31
「就職、決まった」
「そう、よかったね」
どうやら都内のそこそこの企業に決まったみたいだった。甲斐くんなら就職しても大丈夫だろう。愛想もいいし、要領もいい。容姿だって女性受けするから営業職なんて向いてるかも知れない。だけどわたしはその就職先をはっきりとは聞かなかった。聞いたらきっと覚えてしまう、覚えていたらいつか逢いたくなってしまうから……
わたしの方は一次試験は難なく合格したけれども、二次試験で苦戦した。面接や論文は何とかなるけれども、集団討論では上手く意見が言えなかったり、他の受験者の教育に対する情熱や子供に対する愛情なんて熱い話にはついて行けなかった……部活動もせず、人との関わりを避けて来たわたしは本当に教諭になれるのだろうか?と悩んでしまった。それでもなんとか二次試験にもA判定で受かったけれども、縁故のツテもなにもないわたしは採用内定がすぐに取れる目算はほとんどなかった。
甲斐くんにも二次試験に合格したことは伝えたけれども、赴任先は聞かれなかった。もっともまだ決まっていないから言いようがないのだけれども……早くて年明け、遅くて3月末ギリギリに決まることもよくあるそうだ。甲斐くんだって自分の就職先を教えてくれた訳じゃないし、お互いの卒業後どうするかなんてきっと興味無いはずだ。
どちらにしろ、わたしの赴任先が決まるまではかなりあるとわかったらしく、その夜は抱かれたけれども、それまでは気を遣っているのか、あまり手を出してこなかった。
抱かれなかったら飽きられたんだと思うのは短絡的かも知れないけれども、氷室さんも早速私立校の赴任が決まって時間があるからわたしなんて用済みだったのかも知れない。それはそれでよかったんだ……あるべき形に戻るだけで、わたしは居ないときの代わりみたいなものでしょ?だから、気にしないようにしていた。無茶されてからは、一段と優しく抱かれるようになったけど、それも気遣われてるのか彼女に遠慮してるのかわからなくて、わたしも後少しのことだからと逆らわずに、何も言わずに受け入れていた。不思議と甲斐くんも抱くときに言葉少なになって、お情けで抱いてるだけなら、無理しなくてもいいのにとさえ思ってしまっていた。
街には再びクリスマスソングが聞こえていた。
また今年のクリスマスも一人寂しくここに居るだけなのだろうか?甲斐くんは相変わらず週末は居ない。クリスマス前もずっとこっちには帰ってきていない。就職が決まってからは、なおのこと週末は帰ってこなくなった。
今年ぐらいは、クリスマスケーキなんか買ってまねごとしてみようかなぁ……なんて思っていたんだけどね。だって、これが最後のクリスマスだから……一度も恋人らしいことはしたこと無かった。もちろん、恋人同士じゃないからそれでいいんだけれども、無信仰者のわたしが似合わないことしようとするものではない。今まで散々クリスマスなんて全然楽しいものでも何でもないって、幼い頃に思い知らされて来たというのに……他の子供達のように期待してもサンタクロースが来るわけでもパーティに招待されるわけでもない。精々ケーキが食べれればいい方で、寒さがしのげればまだましだった。学校が冬休みに入るので、クリスマスプレゼントをもらってはしゃぐクラスメイトを見なくて済んだし、だれかのクリスマス会に呼ばれても持って行く交換用のプレゼントが買えなくて断ったらそれきり呼んで貰えなくなったこともあった。年頃になると彼氏と過ごすものになり、あぶれたもので集まることもあったけど、その頃にはすっかりクリスマスを楽しもうとする気持ちは無くなっていた。少し待てばすぐに年末で、お正月だって同じだ。去年の年末年始も結局一人だったっけ?バイトもなかったので、暇な時間をどう潰すのか悩んだものだった。テレビを付けてもどこもかしこもお正月だったから、ひたすら借り込んだ大量の本を読んで時間を過ごした。
だから、今年も同じだと思っていた。
「何……これ」
「何って……クリスマス?」
「もう、済んだでしょ?」
今日はもう26日、クリスマスは昨日までで、甲斐くんはもちろん朝帰りだ。たぶん、氷室さんと一緒だったんじゃないかな?クリスマスパーティに来ないかと彼女から誘われたけど断ったから。試験が終わると会う口実も少なくなって、メールかケータイでの連絡だけになっていたからよかった。冬休みにはいると、平日でも甲斐くんが居ない日が続き、その行き先を考えると氷室さんと話すのも怖かったから。
「これ……パーティの残り。持たされたんだけど」
よく似合うダークなスーツ姿で、両手に紙袋を下げて帰ってきた、その中身がこれ。目の前の切り分けたクリスマスケーキらしいものとフライドチキンとかのオードブルセットの数々。二人で食べきれないほどのご馳走……
子供の頃だったら、はしゃいで喜んだだろう。そう思ってわざわざ持って帰ってきたのだろうか?
「そうだ、ビール……いや、シャンパンかワインでも買いに行くか?」
「え……?」
買いに行く?一年以上一緒にといっても平日だけだけど、住んでいてそんなこと言われたのは初めてだった。買い物はわたしが済ませてくるし、生活必需品は安売りの時に次の分まで買いだめしておいたし、調味料が切れるようなこともしたことがない。甲斐くんも欲しい物があれば自分で買いに行っていた。だから『買いに行こうか』なんて言われたことが無く、それが一緒にという意味なのかどうかも、その言葉からは判断出来なかった。
「行かないのか?」
「え……だって」
二人で出かけたコトなんて、皆無だよ?
甲斐くんもスーツを脱いでジーンズに着替えてその上からダウンジャケットを羽織っていた。その姿も格好良く見えるからいいけれども、わたしは……ジーンズにタートルのセーター。コートは普通に学生時代着ていたダッフルコートしか持ってない。これじゃ甲斐くんの隣なんて恥ずかしくて歩けないよ……
「甲斐くん行ってきて。どうせ、わたしアルコールなんて飲めないし、わからないから」
「そう……わかった。じゃあ、行ってくるな」
寝てないっぽいのに、甲斐くんはスタスタと部屋を出ていった。
急に、無理だよね?いつかは隣を歩いてみたいなんて思ってたけど……
思い直して、どうせならとトースターでチキンを温めて、簡単なサラダを作って待った。クリームコーンがあったので牛乳を使って暖かいスープも一緒に。
スーパーはすぐ近くにあるから、それからすぐに甲斐くんは買い物袋を下げて戻ってきた。
「志奈子も飲むだろ」
そう言ってシャンパン用のトールグラスまで買い物袋から出してきたので驚いたけれども、それを受け取り軽く洗ってふきんで拭いてテーブルに戻すと、甲斐くんが器用にシャンパンの栓を抜いて待っていた。
「ほら、グラス持てよ」
シュワシュワと軽い音と泡を立てながらシャンパンを注いでくれた。
そういえば、わたしが言ったんだったっけ?クリスマスをやったことがないっていうのと、シャンパンをグラスで飲むのぐらい一度やってみたいって言ったの……確かそれは去年のクリスマスのすぐ後位だよ?
覚えてたの、かな……甲斐くんもクリスマスの日はお父さんは仕事で、いつも父親のカノジョの一人が面倒見てくれたとか言ってたっけ。それも父親が帰ってくるまでで、帰ってきたらその人の相手するのが約束だったみたいで即寝室に籠もってたって。プレゼントだけは山ほどもらったけど一人の夜は寒かったって……それも自分にカノジョとか出来るまでの話らしいけど。
わたしの場合は母も誰もいなかった。自分で何かを買いに行こうにも子供の頃はお金もなかったし、自由になるお金が出来ても、クリスマス前の賑やかな雰囲気すら自分を惨めに感じさせるだけみたいで、楽しくも何ともなかった。クリスマスソングすら聴くのが嫌で、この時期には一歩も部屋から出ない事の方が多かったぐらいだ。だから、クリスマスは好きじゃない。だけど、あのシャンパンぐらいは一度飲んでみたいなって、言った覚えはある……
「それじゃ……」
グラスを合わせようと甲斐くんがしたけれども、この年になってメリークリスマスって言うのも恥ずかしかったから、何も言わずそのまますぐにグラスに口を付けた。
「おいし……」
さっぱりしてて、少しだけ甘くて……爽やかな泡が鼻先で弾けていい香りがした。そのおいしさに、思わず口元もほころんでいたのかも知れない。
「もっと飲んでいいぞ?」
「うん」
思わず一気に飲み干してしまったわたしを、じっと見ていた甲斐くんがボトルを差し出して再び注いでくれた。2杯目を飲む前に目の前のオードブルに目をやる。チーズやチキン、お酒のおつまみっぽかったけれども、あんまり食べたことの無いような物ばかりだった。だいたいはなんだかわかるんだけど……
「全部食っていいから」
そうだよね、甲斐くんはもう食べてきただろうから……帰ってきて、隣を通り過ぎるときのスーツから、嗅ぎ慣れた甘い香水の香りがしていた。気づかないふりしたけれども、あれはいつも氷室さんが付けてる香りだった……彼女と二人っきりのパーティだったのかな?それとも仲間内のパーティで、その後二人で夜景の見えるホテルにでも泊まってきたのだろうか……なんて、どちらにも聞けっこないけれども。
「でも、そんなにお腹空いてないから少しだけね。これだけでもいいぐらい……」
きらきら光るグラスとシャンパンの泡を眺めては口にした。甲斐くんはシャンパンの後はビールを飲むつもりみたいでビニール袋から缶ビールを取り出していた。
「珍しいね、部屋で飲むなんて」
大抵、飲んで帰ってくることが多かったし、ここには本当に寝に帰ってくる程度だったから、あんまり腰をすえて飲んでるところは見なかった。
「ん、ちょっとな……疲れた」
本当に眠そうな顔になっていた。
わたしがいくつかオードブルを口にして、ほとんど一人でシャンパンを飲み終るまでずっと目の前に座って眠そうな顔してこっちを見ていた。
「眠いんなら、もう寝たら?」
「じゃあ……志奈子も」
「え?」
腕を引かれて寝室へ連れて行かれた。少しだけくらっとするのは、シャンパンにもアルコールが入っていたからだろうか?甲斐くんの足取りもいつもと違っておぼつかない。もしかして酔ってるのだろうか?
「来いよ」
ベッドに潜り込む甲斐くんを前にして、どうしていいのかわからず立ちすくんでいた。まだ日も高いのに……する気なの?
「寝るだけだから」
寝るだけ?それなら一人のほうがいいんじゃないんだろうか……
「志奈子、今日は何も予定ないんだろ?だったら、つきあえよ」
付き合えって、お昼寝にってこと?上半身起こした甲斐くんに腕を引かれて、そのままベッドの中に引っ張り込まれる。
「でも、片づけが……」
「後でいいだろ?……おやすみ」
そのまま、その腕の中に納められたけど……彼からの甘い香りが鼻を突く。
苦しくて背中を向けてもそのまま抱きかかえられて、わたしが目を閉じて意識を他に向けようとすればするほどその香りがわたしを甘く包み込んできた。嗚咽を堪えるために必死で噛んだ唇が赤く腫れ上がっているのに気がついたのは夕方、目が覚めた甲斐くんにひとしきり抱かれ、キスされて唇がヒリついた時だった。
きっと、これが最後のクリスマス。年を越せばあっという間に春が来る。
春が来たら……甲斐くんとさよならするんだ。
今度こそ、最後になるはずだから。
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