風花〜かざはな〜
47
手淫や口淫が与える衝撃は、本物の交わりに比べれば可愛らしい物だったのだと、ゆき乃は身体に教えられた。初めて男性を身体の中に受け入れ時、痛みとともに痺れが走る。その衝撃は甘く、激しく、すべてに翻弄された。
恭祐の激しい思いを受け止め続けて、ぐったりとなった彼女が目を覚ましたのは既に夕方だった。部屋には夕陽が差し込み、白いシーツも白いカーテンも茜色に染め上げていた。
「起きられる?」
優しい恭祐の声に、ゆっくりと身体を起こす。
「あの、ちょっと、辛いです...」
「ゴメン、無理をさせてしまったようだね。」
ゆき乃がいけないんだよ、と甘く囁かれてキスされると、もう何にも言えなくなる。
「今からでも病院へ行くかい?心配なんだろう。」
「それは恭祐様も、ですよね?」
ああ、と答えて恭祐はバスルームから持ってきた着替えに袖を通した。ありきたりの白いシャツとグレーのスラックス。ウエストが緩かったのでベルトで絞っていた。ゆき乃も差し出された衣服を身につける。これも普通にテーラード襟の白いブラウスに膝丈の紺色のタイトスカートだった。ブラウスは少し胸の辺りがキツく、胸元が開いて見えたのでゆき乃は恥ずかしげに胸元を寄せた。
「煽ってるの?」
「そ、そんなことありません!!」
恭祐は真っ赤な顔をして拒否するゆき乃の腰に腕を回し引き寄せる。
「あはは、中身を僕以外に見せないなら許してあげるよ。」
そう言った恭祐は、ゆき乃の額にキスを落としながら出発を促し玄関へ向かった。
「車を手配しないといけないな。」
そう言って外を確認に出ると一台だけ車が残っていた。その車のボディに身体を預けて、空を見上げたまま紫煙をくゆらせているの男が居た。
力也だった。
外は既に日が落ち、白んだ空には宵の明星が輝きはじめている。対になった上弦の月は夜が闇に近いことを示している。
「力也...もしかして、ずっと待ってたのか?」
「やっとお出ましか?ったく待ってるこっちの身にもなれよな...」
にやっと口の端をあげて笑う、相変わらず皮肉っぽいこの仕草。
「ご、ごめんなさい、力也くん!!」
真っ赤な頬に、泣きそうな表情をのせたゆき乃に謝られては、力也もそれ以上はからかいようがなかった。
「病院、行くんだろう?野本の連絡じゃ、命取り留めたってよ、宮乃原の親父さん。」
一瞬、恭祐の身体から力が抜けるのがわかった。
先ほどまでゆき乃を抱き、そうしなければならないほどの状態に追い込んだ張本人の生死はあきらめてはいたものの、助かると聞いて安堵は隠せなかった。
「そうか、ありがとうな、力也。慶子さんも、母に付き添ってくれたんだってな。」
「ああ、あの女は度胸据わってやがるからな。連れてきて正解だったようだ。あいつのアパートには他の友人たちが連絡の中継に残ってくれてるしな...って、何だよ、恭祐?」
くすくすと笑いを堪える仕草を見せる恭祐に、力也は嫌そうな視線を向ける。
「いや、仲いいなと思ってな。この間から、彼女とさ。」
「彼女って、慶子さん?」
「ああ、彼女の部屋を連絡の中継所にさせてもらってたんだけどね、いつ行っても居るんだよ、力也のやつがさ。それも態度でかくて、まるで自分の部屋のように...」
「なんだよ、オレは心配してだな、ああ、もう、うるさいっ、早く乗れよっ!」
笑いの止まらない恭祐と、きょとんとしたゆき乃を車の後部座席に押し込むと、力也は車をスタートさせた。
「力也くん、あの、ありがとう...すごく心配かけたんだよね?」
「あ、ああ、こいつから連絡もらってからは、生きた心地しなかったな。それは恭祐もだろうけど、慶子も桐谷らも心配してたぞ?彼女らには慶子が病院から連絡は入れてるが、余計なことは言ってないと思う。それでもあの連中のことだから薄々気がついてるとは思うがな。よくもまあ、あんなに癖のある友人ども見つけたなぁ、ゆき乃。」
「え、そうかしら...皆さん良い方ばかりだわ。あたしにも優しく接してくださるし、色んなことを教えてくださるわ。そうそう、力也くんは学年が違うから知らないかもだけど、慶子さんなんて女性ながら首席で入学の才媛だし、萌恵さんはミス候補にまで選ばれたし...詩織さんは大学の構成委員会に入ってらしてどなたからも一目置かれてらっしゃるのよ。本当に、あたしなんかとお友だちになってくださったのが不思議なほどなのよ。」
「確かに、個性的で才媛ぞろいではあるけれども、どちらかといえば、ゆき乃が見つけられたって感じだよね、あの3人は。」
恭祐もあの3人のことは認めていた。だからこそ秘密をも告げてゆき乃を託したのだ。
「アイツそんなにできるのか?くそ、通りで偉そうだと思ったよ。」
ぶつぶつと小さな声で毒づく力也に、恭祐が面白そうに後ろからその横顔を覗き込む。
「おまえの物言いの方がよっぽど偉そうだけどな?」
「ちぇっ、まあ、確かに敵わないし、たしかに味方に置いとくと心強い女だよな。」
垣間見れる力也の表情が照れくさそうで、やけに幼く見えたのだけれども、ゆき乃は微笑むだけで口にはしなかった。自分を大事にしてくれる力也と慶子が、今回の事が元で仲良くなったのだとしたら、少しは喜ばしいことだと思えた。嫌な思いもたくさんしたし、その思いが完全に消えたわけでもない。だが、明らかになったこともたくさんある。恭祐と本当の意味で結ばれることが出来たのも、このようなことがなければ思い切れなかったかもしれない。つらくとも、今は幸せだとしか言いようのない気持ちで居られるのだから...
「おい、勘違いするなよ、ビジネスパートナーとしてのことだからな!恭祐が社長として宮之原に戻ったら今のR&Kコーポレーションを一緒にやっていくのは物理的に無理になるだろう?だったら俺も手伝ってくれるヤツを探さないといけなくてな、彼女が興味あるって言ってたから、手伝ってくれるかなって...」
「なるほどね。確かに...力也には済まないが両立は無理だろうな。しかし慶子さんか...イイ人材に目を付けたね。僕のトコにも欲しかったな。」
慶子は、綺麗な顔立ちをしているのに、いつもひっつめ髪に縁のある眼鏡で化粧っけのない彼女は男性を寄せ付けない勢いがあった。萌恵も詩織もそれなりに着飾るのに、シンプルなシャツブラウスと黒っぽいタイトスカートが定番だった。かなりな才女であることも男性に気後れさせてる理由なのだが、なによりも対照的な力也とは、最初の出会いの時から喧嘩しそうな勢いだったのを思い出す。男性と対等に渡り合える力を彼女は持っているのだ。
「何言ってやがる!野本が居るだろう?あの喰えねえ忠犬野郎!おまえに惚れまくってるじゃないか?それに...ゆき乃が手伝えば問題はないだろう?こいつは何をマネージメントさせてもそつなくこなすだろ?」
「そんな、かいかぶりよ。あたしは何もできないわ...」
「そうかな?館一つを回せるってことは、それなりに力がないとできないと僕も思うよ。」
「今ゆき乃が勉強している内容も、全部会社運営には役に立つ事じゃないのか?」
ゆき乃が専攻している法律は確かに役に立つだろう。だが自分が慶子のように会社の組織の中で渡り合って行くことができるとは思えなかった。」
「僕は...ゆき乃を会社には連れて行きたくはないな。他の男に見せたくない...」
ぼそりと恭祐が口にしたのを力也が聞きつけて囃し立てた。
「なるほどな、独り占めしたいって訳か?」
力也の笑い声と共に、車内は明るい話で盛り上がっていた。だけど病院に近づくに連れてゆき乃の緊張が高まっていった。
「大丈夫だから、ゆき乃。僕がついてるだろう?」
恭祐はそう言って何度もその緊張で冷たくなった手を握りしめ、運転中の力也の目を盗んで額や頬に何度かキスを落として彼女を落ち着かせた。
ゆき乃はどんな顔をして宮乃原に会えばいいのか思い悩んでいた。されたことを考えれば今更父と縋るつもりもない。罵るつもりもない。命を取り留めたのならば、聞いてみたいことはいくつかあった。それは恭祐も同じだった。
「恭祐様!」
病院に着くと野本が飛んできた。彼は恭祐らの姿を見つけるまでは、壮年の男性と病室の前で話し込んでいた。
「父は?」
「命は取り留めました。今は麻酔が効いて眠っていらしゃいます。苑子様も鎮静剤が効いていてよく眠られています。あちらには清水様が付いていてくださってます。あの、こちらは...」
野本が視線を向けると、その男は静かに頭を下げた。短く刈り込んだ髪には白い物が混じっていた。
「竹村と申します。新崎に仕える前は妙様のご実家、東野家に仕えておりました。新崎より、自分に代わって恭祐様の力になるようにと仰せつかっています。しばらくは出向という形でお世話になりますので、何なりとお申し付けください。」
「いいのですか?あなたも新崎での仕事が...」
「私が妙さまの力になりたいと、それが新崎に仕える以前からの私の意志だと、新崎さまはご存知でしたから。あの、ゆき乃様...」
竹村の視線がゆき乃に移った。
「大きくなられて...あなたのお母様が出産なさったのは、私の母の実家だったのですよ。」
「実家?あの、母を...知ってるのですか?」
「妙様に頼まれて、あなたを身篭られた志乃さんをお預かりしました。私は妙様の連絡役として何度も志乃さんと、生まれたばかりのあなたにお会いしております。志乃さんは産後の肥立ちが悪く、長く臥せっておられたので、生まれたばかりのあなたの面倒をしばらく母とみてたんですよ。」
静かに答える竹村は優しい視線をその目に宿していた。
「あのっ、お聞きしていいですか?母は...私を産むことを、厭わなかったのでしょうか?お腹の子供の父親が、異母兄だと知っていたはずなんです、無理やり...されて、それであたしが出来てしまって。母は...母は幸せだったのでしょうか?」
今までずっと問いただしたくても問いただせなかった思いを吐露するゆき乃だった。誰にも本心を明かすことなくこの世を去った母の真の姿をこの人は知らないだろうか?母が自分を産むまでを見ていたこの男にならわかるかも、ゆき乃は聞いてみたくなったのだ。
「ゆき乃...」
答えを待つゆき乃の肩を恭祐がそっと抱いた。高ぶる気持ちを宥めるように...
「お幸せそう、でしたよ。時々寂しそうに山の背に夕日が沈むのを見ていらっしゃいましたが、大きくなっていくお腹を、幸せそうなお顔でずっと撫でておられました。」
「幸せそう...?本当ですか、父を...お館様を恨んだり、憎んだりとかは...」
「いえ、誰かを恨んでおられるようではありませんでした。むしろ、どなたかをずっと想もわれている様な、そんな気がいたしました。そしてあなたの誕生を心から待ち望んでおられた、私にはそう見受けられました。」
「母が、誰かを...」
(それは、お館様?あなたは、あの人を恨んでいたのではなかったのですか?身体を奪われ、娼婦のように扱われても、それでも、あなたの思いはどこに...あたしを産むことを、戸惑うことはなかったのですか?)
弱った身体が戻ることなく、短い命を閉じた母。生きていたなら聞いて見たかった。母は、お館様を憎んでは居なかった、その事実だけがゆき乃の心を軽くした。
「新崎は私が妙様のために動くことを許してくれていました。私も落ち着くまでは妙様を救うことができなかったのですから...しかし、妙様はご主人様亡き後、私がお仕えするべき方です。ですから、宮乃原のことも妙様よりお聞きしたことは存じています。志乃さんと言葉を交わすことは余りありませんでしたが、妙様が志乃さんを妹のように気にかけてらしたので、しばらくはお側に付いておりました。生まれたばかりのあなたを愛しそうにずっと抱いておられました。しばらく新崎の仕事で実家を離れている間に志乃さんは体調を崩されて、その病気が元で亡くなられてしまいましたが、その時遺品で残されていた物とあなた様を祖母の元へお届けしたのも私です。それ以降は妙様に申しつかって定期的に様子を見させていただいておりました。おばあさまが亡くなられたあと、再び私の実家にお迎えしようとした矢先に宮乃原様がいらして引き取っていかれたのには驚きましたが、それもよろしかろうと、妙様も...」
「妙さんはすべて知っていたのですか?」
「いえ、私が志乃さんの手紙を届けるまでは、はっきりとはご存じなかったようです。けれども薄々お気づきになられていました。」
「そうですか...母の、話を聞けてうれしかったです。ありがとうございます。」
こんどはゆき乃が深々と頭を下げた。
「いえ、もっと早くにきちんとお伝えしていれば...宮乃原様もこのようにお苦しみになることもなかったかもしれません。私などがしゃしゃり出ぬ方がいいと、すべてを胸のうちに置いていたことが、裏目に出てしまった。申し訳ありませんでした。」
「そんな、もう...済んだこととしなければなりませんから。」
「僕も、今は父を許すとか許さないとかではないとおもっています。命を取り留めた今、父にもやらねばならないことがあるでしょうから。」
恭祐がゆき乃の肩を抱いて強い視線を竹村に向けた。
「そうですか、あなたがいらっしゃるなら、宮乃原の建て直しに私も力をお貸ししようと思うのです。妙様が『恭祐坊ちゃまとゆき乃様』を大事に育てて来られたのは存じておりますから。立場上お二方には厳しく接しなければならないと、妙様もずいぶん心を痛めておられました。」
「それは、僕たちもよくわかっています。妙がどれほど僕たちのことを考えてくれていたか。実質僕らは彼女に育てられたようなものですから。」
「お母様のこともお聞きしました。いえ、決して他言はいたしません。あれからすぐに調べさせたのですが...苑子様のお従兄弟でいらっしゃった『亮祐様』の消息なのですが...」
「わかるのですか?」
「こちらの野本さんも調べておられたようですが、苑子様の兄上に問いただしたらすぐでしたよ。残念ながら、もうずいぶん前に亡くなられたそうです。あまりに恭祐様が亮祐様に似てこられるものですから、ご家族も驚かれたようです。恭祐様のお名前も、生まれた子供にすら見向きもしない宮乃原様へのあてつけのようでしたが、まさか、と、苑子様も思われていたのでしょう。だから、従兄弟に年々似てこられる恭祐様への苑子様や実家側の態度もおかしくなったのです。それ以前にお二人のことを、薄々気が付いておられたご実家側が九州地方の支社に左遷し、苑子様とも連絡が取れないようにし、亡くなられたことも伝えなかったそうです。身内の不貞が露見しないようにと、実家への出入りも禁止し、恭祐様にあまり構われなかったのもそのせいだそうです。」
「そう、だったのですか...」
落胆して、肩を落とす恭祐に野本が苑子の病室の扉の方を眺め見ながら小さな声で告げた。
「新崎の力で聞き出して頂きました。正面からでは教えてはいただけませんでしたので。けれども、実際、本当の事など、苑子様にも、どなたにもわからないのでしょうね。」
「真実など、もう、どうでもいいんですよ。今は、ゆき乃を幸せにすること、それだけが僕の真実だから。だから、宮之原も全力で護ります。僕の力でね。」
恭祐の目にはもう迷いも、曇りも残っては居なかった。
眠る父を、母の寝顔を見て恭祐とゆき乃はその夜を病院で過ごした。
慶子は遅くならないうちにと力也が送っていった。
落ち着き払った彼女は的確に苑子の病状を伝えたあと、ゆき乃を抱きしめた。苑子はまだ眠っており、目が覚めたとしてもまともな反応は期待出来ないと医者に告げられたと。心が壊れてしまった状態で、元に戻るには時間と環境が必要なのだそうだ。
「萌恵や詩織達と待ってるから、絶対顔見せに帰ってくるのよ?」
慶子の温かい胸に押しつけられたゆき乃は何度も頷いた。ゆき乃の傷を知っている彼女は何度もその髪を母のように撫でた。
野本の彼女からも、新崎が話をつけて、折原が一切を口にしない確約を取ったと連絡してきた。新崎は折原運輸の弱みを握れたと口元を上げて笑った顔が怖かったと、彼女から聞いて野本は苦笑していた。
「うちの弱みも大丈夫でしょうかね?」
「ご心配なく。」
竹村にそう答えをもらっても、野本は何らかの策だけ講じるつもりのようだった。その野本も明日からの業務に備えて戻っていった。竹村だけが残ったが、廊下に控えて待つつもりらしかった。
病院の薄暗い部屋の中、夜半に玄蔵の意識が戻るまで、部屋にいた恭祐とゆき乃は父親が目を開けるのをじっと待っていた。
「恭祐、ゆき乃...居たのか。」
目が覚めて看護婦を呼び一通り診察を受けた玄蔵は、薄ぼんやりと目を開けて自分を覗き込む影に目を凝らせた。
「ええ、どうですか、死に損なった気分は。」
医者は少しだけなら話してもいいが無理のないようにとのことだった。
「ふん、いい気はせんな...苑子はどうしてる?」
「鎮静剤が効いて眠ってます。しばらくはあの状態だそうですよ。壊れてしまった心を元に戻すのは難しいでしょうから。」
「そうか...恭祐、」
「はい」
「私は社長を降りる。後をおまえに任せてもいいか?」
「それは、そのままにとっていいのですか?」
「ああ、おまえは私の息子で、跡取りだ。」
「嫌です。」
きっぱりとした声が病室に響いた。廊下で竹村が立ち上がった気配がした。
「なっ、なんと?」
「恭祐様?」
玄蔵が思わず身体を起こそうとするのを恭祐はその肩を押さえて制した。
「大学ぐらい出させてくださいよ。社長業に復帰するまでは代行として動きます。その間に副社長や重役の選定を行いますから、復帰したらまず、社長権限でその通りの人事を行ってください。卒業後社長に就任した後スムーズに動きたいですからね。」
「おまえ...そうか、わかった。一度は復帰しよう。その後は、館に戻らせてくれ...苑子も一緒にな。」
恭祐のいつになく強気の発言だった。今まではこの父に畏怖の念を抱き、常に恐縮していたように思われた。それが今、恭祐の中に存在するこの強気の感情は、それらを乗り越えたものだったのではないだろうか。玄蔵のその弱り切った心に、恭祐の変化は心強く思われた。
「全てを、許してもらおうとは思わん。ゆき乃を...実の娘を傷付けてしまったことはもう取り返しもつかない。苑子をあそこまで追いつめたのも私だ。罪滅ぼしができるとも思ってもおらんよ。ただ...館に戻って、しばらくは考えたいのだ。自分がこれからどうするかを。やり直すにはあまりにも遅すぎたからな...」
時間が必要だと思われた。これからも生きていく限りは。
「代行として、やれるだけのことをやってくれ。できるだけ早く復帰しよう。その後は、おまえが卒業するまでに体勢を整えておく。だがその間、苑子は...」
「あたしが、奥様を見ます。」
凛とした声が二人を振り向かせた。
「ゆき乃?無理だよ、それは...おまえにも大学があるじゃないか?それに、僕の側を離れるのか?」
ゆき乃はゆっくりと頭を振った。
「今の奥様を放って置けません。それに、妙さんの事も気になるし...あの館のことが把握出来てるのは私だけです。違いますか?」
「それは確かに...だが、それではゆき乃が...」
「あの館は私の育った所です。大学は休学します。いずれ又戻ればいいでしょう?この間戻ったときも、全ての負担が妙さんにあって、あのままでは妙さんもゆっくり養生出来ませんもの。私が館を護ります。恭祐様とお館様は宮之原の会社をお守りください。」
「ゆき乃...お館様か...そうだな、今更、だしな。」
「はい、お館様はお館様です。父がしたことなら許せませんが、お館様がお戯れになさったことだと、もうしないと仰られるのならゆき乃は許せるかも知れません。」
静かな声だった。
自分たちの中にある真実を貫き通せばそれでよいのだと、皆が心を決めた夜でもあった。
「これでいいんだね?」
病室を出て、深夜の病院内の庭にゆき乃と恭祐は出てきた。
「はい、これでいいんです。」
恭祐はそっとゆき乃の身体を抱きしめた。
恭祐は東京で大学に通いながら社を立て直す為に動く。おそらく多忙な毎日が待っているだろう。そしてゆき乃は館に戻り、妙のように館を切り盛りしながら病身の妙と心の壊れた苑子を見るつもりなのだ。又離ればなれになってしまう。それが二人が選んだ道だった。
「きっと、迎えに行くから...待っていて。」
恭祐の言葉を胸に、ゆき乃は何度も頷き、恭祐に顎を捕らえられ、唇をあわせている間も静かに涙を流し続けていた。
終演に向かい後もう一歩。もうしばらくだけお付き合いください。 |
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