風花〜かざはな〜

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〜恭祐・回想9〜

ゆき乃が妙の側に向かったので、それぞれの持ち場に散っていく使用人達を後に、僕も久しぶりの自室に戻った。高等部を卒業してから、全く戻っていなかった自室は綺麗に掃除されていた。きっと妙の心遣いだろう。いつ僕が戻ってきてもいいようにと。
戻らなかったのはゆき乃に逢わないためだった。そして今はゆき乃といるために……自分にとっても生まれ育った館なのに、血縁者は今は不在だった。父も館にはそんなに戻っては来ない。母もボランティアだと称して旅行やパーティに余念がない。そのために借りた別の部屋に戻っているのだろう。それぞれの愛人を侍らせて……
ゆき乃ほど郷愁が湧かないのはそのせいかもしれない。本当の意味で僕を待つ者など誰もいない。使用人達はあくまでも使用人だった。雇い主の息子である僕に失礼を働かぬようにと気ばかり使っている。それでも幼い頃は亀田や友造も、ゆき乃と一緒に居る僕を可愛がってくれたりはしたが、成長と共にその態度は使用人としてのものとなっていた。妙も、母以上に僕の世話をしてくれたが、やはりその態度は僕を導こうとするものだった。今となればそれが妙なりの愛情であったことはわかるが、暖かいものではなかった。
もしかしたら、ゆき乃よりも僕の方が孤独だったのかも知れない。
ゆき乃はよく死んだ祖母の話や、隣に住んでいた幼馴染みや、可愛がってくれたおばさんの話などしてくれた。だけど僕にはそんな無償の愛情を注いでくれる存在はなかった。いつだって僕の後ろにあの男の存在を見ているのだ。
それに、不思議と母の実家にもあまり連れていかれたことがない。何年かに1度尋ねて来る母の兄弟や従兄弟達は父を嫌ってるらしくあまり長居はしなかったが、親戚らしい接し方をしてくれた唯一の存在だった。それも小等部に上がる頃にはぷっつりと姿を見なくなった。
だからこそ、ゆき乃を求めた。ゆき乃だけが唯一の存在になったのだと思う。
僕はゆき乃の荷物も一緒に自室に持ち込み、後で彼女が部屋に来る口実にしようと思った。



「まさか……あなた、あなたたち……!」
妙の部屋のドアに手をかけたとき、彼女らしくない大きな声が廊下に漏れ聞こえて来た。僕はそのまま部屋の中にはいることを躊躇していた。
「もしかしたら、違うかも知れない。ほんの少しだけ希望を持ってたっていったら嘘になります。恭祐様のこと、何度も諦めようとしたんです……だけど、恭祐様もわたしのこと好きだって言ってくださって、何度も二人ダメだって諦めようとしました。もしかしたら違うかもしれないって思いたかった……だけど、やっぱりそうだったんですね。わたしと恭祐様は、異母兄妹だったんですね」
ゆき乃の悲痛な声が胸に響いた。
(そうか、やはり僕たちは間違いなく異母兄妹……)
妙が知っていたとは意外だったけれども、彼女が口にする限りその真実性は高い。決して不確かなことを口にする人ではなかったから。
「ゆき乃、あなたはあの時お館様からそれを聞いて、判っていて恭祐様にお仕えしていたのでしょう、もう諦めたのではなかったの!?」
「今、恭祐様の身の回りのお世話をしています……でもそれは使用人としてではなくて……わたしは、わたしは恭祐様以外の方を好きになんてなれない。恭祐様もそうおっしゃってくださったんです!他の誰にも渡したくないと……だからっ!」
僕はそっとドアの隙間に身体を滑り込ませて中に入り込んだが、既に日が暮れかけ、部屋の灯りを付けていない妙の部屋は薄暗く、二人とも僕には気付かなかった。
「ゆき乃、それはいけないわ!あなた達は……ごほっごほっ!」
「妙さん!?」
咳き込む妙をゆき乃が支えて介抱する。側に逢った薬を口にすると、落ち着いた妙は再びゆき乃を睨み付けた。
「……だめよ。ここに、志乃さんからの手紙があるわ、そしてこっちはふみさんからの……あなた達は絶対に結ばれてはいけないの!異母兄妹だったのはあなた達だけじゃないの!玄蔵様、お館様と志乃さんも……異母兄妹だったのよっ!」
そんな……
信じられない言葉を耳にし、一瞬視界が暗転したかのように感じた。それはゆき乃も同じだっただろう。
「嘘……」
か細い、震える声が聞き返す。
「それは本当ですか?」
僕はドアを閉めると直ぐに二人の元に駆け寄った。
「妙、本当なんですね……」
問いただす自分の声が震えてるような気がした。まさか、信じられない。
父と、ゆき乃の母もが異母兄妹。では、その間に生まれたゆき乃は、罪の子だというのか?
ちらりとゆき乃を見やると、大きく見開いた瞳から無意識だろう涙を流し続けていた。拭うことも、瞬きすることも忘れた涙だった。
「ゆき乃、あなたは間違いなくお館様の娘です。そして、お館様自身もご存じないことだけど、志乃さんも先代とふみさんの間に出来た娘、お館様と志乃さんは異母兄妹。あなたはその間に出来た子なのよ。あなたと恭祐様は決して結ばれてはならないの。ゆき乃、恭祐様、それは変えられない事実なのよ……」
ゆっくりと、差し出されたその手紙の内容を確認した後、僕は言葉もなかった。
そこに書かれた真実は『志乃は先代と自分との間に出来た子供』『志乃の子、ゆき乃をどうかよろしく』と書きつづられたゆき乃の祖母の文字。そして繊細な字面で『ゆき乃は間違いなく玄蔵様と私の娘です』と綴られたゆき乃の母の手紙。
僕はただ譫言のように『嘘だ』を繰り返すしか出来なかった。

「もっと早く二人に……お館様にも話しておくべきだったわ」
妙は辛そうにそう言った。
彼女もこのような事実を突きつけられて苦しんだのであろう。約束を違えない彼女はただ頑なにそれを守ってきた。知らずにすむなら一生知らなくていい事実だったはずだ。
そう、僕たちが愛し合わなければ……
兄と妹としての愛情のままでいれば、幸せだったのかも知れない。
何の因果か、親子そろって異母妹に焦がれるとは……僕と父、非なる二人だと思っていたのに、これほども似た部分を持っていたなんて!
妙が苦しそうにしていたので僕は先に部屋を辞した。僕が居ては妙も話し辛いだろうと思ったから。だから、
『後で僕の部屋へ』と、ゆき乃に言葉を残して僕は妙の部屋を出た。

妙の部屋を出たものの、直ぐに部屋に戻る気になれなかった。ゆき乃のことだ、きっと屋根裏のあの何もない自室に戻り、又僕から離れることを考えるだろう。
僕の気持ちは決まっていた。
異母妹であろうとも、愛し続けると決めたからには、その気持ちに未だ変わりは無い。
だけど……
自分の母が異母兄と知りながらその子を身籠もり、産んだことを考えると、ゆき乃の気持ちは平静ではいられないだろう。
しばらくは廊下で待っていた。誰かに部屋に近づかれて盗み聞きされても困ると考えたからでもある。
ゆき乃が部屋から出てきたのを確認するとゆき乃の手を取り自室へ連れていった。
「ゆき乃……さっきの話しなんだけど……」
「もう、いいんです」
僕の手をふりほどいてゆき乃は声を詰まらせてそう言った。
「ほんの少しの間でもゆき乃は幸せでした。もう……ゆき乃のために何かしようなんて思わないでください。ゆき乃は、もう大学にも戻りません。妙さんが貴恵さんの借金の分も自分が何とかするとおっしゃってくださいました。お館様にすべてお話しするとも……だから、わたしは、もう、戻れません……恭祐様の元には、戻れません……」
なんだって??僕の元から去るというのか?
血の繋がりを知りながらもずっと共に居ようと誓ったのに……なぜ?もう離れられないはずなのに?
「だめだ……ゆき乃、僕の気持ちは変わらない。ゆき乃がどんな血を持って生まれてきたとしても、それは同じだ。僕はもうゆき乃しか考えられないと言っただろう?側に居ておくれ、僕の側に……ゆき乃」
ゆき乃を引き寄せ、抱きしめた。離さない、離したくないんだ……そのために僕は全てを捨てても構わない。
それほど、今知らされた事実がゆき乃の心を乱しているのか?
同じじゃないか、僕たちと……父母とと、同じ過ちでも僕は構わない。
だけどゆき乃は……
「ダメです!側にいればきっとわたし達……ダメです。わたしは、もう……」
「ゆき乃っ!」
「イヤ、離してっ!わたしは、わたしは……ああぁ……」
ゆき乃が取り乱し、泣き叫びながら崩れていく。その手も、身体も、全てが僕を拒否しはじめている。
ゆき乃は、やはり今まで罪悪感と闘っていたのだ。僕の思いを受け入れたモノの、ずっと心の中ででは、その罪に対する負い目が心を覆っていのだろう。ソレは僕も同じだから……だけど、その罪の実ほど甘く、麻薬のように夢中にさせた。僕の腕の中で乱れ、果てた後のゆき乃はどうだった?いつも決まって辛そうにしていたのではなかったか?
それでも、それでもだ。僕の心は変わらない。ゆき乃を失うことだけは、ソレだけは決して譲れない僕の全て……
「ゆき乃、それでも僕はおまえを愛してる。おまえが妹でも……」
縋る僕の腕をゆき乃がすり抜けていく。
「お願いです、今夜は部屋に帰してください……」
目に涙を浮かべて、激しく拒否するゆき乃。今まで見たこともないほどはっきりとした意思表示だった。
それでも……僕は
「ゆき乃っ、イヤだ……僕は、おまえが居ないと……」
「離してっ!」
自分の腕の中に引き込もうとする僕を押し返して、ゆき乃は階段を駆け上がっていった。屋根裏の、自分の部屋へとまた閉じこもるのだろうか?
さすがにあれほどはっきりと拒否されれば、追いかけてその階段を昇る気力も残っていなかった。
あの部屋は、ゆき乃の最後の砦だ。僕は許可なしにあの部屋に入れない。あの部屋にいる限り、彼女は誰に使われることもない、自由の部屋だと言っていた。母に疎まれ、酷いときは何日も食事を運ばれるだけの時もあったと言う。けれども、ここはこの館で一番空に近い部屋で、ここらら見渡せる世界の全部が自分の物、流れる雲も、沈む夕陽も、流れ込む風も、瞬く星も流れ星さえも独り占めできた気分になれるのだと。僕も一緒にと、そう言っていつも部屋のドアを開けてくれた。彼女も知っていたのだ。僕も、同じように本当の意味では自由でないことを……だから、唯一一緒に居ることを望んでくれた。
彼女に拒否された今、僕はあの部屋に無理矢理入ることは出来なくて、自室へと重い足を引きずって戻っていった。



ゆき乃が側にいない、眠れぬ夜を過ごした僕は、朝食の準備が出来たとメイドに呼ばれて食卓につこうとして驚いた。今館にいるのは自分だけだと思っていたのに、用意されたていたのは二人分の食器だった。
      まさか?
自分が席に着くと、母が入ってきた。
(いたのか?いつから……?)
母の帰宅は知らされてなかった。久しぶりに見る母の顔は、朝から濃い化粧で取り繕ってはいるものの、衰えは隠せない。美しさだけが自慢のような母も、もうすでに50前なのだ。遊ぶことだけを糧にするこの女を母だと認識しながらも、愛情を欲したり、執着しなかったのはなぜだろう?無関心を装われたその反動だろうか?いや、ゆき乃を毛嫌いする母が許せなかったのだと思う。ゆき乃を平気でなじり、辛い仕事をさせて喜んでいるこの女を慕うことは僕にはどうしても出来なかった。なにより、妙がいたから、母の手は必要なかったのだろう。

「おはようございます」
落ち着いた声でそう挨拶したのはゆき乃だった。まるで昨日のことは無かったかのような表情のない使用人の顔を貼り付けて、見慣れたメイド服を着て母の傍らに立っていた。僕は視線で、なぜそんな恰好をしているのだと、非難がましく見咎めたが、ゆき乃は僕の方を見ることなく顔を逸らした。そうして、いつも妙が立つその位置で、ゆき乃は妙がするように目を配り指示を出していた。珍しく母もゆき乃を遠ざけたりはしなかった。

「帰ってらしたんですか?」
仕方なく母にそう問うてみた。
「ええ」
「いつ?」
「昨日の間によ。あなたは気がつかなかったようだけど……旅行の帰りで疲れたから直ぐに部屋で休んでいたのよ」
「そうですか」
なぜ僕たちが帰ってきたのかなど聞かない。母もゆき乃をちらりと見遣るだけで興味を示さなかった。
昔ほどの過剰反応はしないというわけか……それが父の命によるものなのか、ただ単に興味が失せたからだけなのか、それはわからないけれども。
「妙は……まだ伏せっているの?」
不意に母がそう聞いてきた。それは僕にでなく、ゆき乃に対してのようだった。
「はい、まだふらつくそうなので、起きあがれるようになるまで私が代わりを勤めさせて頂きたいと思っています」
「そう……あとで妙に話しがあるから部屋に行くと伝えておいてちょうだい」
「かしこまりました」
信じられないような母の言葉に驚きを隠せなかった。
母が妙を見舞う?人に感謝したり心配するのは自分のためのような人が、いまさら……不思議な感覚を覚えていた。
僕はゆき乃の方を見て紅茶のお代わりを頼んだ。僕の横に来て、ポットから紅茶を注ぐ彼女に小さく告げた。
「ゆき乃はあとで僕の部屋で荷物を整理するのを手伝っておくれ。僕もしばらく居るから……」
「あの……恭祐様は、すぐに戻られるのでは無かったのですか?会社のお手伝いが……」
そう、そのつもりだった。だけど、今朝の電話で予定を変更した。
「しばらく休む。会社に電話したら父も今日戻ってくると連絡があったそうだ。だから僕もココに残る。母様もしばらくは旅行に行かれる予定などは?」
無いと答えた母はその後無言で席を立った。僕も紅茶を飲み終わるとごちそうさまと言い残して部屋に戻った。


「恭祐様、ゆき乃です」
しばらくすると後かたづけを終えたのだろう、ゆき乃が部屋にやってきた。まだメイド服のままだった。もう、彼女はここの使用人ではないはずなのに、ソレがなぜか腹立だしかった。まるで昔の関係に戻ったのだと主張するようで……
「ああ、お入いり。ちょうど荷物を出し終わったところだよ」
既に荷物の片付けは済んでいた。直ぐに戻るつもりだったので、僕の荷物は少なくて、あとはゆき乃の荷物ばかりだった。呼び出したのは口実だ。それはゆき乃もわかっている。でも来なければ自分の荷物が受け取れない、それを見越して呼び出したのだ。
昨日のあの取り乱した様が嘘のように、使用人憮然としたゆき乃がご用を伺うかのようにベッドに座る僕の前に少し離れて立っていた。そう、いつものように隣に腰を降ろしてその身体を預けてくれることはない。
「……屋根裏に戻ったの?」
「はい……やはりあそこがわたしの部屋なので」
抑揚のない声が返ってくる。聞きたいのはこんな声じゃない。こんな、他人行儀な会話じゃない。
「そう……ゆき乃はどういうつもり?」
「え?」
「メイド服なんか着込んで、使用人に戻るの?」
少し問いつめるような、キツイ聞き方だったと思う。これもまた、僕らしくないとわかっていた。
「いえ……ただ、妙さんが臥せっておられる間は変わりをしようと……」
「あのあと妙と話したんだろう?ゆき乃の気持ちは変わってしまったの?」
「わたしは……恭祐様を思う気持ちは同じです。でも、これ以上恭祐様の側には居られない。それだけです」
語尾が震えていた。それでもきっぱりと言い放つゆき乃。決意は固いのだろう。
「昨日の夜ね、僕は……父はどんなつもりでゆき乃の母親を抱いたんだろうって、考えていた」
「恭祐様?」
「父なりに、ゆき乃の母、志乃さんを思っていたんじゃないだろうか?父のあの性癖は異常だと子ども心に思っていたよ。嫌がる女性を無理矢理抱いたり、そうかと言えばチヅのように何もかも割り切った女に相手をさせたり……それもすべて志乃さんを思ってだとしたら……」
そう、僕だって見たことがないわけでなかった。父が若いメイドを無理矢理犯すところを見てしまったこともある。それほど所構わずな男だったのだ。それに性的興奮を覚えなかった訳でもない。そうして父に慣らされたあと、僕を誘ってくる女も少なくはなかったのだから。そんな環境の中、ゆき乃だけは護ってやりたいと思っていた。
「で、でも、お館様には奥様がいらっしゃるのに……」
奥様か……母はあんな父をどう思っていたのだろうか?母は異常なほどゆき乃を嫌っていた。だけど父に興味が無かったのならそこまで嫌うだろうか?では無関心に見えてその反面では恨んでいただけなのだろうか?
「あの二人の間に損得勘定以外の物があると思うの?母は、父のことなど眼中にないし、父も僕を可愛がったことなど一度もない。僕は望まれて生まれてきたのではないと、ずっと思っていたんだよ。だけど、いつも妙が進むべき道を教えてくれたから、必要でないなら必要とされる人になりなさいと……そして、ゆき乃がいつも僕を必要としてくれた。だから僕が僕で居られたんだ。ゆき乃が居なかったら、僕も存在してる意味がない」
そう、僕の存在価値なんてそんなものだった。周りにいくらもてはやされても、僕が僕で居られたのは、ゆき乃という護るべき存在を見つけたからだ。
「そんな……」
「ゆき乃を幸せに出来る自分で居たい、それだけだった。ゆき乃が僕を兄だとしか見られないというのならそれでもいい。それでも……側にいて欲しい。ずっと……何も出来なくてもいいから、どこにも行かないで僕の側に居て欲しいんだ」
僕は懇願した。
一晩悩んでも気持ちは変わらない。どうしても、失いたくないのは、やはりゆき乃の存在なのだ。
「それは、兄と妹として、ですか?それとも主人と使用人?」
あくまでも昔の関係に戻ろうとしているのがわかった。
「ゆき乃が望むのならどちらでもいい。僕はこの爆発しそうな思いも、身体の熱も、すべて押さえるよ。ゆき乃を無くすくらいならその方がまだいい……ゆき乃が嫌がるならもう触れない。でも忘れないよ、ゆき乃の心も、身体も……だって知ってしまったんだ。ゆき乃が僕を好きだと漏らす甘い声、吐息に絡まった切なげな表情、滑らかな白い肌が赤く染まる瞬間、柔らかい唇、張りのある胸、そして熱い潤み……どうすればゆき乃が感じるのかも知ってる。可愛がれば可愛がるほど見せるあの艶やかな表情も、全部ぼくのものだ……だから、それだけで、いい……愛し合えた記憶があるから、なくしてしまうよりいいんだ。ゆき乃以外に誰もその代わりは出来ないのだから……」
僕が覚えているソレをゆき乃に思い出させたかった。だからわざとそう言う言い方をするとゆき乃がその言葉だけで感じたのか、微かに肩を震わせ、唇を開き吐息を荒立てた。うっすらと頬を赤く染めて、目元もわずかに潤んできた気がする。
本当に我慢できるかどうかなんてわからなかった。だけど、失いたくない、その一心でゆき乃を取り戻そうとしていた。だけど、僕の決意も堅いように、ゆき乃の思いも揺るがなかった。
「本当に戻れると?……でも、そう仰るのなら、わたしはお側に仕えましょう。これから先、ご指示を出される言葉と挨拶以外は言葉も交わさず、恭祐様が奥様をお迎えになって、そして、お生まれになったお子様のお世話をさせて頂いて、そして……」
奥様?子供?ゆき乃以外と?ゆき乃はそうなることを望むのか?僕に他の女を迎えて、抱けと言うのか?
「ゆき乃っ、僕は、妻など迎えない……」
「いえ、それはいけません。宮之原のためにも奥様を迎えられて跡取りを……それが出来ないのならわたしはもう、出て行くしかありません!」
「無理だよ、それならゆき乃に出来た子を養子に迎える、その子に宮之原を継がせよう、そうすれば……」
「ゆき乃は誰の子も産みません!」
ほら、僕に他の女が抱けないように、ゆき乃だって他の男になんて嫌だろう?僕だって、それだけは嫌だ。許せない……きっと相手の男をこの手で消し去りたい衝動に駆られてしまうだろう。
「僕も嫌だよ……ゆき乃が他の誰かに、なんて……」
お願いだから、ゆき乃、戻ってきて欲しい、僕の側に。たとえ真実がどうであれ、もう手放さないと誓ったんだ。
僕が狂ってしまう前に戻ってきておくれ。僕のモノだとその唇で伝えておくれ。
「二人とも同じ気持ちだ。そうだろう?いくら真実がダメだと言っても、お互い以外に考えられないんだ。だったら、それだけは父にも認めさせるよ。いいね?」
「そんな、どうやって!?」
どんな手を使っても……そう言ったらゆき乃は怖がるだろうか?
「自分は異母兄妹を無理矢理犯して子まで作っておきながら、僕たちに何が言えるというの?お互いに誰も伴侶は迎えない、それぐらい認めさせるよ……」
「だめです、お館様も、奥様だってお許しにならない!!」
「もう、欲しい物なんて何もない。ゆき乃さえ居てくれれば、僕は実の親でさえ憎み、陥れ、苦しめることも、捨てることさえ厭わないんだよ?それすら認められなかったら、その時は、ゆき乃、共にここをでてくれるかい?二人の生活を、どこか遠いところに行ってはじめないか?」
ゆき乃がふと視線を緩めた。
「遠い、ところ……」
ぽつりと呟き返してくる。そう、遠いところ。
「ああ、二人で遠いところに……だれも、僕たちを見て血が繋がってるなんて思わないところに行こう。昨日、妙と話してるのを聞いたんだ。ゆき乃だけどこかになんか行かせないよ?」
漏れ聞こえた二人の会話から、いざとなればゆき乃がここから出て行くと推測できた。
「ダメ、ダメです!わたしなんかは居なくなってもどうでもいいんです!でも、恭祐様はこの宮之原のご子息ですよ?この館は?会社は??残された人たちをどうされるのですか??」
「前から考えていたんだ。当面の敵は父だったからね、あいつをなんとかして、それからって考えていた。だけど、よく考えたら僕はこの家にも、宮之原にも、なんの未練も思いもないんだ。自分の力でやっていくさ」
護るべきモノはゆき乃だけ。他は何もいらない。だから怖くないんだ。
「明日、妙にすべて話させるよ。ゆき乃もその場に居て欲しい」
そう伝えてゆき乃を部屋に戻らせた。
夜半には父も戻ってくるだろう。それがなんの意味を示すのか理解しかねたが、父の気まぐれな予定変更など今までにも良くあったので、いつものソレだと僕は思っていた。
その時、もう少し、深く考えるべきだったんだ。


「なんだね、私に話というのは……」
翌朝、父を妙の元に呼び出し、全てを彼女に語らせた。
さすがに志乃さんと自分が異母兄妹だと知ったときの父の驚きようはすごかった。あんなに驚愕した表情を見たのは生まれて初めてではなかっただろうか?
全てを聞かされた後、最初の表情は既に無く、静かに押し黙ったままの父だった。
「玄蔵様、お願いがあります。ゆき乃を……自由にしてやって貰えませんか?」
妙は貴恵の借金共々ゆき乃をも自由にしてやって欲しいと懇願した。だが、父の口から出たのは悔恨の言葉でも、贖罪の言葉でも、許しの言葉でもなかった。
「自由……この娘を自由にしてどうするのだ?普通に嫁になどもう出せんだろう?汚れた血の娘、そして親と同じように実の兄を思い、離れぬ愚かな女。志乃とわたしの娘ならば、わたしが自由にしても構わないのではないか?」
その恐ろしい言葉にゆき乃は震え上がるのがわかった。妙も血の気の失せた顔を真っ赤な怒りに染めて憤慨した。
「玄蔵様っ!あなたは……まだそのようなことを仰るのですか?あなたが志乃さんに手を出さなければ、ゆき乃は、普通の家に、普通の娘として生まれて来れたはずなのです!その罪を、なぜ償おうとなさらないのですか?」
「ふん、好きにさせたところでゆき乃は恭祐か、あの藤沢の小倅の元に居るだけだろうが?それとも恭祐、おまえもわたしと同じ罪を背負ってみるか?ゆき乃が好きなんだろう?わたしのことを嫌っておきながら父親と同じ過ちを犯すか?それもいいかもしれんな。甘美だぞ、その罪の味は……志乃の身体も最高だった。それとも、もう味わったのか?」
父の、下卑たその笑い顔に身体が震え、そして思い出してしまいそうになる。
そう、ゆき乃の身体は甘美だった。その唇も吐息すら甘い。ゆき乃の蜜を味わった僕には交わりはなくとも、罪は同じだと思えていたから。
そう、父と同じなのだ、僕は……だけど、僕はゆき乃を愛している。大切に思っているのだ。父の愛し方とは違う、違うはずなんだ!!
「あなたのようにはならない……ただ、わたしはもう誰も妻に迎えるつもりがありません。そしてゆき乃も……そのことだけは許可して戴きたいのです。兄と妹として側にいてくれるだけでもいいのです。どうか……お願いです」
父に願い事を言うなんて、今までにあっただろうか?何も望まず、ただ父が満足する優等生を演じてきたのだから。
「なにを馬鹿なことを……おまえは宮之原の跡継ぎだ。嫌でも妻を迎え子を作るのだ。嫌なら子どもが出来るまでだけ抱けばいいことだ。その後はおまえの母親のように好きにさせてやればいい」
「嫌です。そんな……あなたのような真似はしない!」
「そんなことが許されるものか……おまえは宮之原の跡取りだ。ゆき乃も約束は守ってもらおう」
ゆき乃の顔が一瞬にして暗く沈んで、歪んだ。
「玄蔵様!そんな、お願いです、ゆき乃を自由にしてやってください!!せめてここから出してやってください」
妙の必死の懇願も父には何の効力もなかった。彼女の願いを冷たい目で一蹴すると、今度はにやりと畏怖の笑みを見せた後僕に通告を押しつけてきた。
「恭祐が勝手なことを言う限りは、ゆき乃にも自由がないと思え。今までやって来たこと、私が知らんとでも思っているのか?まあ、もう、まともに嫁には出せんがな。それでもこれほどの器量があれば、どこぞの妾にぐらいはなれるだろう」
そう言い捨てて父は妙の部屋を出て行った。
今までやって来たこと……その示す意味は?力也とやって来たことすらも露見しているのか?だけども僕は、父がゆき乃に示した残した言葉の方が恐ろしかった。


「なんだって??それは本当ですか?」
翌朝、早くに社から電話があった。僕が起こした企画を共に推し進めている社員から、急に契約相手から断りの電話があったと告げてきたというのだ。もちろん実際に仕事に携わっているのは社員達なのだが、企画立案実行に置いて僕が参加したために相手の会社も僕を通して契約を求めてきていたのだ。それが急にというと、父の差し金が考えられたが、相手は今まで取引があった所でなく、最近起業して力也と共に目を付けていた会社だったので、少し信じられなかった。
こうなったら急ぎ僕が社に戻り、対応しなければならない。企画部の者達もそれを切実に求めてきた。こちらに来たときもその予定だったで、尚更変更がきかなかった。
「わかりました、はい、至急そちらに戻ります。ええ、直ぐにこちらを出て、じゃあ、向こうの社で直接、アポイントメント取っておいてください」
電話を受けたとき取り次いでくれたゆき乃が心配げにこちらをのぞき込んでいた。
「あの、大丈夫なんですか?」
「急いで戻らないといけないみたいなんだ……」
「そう、ですか……」
「父が居る今、社に戻るのは不本意だが仕方ない。すぐに戻る。時間が掛かりそうなら、ゆき乃は力也のところに行っていても構わないよ?今ココに居てもゆき乃の為にはならない。あの男が見せる冷血さは判っていたけれども、ゆき乃に見せているのは執着だ。何を考えているのか僕でも読めない……すぐに出た方がいい」
「けれども、妙さんは昨日からまた調子を崩されて……今回のこと、自分の責任だと責めておられるわ。だから、もうしばらくはココを離れられません」
「ゆき乃……」
心配だった。今彼女を父の居る館に置いて行くことは不安でしょうがなかった。あの父が何の目的もなく、このタイミングで館に戻ってきていること自体が疑わしかった。だけどここはゆき乃の育った家でもあるのだ。周りにはゆき乃を可愛がってくれる者達の目もある。それに、今は母もいる……さすがの父でも、母の前では迂闊なことはしては来ないだろうと判断した。
そっと触れたゆき乃の頬、その手にゆき乃の細い指が重ねられた。
「行ってください。恭祐様はやはり宮之原には必要な方なのですから」
もう一度触れていいのか?ゆき乃に……そのまま抱きしめたい衝動に駆られながらも、その思いを押しとどめる。
「力也に連絡しておく。いいかい?ゆき乃、あの男は父親であって父親でない。それを忘れないで」
ゆき乃が頷く。僕は急ぎ準備をして、車に向かった。再びあの長い距離を一人で戻るのだ。最初からそのつもりだったけれども不安は残る。
後ろ髪を引かれる思いでアクセルを踏み込んで館をあとにした。


そして取引先に向かって数時間後、ようやくそこの社長と接見して、契約保護の翻意の理由を聞き出した。それは、僕がその企画から抜けて宮之原を継がないという噂のせいだと言うのだ。
「まさか……そんな理由で?」
「当たり前です。この企画は勿論我が社にも利益が得られる。それだけでなく、こちらの技術革新も大きく世に知らしめることが出来ます。しかし、元々この企画を持ってこられたのは宮之原さん、あなたでしょう?あなたは宮之原の後継者でもあられる。その発想と手腕には一目置かせてもらっている。しかし、あなたがこの企画から手を引くというなら、我々のリスクが大きくなると計算したのです」
「僕は今のところこの企画から抜けるつもりはありません。しかし学生の身でもあります。この木原と佐田も同じようにこの企画を進める力を持っています。どうか、そちらを信用して頂きたい」
納得してくれた社長との商談を済ませて、本社に戻り、急ぎ館に電話を入れた。
『あの、ゆき乃さんの姿が見あたらないんです。』
新しいメイドは小さな声でそう返事をした。妙を呼び出すのも可哀想なのでコック長の亀田を呼び出した。
『恭祐様!そうなんです、ゆき乃ちゃん見つからなくて……ええ、荷物はそのままです。ど、どうしましょう?』
「父はどこにいますか?」
『え?お館様ですか??それがお客様がありまして、その方と一緒に出て行かれました。』
「くそっ!」
やられたと思った。父が、ゆき乃を……
館だから、ゆき乃や僕が育った場所で、みんなの目もあるからと気を許していたのが仇になった。
まさか、そこまでするなんて……
今日、自分が社に戻るよう仕組んだのも父だろう。そしてその間にゆき乃をどこかへやってしまったのだ。
僕は怒りと不安が渦巻く心を押さえつけて冷静に考えようとした。
ゆき乃が今どこにいるのか、父はどこにゆき乃を連れて行こうとしているのか?ゆき乃をどうしたいのか。
冷静に判断して動かなければならない。今の自分が監視されて無いとも限らないのだから。ここは宮之原の本社、父の根城でもあるのだから。
周りの全てが敵でもおかしくはないのだから……

      

恭祐視点のお話はココまでです。
次回より本編に戻ります。恭祐視点で進むか、それとも3人称になるか、まだ決めてませんが(笑)