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日高&正岡

同僚・その2


「ちょっと、聞いてる?あんまりだよ……あんな、いい子なのに!」
「はいはい、聞いてますよ。智恵先輩」
これが飲まずにいられますかってんだ!日高くんと居酒屋で待ち合わせていた。
結局、どうしようか迷ったけれども、わたしは日高くんに彼女の妊娠を伝えた。
だけど、ほんとうに怒りたいのは彼の方なのに……わたしが先に怒りだしたから怒れないのだろうか?それとも一度わたしの前で『振られた、諦める』と酔って管巻いたことがあるから、バツが悪くて感情的になれないのか……どっちにしろ今現在怒っているのはわたしの方だった。
そのうえ、彼から志奈子先生の元カレの話を聞いてわたしは大激怒してしまった。
まさかそれほどとは……普通に元カレだって思ってたから、その人に連絡して責任を取ってもらえばいいだろうって考えていた。日高くんに聞くまで、そこまで詳しい話は聞いてなかったから。
「でも、あれだけしんどそうだと何も食べられないだろうし、そのうち倒れるかもしれないわ。お腹の子供だって、彼女自身も危ないわよ。授業中は立ちっぱなしが多いし、妊婦にはきつい仕事だってよく先輩たちから聞かされてたもの」
立ち仕事やストレスの多い教師の仕事。いつ飛びついてくるかわからない小学生よりはまだましだろうけど、妊娠中は立ち仕事やストレスが一番良くないらしい。それに、彼女は今すごく悩んでると思う。まだ産婦人科にも行ってないからはっきりしないけど、教師が……それも未婚で子供が出来てしまったとしたら、どう対処するのか悩むに決まっている。まだ悩んでいるようだったから、そこは口出しせずに帰ってきたけれども、わたしの気持ちは決まっていた。産むにせよ、堕ろすにせよ、彼女に味方がひとりもいないのなら自分がなるしかない。もし自分が……と考えると、わたしは彼女を放っておけない。
「もしかしたらと思ってたけど、やっぱりな」
気が付いていたんだ……だから、自分が振られた相手の体調を気遣ってくれなんて言いだしたんだね。
そりゃ、心配でも聞きにくいと思う。付き合ってた彼女に他の男の子供ができたかどうかなんて。だけどずっと見ていれば気になるし、彼は黙って見ているだけなんてできなかったのだろう。それが優しさだけじゃないのもわかってる……まだ、彼女の事が好きなんだ。それがわかっていて彼にそのことを告げるのは躊躇われたけれども、それ以上に彼女の身体が心配だった。だって、わたしは同じ学校じゃないから、ずっとついていてあげられない。何かあった時に、すぐに助けてあげられない。これから無理するだろう彼女の支えになれるのは、やっぱり彼なのだ。
それに……日高くんが望むのも彼女の幸せだ。振られたとしても、心配でわたしに頼んでくるような人だよ?そんな人だってわかってるから、その頼みを断れなかった。それに彼女も……志奈子先生も一生懸命でいい子なのがわかり過ぎる。元カレの事が本当に好きなんだって、見ててわかるもの。だからずっと日高くんにすまないって、謝ってたんだ。
そりゃ、彼女みたいな真面目な女の子をずっとセフレの関係でおいておくようなずるい男よりも、日高くんの方がよっぽど安心だし頼りになるに決まってる。奥さんとか家族をすっごく大事にするタイプだと思うんだ。まあ、部活持ってたら、土日に休みはないも同然だから、その点では苦労するかもだけど……人として尊敬できるってことは、夫としても最良物件だと思うんだよね。
「とりあえず週末にでも県境の産婦人科に連れて行くつもり。どうするかはその後に聞くつもりだけど……どうするんだろう?どうも産みたいって思ってるみたいなんだけど」
「だろうな……彼女は本気でその男の事が好きなんだよ。僕じゃ全然ダメだった。だけど相手も、彼女の事本気じゃないかって思うんだ。すごかったよ、彼女に対する執着。あの身体に残した痕をみれば誰だってわかるさ」
って、見たんだよね?そこは、あえて突っ込まずにおいておくけど。
「彼女が言うには、そいつは結婚が決まってるって、それも勤めてる会社の社長令嬢だとさ。彼女の事だから、相手に言うつもりはないんだろうな」
「そんな……ひとりで産んで育てるなんて、無理だよ!子供作るようなことしておいて責任を取らないなんて……ましてや他の女と結婚するだって?それじゃ彼女とそのお腹の子はどうするのよ!」
ひどい……彼女は本気だったのに??悪いのはその相手の男じゃない!!
「なんで、智恵先輩が泣くんですか……」
涙がとまらなかった……これからのこと、彼女の気持ちを考えると辛くて、悲しくて……ううん悔しくて。
「だって、悔しいじゃない!あれだけ相手のことを思ってるのに……子供産むにしろ、堕ろすにしろ、向こうは何も知らないまま幸せになるっていうの?彼女だけ、これから苦しめばいいっていうの?」
わたしは悔しさのあまり勝手にこぼれてくる涙をおしぼりで拭きながら机をドンと叩いた。何とかして彼女に子供が出来てることを知らせて責任を取らせられないものだろうか?
「彼女は身内とかいないのよ?誰も頼れる人がいないから、住んだこともないこの町に来たって言ってた……だから、わたしたちしかいないと思うの」
そうでなければ、わたしがノコノコ出てきたりしていない。ずっと好きだった人の、付き合っていた子の為になんて……
「僕は……もし彼女がなんらかの決断をしたのなら、父親役をやってもいいと思ってる」
――――ああ、やっぱりね……
たぶん、そう言うと思ってたんだ。彼女が困っていたら、自分が何とかできないだろうかって思う人だもの。それほど、彼女の事が好きだったんだよね。
ある意味、そういうところはわたしとよく似てるというか、なんかわかってしまう。きっとわたしたちは本質がすごく似ているのだ。それは、一緒に仕事していてよくわかっていた。だから彼はわたしを目標にし、わたしも彼に尊敬される先輩でありたいと思い、好きの一言も言えずに何年もこうしているのだから。
だけど、その後の言葉はわたしの予想以上だった。
「もし産むと言ったら……そのときは僕の子として産んでもらってもいいかなとも思ってる」
「えっ??な、何言ってるの……」
彼女ははっきりと、日高くんの子じゃないと言っていた。そういう関係じゃないから可能性は100%ないって。
「ちょっと、まって……それは」
「これから先も子供連れて生活していかなきゃならないのに、今は未婚の母になるわけにいかないでしょう?誰かの……僕の子にして産めば、その後別れても彼女は職を失うことはない」
「そうかもしれないけど……でも!」
彼にはリスクしかない。だけど、本気みたいだった……それだけ今でも彼女の事を想ってるってことだよね?
これじゃ、いくら頑張っても、わたしの気持ちは届かないや。覚悟はしてたけど、キツイなぁ……
「それで……その間に彼女が自分のものになればいいって?」
「そうだな、それでもいいな……彼女がいいって言えばだけどね」
彼がにっこり笑ってわたしを見る。
ああ、そっか……たぶん彼女がうんと言わないって、わかってるんだ。それでも、そう言いたいんだね……
この人は……まったく。ほんとに惚れ直すじゃないか!考えは馬鹿だけど、そう言ってしまうこの男が、やはり人としてもすごく好きだ。
――――泣きたいぐらい……好きだと思えた。


その週末の土曜日、わたしは彼女と待ち合わせて県外の産婦人科へ向かった。県外と言っても、車で走ればちょっとの距離だ。そこでの検査結果は妊娠10週目ということだった。診察中はさすがに緊張している様子で、その視線が追うのはお腹の大きな妊婦さんとか、元気に走り回ってる子供とか……
やっぱり産みたいだろうな。彼女の子供を見ている顔を見ていても、そうとしか思えない。
診察は待ち時間を入れても小一時間かからなかった。帰りの車の中、わたしは思い切って色々聞いてみた。
すでに日高くんは父親になってもいいと伝えたことを聞いている。だけどやっぱり彼女はそれだけはさせられないと答えた。
「でも、そのほうがいいのは事実でしょ?そうでなきゃ産めないし、堕ろせもしない……」
彼女は堕ろすという言葉に肩をびくりと震わせる。やはり堕ろしたくなんだ……
「日高っちはさ、いざというとき頼りになるよ?あんたも馬鹿だよ、あんなイイヤツ……お人好し過ぎるんだけどさ、自分が係わった人を見捨てられないんだよね。ましてや一度好きになって、嫌いになって別れたんじゃなければ余計にね。今のあんたの顔見てると堕ろしたくないって言ってるよ?ねえ、産ませてもらえば?」
本当はそれは自分にとって辛い選択だ。これから先事情を知った上でふたりを見ていくのは……でも、そう言ってしまいたいほど、彼女に道は残されていない。
「ダメです、それだけは!そんな迷惑をかけるぐらいなら……」
だけどその先の言葉は出てこなかった。それほど……産みたいなら産ませてあげたい。そりゃ無茶なことを言ってると思う。どの選択にしても、それは『本当の幸せ』じゃないのだ。彼ならいい父親になれるだろう。だけど、もったいなすぎるって言われても、彼はあなたがいいって言ってるのに……
一応日高くんから元カレの話を聞いていたけれども、改めて聞いてみた。日高くんにそこまで言われても揺れないほど、いい男なのだろうか?
「ね、あんたのいい人は……どんな人だったの?」
「彼は……見かけは良くても中身は最低の男、だったと思います……いいところも、ちゃんとありましたけど、日高先生とは比べられないです」
最低な男……聞いた通りの話だった。それでも好きだった……ううん、今でも好きなんだよね?
「だって……似てたんです。わたしと、とても……見かけもタイプも全然違ったけど。同じ寂しさを知ってたから……」
それ以上彼女は口にしなかった。似てるから……わたしと同じようなこと思ったんだ。そう思うと彼女の恋愛観に急速に親密感が生まれた。全く違うタイプで、全然違う恋の仕方をしてるけど、もしかしたら、想い方はおなじなのかもしれないね。この子も一途なだけなんだ。だったらもう、応援するしかないじゃない?
「とにかく困ったことがあったらどっちかに言うんだよ?一人で苦しい選択をしないようにね」
きっと無理をする……それがわかっていたから、心配でならなかった。

「あれ、メールだ……」
職員室に戻ると日高くんからメールが来ていた。期待するなと自分に言い聞かせてメールを開く。
やっぱり……志奈子先生が調子悪そうだから、ちょっとついててやってほしいって内容だった。どうやら、今日倒れかけたらしい。わたしは早々に帰る準備をして、S中まで車を飛ばした。校門から出てくる彼女をひろってアパートまで送り、ついでに横にならせておいて簡単な食事を作った。あっさりしたものを、ね。
「すみません、先生にまで……」
相変わらず遠慮しまくってる。
「他にいないんでしょ?頼れる人とか、友達。困ってる時は助けるのが当たり前じゃない。それに……まだバレたら困るでしょ?」
辛いくせに……顔色とか見てたらわかる。今一番悩んでるところなのだろう。何を言ってもわたしたちには何もできない。彼女が決めた時、精いっぱい味方をするだけだ。

「どうだった?様子は」
「かなり辛そうだね。あれは悪阻だけじゃなくて、ストレスだろうから……胃があんまり受け付けなくなってるみたい」
彼女の部屋に寄ったあと、彼に連絡すると居酒屋で待っているからと言われた。混んでたのでカウンターの端に並んで座ったけど、今日は車なので飲むつもりはない。
「そっか……産むんだったら僕が父親でもいいのに」
「それだけは、たぶん彼女はうんって言わないよ?」
「わかってる……そういう甘えとかしない子だって。だけど……このままじゃ無理だよ」
自分が何もできないことが悔しいんだね。惚れた女なのに幸せにしてやれない。そういう男気があるとこ好きだけど、隣に並んでても遠く感じる。今は同士のようなものだから、自分の気持ちにはずっと蓋をして話を続ける。格好つけてかわいそうなんて彼女には言わない。それは今一生懸命決めようとしている彼女に対して失礼なことだから。
「そうだね……でも、厳しいようだけど決めるのはあの子だよ。あの子はたぶん誰も頼らない。そう育ってきたんだって。聞いたんだ、母親にあまり構ってもらわなかったって。ずっと自分で自分のことをしてきて、高校の時からひとり暮らしして、実家にも長いこと帰ってないって。実家って言っても母親の再婚相手の家らしいけどね」
「ああ、僕も親とは連絡取ってないって聞いてるよ」
「聞き出すの大変だったよ……言わない子だからさ。でも、これでよくわかったよ。彼女がなんで誰も頼らないか、ひとりで産もうとしてるのか……」
「力になってやりたいけど、僕じゃ駄目なんだろうな」
「そんなことないよ、そばにわかってくれている人がいるだけでも、あの子は心強いと思うよ。わたしだって、あの子が決めたら、それを精いっぱい応援っていうか手助けしてやりたいって思ってる。でも、助けてって言わないから強引にやってやるんだ」
もうすっかりそのつもりだ。乗りかかった船、一生懸命なあの子を応援してどこがわるい?堕ろすにしても産むにしても、協力するに決まっている。
「智恵先輩……相変わらずカッコイイな。惚れぼれするよ」
「はいはい、ありがとうね。今日は酔ってないのに口が軽いね」
いっそのこと本当に惚れてくれたら嬉しいけど、今はまず彼女の体調が第一だ。

その週末も心配で、志奈子先生の部屋を何度か訪ねたが、彼女は留守だった。ケータイも鳴らしたけど電源も入っていなかった。
「ねえ、どこかに行くって言ってた?」
『いや、聞いてないけど……部屋にいないの?』
「うん……体調悪いみたいだったから、出歩いてないと思ってたんだけど……まさか、倒れたりとか?」
『大丈夫だと思うけど……とにかく近くを探して、部屋に戻ってないか様子をみよう』
わたしがあまりにも動転しているので、運転しない方がいいと、日高くんの車の助手席に乗せられた。こんな時でもなければ密かに嬉しいんだけれども、今は喜んでるときじゃない。
もう一度、部屋の前まで戻ったけれども、中に人のいる気配はなかった。
「もう、あの子は何やってんのよ」
「智恵先輩、落ち着いて……」
「もし……って思うじゃない?思いつめて、とか……カレシが急に来て、その……病院に連れて行ったり、無理やり堕ろされたりとかしたら……どうしよう、もしそうだったら……」
だめだ考えが悪い方に走ってしまう。
「あの子産みたいんだよ?なのに……もしも……」
怖くなって、あの子の気持ちを考えると堪え切れなくなっていた。
「また泣く……智恵先輩、意外と泣き虫ですね。しらなかったな……」
やだな、人前では泣きたくなかったのに……泣くのは子供たちが優勝した時と卒業式の日だけって決めてるんだ。
「だって……ああ、もう!悪い方にばっかり考えてしまうじゃない……」
そっと、彼の手がわたしの肩を抱いていた。それは……慰めのハグだよね?
「良い方に考えようよ。カレシが迎えに来て幸せな時間過ごしてるとか……」
「……それであんたはいいの?」
カレシとよりが戻ってもいいわけ?だって、この間までその子の父親になるって言ってたんでしょう?そのぐらい好きでしょうがないのに、カレシが迎えに来ていいの?
「いいんだよ……彼女が幸せならね」
やけにあっさりした声でそういってわたしの肩から手を離すと、車のシートに持たれて大きくため息をついた。
結局、彼女はどこにもいなくて、そのままもうしばらく部屋の前で待ってみることになった。音楽聴きながら話したりして……恋人同士なら楽しくも甘い時間だろうけど、わたしとじゃ、ねえ?
「智恵先輩はさ……好きな人いないの?」
「……え?」
いきなり聞かれてしまった。準備できてないよ?それに……言うつもりはない。今言ったら……日高くんは困るだろうし、こうやって一緒にいられなくなる。彼女の事がきっかけで、またこうやって一緒にいる時間が増えただけでも嬉しいんだ。そりゃ胸をえぐるような行為だと思うよ?だけど……こんなことでもなけりゃこの先こうやって横に並ぶことすらないかもしれない。だけど、思わず口から本音が飛び出てしまった。
「……いるよ。それこそ志奈子先生みたいに、もしできちゃってもひとりで子供産んでもいいかなって思っちゃうほど好きな人が……」
まさか自分の事だとは思わないだろうし、引かれるかもしれないけど……そう思ったのは事実だから、そう答えた。もし自分が志奈子先生みたいになったらって考えた時、浮かんだのがその答えだったから。
「そのときは一生やりぬくって決めてる教師を辞めなきゃいけないかもしれないけど。子育てが落ち着いたら校外講師としてでもいいから、またそこから子供たちやバレーボールと関わっていけたらなって思ってる。だけど、好きな人の子供産めるなら、一時離れてもいいかなって思ったんだ。志奈子先生みてて……ね」
「……そう、なんだ。意外、だったな。まさか智恵先輩がそんな風に考えてたなんて」
「だって、考えるでしょ?あの子見てたら……あ、でも安心して。子供出来るようなことしてないから」
「えっ?」
驚いたような複雑な表情で固まる日高くん。
ああもう、墓穴掘ってしまった!そんな下ネタいらないって……だからわたしは恋愛とかムードとかダメなんだ。しかたない、時計を見て急いで誤魔化した。
「ああ、もうこんな時間だ!」
「先輩、明日は?」
「一日練習だけど……」
「僕の方もです。今日はもう遅いですから、明日の夕方にでもまた様子を見に来て、それでも帰ってないようだったら対処を考えましょう。今大げさに動いて反対に彼女に迷惑かけてはいけないですから。明日は迎えに行きますから家で待っててください。夜まで待ってみて、それでもまだ連絡取れなかったら、アパートのオーナーに連絡して、部屋の中を見せてもらうなり、警察に連絡するなりしましょう」
「そ、そうね……」
その日はそのままあまりしゃべらずに、車を止めていた駐車場まで送られた。

次の日夕方に落ち合って、先に食事でもと言われてレストランに入ったけど、そのつもりなら前もって言っててほしかった……一旦家に帰ってシャワーを浴びて着替えたけれども、いつのもジーンズ。とりあえず上だけ意識して可愛らしいチュニックなんか着てるけど、こんなデートもどきになるんなら、お気に入りの一張羅のスカート履いてきたのに。だけど、話題と言っても部活の事と志奈子先生の事。食事しててもやっぱり気になってしょうがなかった。
今の彼女には何があってもおかしくはない……それほど深く悩んでいるのだから。
食事の後、あまり長居もできなくて、彼女のアパート近くの公園の駐車場で暗くなるまで並んで座ったまま話をして過ごしていた。いくらでも話はあるんだけどね……付き合いも長いし。
だけど、まさか日高くんがシート倒して横になっちゃうとは思わなかった。『智恵先輩もどうぞ』といわれて、一応同じにしたけど、ちょっとときめいたのは内緒だ。そんなこと思ってる場合じゃないもの。
でも、こうやって彼の助手席に乗っていられるのも、あと何回くらいかなぁ?いつか、この助手席に好きな女の子乗せるんだろう……そしたら、こんな風に話ばかりせずに、キスしたりするんだと思うと泣けそうになってきた。
自分はそういう対象じゃないって、思い知らされただけだから。
「そ、そろそろ志奈子先生の部屋に行ってみない?電気ついてたら帰って来てるってわかるんだし」
「あ、ああ……そうですね」
日高くんはシートを起こすとエンジンをかけた。

「志奈子先生!!いたの??」
部屋の窓に電気がついていたのを見て、わたしは車を飛び降りると、一目散で彼女の部屋に飛び込んだ。
「えあ、あの……はい。今帰ってきました」
驚いた顔でわたしを出迎える。あれ……なんか顔色がいいような?
「心配したんだよ?昨日も帰って来てなかったから。どっかで体調悪くしてないかって」
「すみません、心配かけて……あの、実は実家に行ってきたんです」
「実家?おかあさんのところに」
「はい」
そこで玄関のチャイムが鳴った。日高くんが車を停めるのに手間取って今になったみたい。
「日高っちも来てるのよ。昨日から心配してたんだからね?」
「す、すみません」
「それで、実家に行って……どうだったの?」
「決めたんです……わたし、この子を産みます」
そっと、お腹に両手をあてて、いつかのようにそっと微笑んだ。うん、わたしにはそう見える。たぶん日高くんにも……
「そっか、産むんだ?」
「はい……母が、帰ってきてもいいと言ってくれたので」
「そう、よかったね!日高っちの話しだと親御さんとは絶縁状態だって聞いてたからさ……ほんと、よかった」
ああ、もう泣けてきちゃう。涙腺が壊れたみたいに涙があふれてくる。だってさ、嬉しいじゃない?
「はい……ご心配かけてすみませんでした」
産んでもいいって……母親が一緒に育ててくれると言って嬉しそうに微笑んだ。この子は……母親のところに会いに行くのも、赤ちゃんができたことを言うのもすごく勇気がいったはずだ。だけど、子供のために……頑張ったんだよね?これで安心して産んで育てられるんだよね?ほっとしたのと、この子が長年のわだかまりを捨てて母親のところへ行った気持ちを思うと、もうだめ……泣けてきて止まらない。
「でも、本当に良かった……心配したんだよ?」
「正岡先生……」
「あーあ、また泣いてら。智恵先輩は泣き出すぐらい船橋先生が心配でしょうがなかったんだよね?」
後ろから場を明るくしようとして日高くんが肩に手を置いてくる。
「もう……それは言わないでって!恥ずかしいから」
わたしが早合点していたことを伝えると、彼女は自分が連絡しなかったことを、何度も謝ってくれた。携帯の電源入れたらわたしに泣きごと言ってしまいそうで怖かったのだそうだ。あとは母親と水入らずで一晩過ごしたのだと嬉しそうに話してくれた。
学校は退職するつもりだと彼女は答えた。
「父親役は……やっぱりいらないか?」
「いつか出来る先生の本当の子供さんの為に、その役はとっておいてください。嘘でも他に子供がいるなんて言ったらその子が悲しむでしょうから」
日高くんの問いにも、すっぱりとそう答える。もう、彼の出番はないんだね……
「莫迦な事言ってもしょうがないってことだよ。さっさと諦めれば、日高っち!」
励まそうとして、わざと大きな声でおどけて彼の背中を叩いた。
「とうに諦めてるよ、それは。ちょっと格好つけたかっただけだよ。智恵先輩に」
日高くんが不意に横向いてきて、目が……あった?
な……に?今までにない真剣な顔して。目の前に志奈子先生がいるのに、ずっとこっちを見て目線を離さない。
「それじゃオレたち帰るけど……無理はしないように」
ようやく視線が外れて、ほっとしたような寂しいような……志奈子先生に顔をむけると、彼女はわたしの方をすごく優しい、なんていうのか母性に満ち溢れた笑顔をこっちに向けていた。
「志奈子先生、すごく優しい顔になってるよ」
「え?そう……ですか?」
照れてるけど、すごく嬉しそうでもある。気持ちが落ち着いたら、途端に体調も良くなったようだ。
「うん、なんか憑きものが落ちたみたいに穏やか……悪阻も楽になった?」
「はい、すごく」
ああ、もう大丈夫だ、こんなにも力が漲っている。母になる決意をすると、こんなにも人は優しく美しくなるものだろうか。
「それじゃそろそろ帰りましょうか」
日高くんが、一緒に帰ろうと言った。まあ、今日は一緒じゃないと帰れないよね。わたしは乗せてきてもらってるから。
「智恵先輩。オレと、付き合って貰えますか?」
「えっ?な、なによ、どこへ?」
一瞬なんか勘違いしそうなセリフにドキリとする。だけど、まさかね……でもこの時間から飲みに行くわけ?そりゃ付き合うけど、車の運転どうするつもりだろう?
「飲みながら話しますよ……その方がオレ達らしいから」
うわぁ、久々に見た……日高くんの満面の笑顔。彼はにっこり笑うと会釈して、わたしの腕を掴んで立ち上った。玄関先で深々と頭を下げる彼女を残して、わたしたちは彼女の部屋を出た。
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