メイド編・2
 
 
「まさか、新しい住み込みメイドが野良猫とはな」
 にやっと笑って左の頬を撫でてみせる。そう、あたしが引っ掻いた方のほっぺだ。
 無論もうそんな傷が残ってるはずもないんだけど。
 ああ、どうしよう?大変、あたしの新生活が……就職先がっ!
昔の悪印象が祟って、あること無いこと会社側に報告されたら、わたしはメイド失格の烙印を押されて、もう二度と住み込みの仕事なんか出来なくなるかもしれない。
 あのとき、せめて頬を叩く位にしておけばよかった。いまさら悔やんでも遅いけど……。
 あ、まって!
 そうだ、契約者は彼じゃないわよね?お父様のはず……その方がOKを出してくだされば問題はないわ。
「あ、あの、ご主人様は?」
 私は冷静になって、契約主を探す。彼が居ないのでは仕事にならないからだ。
「ご主人様……?」
 言い方が悪かったのね。
「旦那様の事です」
「旦那、様……」
 私たちにはそれぞれ、その家で主の名前を決められた呼び方をするようになる。それがまだ決められていないのだからしかたない。
「もう、藤沢雄政様の事です!」
 つい大きな声を出したけれども全く動じない彼は静かに答えた。
「ああ、親父は昨日から入院している」
「ええ、入院?あの、大丈夫なんですか?お加減は……」
 入院って……その場合、どうなるんだろう?私の契約は?こいつが判断するんなら、きっとダメだわ。
 クビになるのかな?いや、まだ働いてないからチェンジだわ。
 ヤダな、このお屋敷気に入ってたのに。飾り甲斐も手入れのしがいありそうで……
 何より普段どなたも居らっしゃらないっていうのが最高に美味しい条件だって言うのに!
「ああ、たいしたこと無い、心労だろ」
「そうですか。で、あの、契約の方は……」
「仕事の内容か?病院との連絡などの雑用を追加だ。向こうでも付き添い婦を雇ったから、用事がなければ別に行かなくても構わない」
 よかった、もしかして昔のことは水に流して契約OKなの?わたしはこの屋敷に住み込むことが出来るのかしら?
 それっきり昔のことを出してこない彼の度量の大きさに感動しながら、きっと彼も大人になったんだと、あたしは月日の流れに感謝していた。
 
 
「ところで、長岡、なんだよな?」
 急に口調が変わった。
「はい?」
「おまえ、結婚したんじゃなかったのか?卒業してすぐに……」
 ああ、やっぱりその話か……。
「あ、別れたんです。だからバツイチですけど、何か支障がありますか?」
 はっきり言ってこの仕事に就いてる女性なんてそんな人が多いのだ。シングルマザーやバツイチ子持ち、子供が居なくて住み込み専門の女性も居る。わたしのように……。
「けど、子供がいたんじゃなかったのか?」
 ずきんって、胸が軋んだ。相変わらずストレートな質問ですこと。でもようやく泣かずに口にすることが出来るようになったんだからね、最近。
「子供は……ダメだったんです。ですから、今は身軽な独り者です」
 一瞬、藤沢くんの顔が歪んだように見えた。悲壮に聞こえないようにさらっと軽く伝えたんだけどなぁ……
 
 
 そう、19でできちゃた結婚したのが運の尽き。
 昔はこれでもお嬢様だったのよ。
 父が経営する長岡物産はバブルの勢いもあって、営業拡大していたし、わたしも私立白凰学園に通って、いろんな習い事をして、いいお嫁さんになるのだと呆然と考えていた。だけどバブルが弾けてからは、父の事業は急降下。何とか高等部までは出れたけれども、会社は負債をかかえて倒産する寸前、父が倒れた。父の会社はどこぞの企業に吸収合併されたおかげで、従業員達の大半はなんとか路頭に迷わなくて済んだけれども、父も意識を取り戻すことなくそのまま息を引き取った。
 その後は残った慎ましやかな財産でアパートを借りてのバイト生活。
 花を生けたりお茶を点てたりレシピ通りに料理は出来ても、店先に並んだ大根一本でいかに何日食べるかだとか、残った材料でどうにかお腹を大きくするとか、そんな方法は誰も教えてくれなかったから結構苦労したと思う。
 おかげで随分たくましくなったわ。
 その時のバイト先で知り合った前の夫に告白されて、迷ってるうちに押し倒されて、酔った勢いで半分無理矢理だったけどそういうことになって。つきあい始めて、すぐに子供が出来てるって判った。そして、身寄りもなく、どうしていいのか相談する相手もいないわたしは、向こうの言うがまま籍を入れて結婚した。だって、勢いでえっちして、避妊しそこねて子供が出来て……おろせって言われなかっただけでもマシだと思ったから。
 
 でもね、あたしがバカだったのよ……。
 今の生活から抜け出したいのと、家族や安心出来る家がほしかったから、本当の結婚ってどういうものなのか、何も知らないまましてしまったから。
彼も優しかったし、向こうのご両親だってすごく優しくして下さった。同居だったけれども、その方が嬉しくて、わたしは一人息子の彼の家のお嫁と言うより娘になった感じだった。
 父の事業の失敗で家を失ったわたしにとって、新しい家はまるで自分が求めてる住みかのように思えた。
 
 元夫は大学卒業後、社会見学と称してアルバイトをしていた身だったけれども、できちゃった結婚を機に親の会社にきちんと就職して、真面目に頑張るって言ってくれた。だけど、わたしが子供を流産してしまった途端に家に寄りつかなくなってしまった。その流産が自分の浮気のせいだったから、たぶんわたしの顔を見るのも辛かったんだろうと思う。
 
 6ヶ月になる前の流産。後少しなのに、戸籍にものらない、消えた命。
 
 娘のいない義母は私を可愛がってくれたし、帰ってこない息子を嘆きながらも甘やかしていたと思う。
『ごめんなさいね、悪い子じゃないのよ……』
 義母も同じく流産の経験があって、私には優しく接してくれた。夫は帰ってこなかったけれども、広すぎる一軒家を義母と一緒に手入れして、料理したりと、楽しかしい生活だった。
 その時に、家の中のことはきっちり仕込まれたからこそ、今いまこの仕事をする上では困らないんだから義母には感謝している。
 だけど、夫は他の女性との間に子供が出来て、結婚して1年半で正式に離婚した。
 その家の主婦として暮らした生活に未練はあったけれども、しかたがなかったの。
 だって、あたしは義母に孫を産んであげることは出来なかったから……
 
 いくらか慰謝料をもらい嫁ぎ先をでた。
 さて、働かなければ生活出来ない。慰謝料は1年半の生活に見合う程度でいいと申し出ちゃったから、裕福に暮らしていけるはずもない。
 でも、あたしに出来る仕事と言えば家事のみ……そこで探し出したのがこのハウスメイドの仕事。
 いろいろ勉強して、徐々にステップアップして勉強したり、いろんなマナー教室に通ったりもして、住み込みでなく通い中心で経験を得た。その中でいろいろ評価を戴いて、業界でも雇用基準が厳しいと有名な<ヴィクトリアサービス>のテストにも合格したのだ。そして、ようやく上流家庭に住み込みで高収入だという条件に巡り会えたのよ。だから今回の仕事もいきなり無くすわけにはいかない。
 高収入、住むところも苦労しなくていい、雇い主もほとんど在宅しない、なんてこんなにラッキーなことはないでしょう?
 ああ、なんとかしなきゃだけど、どうしよう……。
 まさか、あんなに毛嫌いしてた同級生の家だなんて、もっとよく確認しておくべきだったわ。
 それに、こんなことになるなら、昔にもっと愛想よくしとくんだった。今さら後悔しても先に立たないけど。
 
 
「あの、気に入らなければ他の方と変えてくださって結構ですよ。そちらもやりにくいでしょうし……」
 そうは言ってみたものの、内心ビクビクだった。本当に契約自体がキャンセルになったらどうしよう?急でも戻れる寮はあるけれど、今まで住んでたアパートは解約してきちゃったもの。
 帰るとこなんか、もうどこにもない……。
 
「おまえはこの家をどう思う?」
 不意に聞かれて、わたしは馬鹿正直に答えた。ビジネスモードも忘れて……。
「凄く素敵です!亡くなられた奥様が、凄く丹誠込められてたんだなぁって、大事にしてあげなきゃ罰が当たりますよね?」
「そうか、なら、おまえでいい」
 なんか笑った気がするけど、どうでもいい!OKが出たんだから!
「ほ、本当ですか?あ、ありがとうございます」
 よかった!私は慇懃に礼をして、胸をなで下ろす。やった、この家に住めるんだ!
「どうせ俺は、滅多にこの家には帰ってこないから。ああ、でも、前の家政婦は俺の部屋も掃除とか作り置きの食材置いていってくれてたんだけど、それは頼めるのか?」
「はい、契約内容に入っています」
「じゃあ、これが俺のマンションのキー、週末しかいないから月曜日から金曜日の昼間に頼む。それとこっちがこの家の鍵と、食費や実費はこのカードで、現金が必要なら引き出してくれ。明細は父の所に届くようになってるから。」
 
 もしかして、いい人?いや、今からそんなに関わることがないならもうどうでもいい!
 わたしは喜んで跳ね回りたい気持ちを抑えて冷静にビジネスモードでそれらを受け取ると、確認して透明のクリアケースに保存すした。仕分け作業だね、うん。
「はい、ではこちらで家計簿のようなものをつけさせていただきますので、チェックなさってくださいね」
「いや、そう言うの俺は面倒だから、また親父に見せてくれ」
「はい、かしこまりました」
「なあ、野良……」
 彼が、ちょっとだけ神妙な顔つきになった。
「この家はおふくろが大事にしてたんだ」
 天井を見上げ、そしてそのまま『だから頼む』と言葉を繋いだ。
 亡くなったお母さまのこと、大好きだったんだね。きっと彼もこの家が好きなんだ……でも、ちょっと辛そうに見えるのはどうしてだろう?お母さまのこと思いだしたんだろうか?
 いかんいかん、ビジネスモード!メイドは雇い主のプライバシーには一切関知しない、見ざる・言わざる・聞かざる、なのだから。
「はい、かしこまりました、政弥様」
「な、様はよしてくれ……おまえに言われるとこそばゆい、野良」
 よしてくれと言われても、政弥さん、なんて言えないよぉ?藤沢くんもNGでしょうが?それにわたしはまだ野良呼ばわりですか?
「いえ、それが基本です。どうか同級生だった時代のこともお忘れ下さい」
 出来れば野良猫事件のことも!
「それではぼっちゃまがよろしいですか?わたしのことを野良と呼ばれるんでしたら、わたしもそう呼ばせていただきますが?」
「それは、勘弁してくれ。わかった、名前で呼ぶから、名前で頼む」
「かしこまりました。いづれ屋敷に私が必要とされなくなるまでは、しっかりと勤めさせていただきます。それとケジメをつけさせていただく意味でも、制服でお仕事させて戴いてよろしいでしょうか?」
「ああ、それはちょっとまって。今から親父の病院に行くから、その後でいいか?」
「はい、では荷物を自分の部屋に入れさせていただきたいのですが……」
「ああ、わかった。案内する」
 わたしの言葉遣いや態度が気にくわないのか、少し眉を寄せてこっちを睨む。だけど、それはこの先慣れてもらわなきゃしょうがないので、続ける。
「ありがとうございます」
 私は出来るだけメイドらしくゆっくりお辞儀をした。
 
 
 取りあえず住み込み先確保、やったね!
 
 
 
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<注意>こちらはハウスメイド・メイド編の試し読み版です。
8話まで読めますがそれ以降は電脳アルファポリスで有料になることをご了承下さい。
久石ケイ