風花〜かざはな〜

「あのっ、チヅさん……」
チヅさんの部屋のドアを開けるとキツイ香水の臭いがした。
「なによ……」
不機嫌そうな声、電気はもう消えていたので顔は見えなかった。
「貴恵さん、調子が悪いみたいなので、今夜はご辞退したいと、チヅさんからそう言って頂きたいのですが……」
いつもよりずいぶんと下手に出てお願いする。しばらくの沈黙のあと返答が返ってきた。
「イヤよ。今はお館様のお相手する気分じゃないわ。あんな……貴恵がイイだなんて言われた後にいけるもんですか」
女のプライドと言うものだろうか?よくは判らないけれども、ひどく機嫌が悪いことは確かだ。そのあとも、何度お願いしてもだめだった。
『わたしも気分が悪くって寝たことにしておいてね』
そうチヅさんから言づてまでされて……妙さんに言うべきかどうか迷ったけれども、妙さんの部屋の電気はもう消えていた。
わたしが行くしかなかった。
「あの、お館様……」
部屋のドアを叩いて、入れと言う言葉に、ドアを半分開けてお辞儀をした。
「貴恵さんが先ほどからひどく吐いておられて、お館様に悪い病気を移してはいけないので、今夜はここには来られないそうです」
「ほう……ではチヅはどうした?」
「チヅさんは……気分が悪いとおっしゃられて、もうおやすみになられました」
「それで、おまえが代わりか?」
低い声が響く。その声の調子に思わず背筋がゾクリと震えた。
「い、いえっ!わ、わたしはそれをお伝えに参っただけです」
つかつかとドアに近づいてくるお館様のお顔が部屋の明かりと反対で暗く、見えない分だけ怖かった。
「おまえが代わりでもよいぞ?あはははは!!」
「きゃっ!」
腕を掴まれて、部屋の中に引き入れられる。
お館様の低く通る声が耳元で響く。怖い……
『一人で行っては行けない』そう言われたことから、余計に部屋の中にはいることに抵抗を感じてしまうのだ。脚をつっぱて、少しでも中に入らないようにしていたがどんっと、ソファのうえに投げられる。
「どうせ貴恵は武田と乳繰り合うのに忙しいのだろう?それでは代わりに来たおまえが相手をするのが筋ではないか?」
お館様はあの二人のことを知っていたのだ……知っていて、貴恵さんを……??
怖い人だと思った。そんなことが平気で出来る人なのだ。
愛し合う者同士を引き裂くことも平気で、他の人を思う女を抱こうとする。誰でもいいのか、それとも人が苦しむところが見たいのか……
お館様には逆らえないと、皆がそう言うのは雇い主だけだからというだけではないのだ。この人は、怒らせては怖い相手、逆らってただですむ相手ではないっていうこと。
「ふん、脅えた顔をしおって……まあよい、今宵はおまえに免じて許してやろう。だが、苑子はまだ明日明後日まで帰ってこない。いいか、明日の晩、必ず貴恵にここに来るように伝えておけ。もし来なかったら……その時はゆき乃、おまえがもう一度ここに来るんだ。いいな?」
わたしは頷いてはいと答えるしかできなかった。
だけど……そのことを伝えた翌日、朝早くに貴恵さんと良太さん、二人の姿はいつの間にか消えていた。
騒ぎになっていた中、貴恵さんの整頓された荷物の中からわたし宛の短い手紙を見つけて懐にそっとしまった。
〜ごめんなさい。残した物はゆき乃ちゃんが使ってね。きっと良太さんと幸せになるから。さようなら〜と……
わたしは、貴恵さんには伝えていなかった。
もし彼女が行かなかったときは、わたしが行かなければならないっていうことは……


「ふん、恩を仇で返すか……あの二人もやってくれるな。貴恵も自分が可愛かったということか。おまえも随分可愛がって貰っていたというのに、ひどいことをするな」
お館様がわたしの顎に手をかけて引き上げて、わたしの顔を間近でのぞき込む。怖くて思わず首をひねって逸らすけれども、お館様の大きな手がそれを許してくれなかった。恐怖で手足が冷たくなっていくのを感じる。
わたしはまた昨晩のようにお館様の部屋に来ていた。昼間は二人の駆け落ち騒ぎで館内はざわついていたが、夜になると妙さんが早々に寝込んでしまい使用人達も諦めてみな部屋に戻っていった。
「貴恵さんは……ひどくありません」
ようやく手が離されて、わたしは飛び退くように後退りして距離を保った。
わたしは悪いのはお館様だと思っていた。いくら借金があったからといって、好きあってる相手の居る人を慰み者にするなんて……
怖い方だとは思っていたが、それでも恭祐様のお父上なのだ。そんな気持ちがどこかに合ったのかもしれない……わたしはそう言ったあとはただただ黙って下を向いていた。
「昨日言ったはずだな、貴恵が来なかったらおまえが身代わりになると……まさか自分が身代わりにされるとは言ってなかったのか?」
わたしは顔を上げない。いや、上げれない。怖いのだ、あの、お館様の目が……
足下にお館様のスリッパが見えたかと思うと、再びぐいっと顎を持ち上げられた。
「ほう……なら、どうする?ゆき乃。律も、貞美ももう居なくなるぞ?チヅはまあ、今はへそを曲げているが、綺麗な服でも買ってやればすぐに機嫌を直すさ。けれども、あの女がいない時は誰が私の相手をするんだ?それに、貴恵の残した借金はどうする。あいつのオヤジには見事に裏切られたからな、たいそうな額だったんだよ、それもおまえが払ってくれるのか?」
「あ、わたしが……ですか?」
給料も財産も、何一つないわたしが?何を言い出すんだろう。わたしは予測できずにお館様の顔をじっと見つめた。
「ああ、おまえが払うというのはどうだ?おまえにはこれからずいぶんと投資せねばならんからな、貴恵の借金と、今からのおまえにかかる教育費、それらすべてはおまえが働いて私に返せばいいのだ。それだけの仕事はして貰うつもりだ。どうする?肩代わりするなら、あの二人を追わずに許してやろう。そうでなければ、このまま探させて、見つかったら今までのような甘いマネでは済まさんさ。払えるところに行いって働いてもらうだけだ。貴恵も親の借金が出来たときにここに来てなければそこに行くはずだったのが、今になるだけのことだ。どうだ、この書類にサインせんか?」
差し出された書類は、借用書だった。貴恵さんの残った謝金をわたしが払うという誓約書。わたしがそこまでしなくてもよかったかもしれない。けれども、せめて貴恵さんにだけは、好いた人と幸せになって欲しかった。わたしにはとうてい無理なことだから……わたしに拒否権はない。
震える手で自分の名前を書き、ハンコなど持っていないので、人差し指で拇印を押すとお館様にその書類を差し出した。
「よろしい、これでオマエは私に借りが出来たのだ。私には決して逆らうことは出来ない。いいな?」
わたしはその言葉に身体が震えるのを感じた。
「安心しろ、そう悪くは扱わん。私は頭のいい子は好きだ。オマエには是非使える女になって貰わねばならんからな。ふふふ、本当ならおまえの身体で支払ってもらいたいところだがな、さすがにそれをするわけにはいかんのだよ。おまえはもしかすれば私の娘かもしれないのだからな……」
「え?」
        今、なんて言った?
耳を疑うその言葉……娘?かもしれないって……
わたしが?なぜそんなことを……嘘だよね?わたしに父親はいない……わたしは……
「志乃がふみとここを出てからも、わたしは志乃が忘れられなくてな。くっくっく、知らなかったのか?わたしは志乃の初めての男だよ。今のオマエと変わらん歳だった。親父殿が狙っておったのは薄々感じていたからな。その前に戴いたって訳だ。それが親父殿には気に入らなかったようでな、ふみと志乃はすぐさまこの館を出て行ったのだ。私は探したよ、あれほどいい女はなかなか居なかったからな。しかし、ふと立ち寄った漁師村に居たのを見つけたときは驚いたよ。遠くに行ったとばかり思っていたのに、こんなに近くにいたとは……しかし、そのころには私には苑子が居たからな。連れ帰るわけにも行かず、通わせて貰ったよ。ちょうど苑子も恭祐を産むのにほとんど実家に帰っていたからな。志乃の身体はよくてな、何度か村に出向いては、漁師小屋に連れ込んだよ。いい女だったよ、おまえの母親は。いい体をしていた。抱くととろけるようだった。イヤと言っていても、そのうち乱れてくる、あんなに何度も抱きたいと思った女は志乃だけだった……だから出来ていてもおかしくはないだろう?ただ、恭祐が生まれてからは妻の目も厳しくなってあまり行けなくなったがね。その間にオマエが生まれ、志乃は死んでいた」
嘘……嘘よね?わたしが、お館様の子かもしれないなんて……
「すぐにでも引き取りたかったがな、ふみはうんと言わぬし、苑子は気の強い女でな、私の子かもしれぬ娘を引き取るわけにも行かなかった。だが、あの日たまたまあの村に立ち寄った時にふみがくたばって、オマエが残されていた。志乃が呼んだのかと思ったよ。とにかく私はふみに嫌われていたからな、志乃にちょっとでも近づこうもんなら親父殿に言うと血相抱えて言っておったわ。だから、志乃は私に漁師小屋で抱かれていたことはふみには言わなかったのだろうな。ふみもオマエの父親の名前は聞いてなかったそうだ。まあ、いろんな男から狙われておったからな、しかたがないことだ。確証こそないが、オマエは間違いなく私の子だろう?その頭の良さといい、意志の強そうな眼といい……苑子が嫌がるのも判るのだよ。もし、そうだったらと考えているのだろう。馬鹿な女だ。たとえそうだったとしても、オマエは海女の女に産ませた子だ。正式に迎えいれる訳もないのに」
わたしは、ちゃんと今立っているんだろうか?それとも……
目の前が霞んで、視界が消える。血の回らない手足は冷たく、立っている感覚もない。貧血を起こしたように目眩と息苦しさに襲われる。思考が停止しているのに、ただ、『私の子かもしれない』と言われた言葉だけが何度もこだましている。
「と、言う訳だ。わたしは苑子ほどオマエと恭祐のことは心配していないのだよ。オマエが恭祐を慕っているのは判っていた。だがあいつはわたしに似ず真面目な男だ。オマエが望んでも手を出すことはないだろうし、それに兄妹ではな。いくら思っても恭祐はオマエの兄かもしれんのだ。だからこれからはいらぬ貞操は立てなくてもよい。オマエが私の娘である限り、わたしはオマエには手を出せん。しかし、私が望めば、その身体、私が言う相手に差し出すんだ。いいな?オマエに付加価値を付けるために高等部にも、大学にも進ませてやる。教養を身につけ、男が手に入れたくなるような魅力を身につけるのだ。志乃によく似たオマエになら出来る。志乃に教養があればどこに出しても恥ずかしくない女だったんだ。そのためにはお稽古ごとにも通えばいいし、服も、装飾品も買い与えてやる。高等部を出るまではここに置かねばならんから、目立ったことは出来んがな。その代わりオマエは貴恵のように男を作ってはならんぞ。オマエの身体は私のモノだ。それを忘れるな」
もうよいと言われて、わたしはふらふらと部屋を出た。
『私は別にオマエが私の娘でなくても構わんのだよ、その時は……』
にやりと笑うお館様の目は肉親のモノではなかった。
娘かも知れない、けれども違うかもしれない……お館様にもはっきりしたことは判らないんだろう。
でもわたしに選択権はない。
もし、でもその可能性があるならば、もう思うことも許されなくなったわたしの心。ほんのわずかな希望も見えなくなったわたしの未来。自分の父親かもしれない存在を思い知らされ、絶望の淵に立たされてしまったわたしに出来ることがいったいあるんだろうか?
重い足を引きずって屋根裏部屋に向かう。その階段の下に誰かが立っていた。
「妙さん……?」
「ゆき乃、旦那様の部屋でなにか?」
「いえ、なんでもありません。貴恵さん達の行き先に心当たりはないかどうかと聞かれたまでです」
暗がりの中、わたしの顔色は見えないだろうけれども……声の調子で判るのだろうか、いつもより優しい声で語りかけてくる。
「ゆき乃、私はあなたがこの館に来てから厳しく接してきましたが、それはあなたのためで、本当は娘のように思っているのですよ」
「……妙さん?」
「貴恵もここに来てからあなたを妹のように可愛がってきたわ。辛い思いをしていたでしょうに……彼女が居なくなって、ゆき乃は今まで以上に辛いかもしれないけれども、決して一人で悩んではいけませんよ?必ず私に相談なさい。今夜のように、お館様のお部屋に一人で行ってはなりません、いいですか?」
「は、はい……」
「私は、この館には先代のお館様の妾として入りましたけど、ふみさんや志乃さんと一時期親しくさせて頂いていたのですよ?今のあなたにはまだ言えないことですが、いずれ時期が来たらちゃんと言いますから、それまでは私との約束を守りなさい。いいですか?」
わたしは黙って頷いた。だからといって今夜言われたことを彼女に告げるのには頭が混乱しきっていた。
「判ればいいのよ、さあ、もう部屋に行ってゆっくり休みなさい」
そう言って静かに立ち去って行く妙さんの後ろ姿も振り返られずにいた。

部屋のベッドに重い身体を横たえる。
妙さんの言った言葉が頭の中を通り過ぎてしまう。残っているのはお館様の言葉ばかり。
『恭祐には言わずに置いてやろう』
お館様の考えがどんなつもりなのか、わたしには見当もつかない。
ただ判るのは、10年近く思い続けてきたこの想いを、兄かもしれないから一遍の希望もないのだと、心と身体に言い聞かせなければならないことだった。
それは辛く苦しい作業で、その夜は、ただただ涙がかれるまで泣き続けるしかなかった。

       

お館様ひどすぎますよね?完全悪役?それはまあ、最後までどうかと思いますが…う〜ん、今はひたすらゆき乃に耐えて貰うしかないですね。(涙)