風花〜かざはな〜
11
「ゆき乃っ、無事なのか?!……藤沢、おまえ……」
藤沢力也の姿を見た途端恭祐様の表情は固まった。そしてその後ろにいるわたしの姿を見て……
「ゆ……き乃……」
「大丈夫だ、未遂だったが崖から落ちて背中を強く打ってる。足も挫いたらしいが、骨には異常がないようだ」
力也くんがそう説明するとわたしをそっと降ろした。わたしは足が痛くて立っていられないのと、今の姿を見られるのが嫌で、力也くんの腕にしがみついた。
「まさか……おまえが……?」
「なっ……」
「違いますっ!力也くんじゃない!!」
わたしの声ではっと気がついた恭祐様はいつもの表情に戻るとわたしの頬に手を伸ばす。
「いくら待っても帰ってこないから心配したんだよ、ゆき乃……」
「あのっ……あ……」
「あんたが、あのお嬢さんを煽るから……ゆき乃はあんたのせいでこんな目に遭ったんだ。俺が駆けつけてなかったら、今頃ゆき乃は……」
「……どういうことだ?」
「あんたがうちの教室に来たときに、俺を牽制するためにやったことが、裏目に出たんだよ。あんたが欲しくてしょうがないどこぞのお嬢さんが男達を使ってゆき乃を無茶苦茶にしようとしたんだ」
「ま、さか……」
「なまちょろい言葉で慰めようとするなよっ!ゆき乃は殴られて、押さえつけられて、口に下着突っ込まれて、犯される寸前だったんだ……身体を無理矢理開かされて……冗談やお遊びじゃすまないんだ。どういうことか判るよな?」
「そんなっ……っく!!」
恭祐様は小さく呻いた。わたしはそのお顔を見るのが怖かった。
「今日は俺の家に連れて帰る。ゆき乃もそうしたいと言っている」
力也くんの腕から離れないわたしの様子をみて、そう切り出してくれた。こんな姿、見られたくない。何をされたかなんて……たとえ未遂であっても身体に残った感触は消えやしないのだから……
「本当に、そうなのか……ゆき乃……」
わたしは下を向いたまま頷いた。
「……だめだ。ゆき乃は僕が連れて帰る」
「何を言ってるんだ、ゆき乃は嫌だと……」
「ゆき乃っ!」
強い、恭祐様の声……恐る恐る顔を上げる。わたしの殴られた口元や、乱れた髪など、そのひどい顔の有様を見た途端その表情がゆがめられて……まるで恭祐様が泣きそうなお顔で……
身体が震える。
我慢していたモノがこみ上げてくる。
「ゆき乃、おいで……」
いつの間にか側まで来ていた恭祐様が優しい声でわたしに話しかける。
「辛かったんだね、ごめん。僕が守ってやれなかった……ゆき乃」
「ううっ……ひっく、ひっく……うっ……恭、祐様ぁ!!」
こみ上げてくるモノに勝てず、その手は恭祐様を求めてしまう。なだれ込むわたしの身体を恭祐様が受け止めて抱きしめてくださった。しゃくり上げるわたしの背中を優しく撫でた後、ぎゅうっと強く抱きしめられた。
「あ……ダメです……汚れ、ます……」
自分の泥や埃以上に汚れた身体に気がついて離そうとしたけれどもその力は緩まなかった。
「ゆき乃、ごめん……何が汚れるもんか……もう、我慢しなくていいんだ……おまえの悪い癖だ。すぐに何でも我慢しようとする。こんなに身体が震えているのに……」
「恭祐様……うああっ……ん!!」
わたしは声を上げて子どものように泣きじゃくってしまった。恭祐様の胸の中で……
「藤沢、今回のことは本当に礼を言う。ゆき乃が無事だったのは君のおかげだ。もう二度と……こんなマネは誰にもさせない。ゆき乃にもこんな思いは……ゆき乃を守ってくれてありがとう」
ようやくわたしが落ち着いてから、恭祐様は力也くんに深く頭を下げた。
「あんた……」
「ゆき乃は僕が守る。これからも……」
何か言いたげな力也君を強い視線でさえぎると、じゃあ帰ろうかとニッコリ微笑んむ恭祐様は、いきなりわたしを抱え上げた。
「きょ、恭祐さまっ!」
お姫様のように両腕に抱え上げられて、わたしは焦った。
「あのっ、降ろしてください……」
「すぐ向こうに車がある、そこまでだから大人しくしていて?」
暖かいモノが額に押しつけられた。
「あ……」
恭祐様の唇だった……
そのあと、車に戻っても、そのままの体勢で離してはもらえなかった。
だけど、触れているその部分は暖かくて、恭祐様の胸の鼓動は少し早くて、でも安心できて……
昔から知っている、わたしのぼっちゃま……だ。
わたしは身体を丸めて、ぼっちゃまの膝の上で、その腕に抱かれて、目を閉じた……。
車から降りたわたしは再び恭祐様の腕に抱かれて運ばれた。
「ゆき乃っ、大丈夫なの?」
「あ、た、えさん……」
渋い顔をしている妙さんがどれだけわたしのことを心配してくれているかは、その慌て振りでよくわかった。今夜はお館様も奥様も留守だったのが幸いして、ほとんどの使用人は部屋に戻っている。コック長のカメさんと庭師の友造さんが手分けしてわたしを捜してくれていたそうだけど、無事だと知らせて戻って貰ったそうだ。妙さんには運転手の西森さんがそっと告げてくれたようで、誰にも見られずわたしはそのまま風呂場に連れて行かれた。妙さんに男性はでていくようにと言われ、恭祐様は渋々脱衣所を出て行った。
「ゆき乃、怪我はしても、身体が無事でよかったわ。一応脱いで見せてちょうだい」
妙さんは身体のあちこちを調べながらそう言うので、わたしは言われるままに服を脱いだ。
「背中がかなり腫れてるわね。湯船にはあまり浸からず、汚れを落としてきなさい」
わたしは言われた通り身体を洗った。触られた部分がすごく嫌で、思わず強く擦って余計に赤くなってしまう。だけど、触られたその部分がすごく汚く思えて、わたしはそうせずにいられなかった。
風呂場から出ると、妙さんが薬をを用意して待っていてくれた。わたしが酷く洗ったせいで、一層真っ赤に腫れ上がった身体を見て……
「ゆき乃、本当に、怖い嫌な思いをして……可哀想に……」
そう言いながら優しく丁寧に薬を塗ってくれた。
最後に、ぎゅうっと抱きしめられてわたしは驚いた。妙さんには厳しくされてきたけれども、その優しさはよくわかっていた。だけどこんな風に抱きしめられたことなど今までなかったのだ。
「今夜一人眠れないなら私の部屋に来ますか?」
「ありがとうございます。でも……大丈夫です」
わたしは落ち着いた口調でそう答えた。そのあと、妙さんの手がわたしに浴衣を着せて、優しくさすってくれた。
「薬で全部治ればいいんだけれどもね……」
そう小さな声でため息をつきながら……
そう……初潮を迎えたとき、妙さんに教わった男の怖さ、そうされたときのコトの大きさを今日身をもって知った。妙さんもこんな目に遭ってきたのだろうか?18やそこらで館に連れてこられて、そのころはすでに先代のお館様もずいぶんとお歳だったと聞く。妙さんは……望んではいないその行為に、きっと、今日のわたしのように心も体も悲鳴を上げたんだろう……誰も助けに来てくれない絶望の中で声を殺して叫んだのだろうか?貴恵さんも……
「明日は手伝いも、学校も休んでいいから、、ゆっくりやすみなさい」
「でも……」
「奥様もお館様もいらっしゃらないから、明日の朝の準備も楽よ。おまえは、ゆっくりと身体を休めて、今日のことは早く忘れておしまい。いいね?」
「はい……」
わたしは妙さんにぬくもりをもらった後、誰にも出会わないようにそっと屋根裏部屋に戻った。
「ゆき乃……僕だよ」
戻ってすぐだった。部屋のドアがノックされて、温かいスープを持った恭祐様が部屋にやってきた。
「コック長が、ゆき乃にこれを食べて元気になってくれってっ……!!」
「あっ……!!」
珍しくわたしが開けるまでにドアが開き、プレートを持った恭祐様が一瞬固まった。
わたしは妙さんに着せてもらった浴衣の寝巻きを床に落としたところだったのだ。下着すらも引き裂かれほとんど役に立たなかったので、その下には何も着ていなかった。
「ご、ごめん……」
急いで机にプレートを置いた恭祐様は背中を向けてくれたのでわたしは急いでいつものパジャマを着ようと手を伸ばした時……
「こんな……ひどい……」
恭祐様の手が背中に触れた……それだけで身体が震えた。それは、怖さじゃなかった
「真っ赤になってる……擦ったんだね、ゆき乃?」
「あ、わたしっ……」
「ゆき乃は悪くない!!……汚れてもいない……僕が……僕のせいなんだっ!」
背中から抱きしめられていた。
身に着けようとしていたパジャマを胸に抱きしめたまま、恭祐様の腕の中に納まってしまっていたのだ。
「あのっ……」
「こんなに綺麗な身体を……許せないよ。ゆき乃にこんなことした奴等は、許せない……!!!」
熱い……触れられた背中のすべてが、回された腕の部分、総てが熱い……
肩口にかかる恭祐様の吐息までも、熱く感じてしまう。
「僕の持つ力の総てを使っても、そいつらを……」
「だめです!!仮にも向こうはどこぞの子息様です。使用人のために恭祐様がそのようなまねしちゃだめです!わたしが我慢すればいいんですから……」
「ゆき乃っ!使用人だからと言って何をされても黙っていることはないんだ。おまえは宮之原の家の者だ。何をそんなに我慢することがあるっ!?」
「彼らは……いまは学友でも、いずれはこの屋敷にいらした時には、わたしは頭を下げなければならない相手なんです。それを今からしているだけです。彼女だって、もしかしたら奥様になられるかもしれない方です……」
「そんなことは……ありえない……」
その言葉が嬉しく感じてしまう。そうでなければ……側にいられるかも知れないと……
「でも、使用人のことで、問題を起こしては宮之原のお名前に傷を付けかねません。ですから……いいのです」
わたしは精一杯の笑みをつくって恭祐様を返り見る。その自分の笑顔が固まって顔の上に張り付いているようだった。恭祐様のおっしゃってくださる気持ちは嬉しいけれども、迷惑をかけてはいけないのだ。
目の前の端正なお顔が怒りに満ちている。わたしの向けた視線を受けて、苦々しく下を向かれた恭祐様の前髪がはらりと落ちる。綺麗なさらさらした髪はわずかに目元にかかり、その表情を隠してしまわれる。奥様によく似た美しい顔立ち、誰にでも優しくて、誰にでも平等で……
でも、勘違いしてはダメ、誰にでも、お優しい方なのだ。
「それより、は、離して下さい。服を……着させてください……」
そうしていられることにわたしの方が耐えられなかった。身体の奥が熱くなるような感覚は下着を着けていないせいだろうか?身を捩ると、急いで恭祐様の腕から逃れた。
「あっ、す、すまない……」
こんどこそ後ろ向いてくれてるようなので、急いで下着とパジャマを着ける。
「あの、もういいです……」
じっと後ろを向いて動かない恭祐様に声をかける。背中を向けたままの恭祐様は肩で大きく息をするとゆっくりとわたしの方を向いて、冷静さを取り戻した声で静かに言った。
「じゃあ、少しでもいいから、これをおたべ。たべ終わるまで、僕は出て行かないから」
ゆっくりと口にしたスープはまだ温かく、カメさんの優しい気持ちがこもっていた。何とかそれを胃に流し込んだわたしはほうっと息を吐く。
不思議だ……さっきまでは何にも食べたくないほど胃がきりきり痛んで吐きそうだったのに、暖かく消化のいいスープは身体を温め、強ばった身体を解きほぐす。
眠れるだろうか?
すべてを忘れて、明日の朝まで眠れるだろうか?
わたしはそっと身体を抱きしめる。身体の中から暖かくなったのに、触れられた部分がチリチリと痛む。これから、忘れてしまうまで何度もこんな感覚と闘っていかなければならないのだろうか?
ゾクリと身体が震える。
「ゆき乃?寒いのか?……そうだね、ここは寒すぎるね」
「だ、大丈夫です。布団に入ればすぐに暖かくなります」
わたしはベッドに向かおうとすると、先回りした恭祐様がわたしの掛け布団を持ち上げた。
「こんな……毛布もない、薄っぺらい布団で?」
それは……恭祐様が休まれている羽布団などとは全然違うけれども、わたしたち使用人にはそんな贅沢は許されていない。わたしは下を向く。
一度だけ恭祐様のベッドで一緒に眠ったことがある。ここに来て間もないころ、急な嵐が館を揺らした。暴風雨で屋根裏の窓は揺れ、天窓に雨が打ち付けられ、雷光が部屋の中を照らし、雷鳴が館中に響く。恐ろしくて、わたしはばあちゃんの名前を呼びながら布団を頭から被って震えていた。その時『ゆき乃?大丈夫?』そういってぼっちゃまがお部屋に来てくださって、『ここは嵐の夜、館の中で一番怖いところだよ。僕のお部屋においで。』そういってぼっちゃまの大きくてふわふわのベッドに二人で潜り込んだ。翌日わたしの姿がないと探していた妙さんに見つかり、こっぴどく怒られてからはそんなことしなくなったけれども、あまりに酷い嵐の夜は、ぼっちゃまが覗きに来てくださって、おさまるまで話しをしてくださったりした。
この広い屋敷の中、子どもはわたし達だけだった。わたしはぼっちゃまだと思ってお仕えしようとしても、まるで身内のように扱ってくださった。そんな優しい思い出はいくらでもわたしの中にある。けれどもそうされればされるほど、わたしが引かなければならなくなるのだ。わたしは使用人、分をわきまえなければならなかった。なのに……
「こんなところじゃ治る物も治らない。僕の部屋へ行こう」
そう言って、いきなりまた、わたしを抱き上げた。
「きゃぁ、きょ、恭祐様??」
「しっ、黙って……妙に見つかったら叱られるだろう?」
「あのっ、降ろして……」
ダメだよと、耳元で優しく囁かれてわたしは動けなくなる。もっとも痛む身体ではどうにも身動きできないのだけれども……
「覚えてる?最初の、嵐の夜……」
わたしはこくりと頷く。
「酷く怒られたけれどもね、二人で居ると怖くなかったよね?実は僕もあの夜は一人で怖かったんだ」
ニッコリと微笑みわたしを恭祐様の部屋のベッドにそっと降ろす。
「母には添い寝して貰った覚えも、おやすみを言った覚えも無かった。遅くまで出掛けているか、部屋に籠もっているかだったからね。怖くても怖いって言えなかったのは僕も同じだった。だけど、不思議なことにあの夜以降、僕も怖くなくなったんだ、どんな夜も……ゆき乃があの部屋で震えながら眠ってないか、叱られたのが辛くって泣いてないか、そんな風に思っていたら、自分のことなどなんでもなくなったんだ」
「でも……わたしがここに居たら恭祐様は?」
「ソファもあるしね、ゆき乃は心配しなくていい。ここでゆっくり休めばいいんだよ」
わたしの髪を優しく撫でる。
だめ…….使用人だからというだけじゃない。わたしは、平気な顔してここにいる自信がないんだ。兄かもしれない事実と、恭祐様に対する思いが失われていない限り、優しくされればされるほど辛いだけなのに……
なのに、恭祐様の言葉が嬉しくてしょうがない。だからといってこのままここにいるわけにはいかないのだから……
「恭祐様、ゆき乃はもう、子どもではありません。使用人としての立場もわきまえています。部屋に……帰してください。やはり、ここには居られません!!」
「だめだ。ゆき乃は僕のせいでこんな目にあったんだよ。よくなるまでずっとついててあげる。ここからは帰さないよ?それよりも、さあ、背中を見せてご覧、さっき見たら赤くなった上に腫れ上がっていたよ。少し濡れたタオルで冷やしてから湿布を貼ろう」
「でも…….」
「口答えは許さないよ?動けないなら僕がしてあげるから」
「きゃっ!」
そのまま身体を裏返されて、恭祐様の手でパジャマをまくり上げられた。
恭祐意外と強引? 二人は何年もこの屋敷にただ居ただけではないんですね。お互いがお互いを想い合った優しい時間がたくさんあったことでしょう。そのエピソードの一つ一つは書ききれないですが… |