風花〜かざはな〜
5
3年の終わり、周りが高等部への進級試験に色めき立っていた。
わたしは焦ることなくやるべきことをこなしていたのだけれど、それが気にくわない級友たち
鈴音様達だけどそれから、先生方。
「なあ、三原、これだけ勉強できて進学しないのはもったいないぞ?事情は聞いているが、何とかならんのか?」
「はい……ならないと思います」
「もったいないなぁ、宮之原恭祐以来の秀才と名高いのに……」
思わず出されたその名前と並べてもらえることが嬉しかった。わたしは、恭祐様に恥ずかしくない成績を収めることが出来ているんだと。
夜、恭祐様にお茶を頼まれて、お部屋にお持ちしたときのことだった。
「ゆき乃、先日中等部のおまえの担任の坂巻先生からお話を伺ったのだけれども……ゆき乃はたいそう成績が良いそうだね?」
「いえ、そんな……」
褒められて、少し嬉しくなる。
恭祐様は、入れたばかりの紅茶のお皿とティーカップをその繊細な指で口元に運びながらニッコリと微笑んで『ゆき乃も掛けてお飲み』と目の前の椅子を勧められる。
奥様のお留守の夜、たまにだけれどもこうやってお茶のご相伴に預かることもある。
「成績表見せてくれなくなってずいぶんになるね。以前は見て見てって飛び跳ねて持ってきたのに……いつも誰に見せているの?」
少し悲しげに眉を寄せながら、恭祐様はテーブルにティーカップを戻す。
そう、以前は教えて頂いた成果を見せたくて、よくやったねと褒められるのが嬉しくて、成績表が出たときならず、100点のテスト用紙ですらポケットに忍ばせて見せに来ていた。
そう、見せなくなったのは恭祐様が褒めて下さるのが辛くなったから。
わたしの頭を撫てくれるその手は可愛いペットを撫でるのと同じ手だと気がついたから……
「妙さんに、見せています」
「そう……じゃあ、よかったら今までの成績表を見せてくれないか?」
ニッコリと、わたしが断れないのを知っていて、有無を言わさない微笑みで命じられる。
いつもそう、恭祐様は誰かと争ったりはしないけれども、いつだってニッコリ笑って物事を奨められるようになった。昔から利発な方だったけれども、中等部に入られる前くらいからは余計にこんな感じだった。
「え?あの……今、ですか?」
「もちろん、今見たいんだ。ほらほら、いいから、すぐに持ってくるんだよ。ちゃんと、ご褒美用意してるから」
ご褒美……初等部の頃は、テストや成績表をお見せすると、良くできたねといってご褒美におやつを戴いたりしていた。時には綺麗なリボンだったり、恭祐様はそんな優しさをお持ちの方だから、クリスマスや誕生日にも、自分のお小遣いでそっとわたしにプレゼントを買って下さったりした。それらは今でも屋根裏部屋のわたしの机の横の行李に、今までの成績表と一緒にしまってある。わたしはお金が自由に使えることも、普通に出歩くこともなかったので、恭祐様が下さる物以外、自由に手に入る物もなく、すべて恭祐様を通した世界からだった。
けれども、ぼっちゃまのお金を使用人に使わせるのは良くないことだと、持っていたリボンの出所をを咎められたときに、妙さんに次からはお断りするようにと言われて、中等部に入ってからは成績表も見せなくなってしまった。何も受け取らないつもりで居たのだけれども、たまに可愛らしい女物を買ってきてはわたしに下さるのだ。自分では使えないから、それなら捨ててしまうよと優しく脅されて……
「あの、これです」
差し出す成績表をみて、恭祐様は一瞬驚かれ、続いてニッコリと微笑まれた。
「ゆき乃、よく頑張ってるじゃないか?中等部に入ってから見せてくれなくなったから、成績が下がったのかと思っていたよ。聞くのも可哀想で聞かなかったのに……あの学園はレベルも高いのに、首席を取り続けるなんてすごいよ」
そう言って不意に頭を撫でられてドキリとしてしまった。頬が熱くなりそうだったけれども、平気な顔でにこにこ笑っている恭祐様を見て気がついてしまった。わたしの頭を撫てくれるその手は可愛いペットを撫でるのと同じ手だと……
「あの……それは、どうしても判らない問題は恭祐様に聞けば教えて頂けるし、テストの傾向は恭祐様のお下がりの教科書や問題集で判りますから……」
「じゃあ、僕が使っていたものが役に立ってるんだね?」
「はい、恭祐様が書き込んでらっしゃるのがすごくわかりやすくって……」
嬉しそうな、とびきりの笑顔をわたしに向けてくださる。
ああ、こんな笑顔が見れるんならそれだけでも幸せだなぁって思う。だけど不意に手を掴まないで欲しい。一瞬にして頭が沸騰してしまうから……
「あ、あのっ、恭祐様??」
「そっか……よかった。ゆき乃が使うって知ってから、出来るだけわかりやすいようにって思って書き込んでたんだよ。そうしてるとすごく勉強の能率が上がってね、ゆき乃のおかげだな」
「そ、そんなことありません。恭祐様が努力なさったから……あの……手……?」
「ねえ、本題に戻るけど、ゆき乃は高等部に行きたくないの?」
離してもらえない……
わたしは自分の鼓動が伝わらないように祈りながら、表面は落ち着いた振りをする。メイドなんていちいちされることに驚いていたらやっていられないし、それが恭祐様なら、イヤではないのだから。
「わたしは、中等部を卒業したらお館で働くことが決まっております」
返事しながらその手を引こうとしたけれどもダメだった。いつの間に、こんなに力が強くなられたんだろう?
「うちでは書生は取っていないけど、これだけ勉強が出来るのなら、ゆき乃が進学して僕の仕事手伝うっていう手もあると思うんだ」
「それは……」
あり得ないだろうと思った。旦那様の思惑や、奥様の感情があるだろうから……
「一度僕から言ってみてあげるよ」
目線がわたしを捕らえて放さない……
そう、恭祐様はいつだってこうやって真っ直ぐに相手を見つめられるのだ。ん?と優しく首をかしげるたびに少し長めの前髪がさらりと揺れて、その綺麗な鳶色の瞳で見つめられたら相手の女性はみおなぼうっとされてしまう。実際そんな声をよく聞く。だけどわたしは幼いときから見ているだけあって、多少の免疫はあったはずなのに……ここ数年、出来るだけ避けていたのが仇になる。
いつの間にこんなに人を捕らえて放さない眼をされるようになったのだろう?
だけど、だめ、そんなこと、恭祐様の口から出れば、きっと奥様は勘違いなさる。わたしが言わせてるのだと……
「あのっ、困ります……わたしは、そんな、このままで……いいんです!」
「なんで?ゆき乃は頑張ってるんだから、何も心配しなくていいんだよ。まだ、中学生だというのに、最近は昔みたいに甘えてくれないし……寂しいだろう?」
ようやくその手が離されたかと思ったら、その手がわたしの頬に触れた。
「きょ、恭祐様っ、あのっ……」
片手は手を握られたままでは逃げられない……
ん?と首をかしげて微笑む恭祐様が恨めしかった。
恭祐様にとって、わたしはいくつになっても、ここに引き取られてた頃のままの幼い少女のままなんだろうか?
わたしは心の底でため息をつく。
「ゆき乃の意志が知りたいんだ。教えて、もっと勉強したいか?」
わたしは迷ったあげく小さく頷くとやっとその手を離された。
「あの、でも、恭祐様がおっしゃられたら、奥様が……」
「それは判っているよ。ゆき乃のことは僕に任せておいで」
自分からでなく、学園側から話が行くようにしてみると約束して下さった。
わたしは恭祐様の部屋を辞した後、部屋に急ぎ戻った。
胸の高鳴りと、赤くなった頬を誰にも見られたくなかったから……
「ゆき乃、お館様がお呼びです」
その日の勤めを終えて自室に入り、メイド服から普通の服に着替えようとしていると、妙さんにそう呼ばれた。
わたしはそのまま妙さんと一緒にお館様のお部屋に向かった。お館様は先ほど戻られたばかりのようで、舶来のよそ行きのスーツを着られたままだった。
「ゆき乃を連れて参りました」
「ああ、妙、おまえは下がっていいぞ?」
「いえ、わたくしはこの子の監督をまかされております。一緒にお聞かせ下さい」
少しだけ苦い顔をしてお館様はわたしの方をじっくりと見た。久しぶりにお館様の前に出されたと思う。同じ館にいても、自分は下働きで、目の前に出ることなど直接のお世話役でもない限り滅多にない。
「ふん、よく似てきたな……」
それは死んだ母だろうと思った。祖母にも似ているが、母と自分は本当によく似ているらしいから。
「ふみが、志乃を連れてうちに来たのが十の時だったからな……14、5のときには志乃もそうやってメイド服を着て下働きをしていた。懐かしいな……」
こっちへ来いと手招きされる。
妙さんの方を見ると行きなさいとその目がいっていた。わたしは前に進んでお館様の前で止まると、いきなりわたしの髪を一房手に取った。
その仕草は、幼子を可愛がるような恭祐様の物とは違い、わたしは思わず身体を固まらせた。
「母に似て可愛らしい顔をしている。あと一,二年といった所か?綺麗な髪をしているからこのまま伸ばすが良い」
お館様は、その手を降ろして後ろのテーブルから書類を拾い上げた。
「今日はオマエの学校の学園長がいらしてな、ゆき乃は大層成績がいいと聞いていたが、ずっと首席を取っておったそうだな?なぜ言わなかった?妙も聞いてなかったのか?」
「首席?わたくしは成績表は見ておりましたが、一番というのは今初めて聞きました」
「そうか……学園長がな、女だてらにここまでの成績は惜しいと言ってきた。是非高等部へ上がって、進学を目指して欲しいそうだ」
書類を持ったまま机に腰掛けてコチラを鋭い目つきで見てくる。
「お館様は以前、ゆき乃は中等部を卒業したら、他の者と同じように給金を与えてメイドとして雇い入れるとおっしゃっておりませんでしたか?」
「ああ。そのつもりだったがね、学園長にあそこまで言われると、なかなか引きがたいな。最初に遠縁の者と言っている手前、無下にも断れん」
いきなり近づいて顎を引き上げられる。
わたしはお館様の前ではいつも顔を隠すように下を向いているから……
「女に教養はいらぬという時代は過ぎ去ったか……どうだ、ゆき乃、おまえはどうしたい?」
「あの、わたしは……」
高等部に行っても苦労するだけだろう。今よりも勉強がきつくなって、下働きと両方では身体も持たないかもしれない。おまけに進学とは……その上へ行けと言うことなのだろうか?もしそうだとしたら、わたしは、恭祐様の後をついていくことが出来るかもしれない……
恭祐様の時のように素直に頷くわけにはいかなかった。
「もし、卒業後、私の会社に入ると約束するなら大学まで行かせてやろう」
にやりとお館様の口元が歪んだように見えた。
「その時は、何でも言うことを聞くんだ。高等部と大学の授業料分働いて貰わねばならんからな……どうだ?」
わたしはゆっくりと頷いた。
もしかしたら、大学に通う間だけ、自分の運命から逃れられるかもしれない……この館のメイドでなく、会社員の一人として働けるのなら……
(そうか、ではまた呼んだら、その時はこの部屋に一人で来るんだぞ?)
一瞬耳元で囁かれたその言葉に、わたしは膝から力が抜けて崩れそうになってしまった。
「ほう、そんなに嬉しいか……妙、ゆき乃の受験と進学の準備は任せたぞ?」
お館様の手がわたしを支える。その手が器用に腰身体を這っていく。
「ひっ……」
飛び跳ねるようにして逃げるわたしをみて妙さんがいそいで側まで来た。
「お館様、お戯れは……まだ年端もいかぬ子に」
「あははっ!おまえが俺のオヤジの相手をしていた頃とそんなに変わらんだろうが?まあ、そう怒るな。志乃の娘だ、私とて真実が怖くて手がだせんよ。それもまた一興だがな」
「え?」
何のこと?真実?わたしはそれを聞きたくてお館様の方を向いたけれども、もう良いと言われて部屋を辞した。
「妙さん、あの……お館様は何を??」
「ゆき乃、その話しは、また進学が決まってからお話しします。今夜はもう部屋に帰ってお休みなさい」
妙さんの表情が少し曇っていた。聞きたい答えは聞かせてもらえなかった。
やっと高校生の恭祐様出てきましたか?(笑)ちょっとは成長されてるようです。
しかし、お館様、嫌なヤツだね〜〜〜