風花〜かざはな〜

「ゆき乃、ほら、珍しいお菓子をもらったんだ。一緒に食べよう」
ぼっちゃまは、いつもそうやってお菓子などを手みやげに屋根裏部屋を訪ねてくるようになった。
「ありがとうございます。これは見たこと無いお菓子ですね、なんて言うお菓子なんですか?」
「さあ、よくは知らないけど……舶来のお菓子らしいよ。今度はちゃんと名前を聞いてくるね」
わたしはいただいたお菓子を机の上のハンケチの上に置いてしばらく眺めた。わたし達下働きの者はお菓子なんて滅多に口には出来ない。ご飯はちゃんと戴いてはいるけれども……
お給金を貰ってる人たちはたまにお休みの日に出掛けた先で甘いものを口にして、その感想を楽しそうに話しているけれどもわたしには出来そうにないことだった。だから、たまにぼっちゃまが気まぐれで下さるドロップスやチョコレイト、今日のような珍しいお菓子がわたしには信じられないくらいおとぎの国のお菓子にみえた。
「じゃあ、勉強をはじめようか?その後屋根裏に出てこれを一緒に食べようね。今日は久しぶりに昼間に来れたから、ゆっくり出来るね。ゆき乃も今日はもういいんでしょう?」
ぼっちゃまは自分の時間が空いて屋根裏に出たいときには、勉強道具やおやつを持って部屋にいらっしゃった。勉強を教えるのが条件だと生真面目にわたしに少しづつ字や数字を教えてくださる。学校で習ってきたことや前にならったことを楽しそうに教えてくださった。それはたいていは夜遅くこっそりで、わたしの仕事が済んで部屋に戻ってきてからのことだった。その時間が楽しみで、わたしは冬場の辛い水仕事も、夏場の暑い中の草むしりも、思ったほど苦にはならなかった。

わたしの一日は朝4時半に起きて、他のお手伝いさんと一緒に5時からのお台所の下準備にとりかかる。冬の冷たい水は辛いけれども、朝の空気が一番に感じられるのは嬉しかった。それが終わるとお洗濯のお手伝い、簡単に庭の掃除はわたしの仕事だった。
7時になるとぼっちゃまやお館様達が食事をなさるのにお部屋から出てこられるので、わたしはそれが済むと、その後かたづけを済ませてから厨房の横にある雇い人専用の食堂で食事を頂くことになっている。
その日によってだけれども、ぼっちゃまが8時前に車で学校に向かわれて、8時半頃にはお館様がお仕事に行かれるのを玄関でお見送りする。奥様は日によって起きていらっしゃる時間が違うのでべつの者がお世話されている。なぜかあまりお顔をお見かけする機会が少ないのでよくはわからないけれども、すごくお美しい方だ。パーティに出掛けられる時など遠目で見送らせて頂くけど、そのドレス姿は本当にまるで女神様のようだとわたしは思った。
皆さんが出掛けられた後、まだ学校が始まっていないわたしは他のお手伝いさんと一緒に後かたづけをして、洗濯物を干してお部屋のお掃除をはじめる。
「ゆきちゃん、これ飲むか?」
「カメさん、いつもありがとう!」
厨房ではコックの亀田さんが残った牛乳を育ち盛りだからと言って、わたしにそっと差し出してくれたりする。
「おう、ゆきちゃん、これを持って行って飾ってもらっとくれ。後これはゆきちゃんの部屋の分な」
庭師の友造さんに応接間用の両手いっぱいの花を渡される。そのうちの枝の短くなってしまった一輪がわたしの部屋の分だ。
「ゆき乃ちゃん、全部終わったらわたしの部屋でお茶にしましょうね」
同じお手伝いさんの中で一番優しい貴恵(きえ)さんが昼食後や手の空いた時に誘ってくれる。やさしくて、あったかく笑う人でわたしのことを妹のように可愛がってくれた。
「ゆき乃さん、時間がありましたらお作法のお勉強ですよ」
女中頭の妙さんも口調は厳しいけれども色んなことをわたしに教えてくださる。ぼっちゃまや妙さんと話してると自然と言葉遣いも改まってくる。
仕事はきつかったけれども、わたしなりに何とかこなせていたと思う。みんな本当に優しかった。
ただし……
奥様がお部屋から出てこられてる時はわたしは厨房か部屋に戻りあまり表に出てきてはいけないことになっているらしい。
なぜかなんてわからないけれども、一度だけ知らずに玄関脇を掃除している時に奥さまが帰ってこられた時があった。
「早くその子をどこかにやってちょうだい。汚らわしい……」
わたしを見るや、そうおっしゃられて奥様はお部屋に入ってしまわれた。
「妙さん、わたし何か奥様のお気に触るようなことしましたでしょうか?」
幼心にもわたしが奥様に嫌われているのが判るけれども、一度もお話したこともないのに不思議でならなかった。
「いえ何もしていないわ。……でも、出来るだけ奥様が出てこられたら姿を隠しなさい。今日はもうお部屋に戻ってよろしいから、呼ばれるまで部屋におりなさい」
そのあと夕方に奥様がパーティに出掛けられるまで部屋から出ることはなかった。
そんな日だけ、わたしはなにもしなくていい。それはすごく嬉しいし、ぼっちゃまとも長く一緒に居られる。
ただ、なぜか、なんて考えちゃいけなかった。ここに住まわせてもらってる限り、わたしには逆らうことなんて許されなかったし、何かを望むことも許されなかった……


「ねえ、ゆき乃は4月から小学生になるんだよね?」
「そうですね、でも学校などに行かなくとも、ぼっちゃまにこうして教えて頂けていれば行かなくても構わないと思います。ゆき乃はぼっちゃまが出掛けられてからもお仕事がたくさんありますから……」
「おまえは……まだ6つだというのに、そんなに仕事させられてるの?」
ぼっちゃまはいきなりわたしの手を取った。
「ゆき乃は色も白いのに、こんなに手だけかさかさになって……」
可哀想にと、わたしの汚い手をさすってくださる。夏場はまだ少しはましになるのだけれども、冬場は本当にひどかった。
「へ、平気ですよ!コック長のカメさんもメイド頭の妙さんも庭師の友造さんもみんなお優しいです」
わたしは急ぎ手を後ろに隠した。ぼっちゃまの手のなんと柔らかなことか……わたしなんかとは全然違うきれいな手だった。
毎日水仕事をしていれば手は荒れて当たり前だった。優しい人もいるけれども、幼いわたしを都合よく使う人も少なくはなかったから……
「ここ、後やっておいてくれる?わたし奥様のとこに行かなければならないの。それなのにこんなとこに出入りした後で行けないでしょ」
そう言って奥様付きのチヅさんはよく道具を置いて行ってしまう。真夏の御不浄の臭いはきつく、薬をかけたり、綺麗に掃除しなければならないのに一人では無理があった。だからこそ手の空いてるチヅさんに手を貸すように妙さんに言われて神妙に返事したというのにあっという間に居なくなる。わたしは水を撒き、丁寧にブラシで洗い、ぞうきんで磨いていく。汚れの酷い部分はきつい洗剤を使ったりするので手はあっという間に真っ赤になる。
なぜか、奥様付きの人ほどわたしに対する態度が冷たかった。いいごたえでもしようものなら、すぐさま言いつけられてきつくお叱りを受けてしまう。その時だけは奥様の前に引き出されるのだ。そうしてその後、また妙さんにきつく叱られて、食事抜きで部屋に帰されたこともある。
そんな時はぼっちゃまに戴いたお菓子や、ドロップスを口にしていれば平気だったし、貴恵さんがコック長さんが作ったおにぎりをそっと運んでくれたりもした。
「ゆき乃、母様に叱られたって本当?」
遅くにそっとぼっちゃまが訪ねてこられることもある。そんな時はお勉強でなく、屋根裏の外に出て一緒にお星さまなど見たりして、その間ずっと側にいてくださる。
「きっとゆき乃は悪くないよ。母様時々訳もなく怒りっぽくなられるから」
優しいぼちゃまがいらっしゃったら、それすらも嫌なことではなくなってしまう。
けれどその理由がはっきりわかったのはしばらくしてからだった。

「ああ、嫌だ。なぜあんな子をうちに置いて、その上学校までやらせないといけないというの?」
その日、わたしは春から妙さんからぼっちゃまと同じ学園の初等部に通うように言われ、制服など用具一式を受け取った。少し前にぼっちゃまの家庭教師がわたしがどの程度出来るか、宮之原の名に恥ずかしくないかどうか知りたいと、お館様の言いつけで簡単な試験を受けた。簡単な読み書き、名前が書けるかとか、数字が書けるかとか、計算だとかだったけれども、そのようなものはすでにぼっちゃまに教わっていたので難なく答えていくので驚いて興奮する家庭教師の見ていないところでぼっちゃまと目配せしあって笑った。日頃からぼっちゃまに教わってるわたしは1年生程度の勉強なら十分に出来たものだから。その理由を問いつめられてぼっちゃまは、自分が使っていた教科書等をわたしにやったからだと説明してようやく納得して貰った。その話はすぐにお館様や妙さんに知らされ、はずかしくないどころか、そんなに出来るならと、普通の小学校でなく、ぼっちゃまと同じ学園に通わせよとお館様が言いつけられたそうだ。名前書いたりする準備が大変だったので、貴恵さんが、夜にこっそりいらっしゃいと、そうすれば準備を手伝ってあげると行ってくれたのでそっと彼女の部屋に行こうと階段を降りたった時に突き当たりの、奥様達のお部屋から大きな声が聞こえてきてしまったのだ。
「一応はこの宮之原に縁のあるものだ。すげなくは出来ないだろう?恭祐の家庭教師によると、既に1年生程度ならもう出来ているそうだ。これほど出来る子をレベルの低い一般の小学校ではもったいないとな。それをうちがしなかったら世間になんと言われるか……ただでさえあのように幼い娘を下働きに使って、それをおまえは……」
「貴方はそんなにあの娘が可愛いのですか?あの女の子供が……」
「苑子、なにを言うんだ?」
「知っておりますわよ、あの娘の祖母、ふみとかいう女がこの館に勤めていた折に貴方のお義父様の手が付いてたことは……それがお義母様に知られて出て行くようになるまでの数年間、あの娘の母親もここに住まわっていて、貴方ずいぶんとご執心だったそうじゃありませんの?娘にまで手が伸びようとしたのに気がついたふみが逃げるようにして出て行ったのは、貴方とお義父様が娘の志乃さんに同時に手を出そうとしたからだって聞いてますわ。わたしが嫁いできたのはそのすぐ後でしたがその噂は外にまで聞こえてましてね、あたくし一度だけその女を見に行ったことがありましたわ。海女をしている志乃という女……たしかに綺麗な顔をしていましたわね。いやらしい体つきをして、男に媚びを売って、それで暮らしてるような女だったわ。その娘のゆき乃……そっくりじゃないのっ、あの志乃とか言う女に!あんな顔見たくもないわっ!側にいることすら腹立たしいのに……貴方は飽きもせずにそこら中に女ばかりこしらえて、もしかして、ゆき乃が成長するのを待つおつもりなの?」
がしゃんと何かが壊れる音がした。
「なにを馬鹿なことを……そう言うお前も火遊びはいい加減にしてもらいたい物だな!若い芸術家気取りの男にいくら貢いだら気が済むんだ?」
言い争いは続く。わたしは部屋の前をそっと逃げるように立ち去った。
そうか、奥様はわたしが母さんに似てるのが気に入らないんだ……
だから、と、今までのあの嫌われ様もよくわかる。
奥様の前に出来るだけ出ないようにしなければ、それだけは守らなければここにすら居ることは出来なくなる。
ここを出て、あの村に戻っても何とかなるかもしれないと思っていたが、今となってはここにいるみんなが好きだし、優しいぼっちゃまもいる。
わたしはここに居たい。その為には……そう心に強く決意した。

        

続けて…まだどんなお話かわかんないですよね?(笑)
少しづつでも背景が見えてくればいいんですけれども…では、3話の推敲してきます〜