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社会人編
〜志奈子・1〜
一人暮らしには慣れていた。
物心ついた頃から母と二人暮らしをしていた、と言っても部屋に一人置いて行かれるか、追い出されるかがほとんどで……母親は近くにいても遠い存在だった。手を伸ばしても振り払われるのが怖くて、いつの間にかその手を伸ばすことはなくなっていった。
中学の時に母親が再婚した。だけど随分年の離れた義父とはあまり話すことはなかった。義父には、結婚して別に所帯を持っている息子夫婦がいたけれど、最初に一度顔を合わせたきりで、歓迎されてないのはすぐに判った。母は再婚してからもパートに出ていたので、わたしはいつもの如く学校から帰ると留守番だった。別に子供の頃からそうだったし、料理が出来たから何の不自由もない。二人とも帰りが遅かったから、家事はしていたけれども家族で一緒に食事をするようなことはほとんどなかった。
高校から本当の一人暮らしをはじめた。けれども、引っ越し先に親が来ることもなく、人と距離を置く癖がついていたので、誰も訪ねて来ない部屋が当たり前だった。
それが……
大学に入って、甲斐くんと再会してからは違ってしまった。別々に住んでいても勝手に押しかけてくるし、隣人に襲われた後から一緒に住みだして……毎日と言っていいほど彼の隣で眠っていた。
一度、誰かと暮らしてしまうと、慣れ直すのにはすごく時間がかかる……
ついつい二人分作ってしまう食事、独り寝の寂しさ……眠りにつく時、右側に誰もいないその空虚さに、何度も耐えきれず震える身体を掻き抱いた。
地方の中学教師として新しい生活をスタートさせてから1年半……教師の仕事は、慣れるまではすごく大変で、子供達相手になかなか思うようにはいかない。彼らも幼いながらに必死で自分の不満や現状と闘っているのだから。わたしに出来る事なんて話を聞いてあげるぐらいで、たいしたことは出来ないけれども、すごく遣り甲斐がある。わたしには他に大切にすべき家族も友人もないのだから、せめて生徒達だけでも大事にしていこうと、そう決めていた。
過去は振り返らない。そのつもりで毎日忙しくても一生懸命仕事に没頭しているのに、部屋に帰り着いてふと一人になった時に考えるのは、やっぱり甲斐くんのことだった。
甲斐くんはあれからどうしてるだろうか……彼の名前が出るのが怖くて、結局氷室さんにも連絡は取っていなかった。それに……わたしが都心から離れた他県に居るなんてこと、知っている人はいないかもしれない。大学側には連絡先を実家にしているし、卒業後は誰とも連絡を取っていなかったから。
「船橋先生、お帰りですか?」
「ええ、日高先生。今日は部活はなしですか?」
「ご覧の天気ですからね。よかったら車で送りましょうか?」
ニコニコと爽やかな笑顔を見せてくれるのは体育教科担当の日高圭一先生。この1年で覚えたのは教師としての経験だけでなく、社会人としての社交性もそれなりに身につけることが出来た。こうやって誘われたら相手の気分を害さない様に断ったり、無理のない範囲で受け入れたり……彼は3年上の先輩教師で、後輩としてのわたしを気にかけてくれている。今の職場は若い教師は少なく、ベテランが多い学校だから余計だろう。
「じゃあ……お言葉に甘えて」
外は凄い雨、徒歩20分のアパートでも送ってもらえば随分と助かる。今までも通り道だからと言って何度か送ってもらったことがあるし、同僚として普通の気遣いだと思っていた。
「付き合ってもらえませんか?」
「え……?」
彼から交際を申し込まれたのは、お天気も関係なく送ってもらう事が増えだした車の中だった。
「もちろん、いい加減な気持ちじゃないです。この1年半、ずっと船橋先生を見てきました。これでも随分我慢したんですよ?教師の仕事は慣れるまで大変だって判ってますから。1年目はきっとそんな気持ちになれないだろうと思って……」
「あの……でも、わたしなんか」
確かに好意は持たれているとは感じていたけれども、それは同僚としてだと思っていた。わたしは、どちらかというと男の人に見向きされるタイプじゃないし、彼がわたしに親切にしてくれるのは、他に若い同僚教師が少ないからだと思っていた。
「一生懸命、生徒達に向き合っている船橋先生が好きになったんです。一生、あなたと一緒に教師を続けていけたらなって思ったんです。将来のこと、考えながら付き合ってもらえませんか?」
日高先生は体育大学出だけあって、性格もスポーツマンそのもの。元気で明るくて、見た目も爽やかで……女子生徒だけでなく保護者からも人気がある先生だ。そんな彼がわたしをなんて、すぐには信じられなかった。それも将来って……結婚を考えてって事?わたしは一生……恋愛することも、結婚することも無いと思っている。
日高先生の明るさと強引なほどの元気さは、同じ教師として羨ましかった。その強さを少しだけでも分けてもらえないかなと、常々思うほどだ。同じ教師として、同僚として好意は持っていた。だけど、それが恋愛感情かどうかといわれれば、そんな気になれないと言った方が早かった。甲斐くんを忘れられないこともあるけれども、今はまだ仕事をこなすだけで精一杯だったから。
「そんな……今は、考えられないです。日高先生は凄く尊敬出来る先輩教師ですし、生徒に対する態度とか、凄く見習うべき所があって……お気持ちはうれしいです。でも……」
「すぐに断ろうとしないで、ゆっくり考えてもらえませんか?その為に、まずは少しだけでもお付き合いしてみませんか?今まで通りこうやって一緒に帰ったり、食事に行ったり、休みの日に出掛けたりするだけですから」
「でも……」
「躊躇される気持ちはわかります。先生は……男性とお付き合いすることに慣れてらっしゃらないでしょ?」
慣れてない、か……わたしのイメージなんてそんなものかな。これでも教師になってからは、出来るだけ野暮ったい格好はしないように努力していたし、化粧も最小限だけどきっちりとしている。大人の自分を演出しないと、教師の中でも浮くし、生徒達にも馬鹿にされてしまうから。それなりの努力はしていたけれども、父を知らずに育ったわたしにとって、年配の男性なんて今まで近くにいなかったので、彼らを含めて男性と話しててもぎこちないのがバレていたのかもしれない。
だけど、本当のわたしは……大学卒業するまで男と暮らしていたふしだらな女だ。
「だから、先生がその気になるまで待ちますから、僕と正式に付き合ってくれませんか」
付き合う……日高先生と。付き合って、いずれ結婚?だけどその前にはあの行為が待っているんだよね。もちろん、一生……将来と言葉にするのは、ちゃんとわたしのことを大事にしてくれている証拠なのは判っている。同じ職場での恋愛は遊びじゃ済まないし、結婚を前提にっていうのは凄く誠実な申し込みで、真面目な日高先生らしいとも思えた。ただ、判っていないのは……わたしが男の人と付き合ったことがないと思いこんでいるらしい事。
たしかに甲斐くんとは付き合っていなかったと思う。でもセックスはしていたし、一緒に住んでもいた……その事を言えば、彼はどう受け止めるだろう?何も知らない顔して、淫乱だとわたしに幻滅するだろうか?彼の期待するわたしと、実際のわたしとじゃ何処かずれている気もする。それを今はまだ口に出来ない。
「少し、考えさせてください」
わたしは返事を保留した。真剣に申し込んでくれているのに、いい加減な返事は出来なかった。甲斐くんの元を離れてからも、前と同じで一生恋愛することも、ましてや結婚なんて考えてもいなかった。だけど、相手が本気で言ってくれているのなら、本気で答えをださないと……母を見てきただけの、恋愛や結婚に対する偏った大前提で答えたら失礼だ。だって、日高先生は本当にいい家庭で育ってきた方だと思うから。毎日ちゃんと洗濯されたジャージ、スーツの時もちゃんとアイロンのかけられたシャツ、なによりも顧問のサッカー部の練習で汚れてもちゃんと手洗いしてあるソックス。それから遠足の時、母親の作ったお弁当を恥ずかしそうに開けながらも残さず食べる行儀の良さ。わたしにはない、当たり前の温かい家族の中で暮らしてきた人の明るさがある。それが少しだけ眩しかった。ただ、わたしが当たり前の物に恵まれず育って来たなんて事は思いもしないのだろう。不意に両親の事を聞かれても、答えられなくて困っていた。
交際を申し込まれた日から、日高先生は前よりも積極的にわたしに声をかけて来るようになった。周りにもその感情を隠そうとしないから、次第に生徒達が二人の仲を噂するようになり……他の教師からも何度か真相を聞かれたが、言葉を濁すしかなかった。
返事をして、このまま付き合えば……噂されている事が事実になる。
デートを繰り返し、カラダを重ね、両親に紹介され、婚約して……結婚する。これから先の将来を二人で歩んでいくなんてこと、わたしに出来るのだろうか?
以前は……恋愛も、結婚にも拒否感情が強かった。母が恋愛を繰り返し、自分を扶養してくれる人を探し縋るのをずっと見てきたから。その事の意味がよく判っていなかった……だって物心付いた頃から父親の存在を知らなかったわたしには、父親も新しい家庭も、大きな家も別に欲しくなかった。ただ、母に愛されたかった……あの温もりが欲しかっただけなのだ。
そのことを甲斐くんに気付かされた……
甲斐くんに与えられた温もり。本気じゃなくてもいいから、一時的でもその温もりを求めてしまう母の気持ちも……今ではよく判る。身体だけでも必要とされる喜びも、側に誰かがいる安心感をわたしに教えてくれたから。
日高先生との未来で、甲斐くんと過ごした日々の先に、わたしが望んでいた物が手に入るなら、いっそのこと受け入れてみようかと思い始めていた。
「志奈子先生、お昼ですか?」
校門の所で車に乗った日高先生に呼び止められた。今日は土曜日だけれども、顧問している卓球部の練習があるから学校に出てきていた。いつもならもちろんお弁当を作ってくるのだけれども、午後練があったことを失念していたので急ぎお昼の買い物に出ようとしていたのだ。
「ええ、今日は何も持ってきてなくて……その先のコンビニまで行こうと思って」
「それじゃ、そこの洋食屋でランチしませんか?なんかあそこの大盛りオムライスが急に食べたくなって」
「そうですか?じゃあ、ご一緒させて下さい」
わたしは日高先生の車の助手席に乗り込んだ。こうやって彼の助手席に乗っているところを生徒達にも見られたのが噂の切っ掛けだった。だけど、今ではそれに慣れてしまうほど、ほとんどの時間を日高先生と一緒に過ごすようになっていた。
学校のすぐ近くには少し歩くとコンビニがある以外、食事が出来るところは街中まで車で少し行かないとあまりない。車で5分ほど行ったところに美味しいと評判の洋食屋さんがあった。オムライスの卵がふわとろで、スパゲッティもイタリアンレストランに負けないおいしさ。もちろん大盛りメニューもある。ただ歩いてだと片道20分、往復40分では食事する時間が取れないので、わたしはコンビニでサンドイッチでも買おうかと思っていた。
「じゃあ出しますよ」
「はい、お願いします」
シートベルトをしようと身体をひねった時、少し離れたところに黒い車が停まっているのが目の端に入ってドキリとした。
まさか……気のせいだ。あれ以来わたしは、甲斐くんの車に似ている車種を見かけると、ついつい目がいってしまう。こんなところまで来るはず無いのに、バカだな、わたし……
「どうかしましたか?」
「え?」
「なんだか元気がないような気がするんですけど」
「そんなことないです、気のせいですよ」
こんなあり得ないことに気を取られるなんて、たぶん昨日……あんな話を聞いたからだ。
昨日は午後から行われた市の教育発表会に参加していた。そこで、わたしと同じ大学だったという子に偶然会ってしまった。
「ねえ、船橋さんでしょ?」
会場を出たところで声をかけてきたのは歳の近い女性で、持っている封筒を見るとどうやら諸学校の教師のようだった。
「あの……」
誰だか判らないのに名前を呼ばれて驚いてしまった。
「ごめんなさい、わたし宮沢、宮沢知子っていうの。船橋さんと同じO女子大だったんだけど、学部が違うからわからないかな?」
悪いけど彼女のことは全く見覚えがなかった。もっとも、誰とも係わらず過ごした大学時代に、同じゼミの子以外に知り合いなんてほとんど無い。他には精々、氷室さんぐらいで……
「ねえ、一人?よかったらお茶でもしながら話さない?」
「ええ、いいですけど……」
その日のフォーラムに参加していたのは、学校側ではわたし以外には校長、教頭、年配の教員陣で、部活動の指導のある日高先生などはその場にいなかった。いたらたぶん送って帰ると言われてたと思う。
「ごめんなさいね、強引で。なんか懐かしくって……」
彼女は実家がこの県で、採用試験も地元で受けて戻ってきたそうだ。彼女は懐かし気に大学時代の話を始めた。だけど、小学校の教員である彼女とは学部が違う。彼女は教育学部で、カリキュラムもほとんど違っていたから。それでも大学付近の話や、都心と違って小さな街ではコンビニ探すのも大変だねって話に盛り上がったりした。実家から少し離れたこっちの小学校まで通ってる彼女は自動車通勤で、今日は送って帰ってあげるねとか、今度買い物に一緒に行こうとか、色んな意味で信じられないようなことを誘われていた。今までのわたしには決してあり得ないことだったから。
「船橋さん、ちょっと変わったよね?雰囲気とか……」
「そ、そう?」
「だって、さりげなく着てるものもいい感じになったし……大学時代に比べて凄くきれいになったよ。これはちょっと声かけさせて貰わねばと思ったのよ」
着ている物は……最後に氷室さんや甲斐くんに勧められて買ったものが多かった。中には甲斐くんに買って貰った物もある。それを捨てることも出来ずに大事に着ている。他にたいして服も持ってないし、買いに行くのも億劫だったから。そろそろ買い足しに行きたいなと思っていたところだった。話が弾んだついでに、この後少し離れたショッピングセンターに買いに行こうという話になっていた。
「そういえば……船橋さんってさ、氷室さんと仲良かったよね?だから覚えてたんだけど」
「そんな……仲が良かったってほどじゃないんです。教育実習先が同じで、こっちがお世話になってただけです」
「なんだ、そうだったの?ずいぶん仲良さそうに氷室さんが話しかけてたから、てっきり……今だから話すけど、わたし彼女に憧れてたのよね。ファンっていうの?同じ大学で同じ教師の道を歩んだってだけでも結構自慢だったりするのよ。話したことほとんど無かったけどね。でも、わたしと同じラクロス部に入ってた子が彼女と同じゼミでね、彼女も私立だけど都内で教員やってるのよ。それで、この間ショックなこと聞いちゃって……彼女子供が出来たとかで、学校辞めるらしいわよ」
「……え?……子供?」
「そう、学生時代から付き合ってたカレ……なんて言ったっけ?モデルやってた、えーっと……」
身体が震えた……でも自然とその名前はわたしの口からこぼれていった。
「甲斐……くん?」
「そうそう!甲斐って人と籍入れて結婚しちゃうそうよ。続いてたんだねぇ。わたしも彼女を向かえに来てるところ見たことあるんだけど、お似合いだったもんね二人。でね、産休取るかどうかって悩んだらしいんだけど、結婚前に出来ちゃったなんて、教育上的良くないからって辞める事になったって」
そう……なんだ……子供が、出来たんだ。
自分の周囲がいきなり真っ暗になって、意識がすーっと奥底に沈むような気がしていた。
「ね、どうかした?」
「ううん、なんでもないわ」
「それでも学年途中じゃまずいから、学年末まで学校にいるそうよ。籍だけ先に入れて、その後盛大に結婚式じゃない?だって、教師っていっても彼女は氷室コーポレーションのお嬢様だしね」
そうだ、甲斐くんの就職先も氷室コーポレーション。きっとこうなるの判っていて就職先を決めたんだろう。
なんだ……最初から決まってたんなら、最後に、あんな……後ろ髪引かれるようなこと言わなきゃ良かったのに。
嘘でも嬉しかった、あの言葉。
『オレも、感謝してる』
『志奈子の身体が一番……いい』
『本当は、離したくない……』
だけど全部、その場限りの言葉でしかなかったんだ。手放すのが惜しかっただけ……だってわたしは、料理つくって身の回りの世話して、避妊せずに思いっきり抱ける、壊しても構わない存在だったから。お嬢様の氷室さんにはそんなこと出来なかったからだよね?
今となれば、週末部屋に帰って来なかったことも、クリスマスやバレンタインのイベントの日も、全部彼女の為に当ててたんだと判る。必死でバイトしてたのも、就職活動も……全部彼女の為だったのだと。
11月……店の外では秋風が吹いて、凍える心と体を芯まで冷やしてくれた。
「どうしたんです?食欲ないですか」
洋食屋さんの隣り合わせの席から覗き込むようにしてわたしの様子を伺う日高先生の心配そうな顔が近くにあって少し驚いた。
「そんなことないです、美味しいですよ」
そう返事したけれども、昨日から何を食べても砂を噛むようだった。昨日は、覚悟していた割にはショックで、なかなか寝つけなかった。だからといって買ってきた缶チューハイを飲んだのは失敗だった。珍しく朝寝坊しそうになったから……でも、おかげで少しは眠れた。クラブで生徒達と一緒に身体を動かしたら、随分と気も楽になった。
大丈夫、まだ、笑える。生徒達に体力のなさをからかわれながらも、笑える自分に安心した。もう、甲斐くんがわたしの生活の全てじゃないのだから。
「実は、今日の夜に飲み会があるんですけど、志奈子先生も来ませんか?この辺の中学の教師とかの集まりで女性教員もいますから、歳の近い教師と交流が持てますよ」
「飲み会……ですか?」
飲むのはいいかもしれない。何もかも忘れられるなら……
「行こうかな……」
「ほんとですか?ただ……出来ればオレのカノジョとして連れて行きたいんだけど、いいかな?他の奴に手を出されるのが嫌だから、今まで誘わなかったんですよ」
照れた顔で頭を掻きながらも真剣な目で見詰められた。
「あの……」
「すみません、こんなとこで返事せかしちゃダメですよね。よく言われるんですよ、オレせっかちだって……だから失敗しないように、志奈子先生には万全尽くしてます」
もしかしたら、日高先生も失敗した経験があるのだろうか?だから……大事にしてくれようとしているのかもしれない。それにわたしが答えられれば一番いいはずだ。
あれから1年半……その間に、彼はちゃんと本命の氷室さんを選んだ。わたしももっと早くに踏ん切り付けていれば良かった。なのに、もしかしたらと心のどこかで彼が迎えにくるのを待っていたのかもしれない。あんなにきれいな人が居たなら、わたしの事なんか思い出す余地もないのに。だったら、最初からわたしになんか手を出さなければよかったのに、なんでって……甲斐くんの本心なんて判らないけど。
少しだけ……調べたことがある。<セックス依存症>幼少期に親からの愛情を十分に与えられなかった場合、その寂しさを性的快感で代償したりする場合があるとか、他にも強いストレスなどから回避するために性的行為にふける事もあるそうだ。その言葉を知った時に、わたしも彼もそうだったんじゃないかなって考えた。わたしの場合は今のところ彼以外にそんな気になってないので少しは違うだろうなって思うけど……彼は誰でも良くって、それを解消する為にわたしを使っていたんじゃないかなって。氷室さんは大事な人で、特別で……無理させたくなかったから、普段はわたしといたと考えると全ての辻褄が合う。別れる時は気を使ってあんな風に言ってくれたけど、あれも身体に対する未練だって判れば納得もいく。
どちらにせよ彼女との間に子供が出来たのだから……わたしにはもう関係ない。
ただ、時々わたしも……気が狂うほど身体が寂しくなる。欲しくて欲しくて、その熱を納めるのに、自分で慰めても物足りなくて、虚しくて。
あれほど抱かれていたのに……もう2年近くもこの身体は誰にも抱かれていない。隣にいる日高先生だって、わたしがそれほどにもいやらしく淫乱な身体の持ち主だとは知らないだろう。知らないから、こんなにも真剣になってくれるのかもしれない。
嫌がっても、感じるカラダ……すぐに男の人を受け入れてしまうふしだらな下半身。甲斐くんと暮らして、毎晩抱かれて、よがり狂っていた事実をこの人は知らない。言わなければ騙すことになるのだろうか?でも、そんな恥ずかしいこと言えないし、日高先生だって聞きたくないだろう。
「今日は……そういうことにして貰っても構いませんよ」
「本当ですか?でもあいつらに言うと……広まっちゃいますよ?」
「……いいです」
「ほ、本当に?よーし!絶対他の奴等は隣に座らせませんからね?今夜はオレも飲まずに先生をちゃんと送っていきます!ですから……その時に返事、もらえますか?」
わたしはこくりと頷いた。日高先生はガッツポーズを取ったあと、そっと……テーブルの上に置いたわたしの手に自分の手を重ねてきた。
その手はすごく、温かかった……昨日から冷えっぱなしのわたしの心を温かく包んでくれた。
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