HOMETOPNEXTBACK

54

社会人編

〜志奈子・6〜

頬は思ったより腫れなかった……きっと加減してくれたのだろう。
一応転んでぶつけたことにしたけれども、しばらくは周りから勘ぐられてしまった。日高先生と一緒に帰ることも無くなったし、話す回数もぐんと減ったから……それでもちゃんと仕事に必要な話しはしてくれる、日高先生の優しさには本当に感謝する他ない。
噂がちらほらと流れ出していたけれども、あえて誰も聞いてこなかった。元々付き合っていますと宣言していたわけではなかったし……それでも一緒に帰ることを止めただけでも、それまで気軽に声かけてきていた生徒達が遠巻きで見るようになった。今まで結構見られてたんだなってことになる。誰もが二人の関係を気にしないようになるには、まだ当分時間が必要かもしれない。いっそのことどちらかが転勤か結婚でも決まれば、二人の噂なんてすぐに消え去るだろうけれども。
甲斐くんと再会した時は、まだ秋だったのに、季節はいつの間にか冬へと差し掛かっていた。
今年も……またクリスマスと正月が来る。忘年会にも誘われたけれど、日高先生と一緒では気まずいと思いすべて断った。
他には何の予定もない……寂しい年末年始をアパートで独り送った。
――――身体の中に大きな不安を抱えたまま……


年が明けて、職員室では3学期の準備が始まっていた。3年生の担任は受験の手配で忙しそうだ。まだ担任を持っていないわたしは、たいしてすることもなく、早々に帰ろうとしていた。
「船橋先生、ちょっといいかしら」
校門を出たところでわたしを呼び止めたのは、M中の正岡先生だった。日高先生と別れてから2ヶ月、噂もそろそろ落ち着いてきたかなと思われていたので、今更と言った感じで意外だった。

「どういうこと?日高っち、あんたと別れたって言ってたけど、本当なの?」
「はい……」
正岡先生に連れて行かれたのは、郊外の喫茶店だった。いきなり語気を荒げて、彼女はかなり昂奮した様子で話し出す。日高先生と同じく体育教師、女性だけれど噂通りかなりの熱血漢のようだ。
「どこが悪いって言うのよ?あんないい奴、ちょっといないわよ!」
「わかってます……」
「わかってないわ!あいつ凄く落ち込んで……飲み会も、忘年会も来なかったのよ?おかしいと思って、ようやく昨夜事情を聞いたら……あなたと別れたって言うじゃない?」
「……すみません」
「すみませんじゃ済まないっていってるの!!」
大きな声に思わず怯えてしまった。部活の指導でも有名な、人を従わせることの出来る声を持つ人だ。その声の威力は普通女性の比ではない。
「…………」
わたしには謝ること以外出来なかった。みんなにちゃんと紹介して貰いながら、自分の身勝手でお付き合いを終わらせてしまったのだから。
「好きな人が居るからだって……聞いたけど、学生時代からずっと付き合ってたの?」
「……はい」
あれが付き合っていたという事になるかどうかは疑問だけど、甲斐くんが好きだと言ってくれてからはそうなのかなって思えるようになった。他に女性がいても、高校の終わりから大学を卒業するまで、わたしは彼と付きあっていた事に出来るなら……無駄じゃなかった。ただのセフレじゃなかったって事になるから。その事実だけが嬉しかった。
「まだ……好きなの?」
「はい」
そう、今でもまだ好きかと言われれば好きだ。諦められないのかと言われれば、もう諦めてはいる。どうにかなりたいわけじゃない。ただ、心も体も甲斐くんじゃないとダメだって答えが出てしまっただけ。これからずっとその想いだけを胸に生きていくのだと決めたのだ。
「そっか……あのさ、わたし……日高っちのこと好きだったんだよね」
「えっ?」
沈黙が続いた後、正岡先生の突然の告白に驚いてしまった。正岡先生と日高先生は仲が良い。だけど、正岡先生は日高先生よりかなり年上で……
「けどね、もう30歳にもなるわたしが、5つも年下の彼とじゃ無理なのはわかってるのよ。諦めてたとこに、こんな若くて可愛い子連れてこられたらしょうがないなぁって……」
可愛いって……わたしのことだろうか?
「こりゃ敵わないなって、すっぱり諦めてこっちは見合いまでしたのにさ……勝手に別れたりしないでよ」
「正岡先生……」
「前の彼が忘れられないっていうのも……判るよ。わたしだって、全然諦められなかったから。たぶんあいつが可愛い奥さん貰うまで、ずーっと諦められないんだと思う。何かある度に、呼び出されて愚痴聞かせられるのもなんだけどね……あいつにとってわたしは頼りになる姉貴分だから」
「…………」
「あんたのことは、本当はまだ許せない。あんなに真面目で、一生懸命想っていたあいつの気持ち踏みにじったんだからね?だからといって、わたしが想い続けたところで両想いになれっこないっていうのもわかってる……あいつにとってわたしがずっと先輩であるように、あんたにとってもあいつが先輩なんだよね」
そうだ……とてもいい先輩だった。教師としても頼りになるし尊敬もしている。あれだけ身勝手なことをしたわたしに、日高先生は今まで通り同僚として対応してくれるのだから。そのおかげでわたしは今でも教師として変わりなく学校で過ごせている。今更ながらに日高先生の度量の大きさに感心してしまう。本当にいい人なのだ……
それでも、わたしの心はもう揺らがない。
甲斐くんが好きだと言ってくれたわたしを好きでいたいと思った。これから先も、例え甲斐くんが結婚しても……二度と会えなくても。
――――だって……
「顔色悪いけど、大丈夫?」
「平気です……」
「そう?」
本当は気分が悪かった。珈琲の匂いがやたらと胃に来る。頼んだ紅茶もひとくち口を付けただけでもう飲めなかった。
あ、だめだ……
「すみません、ちょっと……」
わたしは口元を抑えて、急ぎトイレに駆け込んだ。
「うぐっ……」
込み上げてくる胃液をはき出せずに藻掻く。吐けるほどあまり食べていない……ここのところずっと。
「まさか……」
顔を上げると、洗面所の鏡に映る正岡先生が吃驚したまま後ろで固まっているのが見えた。
「日高っちの?」
「いいえ……違います!わたしたちはそんな関係じゃなかったですから」
「それじゃ……」
「そんなんじゃないです……ちょっと胃の調子が悪いだけなんです……」
あの後、結局その次の月の生理は来なかった。クリスマス前におそるおそる調べた妊娠判定薬の結果は陽性……
たぶん、間違いなく甲斐くんの、子供。
言えないけど……誰にも。
年末年始はそのことで頭がいっぱいで、何処にも出掛けられなかった。
「ホントに?実はね、日高っちに頼まれたのよ……お正月明けからずっと、あんたの体調悪そうだから様子見てやってくれって。自分は何もしてやれないから、話しでも聞いて相談に乗ってやってくれないかって……わたしに頼むのよ?ほんと、無神経な奴なんだから」
「それだけ……日高先生に信頼されてるんですね」
「嬉しいような、嬉しくないってやつだね」
さっぱりしていて面倒見が良くって……こんなわたしのことまで心配してしまう正岡先生の人の良さに、いつか日高先生が気付けばいいと思う。
「で、生理は来てるの?判定薬は?」
わたしは観念して首を振った。
「調べたら陽性でした……すみませんがこのこと、黙っていて貰えますか?まだはっきり判ったわけじゃないし……」
「わかったわ。何か出来ることがあったら相談して?必要なら産婦人科に行くのも付き合うし。どうせならこの県内よりもっと離れたとこのほうがいいでしょ?どうするつもりなのか早く決めないとね。これは女として、同じ教師として、ね。マズい事になる前に……そうでしょ?」
「はい……ありがとうございます」
その日はそのまま正岡先生にアパートまで送ってもらった。


「おはよう」
「……日高、先生?」
数日後、朝から雨の日の朝早く、アパートの呼び鈴を鳴らしたのは日高先生だった。
「あの……」
「学校、行くだろう?送っていくよ」
「ちょっと、待ってください……」
どうして日高先生がそんなこと言い出すの?
「智恵先輩に聞いたんだ……たぶん、これから一番辛くなるって。そうなるのがわかっていて、オレは船橋先生を放っておけない」
言ったんだ……もしかしたらわたしが妊娠してるかもしれないって事。確かに、この辺りでわたしは知り合いなんてまずいない。いても日高先生を通して知り合った人がほとんどで、いざ困った時に頼れるのも、やっぱり日高先生しかいないことはわかっている。でも、だからと言って、このことに日高先生を係わらせてはいけない。もし、堕ろすとしたら……父親役を頼めるのは彼しか居ないだろう。でもそれは……最終手段だと思っていた。
甲斐くんの子供が出来てるって判った時、驚きはしたけれども、悲しくはなかった。ピルを飲んでないのに避妊しなければどうなるかなんて……決まっているのに。なのに甲斐くんを止めなかったのは、自分がそうされたかったからだ。快感だけじゃなくて、彼の特別な存在でいたかった……身勝手だけど、朱理さんみたいに甲斐くんの子供が欲しいと思ってしまった。
でも、だめ……日高先生にだけは頼れない。
「何を言ってるんですか?日高先生には全く関係のない事なんですよ!」
「わかってる……でも助けが必要だろ?今日みたいに雨の日はキケンだ。滑っても怖いし冷えるだろ?だから、送る」
「先生……」
その真摯な優しさが嬉しいのと自分が情けないのとで、熱いものが込み上げてくるのを必死で呑み込んだ。
「智恵先輩も心配してる……悪阻、大丈夫なのかって」
「……よほど空腹にしない限りは大丈夫です」
あれから、正岡先生にどうしたらいいのか聞いた。すると出産経験のある友人に聞いてくれて、むかむかする前に少しづつでもいいから食べておくと楽になると教わった。塩だけのおにぎりとかシンプルなものもいいって聞いて、こっそりお弁当にして余分に学校へも持って行っている。
正岡先生には友人が多く色々情報を貰えるのが助かった。友人の中には既に母親になった人も多く、『自分は行き遅れたけどね』と先生は明るく言うけれども、仕事に打ち込んだ結果だと思う。部活の指導に力を入れていたら恋愛どころじゃないって言うから。
「そっか……ならいいけど」
それじゃ行こうと、彼はわたしが部屋から出てくるのを外で待ってくれていた。
「また誤解されますね」
助手席のシートベルトを締めながらそう言うと、先生は軽く笑った後、とんでもないことを言い出した。
「いいよ……その子の父親になっても」
「……え?」
何を言い出すの?この人……
「産むにしても、堕ろすにしても、父親が必要だろ?籍を入れる入れないは考えないとしても、必要ならオレがなってもいいと思っている」
「それはダメです!」
先生のことをずっと想っている人が居るのに!そんなこと……これ以上迷惑かけるなんて絶対ダメだ。
「考えておいてくれ……でないと、仕事も続けられなくなるぞ?」
「でも……」
「堕ろすにしても、子供産んで育てていくにしても、仕事は続けた方がいいだろ?せっかく教師になれたんだから……だったら、父親の判らない子供を産んで職まで失うことはない。すぐに別れてもいいから、それだけはきちんとしておいた方がいい」
そんな……先生には不利益しか被らないような事、させられないのに!この人はどこまで優しいんだろう。その気持ちは嬉しかったけど、とても辛かった。日高先生の言葉に甘えれば、わたしは甲斐くんの子供も産めるし育てていける……だけどそれは日高先生の幸せを踏み台にしてのことだ。こんなに優しい人を、わたしはどうして甲斐くんより愛せなかったのだろう。

数日後、正岡先生がちょっと車で走った県外にある産婦人科に連れて行ってくれた。検査結果は10週目、3ヶ月の半ばってところらしい。予定日は8月の終わり頃だろうと言われた。
帰りの車の中で正岡先生はわたしの体調を気遣いながらも、色々聞いてきた。日高先生じゃ話しにくいだろうからと。
「日高っち、その子の父親になってもいいっていったんだって?」
「それは……」
彼女は日高先生がそう言っていたことを既に聞いていたらしい。二人は、わたしが思う以上に信頼しあっている。
「たぶんそういうことを言い出すだろうと思ってたけど……どうやら本気みたいよ?」
「あの、それは絶対に無いです。日高先生にそんなこと……させられません」
「でも、そのほうがいいのは事実でしょ?そうでなきゃ産めないし、堕ろせもしない……」
「……」
確かに、中絶するとなると日高先生に協力して貰う他なかった。だけど……怖いけど、できれば産みたい。そんな気持ちがわたしの中にあった。
「日高っちはさ、いざというとき頼りになるよ?あんたも馬鹿だよ、あんなイイヤツ……お人好し過ぎるんだけどさ、自分が係わった人を見捨てられないんだよね。ましてや一度好きになって、嫌いになって別れたんじゃなければ余計にね。今のあんたの顔見てると堕ろしたくないって言ってるよ?ねえ、産ませてもらえば?」
「ダメです、それだけは!」
幾ら何でも日高先生の籍を汚すわけにはいかない。
「そんな迷惑をかけるぐらいなら……」
――――堕ろす。その言葉を口にしそうになった。
「あんないい男いないよ?いい父親になれると思う」
「だからです……わたしにはもったいなさ過ぎます」
「ね、あんたのいい人は……どんな人だったの?」
「彼は……見かけは良くても中身は最低の男、だったと思います……いいところも、ちゃんとありましたけど、日高先生とは比べられないです」
「そんな男でも、好きなんだね」
「……ええ、だって……似てたんです。わたしと、とても……見かけもタイプも全然違ったけど。同じ寂しさを知ってたから……」
だから離れられなかった。いつの間にか自分の半身のように思えていたのに……
その彼の子供が、今わたしのお腹の中にいる……だけど自分が産みたいからと勝手に黙って産んでいいものでもないだろう。いつか彼に迷惑をかけてしまうかもしれない。それに……わたしにちゃんと子育てができるだろうか?まともな家庭で母親の愛情にすら恵まれなかったわたしに……
親に存在を拒否されることが、どれほど絶望的なことか自分が一番よく知っている。ただ産み落とされただけでは子供が不幸になる。『だったら産まなきゃ良かったのに!』……それは何度も母親に投げかけたくなったわたしの心の中の言葉。そして何度も聞いた『おまえさえいなけりゃ』の言葉。そんな言葉しか貰えなかったわたしが、まともな母親になれるというのだろうか?
不安が急に襲い来る。どうすべきか、早く決めなければいけない。
「とにかく困ったことがあったらどっちかに言うんだよ?一人で苦しい選択をしないようにね」
アパートの前に停めた車の中で、正岡先生はわたしにそう言ってくれた。
産むか産むまいか……自分で決めかねた時、苦しむことがわかっていて、こうやって手を差し伸べてくれる。この人も、優しい人なのだ……日高先生に相応しいのは彼女のような人なんだ。
「ありがとうございます……」
この二人はわたしのことを責めもせず、ただ見守ってくれている。
なのに、わたしには何も返せない。このまま産むとしたら、きっと周りに凄く迷惑をかけるだろう。計算してみたら、3学期が終わる頃にはたぶん5ヶ月目に入ってしまう。だけど、まだ教師生活2年目のわたしに貯蓄もなければ、仕事を辞めて頼る所もなかった。

それから毎日どうしようか考えるたびに、下腹部に違和感を感じた。張りつめたその中にいるのは一つの命なのだ。だけど……このまま産んでいいはずがない。どっちにしても日高先生や正岡先生には迷惑はかけられないのだから。
じゃあどうすればいいのだろう。誰に相談すればいいのか?
不安で、胃もキリキリと痛み、むかつきが消えない。悪阻なのか何なのか判らないまま、わたしは何度か学校や自宅で嘔吐してしまっていた。ご飯もまともに食べられず、給食もほとんど残してしまうから、職員室でこっそり食べるしかなかった。苦しければ苦しいほど下腹部からは脈打つように命を感じる……産まれたいと、その子が言ってるようで……でもその先は?考えれば考えるほどどうしていいか判らなくなる。ううん、気持ちは決まってるけど、そう出来ないから答えが出せないんだ。これから先の不安を思えば思うほど、下腹は張ってきて……
「っ……」
「大丈夫か?」
職員室で立ち上がった時に、思わず引きつった痛みに耐えきれず屈み込むと、日高先生が飛んできてくれた。
「大丈夫です……」
「顔色悪いぞ?全然食べてないみたいじゃないか……智恵先輩、呼ぼうか?」
自分では何もしてやれないからと、優しいことを言う。わたしにはそんなこと言って貰える資格も無いのに。そのくせ、その日の帰りにはちゃんと正岡先生が校門の所まで車で向かえに来てくれて、食事の用意とかしてくれて、わたしは横になってなさいと休まされる。この二人は……何処まで優しくて、お節介で……似ているんだろう。
「他にいないんでしょ?頼れる人とか、友達。困ってる時は助けるのが当たり前じゃない。それに……まだバレたら困るでしょ?」
まだ学校側に知られては困る。そんな事情も何もかもわかっていてそう言ってくれる。お腹の赤ちゃんの相手の事も、無理に聴いてこないことも有り難かった。
けれども、いつまでも甘えたままではいられない。
朝も夜も、そのことで頭がいっぱいだった。もうすぐ4ヶ月目に入ってしまう……どうするかちゃんと決めなきゃいけない。

「どうしたら……」
――――おかあさん
正岡先生が帰った後、ひとりの部屋でもう何年もまともに会話していないその人の事を思い出していた。
「どうすれば……いい?おかあ……さん」
この部屋に来た時みたいに、頼れるはずのない人の名前を呼んでみた。
わたしを産んで後悔してたんだよね?わたしを可愛いって思えなかったんだよね?
その娘がしでかした、愚かな恋の結末を知らせたらなんて言うのだろうか?
聞いてみたい……そう思った。
もしかしたら、わたしが決めかねている最悪の方法を示してくれるかもしれない。その時に、はっきりと自分がどうしたいか決められる気がした。


久しぶりの実家……と言っても、母が再婚して中学3年までの2年間暮らしただけの家だ。初めて住んだ一軒家は再婚相手の持ち家で、母よりかなり年上の義父には結婚して自立した子供が二人いた。つまりわたしには義理の兄と姉がいることになる。わたしとは10歳以上離れた彼らとは、母の再婚時に一度顔を合わせたきりだ。再婚に反対だった彼らは、その後家には近寄らなかったし、わたしに声をかけてくることもなかった。彼らから歓迎されてないことには気が付いていたし、新婚同然の母と義父も二人っきりになりたいだろうからと遠慮して生活する2年間だった。遠距離通学になる高校進学を切っ掛けに、独り暮らしをしたいと言っても反対されなかった。
「ピンポーン」
インターホンを押してしばらく待っていた。わたしがこうやって訪れるとは母も思っていないだろう。一人暮らしをはじめてすぐの高校1年の頃はまだ盆正月ぐらいは帰っていたけれども、2年になってからは全く帰省していなかった。それから大学卒業までの4年と就職してからさらに2年の間、一度も帰っていない。8年近く顔も合わさず、まともに話もしていないことになる。きっと母は迷惑がるだろうと思い、敢えて連絡せずに突然訪ねた。
『はーい、どなた?』
昔とは違う明るい声の母。
「わたし……だけど」
『……志奈子?』
とりあえずは名乗らなくてもわかって貰えたことにホッとした。
玄関のドアが開いて現れたのは、顔を見なくなる前よりも若々しくなった母の姿だった。
「お、かえり……志奈子」
一瞬どう返事していいか迷ってしまったけれども、小さな声で『ただいま』とだけ返事した。
「どうしたの……急に」
「……迷惑だった?」
「そんなこと……あがって」
元々母とそんなに話す方でもなかった。母もわたしに声をかけることは少なかったと思う。
もしかしたら……彼女もわたしと同じように話すのが苦手だったのだろうか?いつも母の交際相手はよく話す強引な人で……下手すれば図々しい人が多かったように思う。義父だけは珍しく無口で何を考えてるのか判らない人だったけれども。
「あなたの部屋、そのままだけど……いない間に来たダイレクトメールとかそのままにしてあるわよ」
「じゃあ、ちょっと見てくるね」
階段を上がって左端の部屋。ここの娘、つまり義姉が嫁入りするまで使っていた部屋らしい。義兄が使っていた真向かいの部屋は子供達が帰ってきた時用の客間になっていたはずだ。母と義父の部屋は一階にあるから、二階を使うのはわたしだけだった。
たった2年間使っていただけの部屋。ベッドも机も高校の時住んでいた部屋に持って行って、そのあまま処分してしまったはずだから、ここには古いタンスと小さな座卓があるだけだった。あとは、残していった荷物がまだ置いてあった。とっくの昔に処分されていると思ったのに……
この家に持ち込んだ小さい時からの思い出の品々。引っ越すたびに処分していたから、残っているのは卒業アルバムと成績表など、わずかな物だけだ。
「そういえば、これだけは褒めてくれてたね」
小学校の頃からの成績表は、いつだって体育や美術、音楽以外はオール5。さすがに絵の上手い子やピアノ習ってる子に勝てなかったけど、それでも4ぐらいは取っていた。中学も同じ様なもの……だから高校は進学校で偏差値の高いところに、独り暮らししてまで行かせて貰うことが出来た。
座卓の上のダイレクトメールの中に、いくつか年賀状らしき物も混じっていたけれども、個人的な物は一枚も無かった。
「こんなもの、取っておかなくてもいいのに」
母は全部捨ててしまう人だ。たぶん、義父だろう……ここに来てからも、きちんとわたし宛の物は渡してくれていたのを思い出す。
「一応……家族扱いされていたのかな」
慣れない環境で、気も張っていた。義兄や義姉から拒否されたこともあって、その後も義父とはあまり話さなかったように思う。何を言われても、彼らと同じように迷惑がられてるだけだと思っていたから……
「今思うと、違ったのかな?」
今まで色んな事を見逃していたような気がする。甲斐くんのことだって……彼はちゃんと好きだと思ってくれてたのに、気が付いてなかったのはわたしだ。人一倍無表情なこの顔が相手を誤解させていたのかもしれない。
こんな風に考えられるなんて、わたしも大人になれたのだろうか?
それとも……自分が親になろうとしているから?
とりあえず来ていた封筒やハガキを全部鞄に入れると、わたしは部屋を出て母の待つ応接間に向かった。今日は土曜日で、義父はどうやら出掛けているらしかった。
「お茶……入ったわよ」
差し出される湯のみに入った熱いお茶。こんな風に何かを入れて貰ったことはあまり無かった。ただ、再婚してからの母は、必死にこの家に慣れようと家事を頑張っていた。最初はわたしも手伝っていたけれども、此処を出てからは母が一人でやってきたはずだ。
「お正月も帰ってこなかったのに、急にどうしたのよ」
連絡は全て電話で済ませていた。高校1年のお盆とお正月には帰ってきたけれども、たまたま帰ってきていた義姉家族と顔を合わせた時に嫌な顔をされたので、それっきり帰るのを止めた。自分の実家に他人であるわたしが、大きな顔しているのを見るのも嫌だろうと思ったからだ。
「お、かあさん……あの」
母のことを直接お母さんと呼んだのも、何年振りだろうか?
「わたし……赤ちゃんが出来たの」
「……え?」
驚く母の顔。
「あ、相手は……?結婚、するの?」
「……結婚はしない。出来ないの……相手にはもう決まった相手が居るし、もう結婚してるかも」
子供が出来ていたんなら急いだだろうから。
「そんな……どうする気なの!?」
語気が荒くなっていた。母がわたしのことで感情を見せるなんて、久しぶりだ。
「産んだら……今の仕事続けられないと思う。父親のいない子なんて、教育委員会が黙ってないし」
「じゃあ……堕ろすの?」
「…………」
言えなかった。産みたいとも、堕ろすとも。
「産みたいのね……」
「おかあ……さん?」
落ち着いた声だった。母の……
「産んでいいよ。あんたが産みたいなら……ここで産んで育てればいい」
「嘘……」
まさか母がそんなこと言い出すなんて思わなかった。思わず何か言おうとしたけれども、熱い塊が込み上げてきて、問いただしたくても言葉に出来なかった。
「あんたがそんな顔する時は、何言ってもきかない時だから」
そんな顔?どんな顔をしてるって言うの?
「頑固で、意地っ張りで……文句すら言わない子だった。だけど、自分で決めたことがある時は、わたしが何言ったって口をへの字に結んで何も言わなかったじゃないか」
わたしが……そうだった?
「わたしは……あんたに何もしてやれなかった。いつだって、情けない母親のわたしを睨んでるようで、怖かったんだよ……だから怒鳴って、見えないところに行かせてた。どう対応していいか判らなくて、悩んでるうちにおまえは一人で何でも出来るようになっていたし、男が来たって、何も言わなくても部屋から出て行くようになっただろ?責められてるみたいで……ずっと怖かったんだよ」
「……そんな、こと」
無かったとは言えないけれど。
「あんたはわたしのことを恨んで……憎んでるんだと思ってた。もう一生此処には戻って来ないだろうって。そのあんたが、初めて自分の意志で戻ってきて、こっちを頼りにしてくれるなら……なんだってしてやりたいよ」
信じられない言葉だった。なんだってって……おかあさんが?
「あんたの父親が死んでから、独りでどうやって生きて行ったらいいのかわからなくて、ずっと男に縋ってきた……男を引き止めるにはいつだってあんたが邪魔だったから、随分と酷いことをして来たと思ってる。今更悔やんでも謝っても何にもならないこともわかってる。だけどあの人と……お義父さんと出逢って、わたしはやっと自分が安心していられる場所を貰ったんだよ。普段から何にも言わない人だけど、自分の子供達の反対を押し切って、わたしら二人をこの家に呼んでくれた。籍まで入れてもらって……あんたの生活費も学費だって、奨学金を申請しなくても出してくれるつもりだったんだよ?なのにあんたは、いつだって何でも先回りして、誰の世話にもならないって顔してたから……お義父さんもわたしも何も言えなかったんだよ」
そんなこと、初めて聞いたよ?いつだってわたしがすることに反対も賛成もしなかった。だから、てっきりわたしは嫌われてるか、邪魔だと思われているのだと……
「本当に怖かったよ……ずっとあんたには恨まれてる気がして……あの人に何か都合の悪い事を言い出さないか心配だったし。あの人の子供さん達もあまり歓迎してくれなかったしね。だから、せめてあんたがやりたいことは叶えてやりたいと思って……高校進学の時も、独り暮らしの時も口出ししなかったんだよ。今更世話を焼くのだってどうやっていいか判らなかったからね……そうしてるうちにあんたは帰ってこなくなった」
確かに……して貰えないっていうよりも、して貰えないことを前提で動いてたように思う。
「だから、志奈子が産みたいなら……帰ってきて、ここで産めばいいよ。あんたが仕事にいくなら、その間見ててやるし、仕事がなければここで子育てしてればいいんだから」
「おかあ……さん」
「今日、ここに来たのだって、自分じゃどうしようもなくて……困って来たんだろ?そんな時助けてやれなかったら、わたしは……今までの自分以上に悔やまれて……情けなくなっちまう」
「いいの……ここで産んでも……いいの?」
「ああ、孫の面倒ぐらい見させておくれよ……あんたに、今まで何も出来なかった分まで……」
「おか……」
それ以上言葉に出来なかった。わたしも、母も……
わたしは、記憶の中で初めて……母に抱きしめられていた。

「紀代子……志奈子ちゃん?」
いつの間にか帰ってきてた義父が、泣き止めずにしゃくり上げる二人を不思議そうに見ていた。
「おまえ達何を……泣いてるんだ?志奈子ちゃんも帰ってくるならそうと言ってくれればいいのに」
ああ、義父はこんな顔をしてたんだ……普通のしかめっ面にも見えるけど、微かに呆れながらも笑っているのが判る。今まで見なかっただけで、きっといつだって義父はどんな顔していいか判らなかっただけなんだ。わたしが表情を出さなかったから、一度も泣きも笑いもしなかったから……
わたしは……ちゃんと家族として見て貰えていたんだ。
母を愛して守ってくれた様に、わたしのことも黙って守ってくれていた義父……
「お義父さん……」
「……そう、呼んでくれるのか?」
怒ってるようだけど、照れたように見える。今なら、ちゃんとわかる。二人がどんな気持ちでわたしを見てくれていたか。遮断機を下ろして見ないように拒絶していたのはわたしの方だったんだ。
「あなた、志奈子がね……」
その後、教師としても、人としても無責任だったことを怒られ、相手の名前を言わなかったらもっと叱られた。
それでもしょうがないから……帰ってきなさいと言って貰えた。

わたしは……ちゃんと二人の子供だったんだね?
ここで……この子を産んでいいんだよね?
わたしは、二人の前で子供みたいに泣いた。あの日の甲斐くんのように、声をあげて……
BACK   HOME   TOP   NEXT

気に入ったら押してやってください。投票していただけると励みになります。

 
ネット小説ランキング>【年齢制限】部門>せ・ふ・れに投票

 

Photo material By