風花〜かざはな〜

32
〜恭祐・回想1〜

ゆき乃、僕の可愛いゆき乃……
おまえがいるから僕は寂しくなかったんだ。
おまえがいるから前を向いて進めた。
おまえがいるから僕が僕で居られた。
ゆき乃、僕の愛しいゆき乃……
おまえが居なくならないように、僕が出来ること、全部するよ。
だから側にいて?ずっと、僕の側に……

物心ついたときから両親に愛されていないことはわかっていた。
面倒見がいいが厳しく礼儀正しい女中頭の妙が、唯一愛情を注いでくれた。
一度も抱き上げてくれない父親、身体の線が崩れると僕に乳を含ませもしなかったという母親。少し抱けば疲れたと妙に渡してしまう。まるで産んだだけとでも言うような……そのくせ人前でだけは可愛がる振りをする。
それはたまたま僕の見栄えがよかったから?何をやらせても上手くやって見せたから?人前に出たらいい子でいたから?抱きしめてもくれないのに……
時々見せびらかすかのようにサロンに連れ出して、ピアノが弾けるようになるとピアノを弾かせて……その時だけはうっとりと僕を見てくれたような気がした。だから僕はピアノを弾くのが好きだった。
だけども父はそれが気にくわなかったらしい。けれども、文句を言うわけでもなく、その代わり気にもせず……無視されていると言うことに気がついたのはいくつの時だっただろう?
歳よりも利発だったのか、大抵のことは言われなくても推測できた。先回りしていれば怒られることも少ない。何事も上手くやっていればそこそこ勝手なことをしても咎められないことも判っていた。
僕は父と母の前では文句も言わない、甘えもしない、大人しいだけの子どもだったと思う。
だけど、妙や使用人達の前では結構自由に笑っていたんだ。なんだかんだと言いながら妙は僕のことを気にかけてくれているのが判っていたから。だけど、他の使用人達はやはり他人行儀だった。


ある日、いつものように約束の勉強を終えた後、屋根の上に出ようと通路にしている屋根裏部屋に行くと、そこに小さな女の子が眠っていた。身体を丸めて、まるで猫の子のようにその小さな身体を折りたたんでいた。僕の腕の中に入ってしまいそうに思えたのはきっと目の錯覚だ。身体は小さいめだろうけれども、そんなに歳は変わらないかも知れない。
色の白い可愛らしい顔立ちの子だった。睫毛が濡れて泣いた後だと言うのはすぐに判った。
しばらくじっと見つめていた。小さな手がぴくっと動いた後ゆっくりと目を覚ましたその子は、ベッドに横たわったまま黒目がちな瞳で僕をじっと見ていた。
『だれ?』と聞いた僕の質問に『ゆき乃』と答えた。
ココに住み込む使用人の子どもみたいだった。僕より1つ下で、この歳で働くのかなって思ったけれどもその気十分なのには驚いた。僕のことをぼっちゃまって呼ぶし……
初めての友達だと思えた。ずっとココにいるのならいつでも遊べる。つまらないこの館の中で、唯一の光を見いだしたような気持ちだった。
屋根の上に誘い並んで座って勉強を教えてあげる約束をしたときに、ようやくゆき乃は笑った。
儚げだけれども可愛らしい微笑みだった。僕はそれだけで幸せな気分になれたんだ。

ゆき乃もすぐに僕を慕ってくれるようになった。だれも愛してくれる者の居ない子ども同士、うち解けるのは早かった。
あれは、ゆき乃が館に来てすぐに館を襲った嵐の夜だった。屋根裏は一番空に近く、雷も雨も風もすごいだろうと心配して僕は夜中にそっと屋根裏に向かった。きっと怖がってるだろうと思った通り、ゆき乃は震えながらも必死で我慢していた。だけど、僕の顔を見るなりぽろぽろと泣き出して、それを見た幼い僕もどうしていいか判らなくて、取りあえず雨と雷の音がすごい屋根裏から彼女を連れ出して自分の部屋に連れて行った。僕のベッドに入れてやると、お布団がふかふかだと少しビックリしながらも、また窓を振るわせる雷鳴に恐れおののき、身体を震わせた。僕はその手をしっかりと握って、『大丈夫、僕が付いてるから』と繰り返した。その時、僕にしがみついて震えるその身体を抱きしめながら、この少女を守ってやりたいと心の底から願った。僕を必要としてくれるこの手、この温もり。自分が誰かを守れるのだという幸せ。
そう、僕は幸せだった。
誰かに抱きしめられた記憶などない。ならば自分が抱きしめればいいのだ、この何も持っていない少女を……
翌朝、妙に見つかって酷く怒られたけれども、彼女も父や母には何も言わなかった。
そう、彼女も味方だったのだ。
それからはゆき乃も僕を慕ってくれて、その暖かな温もりは僕のものになった。
この笑顔をずっと見ていたい、いつの間にかそう思うようになっていた。
無邪気で、僕を一身に慕ってくれる可愛らしい存在。辛い思いをしているだろうに口にも出さない。
おいしそうなお菓子があればゆき乃にやりたくなった。おもしろいことがあればゆき乃に教えてやりたくなった。
綺麗な夕焼けは二人で見るのが好きだった。ゆき乃に勉強をおしえてやると、『ぼっちゃますごいです』と褒めてくれるのが嬉しくてもっと勉強した。
この館の中で、ゆき乃の存在だけが僕の支えで、自分が誰かに必要とされている、その証がゆき乃だった。


母が、なぜかゆき乃を異常に嫌っているのは判っていた。そのためにゆき乃は気を使い、遠慮して、成長すると共にだんだんと僕に近寄って来なくなった。
ゆき乃が僕から離れていく……それだけはイヤだった。
母に判らないようにゆき乃と遊んだ。夜中にこっそり屋根に登って星空を見て過ごしたこともある。だけど年々遠慮がちになっていく。母に咎められてからは一緒に車で学園まで行くこともなくなった。僕が出るのを見送ったあと山道を駆けてきているのに気がついてからは途中で待ち伏せしたりもした。
どうして?なぜ?こんなにも僕に遠慮するの?
主人と使用人という立場に縛られていることにようやく気がついた。僕がいくらそう思わなくても、ゆき乃は僕から離れようとしていた。だから僕は色んな方法を使ってゆき乃を側に置いた。勉強もそう、おいしいお菓子も、髪を飾るリボンも、優しい言葉も、声をかけるタイミングも、状況を見極めて、ゆき乃が安心できるように、ゆき乃が微笑めるように……
そして、ゆき乃は僕が思う通りの少女に育っていった。
聡明な頭脳、儚げだけれども凛とした美しい容姿、黒目がちな瞳に真っ直ぐで綺麗な黒髪、控えめな性格と教養。
鏡もろくにない部屋で育ち、ゆき乃は自分がどれほど美しく成長したなど判っていないけれども、だれもが目をとめる。
だれを見なくてもいい僕だけを見て僕だけに微笑んでくれればいいんだ。近づかなくても僕を見てくれているゆき乃の視線がわかる。離れたところから微笑みかけてもそれを返してくれる。何の見返りも求めない、お互いの存在だけが心の支えだった。


学校に通い始めて、ゆき乃が虐められているのはすぐに判った。
名士の子息が多い私立の学園に使用人の子が紛れ込んでいればそうなるのは見えていた。頭も見た目もよかったので最初はそれなりの家の子だと思われていたようだった。しかし着ている制服は行き帰りの山道で雨や日に晒され、持ち物も粗末。見た目にもそれが判りはじめると苛めはあからさまだった。
その先頭に立っているのが折原運輸の社長の娘、鈴音だというのも判っていた。母のサロンに度々娘を連れてくる鈴音の母は、わたしの母苑子の遊び友達でもあったようだった。旅行や若い芸術家を援助したり、要するに火遊びのお供だった。娘には罪はないと思ってはいたが、ゆき乃に対する態度と僕に対するソレはあまりにも差があり酷かった。それは年を追う毎にエスカレートしていった。僕には執拗に言い寄ってきては、ゆき乃を影で苛める。女の苛めは陰湿だというが本当だった。
僕が中等部に上がってすぐのことだった。ゆき乃の部屋を尋ねたときに引き裂かれた体操着を見てそれを実感した。妙が僕のお古をゆき乃にやったと聞いて訝しんで来てみればこの通りだ。
「ひどいことをする……誰にやられたんだい?」
そう聞いても判らないと答える。僕にまで本当のことを言わなくなってしまったゆき乃に距離を感じて寂しくなった。
「なぜ言わない?ゆき乃はココまでされて悔しくないのかい?」
つい、強い口調でそう責めてしまった。ゆき乃は悪くないのに……そう、このころからゆき乃は何か諦めたような感じだった。
「今度何かされたら、ちゃんと言うんだよ」
そう告げたときのむなしさ……ゆき乃は、僕には何も言わないんだ。

ゆき乃が中等部に上がってきてからもその態度は変わらなかった。
僕を慕ってくれているのも判っている。いつだって僕を見て、僕のことを考えてくれていても、以前のような親しげな雰囲気はなくなり、必死で一線引こうとしていた。
それが嫌だった……
僕も高等部に上がる頃には、かなり大人びていたとおもう。背も人よりもあったし、ゆき乃のことを考えると子どものままで居られなかったから。だけどその焦燥がどこから来るのか、判っていなかった。
「キミが宮之原くん?」
高等部に入学早々声をかけてきたのは3年の新崎綾女という女生徒だった。先生の覚えもよく、周りの生徒よりも大人びて見える綾女は生徒会の副会長を勤めるほどの才女だった。
その美しい人は僕を巧みに誘った。
それまでも女性に興味が無かったわけではない。だが、館で繰り広げられている父親の性癖を垣間見て性的興奮と共に嫌悪感すら感じていた。言いなりになる女性達の姿にゆき乃を重ねてしまったから……
ゆき乃はそんな対象でなかったはずなのに、いつかそうさせられてしまうかも知れないという恐怖と、その反面妄想の中で、父と同じようにゆき乃を組み敷いている自分に嫌悪したのだ。
何も知らないゆき乃。彼女を汚したくなくて、誘われるままにその先輩、綾女を抱いた。
彼女から女性というものを教えられた。女の抱き方、感じるところ、イカセかた。綾女はセックスだけでなく、知識も深かった。色んな面に精通していて、惹かれ、そして彼女から色んなものを吸収した。
彼女は知っていたのだ。僕がオトナになりたがっているのを。自立しようとしたがっているのを……
もやもやした性的欲求はそれで解消されていた。確かに気持ちのいい行為だったが、知ってみればこんなものか、だった。本当にそうしたいのは彼女ではないと気がついたから……
その彼女とも卒業したきり会ってなかった。彼女は大学に進み、また新しい世界で気に入った男を抱くのだろう。そう、あの時まで彼女はただ通り過ぎた身体だけの関係だった。

ゆき乃が襲われた、あの時、彼女の力を借りた。

ゆき乃が高等部に入る頃には、彼女の存在は際立っていた。成績優秀で学校側が進学を希望したほどの才女。そしてその容姿。僕が中等部を出た頃からゆき乃の周りに嫌な存在が現われた。
藤沢力也。成り上がりといわれているが新鋭の藤沢建設の子息だった。なかなか一筋縄でいかない強者で、しょっちゅう僕を煽ってくる。女好きのようで、ゆき乃に目をつけてからは、かなりな頻度で言い寄ってきているようだった。
だけど見かけや態度と裏腹に、ゆき乃がヤツを嫌っていないのには驚いた。
もしかしたら……
ゆき乃が奪われるかもしれないと、初めて危惧した。意思の強さを表すきつい顔立ちだが、よく見るとキレイな顔をしている。体格もがっしりしていて、僕と正反対だと思った。
ゆき乃はヤツを好きになってしまったのではないかと何度も思った。
ゆき乃が他の誰かのもになるなんて、そんなこと考えても居なかった。僕たちはいつもお互いしか見てなかったはずなのだ。
僕の側からゆき乃が居なくなる……そう考えるだけで虚無感に襲われる。
僕のゆき乃、僕が僕で居るために、ゆき乃をだれにも渡せない。だから、もう遠慮するのはやめることにした。
高等部に進学させた時点で、ゆき乃を大学まで引っ張って自分の後をおわせようと考えていた。このまま館においておくつもりはない。だけどずっと側に置いておきたかった。使用人としてではいない。一人の女としてだ。
だが力也に対する牽制が仇になった。ヤツの目の前でゆき乃は僕のモノだと主張した。それを見ていた折原鈴音が、その後ゆき乃を男たちに襲わせたんだ。
生徒会の用事で帰りが遅くなって、館に戻ってもゆき乃の姿がないことに気がついた。急いで西田に車を出させた。
学校にも、帰り道のどこにもゆき乃がいない。
車を降りて山道に差し掛かると、崖の方から誰かが歩いてくるのがわかった。藤沢力也が背中にゆき乃を背負って降りてきたのだ。ぼろぼろになったゆき乃を……
「まさか……おまえが……?」
一瞬ヤツを疑った。だけど必死でかばうゆき乃……ヤツは、ゆき乃を助けてくれたんだ。寸でのところで。
「なまちょろい言葉で慰めようとするなよっ!ゆき乃は殴られて、押さえつけられて、口に下着突っ込まれて、犯される寸前だったんだ……身体を無理矢理開かされて……冗談やお遊びじゃすまないんだ。どういうことか判るよな?」
からだが震えて、一瞬固まってしまった。これは……僕のせいだ!僕がヤツに嫉妬して、鈴音の目の前でゆき乃が自分のモノのように扱ったから……
「今日は俺の家に連れて帰る。ゆき乃もそうしたいと言っている」
藤沢力也が自信のある声でそういった。ゆき乃を見ても俯くだけでこちらを見てもくれなかった。
僕はもう必要ないのか?こんなに傷つき、震えているのに?力也に渡したくなかった。こんなゆき乃をだれの手にも渡したくなかった。
「……だめだ。ゆき乃は僕が連れて帰る」
僕は引くことが出来なかった。ゆき乃は僕が守ってやりたかったんだ、あの嵐の夜のように僕の腕の中で……
「ゆき乃っ!」
強くその名を呼んだ。びくりと肩を震わせながらゆっくりと顔を上げたゆき乃の顔は、ひどいものだった。殴られたのだろう赤黒く腫れた口元、乱れた髪に枯葉が付いていた。
怒りで身体が沸騰してしまいそうだった。ゆき乃のあの体に触れたやつがいるというのか?あの体を押し開き無理やり入ろうとしたのか?僕のゆき乃に……今まで大事すぎて触れることも出来なかったというのに!!
「辛かったんだね、ごめん。僕が守ってやれなかった…….ゆき乃……」
手を伸ばすとゆき乃は僕の腕の中に戻ってきてくれたんだ。
子供のように声を上げて泣きじゃくるその体を抱きしめて、背中を優しく撫ぜてやるしか出来なかった。
「ゆき乃は僕が守る」
そう言葉にした。やつにも誰にも渡さない……
そう心の中で誓って、ゆき乃の額に自分の唇を押し付けた。

帰ってすぐゆき乃は妙に連れて行かれたけれども、部屋で休むといって戻っていったらしい。僕はコック長に頼んで夕食の時に出ていたスープを温めなおしてもらって屋根裏へ持って行った。
ひさしぶりのゆき乃の部屋だった。こんなにも長く来ていなかったのは自分の自制心に自信がなかったから……ゆき乃の部屋に入って、何もせずにいられる自信がなかった。それは、僕の中でゆき乃が女になった時からだった。
部屋に入るとゆき乃の肩から浴衣が滑り落ちる瞬間だった。
白い滑らかな素肌に無数の赤く擦れたような痕が何箇所もあった。背中はひどく痣になっている。崖から落ちたのだと力也も言っていた。押さえ込まれ、服を裂かれ……
思わず手が伸びていた。その白い背中の赤い痣の一つに。
「真っ赤になってる……擦ったんだね、ゆき乃?」
震える背中、唇をかみ締めているのが見えてしまった。自分が汚れてると思い込んでいるのだ。僕はもう押さえが効かなかった。
「ゆき乃は悪くない!!……汚れてもいない……僕が……僕のせいなんだっ!」
ゆき乃の細い肩を、後ろから抱きしめていた。
許せない……奴等をどうしてくれよう?怒りが再びこみあがってくる。
「僕の持つ力の総てを使っても、そいつらを……」
そういった僕の言葉をゆき乃は止めようとした。自分は使用人だからいいのだと。そんなこと僕が許すものか!
僕の中には綾女の顔が浮かんでいた。社交界の裏事情にも詳しく、だれそれのスキャンダルも掴んでいた裏の顔。
彼女から手を回してもらい、あいつらを黙らせる方法を考えていた。たとえゆき乃がいいといってもそれだけはやるつもりだった。
「は、離して下さい。服を……着させてください……」
そう言われて初めて裸のゆき乃を抱いてることを思い出した。怒りで我を忘れるところだった……
震える声、赤く染まった頬、途端に下半身に熱が集まっていくのがわかった。
それでも出て行くことが出来なかった。いればまた触れたくなる、それがわかっていながら僕は……
「こんなところじゃ治るもの治らない。僕の部屋へ行こう」
ゆき乃が震えたのを見て、それを理由に僕は彼女を抱き上げた。暴れて声を上げる彼女を優しく諭して、部屋に連れ込んだ。耳元で囁けばどうなるかはわかっていたから……ゆき乃もすぐにおとなしくなった。
「覚えてる?最初の、嵐の夜……酷く怒られたけれどもね、二人で居ると怖くなかったよね?実は僕もあの夜は一人で怖かったんだ」
昔を思い出しながらゆき乃をベッドにそっとおろした。背中が痛そうだった。
なのに彼女は自分はココにいられないと言い出す。僕はソファに行くといっているのに……
「だめだ。ゆき乃は僕のせいでこんな目にあったんだよ。よくなるまでずっとついててあげる。ここからは帰さないよ?それよりも、さあ、背中を見せてご覧、さっき見たら赤くなった上に腫れ上がっていたよ。少し濡れたタオルで冷やしてから湿布を貼ろう」
もう、体裁など構っていられなかった。傷が心配なのはもちろんだったけれども、僕はゆき乃に触れたかったんだ。だから嫌がる彼女にきつめの口調で命令する。そうでもしないとゆき乃は部屋に戻ってしまいそうな勢いだったから。
「口答えは許さないよ?動けないなら僕がしてあげるから」
可愛らしい叫び声を上げるのを無視して僕はゆき乃のパジャマを脱がせた。
「あっ……」
背中の痣をなぞると、ゆき乃の声が上がる。うつ伏せになった彼女の背中のラインはきれいな弧を描き、濡らしたタオルを置いてやるとほっとした吐息を吐く。
どこまでもつだろうか?自分の理性は……
「他に辛いところは……ない?ゆき乃?」
その言葉に小さな嗚咽を漏らして、自分の体を抱え込んで丸くなる。ゆき乃は何かに耐えるように声を震わせて泣いていた。ベッドの横に腰掛けてゆき乃の顔を覗き込んだ。ほら、こんなにも彼女は綺麗だ。汚れてなんか居ない。
そう言いながら彼女の目からこぼれ落ちる涙を指ですくった。
「でも……消えない……あのいやな感触が消えない……」
腕の中でゆき乃はからだのあちこちを擦り落そうとしていた。やつらに触れられた部分を……
ゆき乃は苦しんでいた。今にも狂い出さんばかりの彼女に今できることは何があるのだろう?僕が変わりに触れてやりたい。嫌な思い出を全部消して、この手で、僕だけを覚えていられるように……
まだ、触れてはいけないと思っていた。だけど、今は触れてやりたかった。ゆき乃は力也でなく僕を選んでくれた。だから、僕が……
「辛いなら……僕が消毒してあげるよ」
ゆき乃の背中を滑らせた手に彼女がダメと首を振った。
「他にはなにもしない……おまじないだよ?昔よくしただろう、怪我した所に……」
早く治りますように、そう繰り返しながらゆき乃にキスをした。傷の残った額に、殴られて紫色になった口の端……
「イケナイ……」
何度もゆき乃はそう言葉にした。なにがいけないのだ?使用人と雇い主の息子だから?でももう止まらなかった。それ以上のことはしないつもりだったけれども、今はゆき乃を自分で一杯にしたかった。
彼女をそっとベッドに横たわらせ、何度も髪を梳いてゆっくりと抱きしめて、その耳元に小さく囁く。ココも?と……
首筋、胸元、その総てに唇を這わせる。パジャマの布地の上からゆっくりと、おまじないを施していく。その布地からもゆき乃のぬくもりが伝わってくる。そして僕の熱も伝わればいい。
「あ……」
柔らかい吐息が行ゆき乃から漏れる。僕の心まで蕩けそうなほど甘い吐息……
「ここも……触られた?」
おそらくココもだということはわかっていた。脚の付け根の部分、閉じたままのそこに上からキスをする。
「もっと奥も?」
自然と開かれていく脚に、膝から順に脚の付け根へとゆっくりと唇をずらしていく。最後に行き着いた部分に布越しキス贈る。ゆき乃の甘い声に、理性が揺さぶられ、このままパジャマを脱がしてしまいたい衝動を必死で抑える。
今はもう、これ以上は……けれど、いつかきっとこの手に抱くから、ゆき乃……僕の、ゆき乃。
全身のキスを終えて身体を起こし、彼女の隣に潜り込み、そのまま抱き寄せるとゆき乃が縋ってきた。その背中を何度も優しくさすった。いつの間にかゆき乃は寝息を立てている。
よかった、眠れたのだ。そのぬくもりに、僕も浅い眠りに落ちていった。
それでも夜中に目を覚ました僕は、ゆき乃の背中のタオルを何度か替えてやりながら起きていた。
はだけられた白い背中。抱きしめていても辛そうだったので、うつぶせにして何度も冷やした。時々我慢できなくてキスも落としたけれども……
それでも明け方睡魔に襲われ浅い眠りに落ちた。そして目覚めた後のどうしようもない男の朝の生理現象に苦笑する。
朝の日射しの中、僕のベッドのシーツに安心しきった顔を埋めて眠るゆき乃。
手元にあるその存在の暖かさに自然と口元が緩んでしまう。極上の幸せ、こんな朝が何度も迎えられたと願う。

「おはよう、よく眠れた?」
少し寝ぼけたようなゆき乃の顔が、一瞬にして引き締まる。もう、いつもの顔だ……
「あの、もしかして、恭祐様、ずっと起きてらっしゃったんですか?」
背中を冷やしていたことを告げると途端に起き出そうとする。もう少しだけ、こうやっていたいのに?
「す、すみません!!恭祐様にそこまでしていただくなんて……」
「なんで?そのためにここに連れてきたのに?」
「あの、でも、早く部屋に戻らないと……また妙さんに叱られます……」
ベッドから降りて、今日は両親も帰ってこないことを思い出してゆっくりさせることにした。学校は休ませればいいし、食事もここに運ばせよう。他のメイド達に言うとやっかいだから、自分の分だけと偽って大目にとってこようか?
「でも……いつまでもベッドに居るのは……」
あまりに遠慮するので、じゃあと言ってゆき乃を抱き上げてソファに降ろす。コレも役得の一つ。
「食事の間だけだよ?そのあとはベッドで、今日は一日安静にしておいで、いいね」
そう言い聞かせると何とも言えない顔をする。世話はしても世話などされたことのないゆき乃の戸惑いは判る。だけども、今の僕は彼女のために何かしてやりたくてしょうがなかったのだから。

午後もゆっくりと休むゆき乃と言葉を交わしながら読書を楽しんでいると、いきなり騒がしい来訪者が現れた。
「おいっ、どうなんだよ!」
藤沢力也だった。僕までもが休んでいるのが気に入らないのか、少し苛立った表情だったが、ヤツもゆき乃を心配してきたのだ。
「力也くん、なんで……」
ゆき乃の言葉に心なしか肩を落とすヤツ。想いは伝えているみたいだが、ゆき乃にその気は本当にないのかも知れない。
「なんでって、心配だったからに決まってるだろっ!二人揃って学校にも来ないしよぉ……」
憎めないヤツなのかも知れない。直情的で、強引で、自信家で……
僕は本を閉じてメイドにお茶を頼んで座っていた椅子を譲ると、ゆき乃のベッドの横に移動した。
これはちょっとした牽制。ココまでは来させないよというのと、僕のベッドにいるのだから、僕のものだという無言の主張。
力也はゆき乃を襲った奴らに制裁を加えたらしいが、手応えが無く、肝心の折原鈴音の様子をみて、どうやら僕が手を打ったことに気がついたらしかった。
「あんた……何やったんだ?」
「何を、ですか?」
しらを切ったけれども、実は昨夜のうちに綾女に連絡を取ってお願いをしておいた。折原の奥様を押さえられるかどうか、そしてそこから鈴音に釘を刺せるように。ついでに当分まとわりつけない程度のものを、と。綾女はおもしろがって引き受けてくれた。彼女の持つルートは特殊で、その筋の方々のほうがそう言ったことには長けていたから……
「大丈夫、なにも制裁は加えてませんよ。ただ、口外すると、只ではすまないと、釘を刺しただけです。ゆき乃は許せても、僕は許せない。許すつもりもない……」
僕はそれだけは言い切った。力也も僕がこんなにはっきり言うとは思わなかったのだろう。ヤツからすれば僕など日和見主義の温和な優等生の生徒会長だったのだろう。
僕の中に存在する唯一の激しい思いを誰かにぶつけるつもりはない。だけど、邪魔をするならそれは何者であっても容赦はしない。
僕はメイドが運んできてくれたお茶を受け取ると、ゆき乃を起こしてカップを手渡してやった。
「あんたってさ……もっと、金持ちらしく威張ってるのかと思ってた……」
不意にそうヤツがそう言った。この男は生まれつき今の贅沢な暮らしをしてきたのではなかったと聞いたことがある。
「僕が7つの時にここにゆき乃が来たんだ。来たばかりのゆき乃は可愛くてね、今にも消えてしまいそうなほど儚げだった。遠縁の娘だときいているのに、翌日から小さい手でせっせと働いてるのを見てるとね、守ってやりたくて……この子は一言も僕には泣き言を言わなかった。辛いとも、嫌だとも……そんなに頑張ってる子がずっと身近に居るのに、どうやって威張るんだい?」
ゆき乃の髪を梳き、その手に重ねた。愛おしい存在。僕だけのゆき乃。いくらイイヤツでも、おまえにはやらない。
「いつだって、ゆき乃は僕の側に居てくれた。それだけで十分だった……僕を見つけると微笑んでくれる。いつも僕のことを気にかけてくれる人がいる、その存在がどれほど大きいか……君にも判るだろう?」
愛とか恋なんて感情じゃ括れない。肉欲ならいくらでも我慢する。唯一無二、失いたくない存在。
それを言った後、帰ると言って力也は立ち上がった。
「君には感謝している。ゆき乃を救ってくれてありがとう……」
これだけは感謝しても足りやしない。ゆき乃が今こうやって穏やかでいられるのはこの男のおかげなのだ。最後までされていたら……それを考えるだけでも恐ろしい。ゆき乃は正気で居られるのだろうか?それこそ、その時は、抱いていたかも知れない。たとえゆき乃が嫌がっても、自らゆき乃の記憶を塗り替えるために……


その夜も、ゆき乃を部屋に置いた。妙も気がついて居だろうに何も言わなかった。
ただ、さすがに持ちそうにないので、その夜はベッドの端に腰掛けてゆき乃の手を握って、ゆき乃が眠った後はソファに移動した。
ベッドに横たわるゆき乃は無防備で、思わず抱いてしまいそうになる。
まだ、今は早すぎる。もう少し、もう少し先まで待つべきなんだ……

      

恭祐回想編、しばらくお付き合いくださいm(__)m