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その後・2
引っ越しの日にわたしの部屋に集まったのは、甲斐くんと、それから車を出してくれる日高先生と、手伝うと言ってくれた正岡先生の4人だった。顔を見るやいなや、いきなり正岡先生が甲斐くんに食ってかかったのにはびっくりしてしまった。甲斐くんがあとで『朱里以上に怖ぇな』って言ってたけど、わたしにとって正岡先生はとても優しい女性だ。背も高く性格もさっぱりしているから男っぽく見られがちだけど、人を思いやる心をたくさん持っている人。だからこそ、子供たちをあんなにもしっかりと指導できるんだと思う。教師としても、女性としてもわたしが最も尊敬している人なのだ。正岡先生に言わせれば『一度はヤキ入れておかないと気が済まない』らしい。赤ちゃんが出来て、わたしがひとりでどうしていいかわからなくて困ってる時ずっと一緒にいてくれたのが彼女だから。あの時はわたしの気持ちを考えてあまり責めるようなことは言わなかったけれども、目の当たりにすれば言いたいことは山ほどあるといっていた。それでもあまりに殊勝な甲斐くんの態度に殴るのだけはやめたらしい。ほら、やっぱり優しいでしょ?
自分の引っ越しだけれども、わたしは荷物が持てないので、始終指示するだけだった。荷物を運ぶ時、甲斐くんは体育会系のふたりに非力さを思いっきり指摘されてぶつくさ文句言っていた。
『ジムにでも通おうかな』と、ボソリと呟いたの聞いて思わず笑いそうになったけど、これ以上体力や筋力をつけられても困るのよね。
なんだかんだ賑やかに言い合いながら、数時間で荷物を詰め込み、掃除を済ませると管理人さんに鍵を渡してアパートを出た。引っ越しは何回目かだけど、こんなに賑やかで楽しい引っ越しははじめてだった。いつだって、わたしは何かから逃げるようにして越してきたことを思い返していた。
もう、逃げない……これからは幸せになる為にだけ引っ越すんだ。
わずか2年だったけど、慣れ親しんだ部屋に別れを告げた。隣には甲斐くんがいてくれる。これからはずっと一緒にいられるんだ……
「そんじゃ、こっちは軽トラだから高速もゆっくり行くから。そっちが先に着いたら、荷物入れる準備しといてくれよな」
もちろん、正岡先生は日高先生の助手席だ。わたしも久しぶりに甲斐くんの車に乗せてもらって、彼の部屋に向った。
そういえば、最後だって決めた時、この車の中でしたんだよね……あの時の事を思い出すと、恥ずかしくてたまらなくなる。どこでもいいから甲斐くんが欲しいと求めてしまったわたし。恥ずかしいほど乱れて、運転席の彼の上で……やだな、思い出してたら身体が熱くなってきてしまう。
「どうした?顔が赤いぞ、志奈子」
「う、ううん……なんでもない」
「ドライブインで休憩しようか?」
「だ、大丈夫だから!」
妊婦だというのに、甲斐くんといるとおかしくなってしまいそうだ。子供がお腹にいるというのに……
本当は、そういうことするのは少し怖い。だけど、離れ過ぎていた身体が求めてしまうのだ。甲斐くんを、彼の熱情を。これからふたりで生活していくというのに、本当に大丈夫だろうか?
これからわたしのお腹はどんどん大きくなる。彼がそんなわたしに満足してくれるかどうか、少し不安だった。
「まあ、何とか片付いたかな」
やっぱり荷物の搬入も、ほとんどなにも持たされずに指示しただけで終わってしまった。とにかく、荷物を運びこむ日高先生と正岡先生のパワーはすごかった。長時間の運転のあとなのに……さすが体育会系の底力を見せられたようだ。
「荷物も開けて片付けてしまおうか?そんなに多くないし、あとでするにしたってしんどいでしょ?これからはすぐに駆け付けられないんだからさ……」
そうなんだ。甲斐くんの部屋に来るということは、ふたりとも当分会えなくなるってこと。わたしは車の運転もできないので、会いたい時に会いに行くわけにもいかない。
「……そうですね」
「ほら、そんな寂しそうな顔しない、もう可愛いんだからっ!」
荷物を放り出して正岡先生が抱きついてくる。
「メールしなさいよ?でもって話しがあれば携帯があるでしょ?あの男、油断できないんだから……なにかあったらすぐに報告するんだよ?もしもの時はすぐに駆け付けてぶん殴ってやるんだから」
「は、はい」
その勢いに、思わず返事してしまった。
「そんな怖いこと言わないでくださいよ。ちゃんと大事にしますから」
後ろから甲斐くんの声がして、正岡先生が見あげながら睨んでるような気がした。
「あ、そのときは僕も来るから、覚悟しておけよな?」
日高先生まで……甲斐くんは眉を寄せると苦笑いしてはいはいと嫌々返事を返して、ふたりの神経を逆なでしていた。
「返事は、はいと一回で!」
まるで部活の指導みたいに怒鳴りつけてる正岡先生を日高先生がなだめる。ふたりからすれば甲斐くんのちょっとだるそうな態度がかなり気にいらないらしい。まあ、スポーツマンって感じじゃないから。その分、ゆっくりした時の仕草とかが凄く綺麗だったりするんだけど。それはそれで格好つけてるってことになるらしい。
運び込まれた荷物もあっという間に紐解かれ、正岡先生の手伝いで、元々あったボックスなどに納められていき、あっという間に片付けは終わってしまった。これからしばらく仕事もないので、昼間ゆっくりとやればいいと思っていたけど、これはすごく助かった。
片付けが終わった頃、お腹の大きな朱里さんと甲斐くんのお父さんが顔を見せた。
「志奈子ちゃん、元気だった?史仁の馬鹿が……本当にごめんねっ!」
いきなり謝られて、どう返事すればいいのか悩んでしまった。どうやら朱里さんは、すでに心は甲斐くんの母親らしい。わたしがいなくなった時からずっと甲斐くんに対して怒っていたそうだ。まさかふたりの仲を勘違いして別れたなんてことは、身重の彼女に言うわけにもいかず、ひたすら甲斐くんの謝罪で終わったけれども。
だけど、臨月間近の朱里さんの傍らにいる甲斐くんのお父さんの変わり様には本当に驚いてしまった。だって、しょっぱながアレだったから……すごくセクシャルな人だと思っていたけれども、ずいぶんとイメージが変わっていた。朱里さんには甘あまでベタベタって感じで、尻に敷かれて……もしかしたら、数年後の甲斐くんもこんなふうになっちゃうのかなと心配に思うぐらい。
みんなが揃ったところで夕飯に鍋を作って囲むことになった。料理を覚えたいという正岡先生とは、何度か一緒に料理はしたけれども、こんなふうに女3人で寄って作るのなんてはじめてだった。
「ほんとによかったわ、うまくいって……だって、志奈子ちゃんが居なくなってからの史仁なんて目も当てられなかったんだからね。グダグダで精気がなくて、仕事することでなんとか自分保ってる感じで。リュウさんからも聞いたけど、誰に誘われても全然のらないし、もっと仕事させろって言ってきかなくて、すっごいワーカーホリックだったらしいわ」
「……本当ですか?」
朱里さんからは離れていた間の甲斐くんのこともしっかり聞けた。
夕方からふらりとお酒を抱えてやってきたのが甲斐くんの上司の水嶋さんで、実は朱里さんの従兄なのだそうだ。その彼も昔は甲斐くんのお父さんの店で働いていたことがあったりと浅からぬ縁らしく、甲斐くんの就職事態は朱里さんだけでなく、水嶋さん経由で頼んだらしい。当時、わたしと一緒に暮らし続けるために、安定した収入が欲しいと、恥を忍んで頭を下げてきたというのだ。
「他にもあるわよ、とにかくわたしが見てても史仁は志奈子ちゃんにベタ惚れだったのがわかるんだから。志奈子ちゃんだって史仁を……そうでしょ?それがわからなかったのは、たぶんお互いだけなんじゃないかな?」
「そんな……こと」
否定しようとした時に、正岡先生口を開いた。
「言葉が足りなかったって自分でも言ってたじゃない?だから、これからはなんでも言ってやればいいのよ。大丈夫、あの男があんたにベタ惚れで、捨てられない為だったら何でも言うこと聞きそうなぐらい惚れてるのは見ててわかるから。たとえば……」
「志奈子先生!!」
一息置いていきなり大声でわたしの名前を叫んだ正岡先生。
「どうしたんだ!志奈子?」
すごい勢いで血相抱えて甲斐くんが飛んできた。
「あら、コレすごくおいしいわねーって、言っただけよ?」
おつまみ用に作った小鉢を抱えて正岡先生がしれっと答える。
「なっ……」
何か言いたげだったけど、正岡先生の冷たい視線にさえぎられて、すごすごと甲斐くんはみんながいる部屋に戻っていった。
「ほらね、すっごく大事にされてるのよ。だからこれからはいっぱい我儘言ってやりなよ」
そう言われても我儘なんてどう言えばいいのかわからない……
「出来ることでも全部頼めばいいよ。そうしたら喜んでやってくれるわよ。きっとやること同じよ、あのふたり」
朱里さんの視線の先には、甲斐くんのお父さん。男性陣は、ずっと出しっぱなしだったらしいコタツに入って、会話を弾ますわけでもなく鍋の準備が整うのを待っていた。それでも、水嶋さんが加わってからは、なんとか会話が聞こえてくるようになったんだけど。
「これからは、妙な親子関係になっちゃうけど、よろしくね、志奈子ちゃん。一緒に出産と子育て頑張りましょう」
「はい」
にっこりとほほ笑む朱里さんは相変わらず綺麗だった。同じ母になるものとして、同じ悩みを抱えながら、一緒に住んでいなくてもこれからは家族として一緒に進んでいくのだろう。あれほど憧れ、決して並ぶことはないと思っていた朱里さん。彼女も普通に恋する女の子だったんだ。相手が甲斐くんでなくてその父親だってことには気がつかなかったけど。
「あーあ、いいなぁ、わたしも子供欲しいなぁ」
横からぼそりと正岡先生に呟かれた……
「あら、今から頑張れば同い年の赤ちゃんが出来るわよ?即できそうな感じするけどなぁ。けっこう体力ありそうな感じだし、正岡先生の旦那さん」
「ま、まだそうじゃないです!し、式は来週だし……それに、赤ちゃんは、その授かりものだから。わたしも、もう30歳過ぎてるしね……」
「大丈夫よ、正岡先生の肌とか体つき見てたら十分若いわよ。20代半ばに見えるから」
朱里さんが励ますようにドンって正岡先生の背中を叩く。
「そ、そんな……」
一気に照れて下を向く正岡先生……可愛いんだよね、彼女のこういうところ。褒められ慣れてないのか、どう答えていいかわからないらしい。その点、朱里さんは褒められてもにっこり笑って『ありがとう』って感じね。わたしもどちらかというと、正岡先生と同じかもしれない。
「でも……わたしが正岡先生って呼ぶのもおかしいわよね。わたしの方が年下なのに、敬語っぽいし」
「それは……」
たしかにそうだ。だけど、朱里さんにはついつい相手にそうさせてしまう雰囲気がある。綺麗で、しゃんとしてて、妊婦でもまるで雑誌から出てきたみたいだ。甲斐くんのお父さんも相変わらず若づくりというか、若く見える出で立ちで、ふたり並んでるところは凄く絵になると思う。もちろん甲斐くんもその中に納まりそうな感じだ。水嶋さんも独特の雰囲気を持っていて、華やかって感じじゃないけど、甲斐くんのお父さんより渋いって感じがする。落ち着いた男臭ささって感じで……
「やだな、みんなそうなのよね……いつも垣根作られちゃうんだ。わたしは普通にお友達になりたいだけなのにね。でも正岡先生、じゃなくて智恵さんとならすっごく気の合うお友達になれそうなんだけど?一緒に史仁を見張って、志奈子ちゃんを幸せにするとこを確認しないと心配でしょうがないでしょ?」
「それは確かに……あいつのしたことはほんとうは許されないんだからね。きっちりとそのツケを払って、これからはしっかりと志奈子先生を大事にしてもらわないとね。わたしも朱里さんって呼んでいい?」
「ええ、もちろん。歳下ですからさん付けでなくてもいいですよ」
「まあ、そのうち取るかもしれないけど。これからは志奈子先生の幸せのために頑張りましょう」
にっこりとふたりが微笑みをこちらに向けてくる。ある意味、このふたりがタッグを組むのはすごいことなのかもしれない。だけどそのふたりが大事にしようとしてくれているのは、他ならぬわたしのことなのだ。
今まで、こんなにもたくさんの人から大事にされたことがあっただろうか?ううん、あったのに気がついてなかっただけだかもしれない。そのことに気付くには、やはり自分が誰かを大切に思うことを知らなければ、わかることはなかったのだ。
「ふたりとも、大好きよ」
「し、志奈子さん?」
「なっ、どうしたのよ、急に」
わたしは思わずふたりに抱きついた。そんなこと、今までしたこともなかった。だけど……そうしたくなったのだ。ふたりとも信じられないって顔してる。言ったわたしだって信じられないぐらいだもの。でも、言いたくなったの。気持ちは口に出さないと伝わらないって、身をもって知ったのだから。
「もう……そうやって、いっぱい甘えるんだよ?」
「正岡先生……」
「だから、志奈子先生も……ううん、志奈子ちゃんも先生付けはやめてよ。智恵でいいよ」
「智恵……先輩」
さん付けするよりも、わたしにとっては一生先輩だから。その気持ちを込めてそう呼んだ。
「まあいいけどね」
「じゃあ、わたしも朱里って呼んでよね?いつまでも氷室さんじゃないのよ?わたしも甲斐なんだから」
「あ、はい……朱里さん」
まあいいかとその呼び方で妥協してくれたようだった。そうなんだ、朱里さんももう甲斐の姓になってるし、智恵先輩だって式が終われば日高になるんだ。あの後も何度か甲斐くんと一緒に式へ参列して欲しいと言われたけれども、退職の理由をちゃんと言ってなかったのもあるし、先生仲間にはわたしと日高先生のことを知っている人も多いので、場の雰囲気を乱したり誤解を招かないようにとそれは辞退させてもらった。
「さあ、それじゃこれを運んで鍋パーティといきますか」
智恵先輩が日高先生を呼んで運ばせているのを、わたしと朱里さんで笑いながら見ていた。だって、このふたりが一番夫婦歴が長いカップルに見えるんだもの。
「さて、今日は志奈子ちゃんの引っ越し祝いと、史仁の反省会だからね」
鍋を囲んで朱里さんがそう宣言すると、その言葉通り甲斐くんはみんなから色々と突っ込まれていた。
「同棲してて、相手が自分のこと好きかどうかわかんねえって、それはないだろ?」
甲斐くんのお父さんは、いくらなんでも自分はそれがなかったと、堂々と言い放っては朱里さんに睨まれていた。いくら夫婦になっても、昔の女の人の話とかはタブーだと思う。わたしだって、聞かされたらイヤだもの。
ツンとそっぽを向いてしまった朱里さんに、すまないと言って必死に謝る姿はなんだか可愛らしい気がしたけど。朱里さんでも拗ねたりするのね。すごく親近感がわいてしまった。やっぱり好きな人の前では、普通の女の子になっちゃうんだと思う。だれもが自信満々で恋愛してるわけじゃないんだ……
「甲斐の会社での素行は安心してくださいよ。僕がちゃんと見張ってますからね。一応、上司ですから」
ニコニコと笑ってそう言ってくれるのは水嶋さん。だけど他の人たちはひたすら甲斐くんを責めている。
だけどね、本当はわたしも悪かったのだからあまり責めないであげてほしい。何も信じず、見ようともせず……ただひたすら与えられるものから逃げて、縮こまっていただけだったのはわたしなのだ。甲斐くんじゃなきゃ……きっとこじ開けられなかったと思う。彼が強引に殻を割ってくれたから、今のふたりがある。ただ、彼の方も一番大事な言葉を怖がって言えなかった……だから長引いてしまったのだ。それをいくら言っても、みんな女性のというか、妊婦の味方だった。だけど途中からは、甲斐くんのお父さんも一緒に責められて……日高先生が、その年齢差は犯罪だとか何だとか言って。たしかに、親子ほど違うは間違いないものね。でも、年齢なんて関係ないと思う。朱里さんには甲斐くんのお父さんの隣が凄くしっくりおさまってるし、甘えないはずの彼女が、しっかりと甘えてる雰囲気が伝わってくるもの。
わたしも……彼女のように甘えられるようになりたい。
「甲斐くん、ちょっといい?」
あんまり責められてる甲斐くんが可哀想に思えて、わたしは台所から彼を呼んだ。彼もこれ幸いと駆けつけてくる。
「なに?」
「あのね……ありがとう、全部そのままで」
調味料もフライパンも、食器も全部……そのままだった。場所ひとつ変えられてないことに安心感を覚えていた。ここでわたし以外に料理した人はいないのだと。
「いや、帰ってきてほしかったし……ここは志奈子とオレの家だろ?」
甲斐くんが、そっとお腹を圧迫しないように抱きしめてくる。
「お帰り、志奈子」
「ただいま、甲斐くん」
見つめあって、キス。この部屋でする久しぶりのキス……温かいぬくもりが唇から伝わってくる。
ああ、帰ってきたんだ、甲斐くんのもとへ。
「あいつら早く帰んないかな」
唇を離した甲斐くんが、そう言って拗ねた顔を見せる。
「もう、せっかく来てくれてるのに?」
「だってさ……志奈子を抱きたいから」
少しだけ押しつけてくる……欲望で熱くなったソレに驚くと同時に、自分も欲しいと思ってしまったことを隠せなかった。わたしは自ら甲斐くんに抱きついたら、驚いた顔をされてしまった。
皆が帰るのを見送った玄関先で、ドアが閉まるのと同時に後ろから抱きしめられた。
「疲れてないか?大丈夫?」
「うん、片付けもみんながやってくれたから……」
特に台所は、智恵先輩と日高先生が仲良く後片付けしてくれた。
『さすがにあの雰囲気の中には入り込めないねぇ。なんか、あのふたりが一番夫婦歴長そうに見えるんだけど』
わたしが思ってたのと同じことを水嶋さんが口にしていた。智恵先輩の指示に従うというよりも、先読みして日高先生が動くって感じで、凄いコンビネーションをみせられたって感じだ。見ていて気持ちいぐらいふたりの呼吸はあっていて、テキパキと片付けを終わらせてしまった自分も料理が得意だけれども、とてもじゃないけど割り込めないという意見に皆で頷いた。水嶋さんはそこそこ料理もできるらしいのだけれども、家事がまったくといってできない甲斐くん父子はちょっと小さくなっていたような気がする。
「日高って……家事とか得意そうだよね?」
甲斐くんのちょっと拗ねた声。
「家事って言うか……お手伝いし慣れてるんだと思うわ。それがどうかしたの?」
向き直って彼に聞き直したけど、まだちょっと拗ねたような顔してる。
「オレも手伝う……これからは、ずっと」
「そうね、手伝ってもらわないと困ってしまうわね。赤ちゃん生まれたらもっと大変だし?」
「ああ、出来るだけ子供を大事にしてやって欲しい。オレはさ、オレ達が親にしてほしかったこと……全部してやりたいんだ」
その気持ちはわかる。わたしだって同じだもの。だけど、あんまり度を超すと良くないんだよね。
「もう、そんなことしたらすっごい甘えん坊になっちゃうわよ?わたしはまず、お母さんとお父さんが仲良しなのがいいな。ずっと一緒にいる夫婦……それが一番嬉しいと思う」
もちろん親には色んな事をしてもらいたかった。だけど……実際親がなくても子は育つ、そのこともよくわかっているのだ。同級生や教え子達が、親の事をよく『ウザイ』とか『うるさい』って口にしてるのを聞いたことがあった。どうやら構われ過ぎなのも嫌らしく、教え子がそう言ってた時は、出来るだけ『してもらえるありがたさ』を伝えたつもりだ。結局『お父さんとお母さんが仲良過ぎて困る』なんて笑って口にしてる子が一番幸せそうだった。構われ過ぎてる子の家は、結局父親が留守がちだったり、そのぶん関心が子供に集中してしまう傾向にあることは、時々職員室でも問題になっていた。それに過干渉は時に育児や教育の範疇を越え、コントロールしようとする親のエゴイズムに過ぎず、教師側から見るとぞっとするものもあった。その被害者はいつだって子供達だったから。
「それじゃ、子供のためにも仲良くしなきゃな」
ちゅってキスされて意識が戻る。思考が完全に教師脳に戻っていたようだった。
「何考えてた?」
「うん……どんな親が理想なんだろうって。教師してるときに色々みてきたけど、なる側として今まであまり考えてこなかったから」
「相変わらず真面目だな、志奈子は。だけど、さっき言ってたのでいいと思うよ。両親が仲良くて、子供を愛してて、心配したり構ったり……その度に考えればいい。子供に、妻に、おまえを愛してるんだってちゃんと伝えられる夫で、父親でありたいよ。で、今は……妻にメロメロな夫になりたいんだけど?」
妻……籍はまだ入れていない。用紙にはさっき日高先生と水嶋さんが証人のサインをしてくれた。甲斐くんは母親の欄に朱里さんの名前を書かこうとして、思わず『げっ!ここに朱里の名前書くの?』って叫んでたけど、すぐさま後ろから本人に頭を叩かれててた。そこには生母の名前を書かなきゃいけないから、甲斐くんのお父さんが出した紙に書かれた名前を見て、甲斐くんはゆっくりとその名を書きうつした。少しばつが悪そうに……
『オレの中で母親はすでに朱里になったっていうの……今、すっげえ実感した』
母親をしらない甲斐くんにとって、自分のことを心配してくれる朱里さんが既に母親になっていたのだ。だけど、そこはだれも突っ込んだり囃したりしなかった。
『けど、式はどうするの?』
その問いに顔を見合わせた。今からじゃ準備も無理だし、もうお腹も5か月目に入って、かなり目立ってきているから無理かなって思っていた出来ちゃった用の式のプランとかあるらしいけど、わたしは挙げなくても構わないと思っていた。だって……こうやって甲斐くんが一緒にいてくれるだけで十分だもの。子供と3人暮らしていけるなら、それ以上の幸せはないと思うから。
『生まれてから……落ち着いたら挙げようと思ってるんだ』
甲斐くんの返答に驚いてしまった。だって、そんなの聞いてないんだけど?相変わらずそういうことは先に決めちゃうんだね。あの日いきなり部屋を決めてきたみたいに。あれだって……わたしをどこにもやらないために必死で用意したのだと言っていたけど、この式もきっとそうなんだよね?
『それならオレ達と一緒に挙げるか?』
『え?』
思わぬ提案をしてきたのは、甲斐くんのお父さんだった。
『オレ達も子供が出来てから挙げようって言ってるんだ。来月には生まれるけど、夏の暑い時期もなんだから、秋にでも挙げようかって話してるんだ。そっちの予定日は9月の頭なんだろ?だったら10月か11月はどうだ?』
『無理だよ、せめて12月ぐらいじゃないと……』
『12月だな?よしわかった、これで決まりだな。オレ達に任せておけな』
にやりと笑う父親相手に、甲斐くんは思いっきり項垂れていた。言い出したら聞かないんだと……だけど、そういうところは間違いなく親子だと思う。
「志奈子?ボーっとしてたらオレに好きなようにされちまうぞ?」
「あっ、え?」
考えてる合間にキスされて、いつの間にかベッドルームの前にまで誘導されていたようだった。
そういえば、ここは開けないようにって言われて、今日は入ってない。荷物はすべて前にわたしがいた部屋へ持ち込んだ。部屋全体がクローゼットみたいになってて、甲斐くんのたくさんの服も全部そこに置いてあったみたいだけど。
「無茶はしないようにするけど……いい?」
その問いに頷きながら、ドアを開ける甲斐くんに促されて部屋に入る。いつのまにか、あのベッドだけの部屋が綺麗に内装されていた。圧迫感のある壁には飾り窓のようにカーテンや壁掛け。そして観葉植物に間接ライトが置いてあって、とても素敵な部屋に様変わりしていた。
「どう?前の部屋はあまりにも……ヤルだけっぽかったから、ここだけ変えてみたんだ。おまえが少しでも居心地いいようにって。水嶋さん経由でプロに頼んだんだからな」
照れ臭そうにそう答えてくれた。
「きれい……すごく落ち着くわ」
「だろ?他は全部同じでも……ここだけは変えたかったんだ。志奈子はずっとオレに愛されてないと思いながらここで抱かれてたんだろ?だからいつも泣いてた……声もださずに。オレは、聞けなかったんだ。口に出させばおまえがいなくなるって、そればっかり怖くて。自分の気持ちにちゃんと向き合えてなかったから。だけど今は違う。志奈子の事が大事で、一生大切にしたいと思ってる。婚姻届にサインした瞬間から、オレの中ではおまえはオレの妻、奥さんなんだ」
明日にでも婚姻届を出しに行こうと言ってくれた。
「大事に抱いてくれる?」
「ああ」
「前よりももっと愛してくれる?」
ぎゅうっと抱きしめられていた。
「もちろんだ、志奈子」
部屋の雰囲気は変わっていても、ベッドそのものは前と同じ。そっとその上に横たわらされる。
「この部屋で抱くのは久しぶりだよな」
最後の日も……ホテルの部屋だったし、再会した時も車の中とホテルだった。どちらもセフレとしてでなく、一時だけの恋人として抱かれたつもりだった。
「志奈子……いっぱい泣かせてごめん」
この部屋で……だけど、愛された日々でもあった。自分が必要だと、甲斐くんの身体も指先も雄弁に語ってくれていた。それに気が付かなかったのはわたし。それに……わたしの身体もそうだった。彼を求めて好きと叫んでいたはずだ。その証拠に、いつだって甘く欲しがるように溶けていた。
だから、ここでは言葉よりも身体でわかり合えばいい。
「謝らないで……そのぶん、いっぱい……」
愛してと言いたかったのに、また唇をふさがれてしまう。キスの激しさで、思わずあの激しい行為の日々を思い出してしまうけれども、その夜は以前よりも数段穏やかに優しく抱かれ、甲斐くんの腕の中で眠った。
『激しくできないのがつらいな』なんて言いながらも、そのぶん触れる手が優しかったし、一生懸命言葉でも伝えようとしてくれた。そのことがうれしくて、わたしは何度も身体を震わせて彼を受け入れた。
(2011.11.23改訂)
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