風花〜かざはな〜
21
妙さんにお願いして、わたしはお館の仕事を減らして貰い、受験勉強に集中した。
約束通り担任の布施敦史先生も協力してくれたので、わたしはなんとか学力を維持し、目的の国立大を目指した。学部までは指定されていなかったので、わたしは法学部を受験した。司法書士の資格か、もしくはそれ以上の資格を取りたいと思っていた。
経営に携わり、その道を切り開こうとしている恭祐様や、力也くんを助けることが出来るとしたら、そんな知識や資格でもないと無理だろうと判断したから。
春、3月。
無事難関突破を果たした。
必死になってやっとのお思いでの合格。自分にしてもココまで勉強にのめり込めるとは思っても居なかった。
だけどその間は忘れることが出来た。
お館様との約束のことも、恭祐様のことも……
合格通知が届いた翌日、お館様が戻ってきて部屋に呼び出された。
お館様の部屋の前に立つだけで身体はがちがちに緊張し、怖くて震え出す身体を無理矢理振るい立たせて、お館様の待つ部屋に入る。
「なんだ、脅えた顔をして。今日は何もせん、安心しろ」
いつもより落ち着いた声音に少しだけほっとしてお館様の前に進み出る。
「ふん……女だてらに見事に合格したな。約束通り、4月からおまえを大学に通わせてやろう。もちろん、わたしとの約束は守って貰うぞ?」
そう言うとテーブルにカチャリと金属質の物を置いた。
「これがおまえの住むアパートの鍵と住所だ。兼ねてから再三、妙に言われていたが、恭祐の部屋の面倒もこれからははおまえが見ろ。アイツもなにやらはじめたようで、なかなか家にも戻らん。女の所を渡り歩いたりもしてるようだがな、おまえとは過ちは犯せまい……なんと言っても異母兄妹ではな」
わたしは思わず下を向く。
「恭祐も少しは使えるようだが、まだまだ青二才だ。いつでもつぶせることはおまえもよくわかっているだろう?」
それは……息子でも容赦しないってこと?
わたしが顔を上げずにいると、無表情のまま、わたしの顎を持ち上げる。
悪寒が走る。
イヤダ、イヤダ、イヤダ……!!
その手に触れられることも、見つめられることさえ身体が拒否する。
「益々似てきた……志乃に……その目、口元……」
一瞬……お館様が微笑まれたのかと思ったほど、その目がすっと細まり、ほんのちょっとだけだけど、お館様の雰囲気が柔らかくなった気がした。けれどもそれはすぐに元の厳しい表情に戻ってしまう。
「志乃に似て男を惑わすその目、濡れて脅えるその目が男心を煽るのをオマエは知らんのか?薄く開いたその紅い唇も、紅く濡れて……そんなところばかり似おってからに。オマエも母親のように嫌らしく股を開いて男を誘うのか?オマエも志乃のように私を裏切るのか?」
わたしは返事も出来ずに固まっていた。震えるわたしに気がついたのか、はっと表情を変えると、お館様はわたしから手を離した。
「いいか、私を裏切るな……その時はおまえの大事にしているモノが消える時ぞ」
わたしの大事なもの……ほんのわずかな思い出と、想いだけ……恭祐様への想いだけ。
「荷物は向こうで用意してやった。手ぶらで行っても構わん。そのサイズの合わない下着も、長年着古した服も、すべて置いていけ。向こうには制服もメイド服も無い。その代わりの服を用意させた」
「えっ……」
確かに今わたしが身につけているのは……そんなモノばかりだけれども……
「本社の秘書に揃えさせたから、まあ、いいものが揃えてあるはずだ。おまえは宮之原の娘として大学に通うのだ。いいな?今までのように安く見られるな。一通りのことは妙から教わったのだろう?妙からも普通のお嬢様として十分通用すると報告を聞いている。せいぜい顔と名前を売ってくるんだ、いいな?」
それだけ言うと退出を許されて、入れ替わりにチヅさんが呼ばれて部屋に入っていった。
すぐさま聞こえてくる淫猥な喘ぎ声……
今日は何もされなかった。
どれほどほっとしたことか。あの恐怖は未だに身体に残っている。だけど、今日の、母を語るときのお館様の視線は、紛れもなくわたしに母の姿を見ていたのだ。幼い頃のわずかな記憶しかない母。誰に言わしめてもわたしによく似てるという母。
お館様はそれほど母を求めていたのだろうか?
だけど、私には代わりなんて出来ない。親子なら尚更求められるようなものでもない。
なのに、あの人はわたしに何を望んでいるのだろう?この間ような性の処理用具として?母の代わりに?
時々寄せられるあの絡み付くような視線は娘を見るものではないとすら思える。
それに……
今まで実の息子の恭祐様にすら見せなかったお館様の執着心。裏切るなという言葉はどこから来たのだろうか?
母はお館様を裏切ったの?そんなはずはない。母はお館様を避けるためにこの館を出てひっそりと暮らしていたのに、無理矢理わたしを身ごもらされて、そしてそっとわたしを産み、わたしが物心つく前に死んでしまったと聞いている。
母は、一体お館様のことをどう思っていたのだろう?
そしてお館様は……?
わたしは、入学式を前にわずかな荷物をまとめて、館を出る準備をした。
卒業してから、後かたづけなどで、あっと言う間に時間が過ぎたけれども、ココは間違いなくわたしが育った家でもあったはずなのだ。
屋根裏の小さな部屋……三角になった低い天井と小さな机と木のベッド。小折の中の荷物がわたしのすべてだった。制服はもういらない。メイド服も……
何も知らず、ココで働くだけでいいと思っていた幼い頃、優しい恭祐ぼっちゃまとの大切な思い出……窓から見える風景、屋根の上で過ごした時間。遠慮がちに側に来る恭祐様の温もり……
久しぶりに窓から屋根の上に出てみる。昔はすんなり出られた窓ももう小さくなって、苦労して身体を折り曲げて外に出る。
小説の小公女のように窓から願いを叶えてくれるインド人も誰も入ってこなかったけれども、わたしの隣にはいつも恭祐様がいてくださった。
もう、ここから二人で空を見ることもないのだろうか?ここに戻ってこれる日が来るのだろうか?その時わたしは……
冷えかけた身体を掻き抱いて部屋に戻る。
今夜の夜行で出発することはみんなに伝えてある。
館の主人達は誰もが不在だったので、最後の食事をかねて、厨房の横の使用人の専用食堂で小さなお別れ会を開いてくれた。恭祐様が居なくなり、お館様もたまにしか戻られない。奥様もじっとしておられなくて、ここ数年でこの館の雇われ人もかなり少なくなった。
優しい庭師の友造さん、あったかいコック長のカメさん、館のみんな、仲はよくないけど、今では一番長く一緒にいたチヅさん、そして厳しくともわたしの保護者としていつもわたしの目標だった、妙さん……誰も身内の居ないわたしにとって、みんな家族のような存在だった。
「ゆきちゃん、元気でな……」
カメさん……
「大学出たら帰ってくるんだろ?それまで頑張るんだぞ?」
庭師の友造さんの息子さん。
「その時は仕事で本社勤めだろう?大学まで行くんだ、もうメイドなんて仕事はしないだろう。そうすると、もうこっちの館には帰ってこないのか?」
「寂しいなぁ……ゆきちゃんが居ないと」
すっかり年を取った友造さんは、最近は息子さんに任せて、隠居状態だった。
わたしがこの館にいた頃は頼りになるほど、ごつくって、たくましかった友造さんもすっかり年を取ってしまった。それはカメさんも、妙さんも同じだった。
「じゃあ、時間だから、行くね?」
いつも上京するときに使っていた夜行に乗る準備をする。運転手の友田さんが車を回して待ってくれている。
「ゆきちゃん……」
口々にわたしの名を呼び、その無骨な手がわたしの頭を撫でていく。
わたしは涙を見せずに笑顔で別れを告げる。
同じ仲間だと思ってくれているこの人達に……わたしはあのお館様の血を引く娘だと告げるのが怖かった。
わたしはいつも、みんなのメイド仲間のゆき乃でいたかった。娘なんて、それも、公に出来ない形の血のつながりなんか欲しくはなかったのに……
次にいつこの館に戻ってこれるのだろう?その時わたしはまだ微笑んでいられるのだろうか?
「いってきます!」
さよならではない、出掛けるときに使うこの言葉でわたしは館を出た。
妙さんが何か言いたげにしていたけれども、いつも冷静な彼女は、友造さんやカメさんのように寄ってきてくれなかった。少し離れたところで、優しい目でわたしを見送ってくれただけだった。
ほんとうは、その胸に縋って、不安な胸の内をさらけたかった。でもここのところ体調を崩しがちな妙さんにあまり心配はかけたくなかったから、わたしは黙って館をあとにした。……
翌朝早くに夜行列車は東京駅に着いた。その朝から新生活が始まる。
旦那様が用意してくださったアパートは、恭祐様のお部屋に近い場所にあり、室内はシンプルな家具がそろい、鏡台も置いてあった。きちんとバスもトイレも付いている。
鏡台の中には使ったことのない化粧品や用具、作りつけのタンスの中には着たことのないようなスーツや普段着、引き出しの中には華やかな下着が並べられていた。どう見ても自分の趣味ではなくて苦笑するけれども、手持ちが少ないので着なければいけないのかと手にとって見たけれども、恥ずかしくてすぐさま戻してしまった。今までおしゃれな下着に免疫の無かったわたしにはどう見ても違和感を感じてしまうそれらにため息すら出た。
どんな扱いというか、どんな女扱いされてるのかがそれだけで判ってしまった。
まるでお館様の情婦のような扱い……部屋を見回してもそう、まるで囲われてるような気持ちになってしまう。
押しつけられたお館様の好み?自分の居場所がこの部屋にないような気すらしてしまう。
生活費は恭祐様のお食事の分と一緒に預かっていた。明日から恭祐様の元へも通うのだ。
なんと言えばいいだろう?
気まずいまま顔すら逢わせてなかったけれども、自分の気持ちはもう決まっている。恭祐様も、最近はすごく頑張ってらっしゃるのを、先生を通して力也君から聞いていた。だから、待っていろと、そう告げられて……
部屋から見えるくすんだ空の色、風の臭い、何もかもあの部屋とは違いすぎるこの部屋の広さ、天井の高さ……
眠るのに背を屈めなくてもいいというのは新鮮だった。お風呂も台所も付いている、新築のマンションのようなアパート。
一日かかって荷物を整理し、足りないものを少しづつ買いそろえ、明日に備える。
明日は入学式で、今日は恭祐様の所に行かなくてもいいといわれている。明日、式の終わったあとに早々にでもご挨拶に行かなければと思っていた。
いや……本当は早く会いたくて、そして怖い……
もう忘れられたかのような自分の存在。待てという言葉の意味は?判らないままひたすら待っているのだ、わたしは。
あの時、藤沢力也の言葉を信じ、必死で受験に取り組んだ。
だけど、受験のために上京したときも、恭祐様の部屋の近くまで行きはしたモノのやはり逢わずに戻ってきてしまった。
妹として待っていろという意味なのか、それとも……
お館様は宮之原の娘として恥ずかしくないように振る舞えと言われた。宮之原の娘として……それは恭祐様の妹として振る舞えということなのだから……
「ピンポーン」
朝、慣れない化粧と、数あるスーツの前で悩んでいると部屋のチャイムが鳴った。
まだこっちに知り合いもないし、同じアパートの人には昨日の間に挨拶は済ませているのに?
誰だろう?と思いながらドアを開けた。
「はい……あっ!」
ドアをぐいっと引っ張られ、確認する間もなく来訪者が部屋の中に入り込んできた。
「きゃっ!!」
「不用心だな」
その声に目を上げると、そこにはスーツ姿の恭祐様がいらした。
「え……恭祐様?」
後ろ手にドアを閉めると後ろに持っていた小さな花束を差し出した。
「合格おめでとう。それから入学おめでとう、ゆき乃」
押しつけられたその花束と恭祐様を何度も見直す。
「あの……」
「待っていたのに……僕の所には顔も出してくれなかったね?」
「それは……」
逢いたかった……だけど、自分から会いに行くのは辛くって。それに、入学式が終われば行かなければならないと思っていた。
「ゆき乃の入学に付き添おうと思って来たんだけど、いけなかったかい?」
わたしは必死で首を振る。耳に響くのは久しぶりの恭祐様の優しい声。
でも声が出せない……今まで泣かなかったのに、逢えなくなってから、ずっと泣かなかったのに……涙が、止まらない……
恭祐様の優しい囁くような声が耳元から流れ込んでくる。少し語尾を上げて伺うように聞いてくるその優しい話し方、のびてきたその優しい指先がこぼれる涙を拭ってくれる。
異母兄だろうと……関係ない、ただただ逢いたかったその人が目の前にいるのだから。
「恭祐様っ!!」
わたしはその胸に飛び込んでしまった。その胸に顔を埋めてしまった。
「ゆき乃……」
優しくその腕がわたしを包んでくれる。髪を優しく梳くその指も、背中を撫でる手も、昔のままの恭祐様だった。
合格&再会です。 戸惑うゆき乃、さてこれからの展開は?? しかしお館様は志乃サンにベタ惚れで執着してたのがコレで判りますよね〜 |