ちょっとお腹が張り気味だけど、順調だって。母子手帳も……実家の方で貰ってきました。本籍は移してなかったのですんなり貰えて良かったです」
学校側に知られるわけにはいかないので、1ヶ月に一度実家に帰り、そこから産婦人科に通うことにしていた。
「来週だね、卒業式。寒いところに長いこといても大丈夫?」
「たくさん着込めば……でも、黒のスーツ一着しか持って無くって、もうスカートのウエストなんて入らないんですよ。どうしようかなと思って……」
「ワンピースになってるスーツ買えば?下が、ほら半袖のワンピースになって上に黒の上着が付いてるフォーマルあるじゃない?」
「ああ、それいいですね」
「じゃあ、早速買いに行かない?」
「いいんですか?日高先生とデートは……」
「あいつは今日試合なのよ。うちは午前練習で終わったっていうのに……式場でドレス選ぶつもりだったんだけど、うちの両親も今日は忙しくて、一人で行くのもなんだから志奈子先生の様子見に来たってわけ」
「……暇つぶしだったんですか?」
「そういうこと」
二人で顔を見合わせて笑いあう。こんな、冗談言いあえる友人が出来るなんて、自分の弱みを見せて、甘えて頼って……今までのわたしにとってあり得ないことだったのに、いつのまにかそれが当たり前になっている。
「ほんと、吹っ切れたいい顔して笑うんだ……優しくて、いい顔だよ」
「え?そ、そうですか?照れるから止めてくださいよ」
「だって、ぎこちなく笑ってたじゃない?最初は。思いっきり笑う事なんてあまり無かったんじゃないの、今まで……」
本当に笑わない子だったと思う。母からも遠慮されてしまうほど、無表情で……こんなわたしを、よく甲斐くんは抱いてくれたと思う。
「でも、そういう風に育ってきたから……」
少しだけ、話した……今までのこと。母親のこと、甲斐くんのこと、それから……母親と仲直り出来て、好きな人の子供を産めることが幸せだと思えることを。
「……そっか、だから志奈子先生は寂しい子の気持ちよく判るんだね」
「寂しい子?」
「今、親が子供のことに無関心な家庭って結構あるでしょ?圭一からも、志奈子先生はそういう子の話し聞くのが上手いって聞いてたから」
「そうですね、放っておけなくて……つい」
「ねえ、このまま教師続けられないの?」
「子供が出来たら……もう無理かなって。向こうでは落ち着いたら塾の講師でもやろうかなと思ってます。働き口があればですけど」
「塾か……勉強だけで、なかなか子供の生活には入れないから、寂しいね」
「そうですね……」
本当は教師を辞めたくない……続けたかった。ようやく教師になれたというのに……甲斐くんもこれだけは応援してくれていた。最初は安定した収入の為とか思っていたけど、今では慕ってくれる生徒達がいる。楽ではないけれども、色んな事をやり遂げた時の達成感を実感できて、わたしは……この仕事が自分で思っているよりも好きなようだった。だけど子供を産むことも、またわたしが選んだ道なのだから……産んだ後で文句言ったりはしない。その辛さは自分が一番よくわかっているから。
子供には出来る限り色んなことをしてあげたい。自分がして欲しかったこと、全部……母と一緒に子育てをやり直そうと話していた。
「それじゃ、そろそろ買い物に行こっか?ショッピングモールまで連れて行ってあげる。その代わり、わたしのほうの用事も付き合ってもらうからね」
正岡先生の茶目っ気たっぷりの笑顔に、わたしは同じく笑顔で頷きながら出掛ける支度をした。
「志奈子先生……綺麗」
「ちょっと、正岡先生恥ずかしいから……シャメなんて撮らないでくださいよ」
「いいじゃないの。さっきわたしのも撮ったんだから」
今わたしたちがいるのは、正岡先生の予約している結婚式場だった。ショップで体型の判らないブラックフォーマルを買った後連れてこられてしまった。
『衣装選びは女同士でのほうがいいのよ』
なんて言われて付き合ったものの、わたしも正岡先生も元々オシャレに興味がある方ではない。結婚やドレスに憧れを持っていると言うよりも『自分に似合うかどうか』が問題だと思っている部類で……大量に取りそろえられた白いウエディングドレスやカラフルなカクテルドレスが並ぶ棚を、ひたすら二人で睨み付けていたら、アドバイザーの方が色々と好みを聞き出して似合うモノを出してくれたのだ。正岡先生もドレスを着ると、自分でも信じられないくらい女らしく見えると喜んで、わたしがシャメに撮って日高先生に送ろうと言うと、いきなりわたしにも着てみろといいだしたのだ。
もしかしたら……気付かれたのかもしれない。こんなドレス、わたしは一生着ることがないんだろうなって思いながら見ていたのを。
「あ、でもコレ圭一には送るのよしとくわ。どう見ても志奈子先生の方が似合ってるもの。髪も長いし色も白いし胸もあるじゃない?わたしなんて日焼けしてるし肩幅広いし、胸もないし……背も高すぎるでしょ?」
「そんなことないですよ、さっきのあのタイトで大人っぽいの……あれは背が高くないと似合わないもの」
「そうですよ、あの衣装はモデル体型の方じゃないと着こなせないんですよ。正岡様はどちらかというと外人体型のようですから、こういったメリハリのきいた衣装が似合われるんですわ。こちらのご友人の方は、こういったオーソドックスでシンプルなのが似合われますね」
鏡の中のわたしは白い、光沢のある艶のあるドレスを着ている。あいた肩に胸元……子供が出来てから前より胸が大きくなったように思う。一生着れないだろうドレスを着せてくれた正岡先生に感謝だ。
「じゃあ、そのシャメ後で貰っていいですか?両親に……母に見せたいなって」
「あ……そうだね、そうしな!後で送るよ。なんならもうちょっと撮っておこうよ、記念に」
やっぱりわかっていたらしく、何度も構図を変えながら撮ってくれた。本当は自分の衣装選びなのに……
「ごめんね、かえって疲れてない?」
「ううん、楽しかったです」
「そう……なんか悪いかなって、途中で思っちゃった。わたしばかり幸せになるような気がして」
「どうして?わたしは……本当に正岡先生と日高先生に感謝してるんです。普通、婚約者の別れたカノジョとこんなに仲良くしてくれる人いませんよ?なのに……二人で心配して、面倒見てくれて……今日も気を使ってくれたんでしょ?嬉しかったですよ、一生着れないと思ってたウエディングドレスも着れて」
「ん……すごく似合ってた。ホントは、志奈子先生もこれ着て幸せにならなきゃいけないのに……」
駐車場の車の中で智恵先生がわたしを抱きしめてきた。その肩がわずかに震えていた。
「……ありがとうございます。でも、幸せですよ?昔と比べたら、わたしは今一杯の幸せを手にしてるんです。子供の頃は母親の愛情すら貰えないと冷めた目で生きてきました。学校でも友人を作ることなく、誰にも頼らず、だれとも深く関わらず……一生一人で強く生きていくんだって」
そう思っていた。甲斐くんに出逢うまでは……
「だけど、あの人を好きになって、いっぱい苦しんだけど、そのぶんたくさん温めて貰ったんです。こんな自分でも、誰かが欲しがってくれる、少しでも価値のある人間だって思えた……母ともようやく普通に話せるようになったし、正岡先生みたいに素敵なお友達も出来たんですから。日高先生も今まで通りいい先輩でいてくれて、生徒達も……離れるとなると余計に愛しくなりますね。しょっちゅう話しかけてきてくれる生徒が何人かいるんですよ?それがまた嬉しくて……これ以上の幸せなんてないっていうのに、わたしは大好きな人の子供を産むことが出来るんです。あの人には迷惑かもしれないけど……これは一生の宝物ですよね?だから幸せなんです」
「志奈子先生……」
「正岡先生は長いこと日高先生をずーっと思ってて、わたしみたいなのにも親切にしてくれて、そんな先生の本当の姿、日高先生もちゃんと見てくれてたんですよね?だったらそれもご褒美ですよ。だから、幸せになってください。わたしは出席出来ないですけど、誰よりも祝福しています。二人には、本当に幸せになって欲しいです……わたしには何も返すことが出来ないほどことを、ふたりにはたくさんして貰いました。いつか、きっと何か恩返ししたいなって思うくらい……」
「それはいいのよ!志奈子先生が幸せになってくれることが一番だよ?もし、将来……好きな人が出来た時は、ちゃんとその人の所に行きなさいよね?」
「……はい」
そんな人、この先現れるかどうかなんて判らないけど、今のわたしは生まれ変わったみたいに心が軽かった。わたしを縛り付けるモノは何もない。誰も彼もに感謝したい気持ちでいっぱいだった。
唯一、こんなふうに彼の子供を産むことを……氷室さんに謝りたかったけれども、それは許されないことだ。甲斐くんはわたしがピルを飲んでると思ったから、今までと同じように抱いただけなんだ。それも、彼が望んだんじゃない……わたしが抱いて欲しいと願った結果だ。彼女と甲斐くんにだけは本当に申し訳ないと思っている。だけど、それと引き替えにしてもいいほど、わたしは幸せなのだ。一生、この子を支えに生きていけるのだから。
日ごと身体の中で存在感を大きくしてくる命に、わたしは温もりと鼓動を全身で感じて、この上ない幸せを実感していた。
卒業式まであと二日、今日は予行演習の日だった。
「志奈子先生……結婚するって本当ですか?」
いつも放課後の数学科準備室にやって来ては、カレシの話や受験の不安なんかを話しに来る3年の中嶋さんだった。いつもカレシのことを『何考えてるのかわかんない』って愚痴ってる。カレシは同じ3年の飯田くんだったかしら。たしかに見た感じも冷めてて、大人びて見える分、中嶋さんからすると不安なのだろう。その気持ちがよく判るので、話し聞いてるうちに懐かれてしまった。家庭環境もあまりよくなくて、母子家庭のうえ母親も忙しく、会話もほとんどなくて少し不安定になりかけていた。だけどカレシのおかげで自分の居場所が見つかってよかったと笑うのだ。今ならわたしにも、その母親が話さないのではなく、話す機会がないだけだとわかる。それほど忙しく日々に追われているのだということを伝えてみると、その後少しだけ母親と話ができたと喜ばれた。
「もう、誰がそんなこと言ってるの?結婚なんてしないわよ」
「ホントに?だって、サッカー部の4月の予定表で週末練習が全部休みだって。それも連休で……日高っちにはあり得ないし、他の部も聞いてみたら、その週は結構休み多いんですよね。これはきっと結婚式やるんじゃないかって噂で」
「ちょっと、まって?だからって、なんでわたし?」
「日高先生と……付き合ってたんじゃないんですか?一時期別れたみたいな噂出てたけど、最近また普通に話してるからてっきりそうだと思ってたんですけど」
「違うわよ!いい先輩だけど、付き合ってなんかいないわよ?」
「……ほんとうですか?」
「ええ、日高先生にはちゃんと素敵な彼女さんがいらっしゃるんだから」
「うそ……」
そっか、教師同士の結婚とか、結構噂になるからあまり式前には言わないらしんだけど、正岡先生は学校が違うから、わたしと勘違いされたままなんだ……先生方の中では既に招待状も配られているから知れ渡ってることなんだけど。
「ちょっとまってね」
ケータイを取り出して日高先生に問い合わせてみた。
「ええ、勘違いされてて……言ってもいいんですか?はい、わかりました」
ケータイを閉じて顔を上げると、その子は興味津々の顔のままじっと待っていた。
「日高先生の相手は、前にこの学校にいらした正岡智恵先生よ。M中のソフトボール部顧問されてる」
「あーあの先生?知ってる!試合の応援に行った時見たことある!女の先生だけど、かっこいいんだよねー」
「これでわかった?」
「なんだ……そうだったんだ。よかった……それじゃ卒業してからここに来たらまた先生にあえる?まだまだ相談したいこといっぱいあるんだよ?」
「わたしじゃそんな、たいして相談相手になれないわよ?」
「ううん、聞いてくれるだけでもいいの!だから……」
本当はいなくなることを、今は言えない。だけど、卒業するからといって、知らん顔なんかできない。母親との間はまだまだこれからなのだから……
「もし居なかったら……メールしてきて。電話じゃ……通話料かかりすぎるとまた止められちゃうでしょ?」
夏休み間、彼氏に電話しすぎて通話代が凄くって気が付いたらメール以外使用を止められてしまったらしい。
「じゃあ、先生メルアド交換して!赤外線通信できるでしょ?」
「えっ、赤外線?ごめんそういうの詳しくないのよ……」
「だったらちょっとかして、やってあげる」
そういって彼女がわたしのケータイを受け取ってなにやら操作してくれていた。わたしはそういうのはあまり詳しくない。本当に電話とメールがやっとなのだ。
「志奈子先生」
ドアの向こうから日高先生に呼ばれて、急ぎ立ち上がり駆け寄ろうとした。
「ああ、走らなくていいから」
慌ててそう言うけど、別にこのぐらい大丈夫なのに……正岡先生に子供が出来たら凄い過保護になりそう。
「どうしました?」
中に居る生徒に聞かれたらまずいと思ったのか、廊下の少し離れた所まで移動した。
「いや、さっきの……気になったんで」
「ちゃんと説明しましたよ?」
「ああ、だけどちょっと心配だから。今日部活来てるヤツらと、明日ちゃんとクラスでも報告しとくからさ。迷惑かけてすまなかった」
「いえそんな……わたしたちが付き合ってるだなんて、そんなことまだ信じてる子が居てびっくりしました。正岡先生に申し訳ないです……」
「まあ、紛らわしかったし、ちゃんといってなかったから……悪い。それじゃ、部活行ってくるから。気を付けて」
小さな声でそう言って、爽やかな笑顔を残し日高先生は立ち去った。
本当に優しい人だ。だからこそ智恵先生と幸せになって欲しい……ううん、彼らならちゃんと思いやれていい家庭を築き、教師として支え合っていくだろうと思う。わたしの理想とした夫婦像だ
だけど、困った誤解があったものだ。結婚式が済めば全部明らかになると思う。正岡先生の名字も変わるし……大丈夫だよね?
「ごめんなさい、待たせちゃったわね。メールアドレス交換出来たの?」
かなり中嶋さんを待たせてしまった。だけど彼女はわたしのケータイを開いて見せてくれた。
「うん、ほら、これね。これがわたしのメルアド」
樹里とかいてキリと読むらしい。一緒にケータイ番号も登録されていた。
「わかったわ。ちゃんと返事するね」
先生じゃなくなっても、わたしに出来ることをこの子達に返していきたい。この子達のおかげでわたしは教師としての自信を持ち、喜びも知ることができたのだから。
「ねえ、さっきの……日高先生と結婚しないんなら、先生の好きな人って誰なの?別にいるの?」
「え?ええ、ちゃんと別にいるわよ。でも……その人もう結婚しちゃったんだ、すっごく綺麗な人と。だから片想い、かな?」
「片想いなの?結婚しちゃったのに……他の人好きにならないの?」
「なれたら……よかったのにね。わたしはちょっと不器用だから、すぐに違う人って無理みたいなの」
「そっか……わたしだってしょーへいと別れてすぐに他の人って無理かも……すっごく、好きなんだもん!他なんて考えられない」
「だったら、大事にしてね。その気持ちもちゃんと伝えるのよ……先生みたいに言わずに終わっちゃうこともあるんだから」
「うん、わかった……ねぇ、卒業しても、志奈子先生でいてよね?」
「ええ」
もう、この学校からは居なくなるけれども、わたしはあなた達の先生だから。せめて、この子達を最後までちゃんと見送ろうと心に決めていた。この子達が卒業しても、わたしはこの子達の先生でいたいと、そう願って止まなかった。
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