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「それじゃ」
「ああ」
わたしは手荷物が入った鞄を持ち上げるとドアに向かった。ほとんどの荷物はすでに送っている。
これで最後、本当にお別れ。だけど二人何もなかったかのように顔を背けた。
ホテルから戻ってからもほとんど口をきいていなかった。
「駅まで送る」
そういって車の鍵を持った甲斐くんが近づいてくる。
「いいよ、天気もいいし、歩くから」
「送らせてくれ」
振り返らないわたしの背中に向けられたのは甲斐くんのつぶやきのような声。
昨日みたいに、泣いてるのかと思わせるほどの細い声。
「でも……」
強く断れないでいるうちに、甲斐くんはわたしを追い越してドアから出て行ってしまう。わたしがエントランスを出た頃には車が回されていた。
「乗って」
「……ありがとう」
素直にお礼を言って車に乗り込んだ。駅まで歩いて15分、車だと5分もかからない。
「じゃあ、ここで」
駅のローターリーは混み合ってて、長く止めておけるような状態じゃない。構内まで送られたらわたしが辛いのでさっさと車から降りようとする。
「志奈子……」
「なに?」
「頑張れよ、先生」
「あ、りがと……甲斐くんも、仕事頑張って」
それが互いの夢だった。親から離れて自立する一歩。ずっとその目標を目指してきたはずだった。
互いの夢はその一歩目を叶えた。
4月からはわたしは教師として、甲斐くんは会社員として働きはじめる。その姿を見ることが出来ないのは寂しいけれど、これでいい。新しい一歩は誰も知らないところからはじめればいい。
わたしは車を降りてまっすぐ駅の改札に向かった。
切符を買い、改札の中に入る頃に振り向いたけれども、甲斐くんの車はもうなかった。
――――さようなら
今度こそ本当に。
たとえセフレだったとしても、温かかったよ。
愛おしかった、あなたが……とても、大切な存在だった。
離したくないと言ってくれた……最後の言葉は嘘でも嬉しかった。
きっと、手放すのが惜しくて言っただけなんだろうけど。
あんな素敵なカノジョがいれば仕方ないけれども、こんなわたしを最後まで抱いてくれてありがとう。
今となってはカラダだけの関係だと思えないほど、ずっと一緒に居たよね?あまり話さなかったし、どこかに出掛ける事も無かったけれども、ほとんど喧嘩することもなかったよね?
高校卒業の時もわたしはこうして彼の元を離れた。あの時はわたしが彼から逃げようとしていた。大学で再会した後も……でも、今度は逃げるんじゃない。ちゃんと終わらせる事が出来た。これからわたしは自分の道を選んで進むだけ。甲斐くんもわたしの夢を認めてくれたから、この関係を終わらせてくれたんだよね?
ありがとう……
人を大切に思う気持ちを教えてくれて。
甲斐くんと出会う前のままのわたしだったら、きっとこんな気持ちで教師にはなれてなかった。誰かを愛せる人でなければ出来ない仕事。誰も愛せない自分じゃ、生徒だって愛せないのだから。
氷室さんとお幸せに。あんな素敵な人他にいないから……大事にしてあげてね。
気付いてたよ。甲斐くんの就職先<HIMURO.CORPORATION>彼女のところだったんだよね?
だから、わたしにはっきりと就職先教えなかったんでしょ?
気を遣わせちゃったかな……知ってたのに。
氷室さんには最後まで悪いコトしちゃったね。甲斐くんとの最後のデート、お手伝いさせたりしたこと……気付いてないといいんだけど。
もし、彼女がもっと嫌いになれるような人だったら……わたしは最後に甲斐くんに強請ったかも知れない。
『この先もずっと側にいて』と……
でも、言えなかった。はにかんだ表情で甲斐くんからの連絡を受け取る彼女を、嬉々として車に向かって駆け寄る彼女を知っていたから。
だから……幸せになってね。
わたしも、夢を叶えるから。
いい先生になって、一生を教育に捧げるから。
だから、本当に、さようなら
わたしは赴任先の街まで電車とバスに揺られてやって来た。
荷物は大家さんに頼んで前もって部屋に入れてもらえているはずだ。鍵は前回契約を済ませた後にもらっているし。
この街に着いて最初にすること、それは今までのケータイを解約して新しく契約し直すことだった。部屋に着く前にその作業を済ませたわたしは、いくつか食料品を買い込んで新しい住処となる部屋の鍵を開けた。
荷物の塊が隅っこに置かれた誰も居ない部屋。
もうここには自分以外誰もいない。
「うっ……くぅ……」
部屋に入った途端、ずっと堪えていた嗚咽がこみ上げる。
本当にお別れしたんだ。
もう逢うこともない。
電話もメールもかかってこない。
わたしは、また……一人ぼっちだ。
「平気……なんだから……今までだって、ずっと、一人だったんだから……」
最初からこうなる予定だった。なのに、誰かと肌を合わせることを覚えてしまった。一人じゃない安心感を知ってしまった。
「大丈夫、大丈夫……」
一人でも大丈夫。
これからもずっと、一人でも……
「か……い……くん」
大丈夫なはずだったのに、身体の震えと涙が止まらなかった。
もう追いかけてはくれない。甲斐くんはちゃんと見送ってくれた。
きっと今頃、彼の側には彼女がいる。
わたしは、一人……また一人。慣れてたはずなのに、どうしてこの狭い1DKの部屋が広く感じるのだろう。
「うぇ……っ、おかあさん……」
呼ぶつもりなかったのに、何年かぶりにその名前を口にして泣き崩れた。
わたしは、まだ子供だったのだ。
甘えて、温もりを強請る子供だった……だからこんなにも肌が寂しいのだ。
嗚咽を堪え、自分で自分の身体を抱きしめながら、わたしは歯を食いしばる。
「泣いても、無駄……何にも解決しないんだから」
自分にそう言い聞かせて、立ち上がって荷ほどきをはじめた。
これから、ここで生活していく。
ひとりで……
大学編(完)
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