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昼の月・夜のお日さま

2.見えなくなったお日さま

「うっ...気持ち悪い...」
しばらくすると日向子の悪阻が始まった。ただでさえ若い妻に甘い宗佑は仕事を休むように言い出す始末だが、それなりに仕事に打ち込んできた日向子は言うことを聞かない。電車で通ったりしていたが、宗佑が自ら車で送り迎えをしはじめた。
(コレがオレのとうちゃんか?)
圭太が疑うほど今までになく妻にメロメロな態度を見せる父親に呆れた。今まで息子の前では結婚する前とそんなに変わらない態度で日向子に接してきたのだ。
去年、菜月に言われて、祖母と両親の間を行き来して寝るのをやめた。今では一人で寝起きしてる。たまに日向子が一緒に寝ようと言ってくれるのだが、父親に『寝ぼけてお腹を蹴ってはダメだから』と止められた。楽しみにしていた親子ハイキングも日向子ではなく宗佑が来た。参観日には二人揃って来てくれるのはいいが、少し大きくなったお腹を抱えた日向子を守るような宗佑の姿が他の母親達の好感を呼んだのは言うまでもない。

年の瀬をなんとか越えたものの、日向子の疲れは溜まっていく。身体が思うように動かせないストレスもあるし、中には妊婦が仕事することに対しての配慮が全くない男性も世には多くいるのだ。移動に電車を使っても、席を譲って貰えることも稀だったし、書類を取りに役所へ行っても、無遠慮にぶつかってくる人もいる。
だからこそ気遣ってくれる人の優しい心使いがより一層身に染みるのだが...
「日向子、大丈夫かい?今日は本当に辛そうだよ、無理しない方がいいんじゃ...」
「ん、でも今日の案件はあたしがずっと手がけてきた物だから、最後までちゃんとやりたいの。」
日向子の意志は強い。しかし無理は見えている。日向子の勤め先は宗佑の知り合いの所長のやっている事務所でもある。今の仕事先の社長でもある先輩の紹介だから無理もきくし、日向子の情報もすぐに入ってくる。
『いや、無理するなとは言うんだけど、日向子ちゃん一生懸命だと聞かないだろう?ちょうど母子家庭の家でね、かなり入れ込んでる見たいなんだ。それにね、相手側がどうも彼女が妊婦なのをいいことに時々無理言うらしくって...弱音吐かない子だから、余計にね。」
心配なんだと、日向子の勤め先の所長が話してくれた。


「日向子、顔色悪いよ」
「だ、大丈夫です。今日も少し遅くなるから先に帰っててくださいね。でないとあたし気になって...」
「いくらでも仕事しながら待ってるよ。終わったら連絡しなさい、迎えに行くから。残業すればするほどうちの社長は喜ぶからね。でもな、無理はダメだって言われてるだろう?検診で貧血もずっと引っかかってるし、悪阻もとうに納まってるはずなのにまだ時々気分悪そうだろう?無理しすぎなんだよ、わかってるの?」
駐車場でそんな押し問答があったにもかかわらず日向子は夜の10時を回るまで仕事を続け、そしてとうとう事務所で倒れた...


「切迫早産ですね。貧血も酷いですし、嘔吐まではなくともむかつきはあるみたいですね?悪阻で満足に食事を取られてなかったようですね。今晩点滴をして、様子を見て入院って事になるでしょうね。子宮口も少し開きかけてますね。かなりお腹が張ってますし、このままじゃ赤ちゃんがもたないですからね。早く生まれるとそれだけ赤ちゃんに負担がかかってしまいます。お母さんのお腹にいる倍の時間保育器に入ってなければならなくなりますからね。とにかくリラックスして休息することが大切ですよ。」
運び込まれた救急病院の産婦人科の医者がそう説明したのを宗佑は真っ青な顔できいていた。
丈夫で元気な日向子が倒れたとこで、身体の弱かった妻がいなくなった時のことを思い出してしまったのだ。救急病院の出入り口、あわただしい機材の音、夜中に倒れた妻を何度か病院に運んだことを思い出してしまい、いらぬ不安に駆られていた。
「日向子、頼むから...無理しないでくれ!」
「...宗佑さん?」
「怖いんだ...今、日向子がいなくなるとか、僕には考えられない!前は...菜々子の時は、ずっと覚悟していた。だけど、今の僕には覚悟どころか、対応することも出来ないほど日向子が必要なんだ。おねがいだから、もう、無茶はしないでくれ...」
はじめて見る、宗佑が日向子に縋り付いて嘆願する姿を。こんな、宗佑の脅えたような態度に日向子は驚いた。いつだって穏やかで優しくて頼りになる夫が、まるで子供のように不安に震えている。
(この人は、一度とても辛い想いを通り過ぎてきた人なのだ。だからこそ、もう二度とそんな辛い目に遭わせてはいけない。)
日向子は自分が随分と宗佑に甘えっぱなしだったことに気がついた。いつだって休みなさい、無理をしてはいけないと気遣ってくれていたのに、日向子は自分の丈夫さを過信しすぎていた。ストレスや加重労働は思った以上に妊婦である日向子の身体を痛めつけていたのだ。
「そうだよ、日向子ちゃん。今の案件は誰かに任して、君は事務仕事に回りなさい。勿論しばらくはお医者様の指示に従って入院だ。これは所長命令でもあるよ。」
「はい...わかりました。」
悲しげに俯く日向子を宗佑は抱きしめたけれども、日向子の心は酷く軋んでいた。手放したくない仕事、けれども何よりも大切なお腹の中の命、比べようがないけれども、選ばなければいけなかった。
「うう、宗佑さん...悔しい!!あたし、最後までやりたかったよ!」
所長が帰った病室で宗佑にしがみついて泣く日向子に、今は安静にしなければと宗佑はその身体を何度も抱きしめ撫で続けた。
日向子はそのまま病院に入院することになった。宗佑も最初の夜は日向子の精神的な不安を考慮して病室に泊まることにした。
圭太はそれを祖母から聞いてじっと考えていた。
日向子は仕事よりも赤ちゃんを選んだ。自分よりも仕事を選んだはずなのに...
じゃあ、赤ちゃんが生まれて来たら自分はどうなる?
不安が押し寄せてきて、圭太は菜月に聞いてみた。翌日は土曜日で学校もないことから菜月の母のサチが気を使って圭太を自宅に引き取って泊めたのだ。
「しょうがないわよ、うちだってお腹に赤ちゃんがいるときは最優先だったもの。でもね、生まれてきたら実感するわ。大人って小さい方が可愛いのよ。泣けばそっちに行くし、赤ちゃんをだっこしてるときのお母さんの顔ってすごく優しいんだけど、それは今の自分には向けられるものとは違うのよ。圭太はそういう覚えはない?」
思い出す。椎ちゃんは出産の後なかなか動けなくていっぱい助けてあげないとって、随分頑張ったものだ。だけどあの時は椎ちゃんはまだ他人で、自分は母親ってものを知らなかった。
今は...日向子が母ちゃんになってくれて、すごく嬉しかった。もう遠慮しなくてもいいって言われたし、思いっきり甘えても、人前で『かあちゃん』って呼んでもいいって言われてすごく嬉しかった。自分だけのお母さんが出来た喜びはひとしおだった。大好きな日向子が母親になってくれて、ずっと一緒に住んでくれることになったから。それまでは、また椎奈の時のようにいつか出て行ってしまうと言った不安が絶えずあったのだ。
今じゃ、誰もが日向子が自分の母親だって知ってるほどだ。
(だけど、それも全部生まれてくる赤ちゃんのモノになっちゃうのか?)
「いいのよ、おねえちゃんおにいちゃんは我慢してれば。あたしなんて我慢し慣れちゃってるけど、圭太は慣れてないものね。いつだってみんなの優しさを独り占めして...郁太郎だって、圭太や葉月のほうが可愛いんだもの。」
少し皮肉めいた菜月の言葉にも圭太は気がつかない。
「そんな...じゃあ、オレどうしたらいいの?」
「さあね、今日は宗佑さんも病院でしょ?圭太が居なくなっても誰も気がつかないんじゃない?うちだって、お母さん圭太を泊めるって言ったけど、布団を持ってきたきり葉月の世話でしょう?あたし達ぐらい大きくなれば何でも勝手にしろだもの。」
「居なくなっても、わからない...?」
「たぶんね、あたし達が学校行ってる間も、ずーっとお母さんは赤ちゃんのモノなんだもの。ただいまって言った後は晩ご飯までほったらかしだし。圭太?」
黙りこくった圭太が顔を上げた。
「行こうよ、菜月ちゃん!」
「え?どこへ?」
「オレたちが居なくなっても気がつくかどうか、家出するんだ!」
「だから、どこへ行く気?アテなんか無いでしょう?」
予想していた通りの応えに菜月は笑った。
「えっと...あ、愛華ちゃんのとこ!愛華ちゃんも同じ気持ちかも知れないじゃないか?だから愛華ちゃんのトコに行くんだよ!」
「あんた、それがどこだかわかってるの?」
「えっと、大阪?」
「そうだよ、住所は?知らないでしょ?」
「あるよ、たしか年賀状に...菜月ちゃん家にもあるでしょ?同じ年賀状。」
「あるわよ。」
それは確かにあった。オマケに菜月はいつでも電話しておいでと、愛華の父親の圭司に名刺ももらっている。そこには圭司の勤め先の電話番号も、携帯のナンバーも書かれていた。
「オレ、お年玉貯めてたの持ってくる!それがあれば大阪まで行けるよな?」
「い、いくらかかるかわからないけど、あたしだってそれぐらい持ってるわよ。お年玉使わずにおいていたもの。」
二人は真剣な目で頷きあった。

作戦決行!

圭太と菜月は朝ご飯のあと、荷物をまとめるとこっそりと出掛けたのだった。

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