風花〜かざはな〜

15


「恭祐様、朝ですよ」
「ん……もう?」

結局わたしは、明け方まで眠れなくて……
空が白みかける頃には台所に立ち、朝食と試験会場に持っていく恭祐様のお弁当を用意するために料理をはじめた。やはり今日は頑張って欲しいし、少しでも消化がよくて食べやすいものをと工夫してみた。わたしにはそのくらいしかできないし、幸い材料は冷蔵庫の中に山ほどあったので、大抵のものが作れそうだった。
この部屋は、このまま上京後の恭祐様の住まいになると、妙さんの手によって、本当に細かいものまで備えられていたから……
時計を見て、そろそろかなと、恭祐様を起こしに行ったのだけれども……
「おはよう、ゆき乃、よく眠れたよ」
すぐさま腕を引かれて、ベッドに引きずり込まれる。そのままシーツに反転させられて、恭祐様のお顔が目の前に降りてくる。額にこつりと当たったあと、鼻と鼻をあわせたキス……
あまりの素早さに逃げられなくて……驚いてしまった。
「目が覚めたらいないなんて、ダメだよ?」
「あ、あのっ、朝食の用意を……」
甘い声に一瞬返事が遅れてしまう。
だって……昨夜からの恭祐様の態度の変化には戸惑うばかりで……このままじゃ心臓が持ちそうにないほどだった。
もともと、こんなことされる方ではなくて、すごくきちんとされていて……
わたしにも丁寧な言葉遣いだったし、部屋に尋ねても、いつもきちんとした服装で、朝の目覚めも良くて、爽やかな笑顔を下さるっていたのに?
今の恭祐様は、寝乱れたパジャマのボタンは外れて上半身のほとんどがさらされて、髪を無造作にかきあげる仕草もいつになく男性の色気を感じてしまうほど艶めいたものだった。
「朝食?ゆき乃が食べたかったのに……昨日の夜、ちゃんと我慢しただろう?だからご褒美が欲しかったのに、目覚めたときに隣にいないなんて、寂しいだろう?」
「それは……でも、だめです、そんな……お約束したじゃありませんか」
「そうだね、ゆき乃の気持ちがわかっただけでも、すごく嬉しいんだけどね。これで遠慮したり、我慢しなくていいかと思うとすっきりした気分だから……でもね、僕も男だから、二人っきりでいて、何もせずになんて、もういられないんだよ?」
少しだけ眉を寄せて、少しだけ笑うとようやくわたしを開放してくれた。
わたしは急いで身体を起してベッドの脇に立つ。
跳ねる心臓を押さえつけながら、呼吸を整える。こんなに自分がときめいていてはなんにもならない。甘い雰囲気に流されてしまっては、イケナイに決まっているのに……
「ん?どうしたの?」
あまりにも深いため息をついたので、恭祐様に聞き返されてしまった。
「いえ、あまりにも今までの恭祐様と違いすぎるんですもの……」
ああ、と笑った恭祐様はベッドから出ると、またわたしを引き寄せた。
「今まではゆき乃や皆の前で、礼儀正しいぼっちゃんを演じてきてたからね。そうでもしないと自分の気持ちを隠しきれなかったから。だって、ほら、いつだってゆき乃は側にいるんだよ?同じ屋根の下で、同じ車の中で……だから、そんな風に自分を押さえておかないと、すぐにゆき乃を襲ってしまいそうだろう?」
髪にキスが落とされ、わたしの顎をつまんでくいっと引き上げられる。
目の前には恭祐様の笑顔が続いている。色っぽいけど、やっぱり昔からの優しい笑顔だった。
「今でも襲いたいんだけれども?朝の男の生理は押さえがきかないからね……危ないから近づいちゃいけないよ?それと、なんにもしないからって男の台詞は信じちゃダメだ。いつだって、欲しくって、隙あらば……って狙ってるんだから。今だって……ね?」
耳元で甘く囁かれて、わたしはまた逃げられなくなる。
でも……
こんな甘い囁きも、艶っぽい微笑みも、目にすることが出来るのは、きっともう今日限りだろう。だって恋人の役は今日で最後、これからはまたメイドと妹役に戻らなければならないから……
だからこそ、最後までちゃんと笑顔で居たいと思った。
「ゆき乃……」
またキスされそうになって、わたしは顔をそらせる。
もう、唇を合わせるキスはしてはイケナイ。
なのに、顎を掴まれているので、すぐに反対側に向かされて捕まってしまった。
恭祐様ってキス魔だったのかしらと思いたくなるほど……何度も、何度も角度を変えて……
「ん……だ、だめです……間に合わなくなりますよ?」
今度こそ身体を離して、一呼吸置く。
「イイトコなのに?」
駄々っ子のように拗ねた表情を一瞬見せる。最近見ては居なかったその懐かしい表情にわたしは思わず笑みを漏らしてしまった。
「さあさ、急いでくださいね。今日は恭祐様に頑張って貰おうと、お弁当もしっかり作ったんですから。朝食もちゃんと召し上がらないと頭が働きませんから。きちんと食べて、試験頑張ってくださいね」
わたしは一生懸命自分の中で甘いムードを切り離して、てきぱきした動作に切り替える。
「しょうがないな、今日頑張らなきゃ意味がないからね。ちゃんと食べて頑張るよ。だからもう、そんなに逃げないで?なんにもしないから」
そういってくすっとまた笑う……<嘘つき>恭祐様はさっき……
「何にもしないって……信じちゃダメって、さっき恭祐様がおっしゃいました!」
わたしは「もうっ」と怒ると恭祐様の背中を押して無理矢理ダイニングのテーブルに座らせる。
「それは、ゆき乃がそんな目をするのがいけない。もう、遠慮するつもりはないって言ってるのに」
「きゃっ」
飲み物を取りに行こうとする手を掴まれて、今度は膝の上……ぎゅっと抱きしめられて、余計に逃げられない。
甘い誘惑に捕らえられると、自分の意志だけでは抜け出せなくなりそうで怖かった。
今は時間が迫っているから、これ以上はないと判っていても、心が悲鳴を上げそうだった。

やはり昨夜のうちに真実を告げるべきだったのだろうか?

わたしは自分の取ったあいまいな行動を後悔していた。だって、こんなにも恭祐様はわたしを……求めてくれてる。それを受け入れたがってる自分がいることが怖かったのに……その気持ちを押し隠して、今まで通りの自分を演じることが出来るだろうか?
せめて、恭祐様が出掛けられるまで……それまでは必死で笑顔を作り、崩れそうな自分の気持ちを押し隠して我慢する。
これ以上触れられると、わたしの方がおかしくなってしまうから……
必死で恭祐様の膝の上から逃げようとすると、今度は真剣な顔でのぞき込まれた。
「ゆき乃、少し顔色がよくない?もしかして、昨日はキツく抱きしめすぎて眠れなかった?ごめん……」
「いえ、違います……あのっ、お弁当作りに張り切り過ぎちゃって……早起きしたせいです」
解放されて、今度こそは台所まで駆けていく。
本当は眠れなかった……恭祐様の腕の中で、眠ってしまうのが怖かったから……
だけど恭祐様が、わたしの些細な変化にも気がついて、心配してくれるのは昔から……すぐに見透かされてしまうのに、わたしはきちんと嘘が付き通せるんだろうか?

「やっぱり、いいな……」
恭祐様は綺麗な所作で食事をしながら、嬉しそうに向い側のわたしにほほえみかける。側で給仕するわたしに、一緒に食事をするようにと言われて、わたしは席に着いたけれども、食欲なんてなかった。目の前にいる恭祐様を見ているだけで胸がいっぱいで苦しくなるのに……
「こうやって、毎日二人で朝を迎えて、食事が出来たらいいのに。ほら、こうやっているとまるで新婚さんのようだろう?昔から思ってたんだ。使用人なんていない、家族とだけの生活がしてみたいって……特に可愛い奥さんと2人だけの生活、なんてね」
「ちいさな丸いテーブルに向かい合って食事が夢だっておっしゃってましたね。昔の恭祐様は……」
幼い頃、大きなダイニングのテーブルで一人で食事される恭祐様がおっしゃっていた。
『この半分でいいのに……家族とだけで毎日食事が出来ればそれでいいのに……』
ぽつりとおっしゃった言葉。わたしはそうですねとうなずくことしか出来なかった。
お忙しい家族は揃われることも少なく、よくわたしも幼い頃は一緒に食べようと言われて、テーブルに着いたけれども、あまりに大きいテーブルに端と端では遠すぎて、結局隣に座ったりした。
「今はもう、ゆき乃が目の前にいてくれればそれでいいよ。他には望まないから……」
わたしは答えられない。使用人としてなら、ずっと側にいられた。
だけど、もう……
「ご馳走様」
食事を終えられた恭祐様は、出掛ける準備をしながらも手伝うために側によるわたしを、また、引き寄せようとする。
わたしは必死で笑顔を作るしかなくて……上手くはぐらかしながら側でお手伝いする。
本当だ、まるで奥さんのよう……
今日だけ、今日だけだから……そう自分に言い聞かせる。

「じゃあ、行ってくるよ。ゆき乃は、待ってる?ここで……」
「いえ……お待ちしたいですけれども、わたしも学校に戻らないと……明後日から学年末試験が始まるんです」
「ああ、そうだったね。じゃあ、僕も試験が終わったらすぐに館に戻るよ。ゆき乃……」
玄関先でまた引き寄せられる。
「行ってくる……」
逃げられないキス。甘くて苦いキス。
出かけられる恭祐様の笑顔がドアの向こうに消えるまで、わたしは笑っていられただろうか?



「恭祐様……」
ゆき乃も大好きです。
恭祐様しかいませんでした。それはきっとこれからも、だけど……
わたしはそのままうずくまって両手で顔を覆って泣いた。
恭祐様が真実を知らないのをいいことに、その思いを受け入れようとするなんて……
恭祐様の思いはじゅうぶんに伝わってきていた。こんなにも甘い時間、過ごせた喜びと、後悔……
いくら望んでいたことでも、ほんとうは一瞬でも受け入れてはならなかったかも知れない。恭祐様は想いをこめてくださったキスも、愛撫も、わたしにとっては罪のものでしかなかった。血の繋がりのあるものがしてはイケナイコトなのに……昨夜、わたしはそれすら忘れて、喜び、身体を開こうとすらした。
浅ましい……そんな自分が嫌でしょうがなかった。
けれども、10年以上思い続けていた相手からの思わぬ告白。嬉しくなかったと言えば嘘になる。それに答えられなかった自分の血がただただ悲しいだけ……
自分だけの想いだと諦めていたのに……思われていることが判っても、こんなに辛いなんて……
いくら泣いても涙は止まらない。
わたしは泣くだけ泣いて、その後汽車に乗り込み館へと帰った。
置き手紙を1通だけ残して……


<恭祐様、試験お疲れ様です。
いかがでしたか?恭祐様ならきっと合格しています。
お食事の用意をしておきました。温めて食べてくださいね。

昨夜からの恭祐様の優しいお気持ち、ほんとうに嬉しかったです。
ゆき乃は優しい恭祐様が大好きです。
今までも、これからも……
本当のお兄様のようにお慕いしております。
ゆき乃が近くに居すぎたから、恭祐様は勘違いなされただけです。
恭祐様にお似合いの女性がきっと現れます。

ゆき乃は、一生宮之原に、恭祐様にお仕えしていきます。
恭祐様のお幸せを、心からお祈りしています。
                           ゆき乃>


この手紙を読んだ恭祐様はきっとお怒りになるだろう。
どんなになじられても、構わない。
昨日のわたしは嘘など一言も言ってなかったのだから。
心はずっと恭祐様のもの……
ただ、明日からは、もう決して恭祐様に近づいてはならない。使われる身だと言うことで身を引かなければならない。
話さずにすむものなら、このまま真実を告げずに、今まで通りに……
最悪、血のつながりのことが知られたとしても、それはしょうがないことなのだから。
だって……
血が繋がっている「かもしれない」という言葉で誤魔化してきたけれども、お館様の言葉では「間違いない」だろうということは判っている。ほんの少しの可能性にこだわりたかっただけなのだから。

こんな想いは知らないままの方がよかったという気持ちと、一時でも想い合えた時間がもてた喜びと、相反する気持ちが自分自身を責め立てた。
もう無理だというのは判っている。恭祐様も、わたしも、身体は繋げられなくても、心を繋げてしまったから……
昨夜、嫌いだと言えればどんなによかったか……力也くんを好きだと、嘘でもつけばよかった……
なのに出来なかった。
あんなに真っ直ぐに想いを向けられて、わたしは……

やはりここには来なければよかった。今となってはすべて遅いけれども。


      

甘いの続きです。切ないもおまけで(笑)
でも甘いのはここまでかも……すみません〜