風花〜かざはな〜
20
あれから、身体の震えは止まらなかった。
実の親かもしれないと言ながらも、あんなことが出来るお館様が恐ろしかった。
身体の嫌な感触、口中で味あわされた物の苦みは消えることがなかった。
ただ、判っているのは、いずれそんな扱いを受けるだろうということと、逃げてもしようがないと言うことだけ……
もし、自分がお館様の娘でなかったら、きっと、もっとはやくにそれ以上の目に遭っていたのかも知れない。
奥様との会話、使用人達の噂話、どれをとっても、若い頃の旦那様はわたしの母に夢中だったと……その態度が変わってきたのは母と祖母がこのうちを出てからで、それからというものは、誰もが近寄りがたい今のお館様に変わっていかれたということだった。
館勤めの長かった庭師の友造さんが教えてくれた。
『お館様は本当に志乃ちゃんが好きだったんだよ。傍目で見ても惚れてるのが丸わかりなほどだったさ。ただ志乃ちゃんが逃げ腰でな、あの強引さだけは昔から変わらないお館様がよく志乃ちゃんを捕まえては逃げられていたっけなぁ。』
と……母の気持ちははどうだったのか、聞いたけれども誰にも判らなかったそうだ。
いつも逃げまわり、しまいには館を逃げ出した。その時のお館様の怒りはすごかったそうだ。当時のお館様である自分の父をくびり殺しかねない勢いだったそうだ。
それほどの母への執着。
母に生き写しといわれるほど、成長すればするほど似てくる自分の容姿。
だから、お館様はあんなことを……
いっそのこと似ずに育っていたならばと、悔やまれてならなかった。
それ以来、わたしに送り迎えの車がついた。
今までそんなことがなかったのに……運転手の友田さんは何も言ってくれなかったけれども、予定外の外出や寄り道は一切許されていないらしかった。
力也くんもあれ以来学校に顔も出さない。前から休みがちだったけれども、こんなに長く顔を見ないのは初めてだった。
どうして、なんで?
嫌な予感は募るばかりだった。
恭祐様の所へも出掛けることを禁止されて、再び妙さんが向かうようになった。手慣れてきたメイドを一人引き連れていくようになったからだ。
館の中ではチヅさんの目が光っていて、わたしは見張られているようで、息苦しい日々を過ごすしかなかった。
「三原、ちょっといいか……」
担任に呼ばれたけれども、廊下でいきなり顔を寄せられた。ゆき乃にしか聞こえない小さな声で担任は言った。
「三原、このままじゃ藤沢力也はココにいられなくなるぞ?」
「え?」
「私は、藤沢の家に恩義があってね、こうやって教師をやっていけるのもあの家のおかげなんだ。以前キミの借金の件を力也くんに話したんだ。それからというもの、彼は以前からしていた父親の仕事に力を入れて、自分を親に認めさせて、その代わりにキミの借金を肩代わりしようとした。そうしたら、その日から宮之原家の圧力がかかって商談は潰れ、妨害が入って、今、藤沢商事の屋台骨はぼろぼろだ。いったい、何があったというんだ?力也は学校にも顔が出せなくなってしまった。このままでは、藤沢商事もおしまいだ。いったい……なにが……」
お館様だ……お館様が全部……
身体が震える……あの人のやりそうなことだと、なぜ気がつかなかったのだろうか?
最近の自分に対する執着、あの時の恐ろしさ……
「先生……藤沢くんは、今……」
「必死で立て直しているよ。彼は父親も認めるほどの商才を持っている。ただでは転びはしないはずだ。しかし、今は……走り回っているよ」
「そう……ですか。彼に伝えてください。わたしにはもう構わないでと……。わたしは借金をしているだけではありません。わたしはお館様の所有物なんです。娘……なんです。公には認められない……だから、わたしには、もう構わないでと……」
「娘……」
「それから、ごめんなさいと……ありがとうを……」
「わかった。伝えよう」
それだけ告げると担任は足早にさっていった。
力也くん……本当にごめんなさい。
わたしはお館様を甘く見すぎていたのだ。
もう、誰にも迷惑はかけられない……
誰にも。
力也くんは学園を去っていった。その後、病に倒れ社長に代わりTOPにたった若き社長が、地道に藤沢商事の立て直しを図り、かなり持ち直したというのを風の噂で聞いた。
あれ以来、わたしは籠の鳥だった。
お館様は忙しく館にもそうそう戻っては来られず、前回のように呼び出されることもないけれども、わたしはその時が来るのをずっと恐れていた。
一番恐れていたのは、その矛先が恭祐様に向くことだった。まさか自分の実の息子にまで執着心を向けることはないだろうと思ったけれども、わたしに対するものと違い、お館様は昔から恭祐様には無関心だった。できがよければそれでよいといった感じで、恭祐様自身もお寂しい時間を多く過ごされたのだ。干渉的だった奥様もご自分が遊び回りはじめられると恭祐様を放りっぱなしで、そのくせわたしを側に寄せるのを嫌われた。だからいつもこっそり屋根裏部屋から家根に登って二人で遊んでいたのだ。
二人の間に何があったかなど、お館様は見抜いてらっしゃるのかも知れない。妙さんに付いて恭祐様の元へ行くメイドの吉美さんにちらりと聞くと、初めはすごく乱れた生活を続けていたようだったけれども、しばらくすると見違えた要にきっちりされるようになったと。ただ……留守がちなことが多く、あまりお顔をみたことがないと。
女の人の所だろうか?
ただ聞くしかない情報だった。確かめることも、聞くことも出来ない。
藤沢家に恩義があると言ったその教師からも、折に触れて力也くんの話を聞くこともあったけれども、ただ、彼もすごく忙しそうで、時間が空けば会ってやって欲しいとのことだった。
けれどもそれは危険なことのように思えていたから……
お館様の訳のわからない執着心は、感じられたけれども、館にも早々帰ってこられることもなく、わたしはただ学園と館を往復する日を続けていた。
「三原、力也が来ているんだ」
昼休み、呼び出された担任はわたしを生徒指導室に案内した。
「ゆき乃!!」
そこにいたのはスーツ姿で、見違えるほど大人になった力也くんだった。
元々攻撃的だった顔立ちは精悍に引き締まり、余裕すら感じさせる雰囲気は服装のせいだろうか?あつらえたように身にあったスーツを身につけた彼は社会人だった。もう学生服だったころの同級生の藤沢力也ではなかった。
「力也くん……あの、わたし……ごめんなさい!!」
謝るしかできなかった。今のわたしには……
「ゆき乃が謝るな!おまえは何も悪くない……オレが、宮之原の力を甘く見ていただけだから」
涙を堪えることが出来なくて、泣き出すわたしをそっとその胸に納めてくれた。
「泣き虫になったな……」
「だって……」
「ゆき乃は、いつもはもっと前を向いて涙を堪えていたはずなのに……なんでそんなに俯く?」
「…………」
「かなり束縛されてるようだな、宮之原に……いや宮之原玄蔵にといった方がいいか。あいつがおまえの父親だって言うのは本当なのか?」
「たぶんとしか言えないの……母も祖母ももう亡くなってしまったから……」
「それを知らずにオレはおまえを求めて、見事にやられちまったけどな。オレだってただでやられたりはしないさ。おまえが宮之原の血縁だっていうことは……アイツとは血が繋がってたってことだったんだな」
既に腕はほどかれ、目の前で静かに語る力也くんは、もう昔の力也くんじゃない。大人の表情でわたしの表情を伺っている。そっと頷くわたしに、少しだけ笑顔を浮かべた力也くんが、ふっと視線をはずして言った。
「宮之原、恭祐に何度か会ったよ……」
「え、恭祐様に??」
まさかと思われた名前が出て驚いた。
「全然会ってないらしいな……おまえら。ま、仕方ないか、あれほど想い合っていたのに、異母兄妹だと知らされれば誰だって戸惑うし、混乱もするだろう。すぐさま想いを切り替えろと言われても、そう簡単にはできやしない。数年おまえの側にいただけのオレでもそうなんだ……ましてや両想いだと判ってからだとな……」
「…………」
「おまえは知っていたんだってな。それでも、まだ、アイツのこと……好きなのか?まだ忘れられないのか?」
「……はい。恭祐様は、血が繋がってるとか繋がってないとかを除いても、わたしにとって一番大切な方です。ずっとお仕えしていられれば、それで構わないんです。そう、決めていますから」
「ふっ……10年以上のその想いにはオレも勝てないってことか……なあ、今のオレにはおまえをここから救い出す力ぐらいならあるんだぜ?再び宮之原に押さえ込まれても踏ん張る力ぐらいある。どうだ?」
「力也くんに、もうこれ以上迷惑はかけられないわ……今ここで抜け出しても、お館様がそう簡単に許すとは思わない……あの人は……わたしを……娘だと口にするけれども、娘だなんて思っていない……」
「それは、どういうことだ???」
力也くんの表情が一変した。娘ならば、庇護されるのならば、心配はないはずだ。だが、そう思っていなければ?
だけどもお館様の恐ろしさを考えると、今この前にある手には縋れない。きっと力也くんは全力でわたしを守ってくれるだろう。すべてを投げ捨ててでも……この人はそういう人だ。
幸せかも知れない。
そのほうが、ずっと……でも、わたしはきっと一生その思いに答えられない。身体や持ってるものすべてを差し出せても、どうしても心だけは力也くんの思いに価するほど返せないから……そんな自分がきっと許せなくなりそうだから。
それに……
「わたしは、もう、逃げられないかも知れない。お館様が怖い……怖くて、逃げ出せないの……わたしが逃げ出すと、恐ろしいことが起こりそうで……きっと、自分の息子でさえ、苦しめることを厭わないと思うの」
「おまえ……何かされたのか?もしかして、アイツ、恭祐とも全く連絡は取れないのか?」
「恭祐様は帰っては来られません。卒業されてから一度も……」
「そうか……」
力也くんがぎゅっと拳を握るのが見えた。
「オレ、学園をやめた後、アイツに会った時に判ったことがある。あの時、いきなり宮之原に圧力かけられて、八方塞がれて行き詰まった挙げ句、文句を言いに恭祐の所へ行ったんだ。アイツ、その時は死人のような顔してたよ。生気のない、酒と女に溺れて、それでも大学の授業だけはこなしてたのはさすがだけれども……担任の敦史から、おまえと宮之原玄蔵が親子かもしれないと聞いてな、奴を訪ねたんだ。そうして聞いたよ、宮之原玄蔵の恐ろしさと、冷たさを……実の息子の恭祐でさえ、その腕に抱き上げられ愛された記憶すらないってね。だから今回の親父さんの過剰反応は、今までの宮之原にしても珍しいし、恭祐も父親のゆき乃に対するあまりの執着心に驚いていたよ」
そう、お館様は恭祐様を愛してらっしゃらなかった。ただ優秀であったがために受け入れられたに過ぎないその存在。そのお寂しげなお顔をわたしはずっと見てきた。母親も気まぐれな方で、お館様との仲もよくはない……嫌っていらっしゃるようにも見えた。遊ぶことに忙しく飛び回っておられた。そんな母親に気まぐれに愛情と執着を抱かれ、恭祐様はただ、ぽつんと待ち、静かに微笑む青年に変わっていった。幼い頃は明るい笑顔も見せてくれて、無邪気な一面もあったのに、成長と共にそれらを押し込め、静かに、ただひたすら静かに……それは、お館様の元に呼び出されるほど、変わって行かれた恭祐様の表情……わたしは見ていたはずなのに……
「実は……藤沢商事を立て直すヒントをくれたのもアイツだったんだ」
「え……恭祐様が?」
「ああ、アイツ自分の親の会社のこと、結構知ってやがった……前に、おまえが襲われた時な、あの時の生徒達黙らせたのも恭祐だっただろう?あいつ、子どもにいくら言い聞かせても無駄だって判ってて、親の会社に制裁を加えたらしい。それも、自分の親とは無関係なところからな……末恐ろしい奴だと思ったよ。あの宮之原の膝元にいて、アイツのやり方を一番よく知ってるのは恭祐だったんだな。おぼっちゃまで、マジメなだけのなんにも知らない奴だと思ってたのにな……おかげでオレのとこは倒産も分解も免れたよ、だけどアイツは予測していたのかも知れない。自分の父親が何をするかって……その後も何度か、商用で恭祐と会った。その次からは、もう人が変わってるようだったよ。アイツもおそらく今のオレ以上に忙しい日を送ってるに違いないはずだ。大学もなんとか続けながら動いているようだがね。それがなんのためか、オレには判る気がする……」
「力也くん?」
不意に目を細めて、視線を逸らすと大きなため息をついた。
おそらく、彼らしくない、そんなため息。
「最後は、ゆき乃。おまえがどうしたいかだ……オマエが一番信じられる奴に信じてついて行けばいい。それがオレなら嬉しかったが……本当はまだ当分そんな余裕もない」
「うん……」
「受験、するんだろう?がんばれよな……その4年間で、何とかゆき乃の居場所、作れよ。オレのとこでもイイけどよ。あの館を出て、ゆき乃が初めて自分で考えて行動するんだ。そのためにも、しっかりと受かれよ。敦史が成績が伸びてないって、ぼやいてたぞ?やる気も落ちていて、周りに追いつかれてるって。オレが居なくてもちゃんと頑張らにゃいかんだろ?」
「力也くん……」
「オレも少し遅れても、行くから、同じ大学……おまえにも、恭祐にも負けてられねえ」
「うん!」
「それじゃオレ、行くわ……」
そう言うと、廊下から担任が入ってきた。
「もういいのか?そろそろ昼休みが終わるが」
「ああ、敦史、すまなかったな……卒業まで、コイツのこと頼むわ」
「ああ、オレで出来る限りのことは……で、いいのか?連れて行かなくても」
「今連れていってもなんの解決にもならねえ。それに、必死で頑張ってるもう一人の奴に悪いしな。また正々堂々とやらせて貰うわ」
にやりと、以前と同じ、皮肉っぽい笑顔を残して、力也くんは背を向けた。
わたしは、負けていた……力也くんにも、おそらく恭祐様にも。
何もせず、ただお館様を畏れてびくついていただけ……
何をされても、わたしはわたしのはず。恭祐様が一度は愛してくださったこの身体と心、あんなモノで汚れるはずがない。
あれほど見事に立ち上がり、向かっていく藤沢力也に恥ずかしい、今のわたしのやる気のなさ……
わたしは、いつか、きっと、お館様の腕から逃れてみせる。
この身体も心も、汚されようとも、真実の部分だけはきっと守り抜いてみせる。
負けない、わたしは、わたし自身のために……
前回はえらいところで終わってしまっていて… お館様あれから静かです。というか館に帰れなくしたのは力也と恭祐です。 お館様の心情は判りませんが、少しずつ見えてくるかなと思っています。 |