─────プロローグ───── これは、あたしと、同級生だった特別な男の子の物語。 今、あたしは彼と離れてここに居る。 忘れてた些細なこと、なぜか今日だけは堰を切って溢れたダムみたいに、心が氾濫を起こして駆け抜ける。 あの時見た、すすけた窓の向こうの景色。東京の空。 あの時の校舎の、土っぽい埃のにおい。 あの時の、彼の横顔。 手の甲を頬に当てて、物思いに耽る無表情。 遠くを見つめてた彼の、ピュアで透き通ってた瞳。 当たり前だけど、考えてみたらあたし達、何も知らない子供だったね。 人が聞いたら笑うような事、真剣に悩んで話し合ってた。 彼の考えてることが掴めなくて、夜も眠れず悩んだり。 どうしても許せなくて、ベッドの中で泣き通したり。 本当は嬉しいくせに、憎まれ口を利いたり。 自分のことばっかりで、彼の気持ちまで推し測る余裕なんてなかった。 こうして心の宝石箱から、あの頃のこと、ひとつずつ取り出してみると、まるで手のひらで光る真珠みたい。たくさんありすぎる二人の思い出が、ネックレスになるくらい溢れてる。 小さな事も、大きな事も。 押しつぶされるかと思うほど、胸が張り裂けた事も。 頭が白く弾け飛ぶような、彼とのドキドキも。 ─────そして、彼の裏切りも。 あたしにとっては、これはすごく大きな勇気だったよ。 気が付けば、5年も経ったよ。 ………もう一度、今度はあたしから会いに行く。 会ってどうなるのか、あたしにも分からない。 もう、どうにもならないのかも。 ─────…それでも、いいや。今は、顔を見れるだけでもいいよ。 何だかこうして思い出すだけで、愛しさに切なくなるよ。 みずほ、今から会いに行くから。 羽田から、飛行機に乗るから。 ─────さくら。 1-1 「…あと、人殺しくらいかな」 「………え?」 さくらは訊き返した。 振り向いた先の横顔は、遠くに霞む、紅葉した山の稜線を眺めていた。 「まだやってない事」 美しく通った、直線的な鼻筋。彼は相変わらず、さくらのほうを見ない。 「…人殺し、してみたいんだ? 変わってるね」 興味深げに、少し目を見開いた少女の声に。 「………んだと?」 からかわれたと思ったのか、まだ少年の不安定さを残した傍らの制服姿は、低い声ですごんでみせた。 放課後。 2人は、誰もやって来ない4階に通じる階段の踊り場に座り込んでいた。 磨き忘れられた、すりガラスのような校舎の窓からオレンジ色した夕日が差し込み、長い四角を作っている。それは2人のもたれているコンクリートの壁や床に、影絵のような十字架模様を落としていた。 「カッコよくなかったかよ、今の」 拗ねたような表情で唇を尖らせる彼の前髪は、伸び放題に伸びていて、さくらはそれを見ながら、スーパーでよく買う巻き寿司の横に付いている緑色したプラスチックのギザギザの草を思い出した。かき上げるせいで、髪は額の真ん中辺りでやや分かれている。 尖った髪の先は、彼の頬に当たってチクチクしないのかな…。 もっとも、多分彼のヘアスタイルは、有名タレントがしていそうな、とても今時のファッショナブルなレイヤードスタイルだったけれど。…サラサラのストレート。 「格好よかったよ、でも」 「何」 「似合わないよ、武原(たけはら)くんには」 彼は、ケッと小さく吐き捨てるように言うと、ゴツン、と後ろの壁に自らの後頭部をぶつけた。 「…う、寒い」 陽が落ちると、途端に辺りが青く染まりだし、肌寒さに武原 瑞穂(みずほ)は腕をさすった。 「どうするの? これから」 「………え、家帰ってメシ食って…寝るだけだよ」 「もしもヒマだったら、………うち、来る?」 「……………………」 「今日、お母さん夜の仕事の日なんだ。…うち、狭いけどねっ」 2人が初めて口を利いたのは、半年ほど前の事だった。 高校2年に上がって、さくらは内心飛び上がった。武原 瑞穂と、ようやく5年目にして同じクラスになれたから。 中学の頃から、彼の事が気になって仕方なかった。理由は分からないけれど…彼という人物を知ってみたくて。…だって、さくらにとって彼は、なぜだか人生の最重要人物だったのだ。 念願叶って、中学から通算5年目の幸運。…それでも、最初は彼に話し掛けるきっかけが上手く掴めないまま、4月初めの2週間ほどは、ただ彼の姿を密かに目の端で追っていただけだった。 どんな人ごみの中でだって、彼は容易に見つけることが出来た。『目を奪われる』、そんな表現が一番適切かも知れないとさくらは思う。中学の時から、校内の全ての女子が彼を意識していた。彼の視線の先を、彼の何気ない仕草を、彼の声を…すべて一秒たりとも逃すまいと、全神経を集中させて息を殺す。そして、熱い視線で彼を見つめる───…、それはさくらに限った事じゃない。 さくらにとっては、それは恋なのかどうかも分からなかった。…ただ、話した事もないのに、こんなにも人の心を釘付けにする特別な彼の「理由」を知ってみたい、とは思っていた。ナゾを解明してみたくてたまらない。 どうしてそんなに特別なの? 毎日、何考えて生きてるの? 何が好きで、何が嫌い? 何でいつ見ても一人…? 何でいつも笑わないの? 家で、何してる? 武原くんにとって、何が大切? ………知りたくってたまらない。エイリアンみたいな存在の彼。 自分とはあまりにも違いすぎる彼。 ─────そして。意を決して、さくらが彼に声を掛けたのは、放課後、彼が一人この場所に居るのを偶然見つけた時だった。 ろくに会話にすら、ならなかった。 「そんなところで何してるの?」 「別に」 ─────それで終わり。 彼───武原みずほは、いつも一人だった。 今のさくらには、その理由は何となく分かる。 …彼の、目を奪われるような完璧な容姿は、近寄り難いほどの光彩を放っていて、きっと自分だけじゃなく、誰もが気安く声なんて掛けられない。 だけど、彼が一人で居る理由はそれだけじゃないと思う。 彼は地元の公立中学校時代、天才と謳われていた。そして、学区内で最も偏差値の高いこの進学校に入学してからも飛び抜けた成績で、さくらを含め、他の生徒を寄せ付けずにいる。 彼はまた、100メートルを記録的なスピードで駆け抜け、どんな種目のスポーツも楽にこなした。あらゆるジャンルで秀でた才能と素質を発揮する彼は、否が応でも「集団」から孤立してしまうはずだと思う。 さくらの知る限り、彼には友人なんて一人も居なかった。 「お前も変わってるよなぁ………」 さくら─────本名を宇都宮(うつのみや)さくらという─────と、武原みずほは、日の暮れた市街地を、彼女のアパートに向かって歩いた。 「…つうか物好きだよ、オレなんかとツルむなんてさ」 さくらは返事に困り、学生カバンを胸に両手で抱えたまま、少しうつむいた。 ここまで心の距離を縮めるのに、なんと半年かかった。 さくらにとっては、すごい努力だった。 「…ホントは武原くんと仲良くしたいコ、いっぱい居ると思うよ?」 その言葉に、彼女の傍らを歩く紺のブレザーは、つまらなさそうな視線をチラリと投げかけた。 その流し目だけでも、さくらはドキリとしてしまうんだけれど。…綺麗な、クールで透き通った、なんて印象的な眼差し。 「─────…オレ、じゃなくて、オレの見た目と、だろ? 仲良くしたいの」 吐き捨てるように言って、彼はコンビニに足を踏み入れた。 「え?! 待ってよ」 何の前触れもなく行動するから、さくらは時折みずほに振り回されるハメになる。 「………お前ん家、何あるの」 「………何って?」 彼は店の最奥、飲料の隣りにあるアイスクリームのショーケースのガラス扉を引き、ちょうど視線の位置あたりに行儀よく陳列された、外国製ブランドのカップを物色しはじめた。 「食い物とか」 「………あ、食べ物…、えーっと、何かあるよ、冷凍ものとか」 「飲み物は?」 彼はアイスクリームを選び出し、2、3個手に持つと、ドリンクのコーナーの脇に置いてあった買い物カゴに放り込んだ。それから、フランス製のミネラルウォーターを一本取り出す。 「ヘェ………武原くん、お水飲むんだ、コーラとかじゃなくって」 「別に好きじゃねぇよ、でも」この並んだ中で、これが一番ラベルのデザインが格好いいじゃん。と、彼は表情一つ変えない。 さくらはレジに向かう彼の後を付いて歩きながら、何となく彼が孤立している理由のようなものを悟りつつあった。 超、身勝手。 …そこまで言うと言いすぎかも知れないけれど───…、早い話が、協調性に欠けるんだよね。 そしてかなり変わった性格だ、とも思う。 彼の『格好いい』の基準がよく判らなくて、さくらは戸惑った。 そのまま2人は、彼女のアパートの4階の部屋まで、甲高い乾いた金属音の響く非常階段を登った。 「てめェ、エレベーターくらい付けとけよ、オレ呼ぶんならよ」 「ご、ごめんっ」 「バカ、何謝ってんだ、てめーのせいか」 後ろから後頭部を小突かれながら、さくらは玄関のドアの鍵を開けた。 暗い室内に灯かりをともす。 半畳もないスペースの狭いたたきには数足の靴がすでに並び、2人が靴を脱げば、もうこれ以上靴の置き場は無い。 もちろん、シューズラックなどそこには無かった。 「…ホントに狭いな…」 あきれ顔のみずほを、さくらはたどたどしくリビングへ通した。 2DK。そのうちの一部屋は、母の部屋兼リビングになっている。 ふすまの向こうの6畳間が、さくらの部屋だった。 母がいつもお化粧に使っているロータイプの白いドレッサーの脇、壁にもたれるようにしてみずほは腰を降ろした。そして、さっそくアイスクリームを一つ取り出す。 「…あとの、冷凍庫」 「うん。お水は?」 「いいよ、ここで」 彼は行儀悪く長い両膝を立てたまま、白いテーブルを指差した。 さくらはそこに2リットルのペットボトルを置き、アイスクリームを冷凍庫にしまった。 ドアを閉めたのを合図に、くたびれた中型の冷蔵庫は鈍い振動音を立て始めた。 「お前、一人っ子?」 「うん。ここにはあたしとお母さんの2人」 「ヘェ………」 「お母さん、週3回、夜も働いてるんだ。…あたしを大学に行かせたいんだって。…あたしも学校にナイショでアルバイト探そうかな、って思ってる」 「………大学、そんなに行きたいか?」 「え? 武原くんは行きたくないの?」 「─────…。タリぃよ、何かこう───…、パァッと派手にいきたい」 「ふぅん…頭いいんだから、どこの大学でも学部でも選べる立場なのにね」 その言葉に、みずほはアイスクリームを透明プラスチックスプーンで掬いながら、眉を僅かにしかめた。 この横顔に、さくらはドキドキしてしまう。 武原くんは本当に、夢か幻ほど、綺麗。今にも消えてしまいそう。 男の子に「キレイ」って言葉はヘンかも知れないけど…他にピッタリくる単語が思いつかないから仕方ないよ。だってキレイなんだもん…。おとぎ話の小説の世界のほうが、近所の公立高校よりも、よっぽど武原くんの住む世界としてはふさわしい。 …うちのアパート、眩しい彼が居るだけで余計にすすけて見えちゃう。コントラストが激しすぎるよ。 「…お前、勉強好きか?」 いきなり、彼が側に横座りしている彼女を流し見た。 この流し目は、何度されても心臓に悪い。 さくらは「え?」と訊き返し「………特には」と、曖昧な返事をした。 出来るだけ平静な無表情を装う。彼の一挙一動に頬を染めて浮かれてる、他の女の子と一緒くたにされたくないから。 「勉強、してる?」 彼がまた訊く。 「実を言うと、それほどしてない」 「でも、出来ちゃうだろ? テスト」 「数学以外はね。教科書、一度読めば覚えちゃうから…。あとはそれを答案用紙に書き写すだけだもん」 「………だろ?! それがどんなにつまんねー事か、お前ならちっとは解かるはずだ」 「…? 分かんないよ?」 「分かるだろ!」 ─────また、さくらの頭をはたく、彼の手。 「そんなの、えんえん繰り返して快感なんだったら、お前はマゾだ」 「……………………」 さくらは肩に付く長さの乱れた髪を、両手の指で整えた。 「…じゃあ武原くんは、大学行かずに何するの?」 「………なんか、デカい事」 「デカい事って?」 「─────歴史に名を残す」 ………天才なのか足りないのか、まるで分からない返事。 彼の端正な横顔は、真顔だった。 「どうやって、名を残すの?」 「………政治を変える」 「─────は? …大学行かずに?」 「タレント議員って手もあるだろ」 「───…じゃあまず、タレントにならなきゃムリだよ」 「…分かってるって。るっせぇな」 どこまで本気で言ってるのか、彼の心はまるで読めない。 いつもこんな、人を煙に巻くようなナメた事を言いながら、みずほの顔は微笑ってはいない。とらえどころの無さに、さくらは小さくため息を付くしかなかった。 「メシ、何か作れよ。オレ腹減って来た」 彼の偉そうな態度に、さくらはしぶしぶ立ち上がる。 そして冷蔵庫から袋入りのピラフを取り出し、2枚の皿に移した。…ラップして、それを一つずつ電子レンジに載せながら思う。自分は一体、何をしてるんだろ、と。 あたしみずほの事、好きなのかな…。 ─────何度自問してみても、心は激しく波打つだけで。ノイズの雨が降るTV画面みたいに、その向こうがどうしても見えない。 きっと、答えを知ってしまうのがその時のさくらには怖すぎて、心が拒否したのかも知れない。 だからと言って、『だったら、友達だと思ってるのだろうか』と問うてみても、やはり心の表面には霧が立ち込めていて、はっきりとした返事を彼女にくれない。 …確かに中学の3年間は「彼」という存在そのものの強烈なまでの鮮やかさに憧れのようなものを抱いてた。 さくらは知ってみたくて仕方無かった、何もかもが特別に生まれついた彼の、日常生活のほんの断片でも。 …幼かった彼女にとって、それはちょうどお昼のワイドショー番組の、『大物芸能人のお宅拝見』的なノリに近かったかもしれない。 だけど、勇気を振り絞って今、そんな彼に近づいて見てよく分かる。 触れられるくらいに間近で彼を見ながら、思う。 『カリスマ』とは、離れているからこその『カリスマ』なのだ。─────『神』は、掴みどころが無いからこその『神』なように。 …こうしてみずほを知ってみると、みずほって、ただの変わった男の子だよね…。 彼の持つ世界観が、他の人と随分ズレている───…(そういう人を、あたし達は変わり者と呼ぶ)─────ただ、それだけの。 …みずほって、誰にでも愛されるルックスを持っていなければ、とっくにイジメの対象か、社会のはみ出し者だよ。 そしてさくらが考える通り、実際のところ、彼と同じ学年の男子生徒の中には、彼とトモダチ関係を結ぶ者など一人も居ない。 彼の外見に価値を置かない者たちにとっての、正直な反応だと思う。 一方、女の子達にとって彼は「学園のアイドル」であり「スター」だった。 …彼は時々「高校名」というブランドを背中にしょって、各種スポーツ試合に、頼まれて助っ人出場した。我が校のあるクラブが大会予選を奇跡的に勝ち抜いた時など、ここ一発の正念場に当たる試合に彼が呼ばれる。 芝居で言えば、客演のようなもの。 つまり、その日限り、彼は母校のユニフォームとゼッケンを身に付けて、闘いの場に立つのだ。 ───…彼の出場が決まった日の試合会場には、三桁の数の女の子達が応援に駆けつけた。彼の活躍に心を躍らせる、彼のファン。そこには中学生や他高校の女子の姿までもがあった。………だから余計に、母校の男子生徒は彼が気に入らない。 つい先日、そんなバスケの試合の応援に顔を出したさくらに。みずほが独りごちた。 「こんな勝ち方して何が面白いんだよ?! バスケ部の奴ら、プライド無いのか」 さくらもそう思う。 …考えてみれば、その通りなんだよね。 体育会系クラブの顧問が、大切な試合が近づくとみずほに参加を打診してくる。 そして試合が始まり、いつものレギュラーメンバーがやや苦しい闘いを強いられると、ベンチに居る彼の出番が回ってくるのだ。 黄色い歓声は、相手校の女子生徒からも沸き上がる。 …元々協調性など微塵も持ち合わせていない彼は、当然ワンマンプレイで敵ゴールまで一気に攻め入り、見事な身のこなしで得点をゲットする。クールな表情一つ変えずに。その姿はまるで蝶のよう。否、しなやかで美しい獣のよう。どこにも無駄なんて無い。 ………銀幕の中にしか存在しないはずの、完全無敵、眉目秀麗なヒーロー。主役しか似合わない彼。あまりにも魅力的な、長い手脚。 陸上、バスケ、サッカー、剣道…彼はかなりの種目で母校の成績に貢献した。 出場するかしないかの判断は、彼の美的センスによるらしい。 彼と仲良くなってみて初めて気付いた事だけど、彼の選択の基準は、全て、彼にとって「見た目がイケてるかイケてないか」。それだけ。 野球と空手の試合に彼が出場しなかったのは「ユニフォームがダサい」という理由だったし、バレーボールと水泳の時は「ゴーグルやサポーターを付けたくないから」だった。 また、彼は芸術的な分野でも才能を持っていた。歌わせても、絵を描かせても、それなりにそつが無く、みんなのため息を誘うほどだった。 さくらはみずほの描く絵が好きだった。 マンガのようなラクガキもコミカルで可愛かったけれど、きちんと着彩された絵は、嘘のように繊細でメルヘンチックだった。中学の時、優秀作として何かの賞を受け、校門の側の掲示板にしばらく飾られていた彼の絵は、ピーターラビットのイギリス作家を思わせる乙女チックなもので。女の子達は一斉に「カワイイ!」を連発していたものだった。 …ある夜、その絵は何者かによって盗まれ、結局出てこなかったけれど。 |
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