4.ダイエットの決意
「細井さん、悪いけどこれ急ぎなんだ。お願いしていいかな?」
他の書類を片づけてるわたしの前に見積もりをそっと差し出してきたのは本城さん。この間わたしが聞いてたことなど知らないから、いつもの優しい王子様スマイルだ。
「急ぎって何時までですか?」
その優しい笑顔が本物じゃなかったと悲しくなる心を抑えて、わたしは必死で平気な顔を作って聞き返した。
「3時までなんだ。悪いけど最優先でお願い出来るかな?」
「わかりました……やってみます」
あと1時間半。他のを一旦保存して大至急で打ち込みをはじめる。ワードとエクセルでよく使う形をテンプレートにしている中から書式を選び、だいたいの数字を頭に入れてるから、いざとなればかなり早くできる。だから誰もが急ぎの書類はわたしに頼んでくる。こっちはそれが仕事だから完璧にこなすだけだ。
なんとか時間内に仕上げてプリントアウトしたものを本城さんに手渡した。
「さすがだね、細井さん。本当に助かったよ、ありがとう! でもごめんね、他の仕事の手を休ませちゃったけど、大丈夫?」
「大丈夫ですよ、このくらい」
いつもなら幸せの絶頂に引き上げてくれるその優しい微笑みが拷問のように思える。優しさは本物だけど、わたしみたいなおでぶには思われるだけでも迷惑なんだよね?
「よかったら今度こそお礼にご馳走させてくれないかな? いつも無理ばっかり言ってるから、ね?」
「そんな……仕事ですから。気を遣わないでください」
こうやって無理な仕事を頼んだ時、本城さんは食事に誘っくる。もちろん社交辞令だってわかってるけど今までは嬉しかった。でも、今日はいつもより悲しくなってしまう。誘ってどうするの? 本気にして一緒に出かけたりなんかしたら……スマートな本城さんと並んで歩くだけでも悪目立ちしてしまうだろう。
わたしじゃ似合わない、釣り合わない……それに、本心は昨日聞いてしまったから。この言葉のすべてが本物じゃないってわかってしまったから。あの時の言い淀む本城さんを思い出すと辛くなる。所詮おでぶはおでぶ。王子様と食事になんて行ってる場合じゃないんだよね。
「本城、細井に奢ってたらおまえの財布パンクしちゃうぞ」
横から二班の班長である篠崎さん出張ってきた。楢澤チーフ以上に口が悪いというか、冗談でその場を盛り上げてるつもりだろうけど、平気で身体的欠陥や成績の出来不出来を引き合いに出してくる。笑われる人の気持ちなんて考えもせずに人をやり玉に挙げる質の悪い人……誰よりも苦手だった。
「大丈夫ですよ、彼女は」
「連れて行くなら食べ放題にしないと。なあ、細井」
なんでわたしに振るの? どう答えさせたいっていうのよ……これでも、顔で笑って心じゃしっかり傷ついてるのに。
「わたし……そんなに食べません」
実際、人の財布パンクさせるほど食べたことはない。女性にしてはよく食べる方かもしれないけど、男性並みと言うほどでもない。ただ、甘いモノがやめられないのと運動不足なだけで……
「そうか? じゃあ、何食べたらそんなに身に付くんだ?」
「……さあ、どうしてでしょうね」
「寝てる間に知らずに食べてたりしてな、あははは!」
「だったら怖いですね」
ジョークのつもりだろうから、あははと笑ってやり過ごすしかなかった。どうやらわたしってなに言われても平気そうに見えるらしい。でもね、自分で『太ってる』って自虐ネタは平気だけど、人から言われる分には笑っていても傷ついちゃってるんだよ、しっかりと。毎回毎回心をショベルでえぐられる気分だった。
えっ……本城さんまで笑ってるの? ヤダな、いくら何でも想ってる相手だとえぐり取られた部分が余計に深くなるよ。
だけど営業では大抵こんな扱いだから、できるだけ波風立てないようにスルーさせる。身体的欠陥を直接口にしないのは本城さんとチーフぐらいで……それ以外は本当にわたしのことを女としても見てなくて、平気でわたしが太ってることをお笑いネタにしてくる。おかげでねちねちと太ってることで馬鹿にされたりはせずにすんでるけれども、代わりにこうやって笑われるのを我慢していなきゃならない。『明るいおでぶ』キャラを目指してたけれども、好きな人の前で言われるのはちょっとしんどいな。
「とにかく、本城さんの財布パンクさせちゃ申し訳ないので、今日のところは遠慮しておきます」
「じゃあ……また今度ね」
そう言うと、彼は爽やかな笑顔を残して、得意先へ向かうために営業部を出ていった。
「あの、細井さん……俺もコレ急ぎなんだけど頼んでいいですか?」
そう言って書類を差し出してきたのは二班の黒田くんだ。彼は入社2年目だけど仕事が出来るほうだと評判だ。彼も人の体型のことを馬鹿にしたりしないかな。でも、後ろで二班担当の皆川さんが手持ち無沙汰にしてるのに? ほら、爪なんか磨いたりして……
「これ、皆川さんじゃ無理っぽくって。すみません! 今日中に会社側に出さないとまずい書類なんです。だけど僕もこれから得意先と約束があって……お願いしてもいいですか?」
他の書類も今日中なんだけど、わたしに頼むのね? まあ、いいか。コレは今までにもよくあったことだしね。皆川さんは急ぎの仕事を回しても『できませんでした』って平気で帰っちゃうし、難しい書類も『わからなかったから』といって後回しだ。結局わたしがやる羽目になるから、最初からわたしに頼んでもらったほうが早いしね。
「いいわ、そこに置いといて。4時半でいいのね?」
「はい、それまでには僕も戻ってきますので、よろしくお願いします!」
これで残業決定。頼んだ本人はほっとした顔で自分のデスクに戻ると鞄を抱えて営業に出て行った。仕事だから頼まれるとつい断れないというか引き受けてしまうけれども、結局この溢れてしまった他の仕事は……どうしよう?
ふと顔を上げると楢澤チーフがじっとこっちを見ていた。
な、なに? 見られてた?? ドギマギしてるとチーフがわたしを呼んだ。
「な、なんでしょう?」
「もしかして今日も残業するつもりか?」
「えっと……たぶんそうなると思います」
でないと明日の朝までの書類が間に合わない。
「今日の残業は許可出来ない。それまでに済みそうでなければ皆川くんに仕事を回して早めに済ませろ」
「あ、はい……わかりました」
どうしたんだろう? いつもならわたしが一人で残業しても何も言わないのに。もっとも、チーフが部下にだけ残業させるなんてことは滅多に無いんだけど。
「へえ、チーフ今夜はデートかなんかですか?」
同じ営業の間下くんがからかうような口調で声をかけるけど、それに『ああ』とニコリともせずにそう答える。
さすがだなぁ、大人の余裕ってものを感じる。認めておきながらそれ以上のツッコミを許さない隙のなさ。間下くんは苦笑いしながら自分のデスクに戻るとまたすぐ営業に出掛けていった。
楢澤チーフの彼女かぁ……きっと美人で仕事が出来る素敵な人なんだろうな。わたしなんか本城さんの隣に並ぶのも、一緒に食事へ行くのですら恥ずかしいのに。堂々と側にいられるなんて羨ましいなぁ。
いつか、誰かと一緒に並んで出掛けても恥ずかしくないぐらい痩せれないだろうか? デートとかそんな身の程知らずなことは望まないから、せめてお礼の食事ぐらい素直に受けられるようになりたいよ。
「皆川さん、悪いけどこの書類の打ち込み頼んでもいいかな?」
急ぎの仕事はそのまま自分で。その代わりに一班の仕事だけど彼女にでも出来そうな数字の入力をお願いした。
「やだ、それ一班の細井さんの仕事でしょ? わたしだってやらなきゃいけない仕事があるんですよぉ」
その言い方にカチンときてしまった。さっきから仕事なんかしてないくせに! わたしが今からやる仕事は二班の仕事だ。それはさっき聞いてたからわかってるはずなのに……
「爪磨いてる暇があれば出来ると思うから」
「ひどいっ! どうしてそんなこと言うんですか?」
急にその声が大きくなる。
「なに? 細井、おまえゆりちゃん苛めたのか?」
「え?」
二班所属の営業の男性達が数名飛んできた。ちょっと待って、わたし何か苛めるようなこと言った?
「わたし、仕事あるのに……細井さんがぁ、無理矢理自分の仕事押しつけてくるんですぅ」
甘えた声……それだけで男性たちが自分に味方してくれることを知っているんだ。
「酷いな、細井そのくらい自分でヤレよ。おまえ仕事ぐらいしか取り柄ないだろ?」
「でも、二班の急ぎの仕事も受けてるからで……」
「急ぎならおまえがやればいいだろ? なにもゆりちゃんに押しつけることないじゃないか!」
いや、だから、これは打ち込むだけで誰でも出来る仕事だから……このままじゃ残業になってしまう。チーフに迷惑かけたくないから言われたとおり皆川さんに頼んだだけなのに。
さっきわたしに仕事を振ってきた黒田くんはもういないけれども、その会話を聞いていた一班の営業数人はにやにやと笑ってこっちを見ているだけだった。楢澤チーフもついさっき部長に呼ばれて席を立って行った。
あ、だめだ……ちょい泣きそう。
「わかりました。自分でやります!」
「わかればいいんだよ。少しぐらい余分に仕事した方が痩せるよ?」
わめきたいほど腹も立つけれども、これ以上何か口にすると泣き出しそうだった。そのかわり金輪際あんた達の急ぎは受け付けないからね!
「細井さん、どうせデートの予定とかないでしょ? だったらずーっと仕事してればいいのよ、男に縁のない体型してるんだから。本城さんや黒田くんだって仕事のことがなきゃ、あなたなになんて頼んだりしないんだから!」
小さく聞こえよがしに言う皆川さんの声。もしかして嫌われてるかなって思ってたけど、まさか本城さん達がわたしに仕事を頼むのが気にくわないって言うんじゃないわよね?
やめてよ、仕事してなにが悪いのよ! なんで体型で仕事のことまで馬鹿にされなきゃいけないのよ! 仕事だけは必死でやってきた。頼まれたら二班の仕事でも受けてきた。だからみんなわかってくれてると思ってたのに……彼女が一人で二班の書類全部を捌ききれないから、結局はいつもわたしが手伝ってること、知ってる人は知ってるのに。仕事してるしてないに関係なく、結局は可愛い子の味方なんだ……馬鹿らしい! でも、悔しい……
彼女が理不尽なことを訴えても、その度にそれが通るわけ? どうして……いくらまじめに仕事してても、体型のことでここまで言われなきゃならないのよ!
ああ、もうマジでいつか見返してやりたい!! もし痩せたら……って無理だけど、だけど……死ぬ気でやってみたらどうだろう?
痩せれば世界が変わるだろうか? このままよりも……いいかもしれない。そうだ、痩せられなかったら会社辞めてもいい! こうなったら、そのぐらいの勢いでやってやろうじゃないのよ、ダイエット!
わたしは涙で滲む画面を必死で睨みつけて仕事に没頭した。誰ともしゃべらず、時間内に仕事を終わらせるために……
ダイエット――――絶対やるんだから!!