5.
 
椎奈は先週末にこちらに来たときに借りていた賃貸マンションに落ち着いた。
俗に言うウイークリーマンションで日常生活品は何もいらない。少しずつ持ち出した私物は先週ロッカーから移したし、送った荷物も期日指定にしてるので明日届くだろう。
準備は完璧、退職したその足で東京行きの新幹線に乗って、10時過ぎに部屋に着いてからはゆっくりとお風呂に入って休んだ。
椎奈は出来るだけ自分の身体を大切にしようと思っていた。大切な命が身体の中にある、その事実だけが椎奈を支えているのだ。無理すればすべてが消えてしまう...椎奈はそれだけが怖かった。
やっと手に入れたもの...それは愛する人との間に出来た命。たとえ相手にその意思はなくても、授かった命は誰のものでもない、この子のものだ。自分が守ってやらなければならない。すべてを捨てて、この子のためだけに生きると決めた椎奈だったから、すべての愛情をこの子に注ごうとしていた。
そのための環境も大切だ。賃貸のままでは子育てもままならないだろう。出産までにはアパートを借りたい。けれどもアパートを借りるにしても椎奈には保証人が居ない。誰かに保証人を頼めば、そこからどこにいるかバレてしまうかもしれない。
きっと家族は自分を探してるだろう...
両親にはほんとに申し訳ないと椎奈は心の底で詫びた。親の信頼も厚かった椎奈だったからこそ、両親も自分が急に姿を消すなんて思いも寄らなかっただろう。
(でも、うちには柚がいるからいいよね?)
椎奈は両親に可愛がられてる妹を思った。椎奈の分まで両親の手をかけさせた妹だが、その分可愛がられている。地元で就職した彼女が居る限り両親は寂しくなんかないはずだ。
親不孝は間違いない。けれども父親の居ない子供など産みたいと言っても絶対に許してもらえないのはわかってる。誰が相手かなん口が裂けてもい言えないし、工藤にとばっちりが行くのはほんとうに申し訳ない。頭の固い父親は怒り狂うだろうと想像する。いつも竹刀を片手に鍛錬する父だった。
『父親のいない子などと許さない』と言って、無理矢理に堕ろさせられてしまうかもしれない。それだけはぜったいに嫌だと思った。
あと、問題は仕事だった。バイトにしてもあまりきつい仕事は出来ない。デスクワークがいいけど、事務職はなかなか空きがないだろうし、経験もない。どちらかというと接客か営業向きなのにとため息をつく。
どの職にしても、現在妊娠してる女を雇うところもないだろう。数ヶ月後には臨月に入って、産んだあともいつ復帰出来るかわからないし、出来れば子供を見ながら仕事が出来る環境なんてないだろうなぁ...なんて諦める。
(はぁ...どうしよう。)
その日の夜は布団に入ったもののあまり眠れないまま夜が空けた。
翌朝簡単に洗濯し、掃除して荷物の届くのを待って、昨夜買った就職情報誌を片手に部屋を出た。
炎天下の中、近くで働ける場所を探して歩き回った。なかなかそう簡単に見つからない。妊娠のことを口にする以前の問題だった。事務系の資格をほとんど持ってないのが大きかった。
部屋に戻っても食欲はないし疲れて足もだるかった。
おまけにひとりで、誰も話す相手がいない...
今までだったら誰かしら話す相手がいて、眠れない夜に付き合ってくれる友人もいた。一人でいるということは、これほど寂しいものかと思い知る椎奈だった。
慣れない、他人のような部屋で、また眠れない夜が明ける。
今度は朝から探し回ってみるが門前払いも多い。いい加減疲れ果てて、お昼時、何か食べるものでも買って部屋に戻るか、簡単なものを作るか、どこかで食べて帰るか椎奈は悩んだ。
(美味しいご飯食べて元気になろう...)
工藤に何度も聞かされたあの食堂は確かこのあたりだった。
食堂までのこの道を、工藤は何度も通ったんだろう。ここは知らない街じゃない、そう思うとその風景、アスファルトでさえ暖かなものに感じてくる。下町の雰囲気を残したこのあたりは、誰をも懐かしさに引き込む雰囲気を持っていた。
この街で子を産み、育て、思い出を作っていくのだ。たとえ重ならなくても、今の椎奈にはそれだけで十分だった。
工藤とは友達としての思い出なら山ほどある。ほぼ10年分の思い出。だけど恋人同士としての思い出なんか何一つない。でもここなら、子供に話してあげられる。『あなたのお父さんはこの街に住んでたのよ』って...
 
少しレトロな雰囲気を残した工藤オススメの食堂はそれでも清潔感があって、のれんをくぐると威勢のいい声に迎えられる。
「いらっしゃいっ!」
店の女将らしきてきぱきとこなすふっくらした女性。きっと彼女があの工藤がお世話になったおばちゃんなのだろう。明るい笑顔、きびきびした動作、昼のご飯時の立て込んだフロアを一人で切り盛りしている。奥には調理人らしき人が一人。
財布の件の後、工藤の話し方から関西出身と知ると、自分もそうだと、ことあるごとに話しかけてくれたらしい。工藤が祖母の味に似てると褒めるとにっこりと嬉しそうだった。
椎奈が煮魚定食を選んで注文するころには周りもだいぶ落ち着いていた。すぐに目の前に出てくる。
(しっかり食べなきゃダメだぞ!)
自分にそう言い聞かせてゆっくりと食べる。
おみそ汁も出汁がきいていて、薄味で美味しかった。薄味といっても、以前に駅前で入った食堂のおみそ汁に比べたらだ。うどんを食べに入ったらそのつゆの濃さに驚いた。関西風の澄んだお出汁を想像していたから、真っ黒なおつゆが出てきて、とても飲めたものじゃなかった。味は悪くはないのだけれども、身体に悪そうに思ってしまう。塩分の取りすぎは妊婦には禁物だと雑誌にも書いてあった。よく見るとメニューの中に減塩メニューらしきものもある。
(次からアレにしよう...)
椎奈は食べ終わると就職情報誌を取り出してもう一度チェックしてみた。この後ハローワークにでも行ってみようかとも思った。
(でも、ないよね...妊婦使ってくれるとこなんか...)
ため息が深くなる。ちょっとクーラーが効きすぎていて腰が重だるい。かなり歩き回ったせいもあるのだろうか?腹部に手をやると少し張ってるような気がした。無理して食べ過ぎたのか、頬が冷たく、冷や汗が出ていた。
前回の検診の時に、すこしお腹が張ってるようだから気をつけなさいと言われた。無理をするとお腹が張って、赤ちゃんまでもが緊張してしまって苦しいのだから、お母さんはなるべくゆったりと構えるようにと...しかし退職と、逃げるような引っ越しを準備していた椎奈にはそんなこととうてい無理で、身体はかなり無理をしていた。
(だめだ...早く部屋に...)
そう思って立ち上がった瞬間くらりと眩暈を起こした。
「あ、ちょっと、あんた、大丈夫かい?」
「あ、大丈夫です...」
椎奈はそういいながらもすぐに立ち上がれなかった。駆け寄ってきた女将さんの温かな手が椎奈の腕を掴む。寝不足の上、炎天下のした歩き回り...ここのところ貧血の薬もあまり飲んでいなかった。忙しくてついつい飲み忘れていたのだ。
椎奈はもう一度起きあがろうとして目の前が真っ暗になるのを感じた。
 
(あれ...?)
目が覚めた椎奈は知らない家の天井を見上げていた。かぶせられた布団、椎奈の身体は温もりを取り戻したようだった。
「あ、気がついたかい?」
のぞき込んできたのは食堂の女将ともう一つ、可愛らしい男の子のまん丸な顔...
「ばあちゃん、おねえちゃん気がついたね!」
「ああ、そうだね、圭太はもうあっちに行っといで。お父さんにもおねえちゃん目覚ましたから、もうちょっとしたらばあちゃんもそっちに行くからねって。」
「うん!わかった。とうちゃーん!」
元気な返事を残して走り去る少年の姿。保育園か幼稚園に通ってるんだろうか、そばに黄色い帽子と鞄が揃えて置いてあった。
(圭太くんって言うんだ...女将さんのお孫さんかな?)
「どうだい、もう大丈夫かい?」
駆け去る後ろ姿をぼーっと見ている椎奈に、女将さんが優しい声をかけてきた。
「は、はい、すみませんありがとうございます。」
椎奈は急ぎ起きあがって衣服の乱れを直して正座した。まだ少し眩暈が残っているのもの、かなり楽になっている。
「悪いと思ったけど鞄の中見たよ。救急車呼ぼうかどうか悩んだけど、この母子手帳見つけたから...あんたおなかの中に赤ちゃんが居るんだろ?たぶんそのせいで貧血か何か起こしただけかなって思ってさ。」
「はい...」
先々週、この街に転居届けをだしてからもらったばかりの母子手帳だった。
「その身体で働くとこ探してるのかい?今は無理できないんじゃないのかい?」
「仕事しないとアパートも借りれませんし...今居るとこはウイークリーマンションなので、はやく仕事してアパート借りたかったんです。あの、知り合いがいないので保証人になってもらえる人も居なくって...それで...」
そう話すと女将は大きくため息をついた。
工藤の話してたとおり、すごくあったかな雰囲気の女将だ。側にいるだけでとてもよくわかる。
「そりゃね、あたしだって臨月まで働いてたからね、働けないことないけど...あんたの旦那や家族はなんて言ってるんだい?」
そう聞かれて椎奈はあらかじめ予定していた言葉を口にした。この部分だけは、一生、子供にも付き通す嘘。
「死んだんです。あたしに赤ちゃんが出来たのなんて知らないまま...籍は入ってません。あたしも彼が死んでから赤ちゃんが居るのわかって...でもあたし産むつもりです。彼がたった一つあたしに残してくれた命なんですから。でも家族に見つかったら、きっと反対されます。だから、なんとしても自分一人の力で産みたいんです。育てたいんです!」
椎奈はついつい言葉に力がこもってしまった。相手が死んだということ以外は事実だったから...
「で、当てはあるのかい?」
「いえ...関西からこっちに出てきて、知り合いもなくて...だけどあたし、この子を授かったんです。奇跡みたいだけど、神様があたしにこの子をが与えてくださったんです。彼が少しでも暮らしたこの街で、誰も頼る人はなくったって、この子のためになんとしてでもやっていくつもりなんです。」
椎奈は脹らみかけた下腹を軽くさする。愛おしそうに何度も...
「...よし、あんたの決心の固いのはよくわかったよ。あんた、よかったらここで働かないかい?なんだったら住み込みでもいいよ。部屋はいくつも空いてるんだ。出産に必要なもの孫が使ったのが一式残ってるしね。ベビーバスからベビーベッドまで揃ってるよ。」
「えっ?で、でも、そんな...」
「一昨年に息子の嫁が亡くなってね、それ以来息子と、孫と3人でやって来たんだけど、ちょうど人手も欲しかったんだ。忙しいときにちょっと手伝ってくれて、圭太を見てもらうだけでも助かるんだよ。幼稚園の送り迎えとか...無理はさせないから、どうだね、手伝ってくれるかい?」
「ほ、ほんとに??いいんですか?あのっ、あたしっ、喜んで!手伝わせてください!」
椎奈は信じられなかった。女将さんのとっさの申し出に、一にも二にもなく飛びついた。
「お給料はそんなにたくさん上げられないけど、住み込みだったら家賃もいらないし、うちはまかないもやってるから食費もいらないよ。元気な赤ちゃん産むのを手伝わせておくれ。あたしが、どんと面倒見てあげるよ。」
「ありがとうございます...あたしなんていっていいか...あの、今まで働いてた時の貯金はあるんです、ですから...」
「いいんだよ。それは子供が大きくなるまでとっといたげなよ。いくらでもいるときが出てくるよ。なんかあんた見てるとほっとけなくってね。今まで真面目にやって来たんだろ?えーっと、椎奈ちゃん。あ、勝手に母子手帳見させてもらったから、名前は望月椎奈ちゃんでいいんだよねね。」
この歳で<ちゃん>付けでもないけれどもその呼び方にすごく暖かさを感じた。
「よろしくお願いします!!女将さん...」
椎奈は気を緩めたせいかぼろぼろと泣き出してしまった。
この何ヶ月間、気を張って慎重にコトを進め、すべてに別れを告げて出てきた椎奈の気の張りが一瞬にして緩んでしまったのだ。
「これこれ、お母さんになる子がそんなに泣き虫じゃだめだよ。まあ、ここを自分の家だと思って甘えていいんだよ。そのかわり、あたしも本当の娘だと思ってしっかりこき使うからね。」
ぽんぽんと背中を叩かれ、椎奈は女将の柔らかい胸に顔を埋めて小半時ほど、圭太が呼びに来るまでひたすら泣きじゃくっていた。
「おねえちゃん泣き虫なんだね。」
幼い圭太にそう笑われて、椎奈はようやく小さく笑うことが出来た。
椎奈ちゃんだよと教えられて圭太はしいちゃんと呼んだ。
涙を拭きながら笑う椎奈をみて圭太が寄ってくる。幼い頃に母を亡くした圭太に工藤の幼い日の姿が重なる。
「圭太、おねえちゃん今日からここで働くからね。春には赤ちゃんが生まれるから、ここで一緒に住んでもらおうと思うんだけど、圭太はいいかい?」
祖母にいきなりそういわれたのにもかかわらず、彼はにこっと笑って喜んだ。
「やったね、しんちゃん家もみなちゃん家も赤ちゃんが出来るのに、ぼくん家だけ出来ないからさみしかったんだ。うれしいなぁ、男の子か女の子どっち??」
まだわからないんだよと祖母にたしなめられて少し大人しくなった圭太だったが、その目が椎奈を受け入れてくれているようで嬉しかった。
「圭太くん...ありがとう、よろしくね!」
 
 
椎奈は翌日からこの食堂で働きはじめた。ウイークリーマンションはあと2週間ほど残っていたがキャンセルしてすぐに引っ越した。荷物は全部女将の息子の宗佑が車で運んでくれた。数年前に妻と死に別れたこの男は32だがもう少し老けて見えるほど落ち着いた雰囲気の穏やかな男性だった。母親の気まぐれにもかかわらず、突然椎奈が転がり込んできても全く動せず、圭太が喜んでると笑って言った。
元々愛想のいい椎奈はすぐに看板になった。常連の顔もすぐに覚えて客を驚かせた。お昼時は忙しく少々きついが、辛そうだとすぐに横になれるのがいいところだ。
圭太は母親の存在に飢えていたのか、すぐさま椎奈に懐き、毎日椎奈の送り迎えで幼稚園へ通った。公園へ誘われたり、一緒にお風呂に入ったり、他の子が母親としていると聞いたことをしたがった。この人なつっこい少年を、椎奈は他人のように思えず、笑ってそれに答えた。
「椎奈ちゃん、ありがとうね。」
「え?なにが、女将さん。」
ここに来てすでに3ヶ月、椎奈のお腹もそろそろスイカ並みに膨らんできていた。
椎奈が幼稚園のお迎えから帰ってきて、圭太が元気よくおばあちゃんに挨拶して部屋に上がって言った後、女将さんに呼び止められた。
「最近の圭太、すごく嬉しそうなんだよ。あたしじゃ、だめだったんだよ、歳くってるからね。圭太、若くて綺麗な椎奈ちゃんがお迎えに来てくれるのが自慢でならないんだよ。」
「そんな...圭太くん、すごくイイコですよ。あたしのお腹の赤ちゃんもすごく心配してくれて...」
「母親のいる子を羨ましそうに見てたからね...だけど、椎奈ちゃんにとって迷惑じゃないかい?」
「迷惑なんて...こんなによくしてもらって、家族同様に扱ってもらってるのに...」
「そこなんだよ、あんたさ、うちの息子の後添いだって勘違いされてるらしくってさ...」
「え...宗佑さんの?まさか、じゃあこのお腹が説明つかないじゃないですか?」
椎奈はおかしそうに笑った。
「そうなんだけどさ...」
「女将さん、あたしほんとに感謝しています。見ず知らずの倒れたあたしを、そのまんま雇ってもらって、住まわせてもらって...あたしすごく安心して赤ちゃん産めます。本当はすごく不安で、ほんとに一人で産めるのかなぁなんて、気弱になったりしてました。これも全部女将さんや圭太くん、宗佑さんのおかげです。」
「椎奈ちゃん。」
椎奈は大きくなったお腹を何度も撫でた。
 
あっという間の3ヶ月、周りに励まされ、悩むヒマもなく身体を動かしてはぐっすり休める。ふと辛くなったとき、幼い圭太がぎゅっと椎奈の手を握り返してはにかっと笑ってみせる。彼なりに椎奈を励まそうとしてくれてるのがわかるのだ。
(あたしは幸せだ...このままここで居てもいいのかどうかは疑問だけど、ちゃんと産めそうだものね。)
正直、工藤のことを考えると今でも辛い。心配かけてる家族や友人達。たまにお腹が張って眠れない夜なんかはついつい涙が出てきてしまって布団をかぶって泣く羽目になる。
(ごめんね、工藤。勝手にこんなコトしちゃって...気分悪いよね。でも、きっとあたしが工藤の親友でいることから逃げても、まさか子供が出来たなんて気が付かないよね?知ったら、きっと工藤を傷つけて困惑させてしまう。だから、ごめんね...赤ちゃんもごめん、お父さんあげれなくって、ごめん...)
翌日の朝食時に、赤く泣きはらした目を宗佑さんと圭太くんが並んで同じ表情で椎奈を見ている。心配そうな顔をして...
そんなときは必ず圭太が無邪気に聞いてくる。
「しいちゃん、怖い夢見たの?それとも誰かに泣かされたの?」
「大丈夫だよ、ちょっと怖い夢見ただけ...」
「今度怖い夢見たら僕が一緒にねんねしてあげるよ。だったら怖くないでしょ?その代わり僕が怖い夢見たらしいちゃんいっしょにねんねしてくれる??」
「いいよ。」
幼稚園に行く途中でそう圭太くんに励まされてしまう。この幼い存在にどれほど助けられたか...
椎奈は自分が十分すぎるほど恵まれて居るとそう思っていた。
 
 
「椎奈ちゃん?どした?お腹痛いのかい?」
予定日はまだ20日ほど先のはずだった。お昼の忙しさがはけた直後だった。遅めに来る常連が何人か居る程度の店の中で椎奈は突然座り込んでしまった。
「女将さん...さっきから変なの...」
「なんか...あっ...」
ぬるりとした感触が足下を伝っていく。水たまりがどんどん大きくなる。
「あんた、破水してるじゃないか!!」
「椎奈ちゃん!!」
宗佑も駆け寄る。
「母さん、椎奈ちゃんの荷物!」
「おい、椎奈ちゃん大丈夫か?」
常連の電気屋の角田が覗き込む。
「よし、俺の車に乗せな!連れてってやるよ。まってろ、今車回してくる。」
そう叫んで店を飛び出す。車が店の前に止まったのを確認すると宗佑は椎奈を抱きかかえて車に乗せた。
「産婦人科には電話はしておくから!母さん、オレも客が引けたらすぐに圭太迎えにいって病院に行く。」
一緒に乗り込む母親に声をかける宗佑はさすが一児の父親らしく落ち着いて判断して指示をだした。内心、破水の様子と、椎奈の青ざめた顔を見ていると側に着いててやりたかったが店にはまだ客がいるからそういうわけにも行かない。
「宗佑、俺らもう帰るから、早く椎奈ちゃんのとこに行ってやりなよ。」
常連が次々と急いで食べた食器を返しに来る。
「いいのか?悪いな...」
「何言ってんだ、椎奈ちゃんはあんたの奥さんになるんだろ?」
郁太郎は宗佑の幼なじみで、近くの工務店の二代目だ。
「おい、何言ってんだよ。椎奈ちゃんは亡くなった恋人の子供をだな...」
「ここでおまえの子供の圭太と兄弟として一緒に面倒みるつもりなんだろ?」
「まあ、そのつもりだ...」
宗佑は口ごもるが、はなっからそのつもりだった。椎奈はすでにここの家族だったから。
「だったらいっそのこと嫁にもらっちまえばいいんだよ。圭太も椎奈ちゃんによくなついてる。いっそのことおまえさんの子として入籍しちまってもいいわけだ。そしたら生まれてくるのはあんたの子だ。今のおまえの顔は嫁さんの出産を待つ旦那の顔だよ。」
「郁太郎...」
「さ、あとはオレがかたしといてやるから、さっさと病院へ行きな!」
「ありがとう、恩に着るよ!」
宗佑も前掛けをはずして店を飛び出す。郁太郎はみんなを追い出した後先に祝杯を挙げ始めた。
「宗佑も菜々子が亡くなって3年だ。まだ若いんだから幸せになっていいんだ。真面目で、親思いで、いい奴なんだからな。」
そう言いながらビールを注いでいた。
 
 
「母さん、椎奈ちゃんは?」
産婦人科に駆けつけた宗佑は小脇に抱えていた圭太をおろすのも忘れてそう叫んでいた。
「とうちゃーん!おーろーせーよぉ!」
「ああ、ごめん」
「今がんばってると思うよ。中に入ろうかと思ったんだけど、破水してるから早く出した方がいいって、もう分ぺん台に乗ってるんだよ。」
「しいちゃん、あかちゃんうまれるの?ねえ、どっち??」
「圭太はそんなにどっちか気になるのか?」
「だってしいちゃんとやくそくしたんだもーん。男の子ならぼくの弟分に、女の子ならお嫁さんにしてもいいんだって!」
女将と宗佑は無邪気に笑う圭太を微笑ましく見守った。そしてドアの向こうから産声が聞こえるのをひたすら待った。
 
ドア越しに赤ん坊の第一声がかすかに聞こえた。しばらくしてそのドアが開けられた。
「ご家族の方ですか?どうぞ...これだけは着てくださいね。」
差し出された不織布の衛生服を着せられてそっと入室する。
「椎奈ちゃん...」
そこには赤ちゃんを胸の上に置いてもらってご対面中の母と子の姿があった。
少しやつれたような椎奈だったが、その表情はまるですべての世俗から切り離された聖母マリアのような穏やかなほほえみをたたえていた。
「よく頑張ったね...」
女将が涙ぐむ。その横でマスクまで付けさせられた圭太が、ぴょんぴょん跳びはねて『どっち?どっち?』と必死で聞いている。仕方なく宗佑が抱き上げて見せてやるが圭太にもどっちかなんてわかるはずもない。
「圭太くん、女の子だよ。」
椎奈が身体を少し動かしてその顔を見せてやる。
「うわぁ、じゃあぼくのおよめさんだね?」
もごもごと返事して圭太は喜んだ。
 
(あたしの赤ちゃん...)
長い陣痛の後、生まれてきた赤ん坊はまだ肌も名前の通り赤く、誰に似てるかなんてまだわからないほどで...
(でも...工藤に似てるといいな。あいつに似たら絶対美人になるから。)
壊れそうなその柔らかい身体をおそるおそるそっと撫でる。
(これから、がんばろうね。おかあさん、絶対にがんばるからね!)
保育器の中に戻されて、病室に戻されて眠りにつくまで3人は家族のようにずっと付き添っていてくれた。
(一人じゃない...寂しくなんかないよ。圭司...)
引き込まれるように眠りに落ちる椎奈の唇がそっと愛しい人の名を呼んだのを聞いていたのは圭太だけだった。
 
 
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〜あとがき〜
はぁ〜〜産まれました!苦しかったよ〜〜〜妊娠期の不安さをもっと書こうかとも思いましたが、ちょい辛いので止めました。切迫流産切迫早産経験者です。理由は仕事のしすぎ(笑)
で、皆様どっちか当たりましたでしょうか?圭太くんの存在が影響しました。女の子です。いい名前ないでしょうかねぇ...?


 

 

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