6.
 
「しいちゃん、ただいま〜」
玄関から元気な声が聞こえてくる。圭太が幼稚園から帰ってきたのだろう。椎奈が動けない間は宗佑が車で送り迎えをしている。
「圭太くんお帰り〜」
椎奈は身体を起こして圭太に挨拶すると、その目はきらきらとその隣の存在に移る。
「あいかちゃん、ただいまですよ〜〜」
黄色い帽子と鞄を放り投げると圭太は椎奈の隣で眠ってる小さな赤ん坊のほっぺにちゅっとキスをした。その愛らしさに椎奈は思わず微笑みをこぼしてしまう。
「おりこうさんにしてましたかぁ?しいちゃんこまらせませんでしたかぁ?」
いっぱしお兄ちゃんになった気分の圭太は椎奈が退院してからもずっとこの調子だった。
産後、身体の戻りも早く、食堂に戻ってきた椎奈は早速始まった赤ん坊の夜昼ない攻撃に休む間もなく翻弄されていた。それでも手の空いたときに、女将や宗佑が赤ん坊の面倒を見てくれる。そのことがどれほど椎奈を助けてくれたことか...
生まれた女の子には愛の華と書いて<愛華−あいか−>と名付けた。生まれた経過の話は、おそらく一生出来ないだろう。けれども自分にとって、間違いなく愛する人の子供。一生のうち一度きりの愛の華が開き実ったのだから...愛実と名付けようかとも思ったが、この子はこの子の愛の華が咲かせられるようにと<愛華>と名付けた。
何もかも初めての椎奈に比べて、大先輩の女将は頼もしく、宗佑も子煩悩な彼らしく、おむつ換えからお風呂、何でもこなしていた。
後で聞いたのだが、身体の弱かった奥さんに変わって圭太の子育てはほとんど宗佑と女将がやったそうだ。そのために勤めていた一流企業を辞めて調理師の免許を取り、実家で働らきながら妻と子供の面倒を見続けたのだそうだ。
 
「椎奈ちゃん、宗佑はバツイチだけどお買い得だぜ〜オレみたいに阿呆でもないし、優しいしよぉ、このままここの嫁になっちゃえよ。」
「もう、冗談ばっかり!宗佑さんに迷惑ですよ。」
工務店の郁太郎はまるで自分の家のようにあがり込んでいた。
「そんなことねえだろ。オレの見込みによるとだな、まんざらでもねえはずだ。けどよぉ、無口なあいつのことだ、口に出すの待ってたら圭太の方が先に愛華ちゃんにプロポーズしちまうわ。」
明るく笑うこの男は宗佑の幼なじみで、こうやって冗談交じりで口を出してくる。悪い男ではないのだが思ったことをずばずば口に出さなければ気が済まないらしい。そのせいか一度きた嫁に逃げられたという噂だ。
「圭太くん本気みたいですもんね。」
「ああ、本気も本気だな、ありゃ、完全に恋しちゃってるぞ?」
「愛華はモテモテね。あ、郁太郎さんそろそろ店に戻らないと、また親父さんが怒鳴り込んできますよ。」
そう脅すと『いけねぇ、時間だ!』と叫んで飛び出していく。威勢のいい男だ。
郁太郎が去った後、椎奈はまた物思いにふけってしまう。
こうやって椎奈が別の男の子供を産んだことを知ってる人はまだいい。真面目に宗佑の子だと勘違いし祝いを包んで持ってくるご近所、親戚までいるのだ。それを見てると椎奈も申し訳なかった。やはり自分はこの家に甘えすぎてるのではないか?と...
けれども今の自分に動く体力もなく、この3人の存在がどれほど心強いものか。
そして知ってしまった。一人の無力さを...
一人で産むといきがって関西を出てはきたものの、実際自分一人の力では難しいことばかりだった。食堂の女将の申し出がなければ今頃どうしていただろうか?無理して産んでも、子供を不幸にしてしまうだけではなかっただろうか?今はこうして擬似的でも家族としての温もりに包まれているこの安心感は、椎奈に出産した喜びだけを与えてくれた。
(郁太郎さんの言う通りかも...周りからみればそれが自然なんだよね...)
けれども当本人がそう思って無ければ意味がないのに、郁太郎はまったくもって思いつきでしゃべる人だと椎奈は笑いを漏らした。
 
 
「女将さん、愛華が寝たんで手伝います。」
椎奈はまた前のように働き始めた。愛華ももう3ヶ月近くになる。
椎奈はエプロンを付けてフロアに降りる。赤ちゃんのために少し大きくなった胸、全体の雰囲気もすっかり柔らかくなった椎奈はまばゆいばかりの笑顔で接客する。
元々人と接したり、接客の得意な椎奈が身軽になって本領発揮する様をみて女将も感心していた。
「女将さん、椎奈ちゃんいい子だね...本当に宗ちゃんのお嫁さんじゃないの?」
そう何度も常連客に囁かれる。
「椎奈ちゃん、すまない、洗い場頼むよ。」
「はーい!」
宗佑に言われて調理場に駆け込む。なにやら声を掛け合って微笑む二人は仲良さげにみえる。兄妹か、はたまた夫婦か...
お昼時の客が引けたあと、椎奈が圭太を迎えに行って、連れ帰ってくると、圭太は今日は珍しく父親の元へと駆け寄った。いつもなら一番は愛華なのだ。
「ねえ、いいでしょ?とーちゃん」
今度の圭太の発表会にどちらが行くかという話らしかった。もちろん圭太はみんなに見に来てくれと頼み込んでいるのだ。中には夫婦そろって、祖父母まで一緒に見に来る家族もある。圭太はそれにすごく憧れていたのだ。店があるからお互いに行ってやってくれと譲りあってる状態だ。
「なんなら二人で行ってきなよ。あたしは構わないからさ。」
「何言ってるんですか、女将さんと宗佑さんが行くべきです。その...あたし一人じゃお店は出来ませんけれども、家族で見に行ってあげるべきです。」
「だったらしいちゃんもかぞくだよ〜〜ねえ、とーちゃん?」
「ああ、そうだね。椎奈ちゃん、どうかな?行ってやってくれないか?」
「でも...」
圭太の粘り勝ちもあって、結局全員で発表会を見に行くことになった。もちろん店は臨時休業だ。
 
「圭太くん、上手に出来たね。」
「もちろんだよ!ぼくすっごくれんしゅうしたんだからね。」
圭太は大きな声でせりふも言えたし、お歌も間違えずに大きな声で歌っていた。
「ねえ、椎奈ちゃん。あたしは疲れたから愛華ちゃん連れて先に店に戻ってるよ。あんた達こんなこと滅多のないから、どこかで圭太が喜ぶような食事でも連れて行ってやったらどうかね?」
「え?それならあたしが先に帰ってますよ。女将さん愛華連れてたら休むどころじゃないでしょう?」
「いいんだよ、若い食事はとれないからね。帰ってお茶漬けでもかっ込むほうがいいさ。ほら、圭太なんか食べたいって言ってたじゃないか?」
「おこさまランチ〜いいの?ばあちゃん?」
「いいよ、ばあちゃんは洋もの苦手だからね。」
「でも...」
椎奈が断ろうとすると圭太が椎奈の手をしっかりと握ってきた。
「いこうよ、ぼくいきたいよ〜!ね、しいちゃん。」
可愛い顔でお願いされたら椎奈もそう簡単には断れない。
「椎奈ちゃん、迷惑じゃなかったら付き合ってやってくれるかい?」
宗佑にまでそういわれては行くしかなかった。愛華のことが気になるけど、外に出かけるなんて何ヶ月ぶりだろう?子供が出来てしまうと身動きとれないって本当だったんだと椎奈は実感していたから。
「じゃあ、お言葉に甘えて...行ってきます。女将さん、愛華をお願いしますね。」
 
 
「こんどあれにのるね!」
ショッピングプラザの一角で圭太の望み通りお子様ランチ付きの食事をして、その後圭太の希望で広場にある遊具で遊ぶことになった。滅多にこんなところへ来たことのない圭太は、はしゃいで大人から見ればちゃちな乗り物でも夢中になって乗りまくっていた。その乗り物の上から何度も椎奈の名前を呼んで手を振った。
その帰りのバスの中、遊び疲れてすっかり寝込んでしまった圭太をはさんで椎奈と宗佑は並んで座っていた。
「椎奈ちゃん、今日は付き合わせて悪かったね。」
「いいえ、あたしも楽しかったです。愛華には悪かったけど、久しぶりに遊んだってかんじで。」
「圭太が...あんなに楽しそうなのは、本当に久しぶりでした。母親を早くに亡くして、親子3人でどこかに連れて行ってやるなんてこともないまま、妻は他界しましたからね。圭太には本当に寂しい想いばかりさせてきて...椎奈ちゃんが来てからの圭太はほんとうに嬉しそうだ。お友達にも先生にも椎奈ちゃんの自慢ばかりするそうですよ。」
「そんな...あたしの自慢なんかしたって...」
「嬉しくてしょうがないんですよ。この子は母親の存在に飢えていましたから...あなたに母親の影を追い求めてしまっている。」
「あ、あたしなんかじゃ代わりにはならないですよ。でも、反対にあたしの方が圭太くんに助けられてばかりで...あたし、皆さんにほんとによくしてもらってばっかりで、感謝の気持ちは一言では言い表せないです。」
「できれば...このまま、ずっとここにいて欲しい。圭太と、私の側に...」
宗佑の真剣な表情が椎奈に向けられた。
「え?」
「私は愛華ちゃんの父親になりたいんです。そしてあなたに圭太の母親になって欲しい。形だけでも構わないです。籍を入れて、今まで通り、5人で仲良く暮らしませんか?」
「あのっ、それって...」
「プロポーズと取って頂いて構いません。あなたの心の中には亡くなった彼氏が未だに住んでらっしゃることもわかってます。だから...男女の関係とか関係なく、一緒になって、家族でいて欲しいんです。」
「あ、あたしは...」
椎奈はまさかと思っていた申し出に驚いた。
「返事ゆっくりで構いません。何年でも待てますから...」
穏やかな微笑みと、その申し出に椎奈の心は揺れていた。
家族になる、本物の家族に...宗佑と夫婦になるのではなく、お互いの子供の片親になるだけでいいのだろうか?それなら、椎奈は何も怖がらなくてもいい。
(そんなの、あたしにばかり都合がよすぎるよ...)
 
 
それ以来、椎奈は宗佑の視線が気になる。今までと何らかわらない態度は嬉しかった。けれども、時折椎奈を見つめるその目は明らかに愛情に満ちあふれていた。息苦しさを感じるものではない。それは...椎奈が圭太を見つめるような視線と同じ種類のものではなかっただろうか?
椎奈は返事に困ったものの、あえて無理に答えを出すのをやめていた。無理したところで椎奈の心は決まってしまっている。一番大切なのは愛華、心の中に住んでいるのはたった一人、工藤だけ。
(でも...圭太も、女将さんも、宗佑さんも大切な家族だわ)
椎奈を支えてくれたのはこの3人だったのだから...
 
「ねえ、椎奈ちゃん...もし椎奈ちゃんさえよければ、宗佑の嫁になって圭太の本当の母親になってくれないかい?親のあたしが言うのも何だけど、あの子がそれを望んでるんならあたしはそれをかなえてやりたいんだよ。そして何よりも、あたしは椎奈ちゃんが本当にうちの子に、家族になってくれるんだったら、こんなに嬉しいことはないよ。これから先、ずっと愛華ちゃんのおばあちゃんでいたいんだよ。」
女将は椎奈にそう願った。
(もういいかな...楽になってもいいかな?愛華...愛華も家族が欲しいよね?)
抱きしめる我が子はただ無邪気に笑うだけ。
「愛華ちゃんご機嫌だね。」
「宗佑さん...」
「母が余計なことを言ったらしいね。すまない、強要するつもりはないんだ。母に聞かれたのでつい、椎奈ちゃんに申し込んだと言ってしまったんだ。」
「あの、謝らないでください...嬉しいんです。ほんとに大事にして頂いて...で、でも宗佑さんは本気なんですか?あたしと、だなんて...」
「僕もまだ妻を忘れた訳じゃない。もっともっと愛してやりたかった...だけど圭太は母親の顔などほとんど覚えていない。今は君を母親のように慕っている。愛華ちゃんだって、このままここで育てば、きっと僕を父親のように思ってくれるだろうと思う。それなら、いっそ...そう考えただけだ。一番自然で、当たり前の姿のように思えた。」
「宗佑さん...」
「笑顔でがんばる椎奈ちゃんが好きだよ。抱きしめてあげたいと思う。いいかな?」
宗佑の手が椎奈にそっと寄せられる。
「あの、あ、あたし...男の人が怖かったんです。無理矢理されそうになってから...それ以来、ダメなんです。唯一受け入れられたのはあたしがずっと10年以上思い続けていた彼だけだったんです。それでも...それでも、いいんですか??」
宗佑の腕が椎奈が逃げない程度にそっと引き寄せ抱きしめた。
「ああ...椎奈ちゃんが嫌なら手は出さないよ。僕らにはもう二人も可愛い子がいるわけだし、お互いに一番が別にいてもいいと思う。家族愛、でどうだろう?それも一つの愛の形だ。」
その言葉を椎奈は受け入れた。愛華に、自分の子に家族をあげたいと、そう思った。
 
 
 
〜圭司〜
 
「望月椎奈は確かにここで出産したんですね?」
「ええ、それは電話でお話したとおりです。」
「ではなぜ現住所を教えてもらえないんですか!!」
「それは本人様のたっての希望なのです。」
「オレは...椎奈の、赤ん坊の父親なんだ...それでも、それでもダメですか?」
「申し訳ありません。」
工藤は東京に着くや否や、すぐさま記載されていた産婦人科を尋ねた。しかし夜も遅いと追い返されてしまった。翌日尋ねても、部外者と判断されたのか住所は教えてもらえなかった。椎奈は仕事を辞める何ヶ月か前からここにかかっていた。工藤は椎奈がこの近くに居ると確信して周辺を探すことに決めた。
この街は、工藤が1年間東京支社に出向していた時に住んでいた街だった。何度も椎奈に電話で話した。関東と関西の違いを、この街にもいいところがいっぱいあったことも...椎奈に話したくて、会えないのが寂しくて、何度も夜中に椎奈を起こして話に付き合わせた。
(椎奈...どこにいるんだ?)
アパートや不動産を当たってみるが該当する人物はいなかった。この街の隅々まで探すのにはいったい何日かかるだろうか?ましてやもうこの街から出て行っていたら?
(探せるのか...いや、探してみせる!)
丸一日歩き回った。ビジネスホテルを取ったが、まだ帰る気にもならず不動産屋をまわりつづけた。
(病院だけで、この街には住んでいないのか?)
この街を選んだのはきっと自分に関係がある。だから来ればきっと椎奈の行方がわかるはずと高をくくっていた自分が情けなくなる。
(腹減ったな...久しぶりにあの食堂にでも行くかな。)
夕方近くなって工藤はあの懐かしい女将のいる店へと足を伸ばした。
「しいちゃん!はやくぅ!とーちゃんが待ってるよぉ!」
(しいちゃん?)
工藤が向かおうとした通りをはさんだの前で小さな男の子が赤ちゃんを抱いた母親のスカートの裾を引いているのが見えた。
「椎奈っ!」
工藤は思わず叫んだ。身体が車道に飛び出そうとするけれども車の往来が激しく渡ることが出来ない。
(椎奈がいた!椎奈が...)
工藤は焦る気持ちと、彼女を求める熱い気持ちとで胸が苦しくなるのを感じた。
「工藤...」
椎奈は通りの向こうに立つ工藤の姿を見つけた。だけど椎奈は圭太の手を掴むと店の中に飛び込んでしまった。
「椎奈?おい、待てよっ、椎奈ぁっ!!」
工藤の懐かしい声が椎奈の耳に響く。
(なんで...なんで工藤がここにいるのよ?どうして...今になって...)
「圭司...なんで...もう...遅いよ...」
ドアを閉めて震えていた椎奈を圭太が不思議そうに見ている。
「しいちゃん、ぼくはけいただよ?けいじってだれ?」
「な、なんでもないのよ。女将さん宗佑さん、誰かがあたしを訪ねてきても知らないって言ってくださいね。この子を取り上げれれてしまうんです!!」
「わ、わかったよ。奥に行ってな!」
椎奈は奥の部屋に飛び込んで愛華を抱えたまま座り込んでしまった。
 
「あのっ、すみません、今ここに入ってきた女性は...」
がらりと戸を空けて飛び込んできたその男に女将は目を見張った。
「なんだい、あんた関西に帰ったんじゃなかったのかい?」
「女将さん、お久しぶりです...あのさっきここに入ってきた女性は...」
「あんた...ああ、あの子は家の嫁だよ。家の息子が結婚したんだよ。で、赤ちゃんも出来て、この圭太にもやっと母親が出来たんだ。」
「結婚...母親...」
「ああ、それがどうかしたのかい?あんたまたこっちで仕事するのかい?」
「いえ、違います...あの、失礼しました。」
「なんだ、食べていかないのかい?」
「ええ、今日は...また今度にします。」
工藤はそのまま店を出た。
(結婚したんだ...子供、ああ、あの店の圭太くんっていったっけ、あの子のママになったのか?オレたちの赤ん坊は...オレはもう必要ないのか?椎奈...)
確かに一瞬こっちをみて工藤の名を呼んだ。自分が椎奈を見間違えるはずがない。だけど...
(何で逃げるんだ?まさか...子供の父親がオレだとわかっちゃまずいのか?そうなのか?)
頭の中でパズルを埋めていく。
(オレは来ない方がよかったのか?なあ、椎奈...)
工藤はすべてを失ったことを身体で感じた。どうやってホテルに帰ったのかも覚えてないほど...
その夜、工藤は浴びるほど酒を飲んで眠れぬ夜の時間を塗りつぶそうともがき続けていた。
 
 
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〜あとがき〜
すみません、大急ぎでUPします。PCの都合で、今晩ゆっくり推敲しますので、誤字脱字はお許しを〜明日になっても治ってなかったら完全なミスです。では今から出かけるので...
一言「工藤の馬鹿!遅いんだよ〜おまえはっ!!」(ぜいぜい)
 

 

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