〜月がほほえむから番外編〜
郁太郎のジレンマ8

それからしばらくは、宗佑と日向子に会いにくくって、飲みあるいていた。
これって、サチに置いてかれてから振りぐらいだな。
あの時は女適当に口説いてたけど、今はそんな元気もねえ。

実は…
忘れられねえんだよ、サチの、あいつの顔が…
あの時の泣きそうな顔や、昔の怒った顔の後に見せる悲しそうな表情とかを思い出しては胸が痛かった。

飲み足らねえな。

仕事の打ち合わせで都心まで出た時、業者と食事して別れた後も帰る気になれずに、こぎれいなクラブに入った。
初めての店だったので、女の子が適当についてくれるみたいだった。
「いらっしゃいませ、こちら初めて?」
「ああ… えっ?  サチ?」
「郁太郎!」
なんて偶然だよ、こんなとこで出会うなんて…って、ホステスなんかやってるのか?コイツは事務職でも何でも出来たはずだぞ?何でだよ?
「ここに勤めてたのか…」
一瞬席を立とうとしたサチだったが、マネージャーらしい男に睨まれて腰を下ろした。
「そうよ、いけない?」
サチはそれっきり黙ってオレに水割りを作った。一応、ボトルキープしたんだけどな、いかにもまた来る気なのかって目されて辛かった。

しばらくは気まずい思いをしながら飲んでたんだが、ウエーターに何事か囁かれると、サチは真っ青になった。
「どうした?」
「お願い、何にも言わずに、店から連れ出してくれる?」
「構わないが、どうした?おまえ顔色悪いぞ?」
「もう、いいから!!」
サチはマネージャに言って店を出た。
「ごめん、もう、来ないでね。」
そう言ったサチは足早にタクシーを拾った。おれは思わず一緒に乗り込んだ。
「なによ、帰ってって言ったでしょ?」
「気になるだろう?そんな顔しやがって…」
サチは携帯を操作してどこかへかけていた。
「ああ、ごめん、で、どうなの?熱は?高いのね。ぐったりって…返事しないの?そう、じゃあ、いつもの小児科に電話しておくわ。タクシーだからアパートに寄って、そのまま病院へ連れて行くわ。」
タクシーは一軒の古びたアパートの前に止まると、すぐさま一階の部屋から毛布を抱えた壮年の女性が出てきた。
「菜月ちゃん、さっきからぐったりなっちゃって…ごめんよ、ちゃんと見てたんだけど。」
「いいのよ、おばちゃん、熱があるのに仕事に行ったあたしが悪いのよ。今朝から食欲も無かったのに…とにかく病院へ連れていくから。」
そう言って受け取ったの毛布の中身は、4.5歳の女の子だった。
「おまえ、子供がいたのか??それもこんな…えっ……」
4.5歳?サチが出て行ったのが5年半前…
「まさか…サチ?」
「うるさいわね!病院に着いたら、このタクシーゆずるから、代金ごと帰って!」
相変わらずしっかりしてるけどよ、誤魔化すな、どう計算したって、この子は…
「なあ、この子…」
「あたしの子よ。あたしだけの子!判ったらごちゃごちゃ言わないで!!」
高い熱を出して真っ赤な顔をした子供の頬を冷たい指先で冷やすサチは、母親の顔をしていた。
ほんとに、たとえるなら聖書に載ってる聖母様のような…
これがサチ…
今まで見てきて、見てなかった、女の本当の表情。

「あたし、両親が早くに死んで、男を利用して生きてきた。だけど、いい男見つけて結婚して、家族っていうのを作りたかったんだ。だけどあんたに惚れて、押しかけて、でも、あんたには惚れてる女がいて、いつまでたってもあたしを見てくれなかった。娼婦のように毎晩抱くだけ…いつだって菜々子さんの方が大切だったじゃない!だから…あたしはあんたと別れた。その時だって、引き留めもしないんだものね。ほんと、冷たい男だったわ。あの日だって、ずっと起きて待ってたのに…帰ってこないし、嫌だって言っても無理矢理スルし…もう、惨めで惨めで、あんたの側には居られなかった。この子はあたしの子、あたしだけの子。郁太郎には関係ない。」
「サチ…違う、オレは…」
つきましたよと言われて、タクシーのドアが開く。オレは代金を払ってサチの後を追って病院の中に入っていった。

子供は、高熱で脱水症状を起こしていたらしかった。すぐさま点滴を受けていた。
名前の菜月という漢字は病院のベッドのタグで確認した。菜々子の菜の字だった…
どんな気持ちで、サチは菜月と付けたんだろう?オレと別れてから5年、どうやって来たんだろう?
オレの覚えてるサチは、派手で、買い物好きで…子供なんか欲しがりそうになくて…
あの頃のサチは、避妊しようとしてなかった。
オレがゴムを付けたり、外に出すと不服そうにした。だから何度かそのまま中だししたけどよ。
ただ単にエロイからだけだと思ってた…
出来ていてもおかしくなかったのに、オレは…菜々子のことばかり気にかけて、サチを傷つけてたんだな。
「ね、いつまで居る気?入院になったんだから、もう帰っていいわよ。電車ないだろうから、さっさとタクシーでも呼んで帰りなさいよ!」
「サチ、なあ、ちゃんと話してくれ。この子はオレの子なんだよな?」
「…違うわ、あんたと別れた後に付き合った男との間に出来た子よ。」
「嘘つくなよ!どう計算したって、オレの子だろ?」
「じゃあ、浮気した子なの!」
「馬鹿やろう!あれだけ毎晩ヤッてたのにおまえが浮気する余裕なんかあるもんか!オレで十分身体は満足してたじゃねえか。」
「心が満足しなかったのよっ!他に女がいるより始末が悪いわよ…親友の奥さんに横恋慕して、足繁く通っちゃって…」
そんなに、嫌だったのか?オレは、ただ親友のうちに遊びに行くつもりで…サチも誘ったけど行かないって言うから一人で行ってた。
「サチ…いくらそう言っても、おまえが浮気するような女じゃないって、オレにだって判るぞ?おまえの身体はいつだってオレのこと好きだって言ってたじゃないか?オレだって…口には出来なかったけど、ちゃんと身体で表現してたぞ?オレなりにだけど…ただ、甘えすぎてたんだよな、ごめん。」
「い、今更謝らないでよ…謝ったって、あたしは…あたしは…」
オレはサチの身体を抱きしめていた。
救急外来の誰もいない点滴室、泣き崩れるサチにの姿に5年間の苦労が見えた。
「おまえも意地っ張りだよな…オレのこと頼れよ、いや、利用していい。何で肝心なときにおまえは意地張るんだよ。だけど…ホントにごめん…」
「馬鹿っ、せっかく今まで一人で頑張ってきたのに…なんで、今時分出てくるのよ…」
「そりゃ、運命ってやつだろ?」
「運命?」
「ああ、オレも、5年前なら素直になれなかったかもしれない…今なら、たぶん…」
「郁太郎…」
「なぁ、やり直せないか、オレたち…この子が居るから言うんじゃない。オレ、ちゃんと言えてなかったこといっぱいあるよ。だから…」
「……」
「もちろん、この子を、その、幸せにしてやりたいってのはある。まだ父親としての自覚とかないけどよ…オレ、意外と子供好きだってしってたか?」
「知らなかった…あんた作るの逃げてたじゃない?だからてっきり嫌いなんだって…だから、あの日、この子が出来たこと言おうと思ってたけど、やめたんだよ…郁太郎は喜んでくれないって…」
「そんなの決めつけるなよ!オレは…サチだけは、オレから離れないって、信じ込んでた。だから居なくなったとき腹も立った。だけど、オレの訳のわかんねえプライドが邪魔したし、第一おまえの連絡先オレ知らなかった…いや、一度も聞こうとしなかったんだよな?ホントにオレが悪かった…やり直し、させてくれ。」

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