神様の声が聞こえる



時は少しさかのぼって、十年前。
僕らは幼い恋をした。
僕は、恋をした。

「それでは委員長が今井で、副委員長が妹尾でいいな」
まだ足を踏み入れて数時間しか立っていない高校の教室は、春の日差しに温められて緩い空気に包まれていた。そこの黒板の前に立たされた僕と棗。ぱらぱらと送られる拍手。僕と棗の出会いといったら、そんな感じの出会いだった。
棗は綺麗な少女だった。物怖じせずはっきりとものをいい、面倒見もいい。勉強も運動もできる優等生。かといってガリ勉という様子は全くなく、少し勝ち気な、ごく普通の少女。けれど時折どこか影のある笑い方をする少女だった。
僕に似ている。
動物的直感で、そう思った。おそらく彼女もそうであったのだろう。けれど必要以上に近付くことはなかった。近付けば警鐘のようなものが胸の中で打ち鳴らされた。必要以上に意識して僕らは離れていた。
思えばそれは、あのつたない恋の前兆のようなものだったのかもしれない。

僕らをつないだのは、歌だった。

誰もいないはずの音楽室から、歌が聞こえた。
吹奏楽部も引き上げた、施錠間際の学校の校舎。もう日暮れで、暗くて、僕はノートかなにかを取りに偶然戻って、その歌を聴いた。
神様のこえ。
まるで荘厳な教会のステンドグラスの前で歌われるにふさわしい美しい響き。歌は単なるポップスだったのに、僕の耳にはそんな風に届いた。誰が歌っているのだろうとは、考えなかった。僕はそれが棗が歌っているのだと、直感で分かってしまった。
棗はそれから時々、夕暮れから夜の帳がおりるわずかな間歌を歌った。僕はいつも理由を付けて遅く残り、彼女の靴が昇降口に残っていることを確認して、こっそり待ち伏せしていた。
見つかったのは何回目だったか忘れてしまった。僕はたいてい音楽室の面している中庭に隠れていた。見つかったその日は酷く雨が降っていて、僕は壁にぴったりとくっついて、靴の先がぬれていくのを眺めながら聴いていたのだ。
突然、窓が開いて、彼女が僕の腕をつかんだのだ。
「ぬれるよ」
僕は窓から音楽室に引きずり込まれ、タオルを貸し出された。雨の日、彼女が常に持ち歩いていると言うタオル。少し甘い匂いがしたのを覚えている。
「今井君の趣味ってなに?」
ピアノに背中を預けて、白い足を交差させて、棗はそんなことを聴いてきた。
「なんで?」
「いっつもあそこにいるから、暇なのかな、と思ったの」
「暇なわけじゃないけどな」
「部活は入らないの?」
「まだ分からない」
じゃぁ趣味とかないの、と最初の質問に戻る。たいていならゲームやら漫画やらテレビやら、友達に会わせておもしろおかしく適当に答える。けれどなぜか棗に対して、僕は馬鹿正直に答えていた。
「・・・勉強」
僕はこの体中をいっぱいに満たしている劣等感を隠すために、必死で勉強していた。空いている時間をうめるものを趣味と呼ぶのなら、まさしく勉強の二文字が趣味にふさわしい。
そんなこと、ほかの人間に対してなら口が裂けても言えやしない。
けれど棗は少し哀しそうに微笑んで、いったのだ。
「奇遇ね。私もなの」

歌は違うの?僕は問い、彼女は違うと答えた。好きだけれどね、だけどこれは私の飯の種。歌手にはならないと後に言う少女は、僕に珍妙な答えを返した。

僕は彼女が歌う時間に音楽室に入り浸った。歌は好きだった。歌うことも嫌いではなかった。だから歌が好きなのと問われた時、へたくそだけどねと答えて笑った。彼女は僕の声をほめて、僕に歌を教えてくれると言った。いつの間にか僕達は互いを名前で呼ぶようになっていて、歌を歌うためにまだ曲数の少ないカラオケボックスへ二人で何度も通った。

彼女は聡い少女だった。僕の笑顔の裏に隠れている不機嫌、不安定さをあっさり見抜いた。私の前で笑わなくてもいいわよ。彼女はよく言った。僕が人の輪の中で息苦しさを押し殺して笑っていると、学級委員の仕事を名目に誰もいない場所へと連れ出してくれたりもした。僕は、彼女の前での演技がへたくそになっていく。
夏、僕は彼女の家の事情を知る。
「飯の種っていった理由、分かった?」
お酒の臭いをさせてクラブから出てきた少女。夜、自動販売機へ立ち寄った帰り、近道しようとして夜の繁華街を通って、ばったり彼女に出くわしたのだ。
彼女の家は、ホストクラブを経営していた。彼女は男装し、余興で歌を歌う役を担っていた。バーテンの仕事もつとめていた。
彼女は人当たりのよい少女であったけれども、誰からも一線引いていることがよく分かった。僕と似ていた。とても。彼女が必死になって優等生を演じている理由が、そこにあった。
家庭環境からくる劣等感。水商売の子と笑われないために、全てを必死に隠して彼女は彼女を演じていた。
僕達の距離は、縮まる。
生まれて初めてすべてをさらけ出し、何もかも自分すべてをぶつけるような、幼くて危険な恋がその時から僕らの間で始まった。

僕らは互いと居る時だけ、怠惰と安息を求めることができた。僕らは放課後の教室で、あの薄暗い音楽室で、区立図書館の奥や、カラオケボックスの閉じられた空間、時に互いの部屋の同じ布団の上で、泣き、笑い、怒り、ありのままの自分を存分にだした。他人がみたら確実に見放すような、酷く情けなくて、幼くて、弱くて、醜い自分達。たがが外れたように、僕達は今まで封じ込められていた自分をさらけ出す。
演じようとしても、彼女の前ではもうそんな余裕を持つことはできず、僕は彼女に夢中で、彼女の一挙一動に一喜一憂する。彼女はどうだったのだろう。取り澄ましていたときもあったけれど、弾けるような笑い声や甘える声や、すねたり泣いたり姿を見る限り、彼女も僕に甘えていてくれたのだと僕は信じる。
高校二年、僕らは友人を得る。昌穂と流依。二人とも一風変わっていて、他人を避けて音楽室にやってきた。歌を歌ったり楽器をでたらめに引いたりする集まりは、部活動の形をとるようになる。どこか自分を創っているところのある、不器用な四人組は、何をするにも、一緒に行動するようになった。酒煙草博打の悪さを覚えたのもこの頃で、僕らはいかに優等生を演じつつ遊び倒すかに熱中した。
その学年の終わり、僕はオーディションを受けることになった。

そのころ名前が売れはじめていた、J&Mのオーディションを受けたいきさつは、僕の里親に起因する。神奈川の今の家に移り澄んだ今井の両親は、どこかでそのオーディションのことを聞き付けた。そして僕の写真をみた近所の住民にのせられるようにして、僕に言った。
オーディションを、受けてみたら、と。
血のつながりがない僕を育ててくれた両親。本当に感謝はしているけれども、僕は彼等を欺き続けている分、どうしても甘えたり、わがままをいったりすることはなかなかできなくて。彼等の言葉を断りづらくて。彼等の言葉は命令ではなくとも、十分な強制力があった。
そして、受かった。
僕の運命を一変させるそのオーディションに。

最初は無論気乗りしなかった。けれど親に会いにいくついでに一度だけ顔をだした、だしてそのまま、僕は偶然にもGalaxyのバックダンサーを命じられたのだ。
無論大きなステージやコンサート会場のものではない、事務所内にある練習場で、テレビを今も賑わせ続けるGalaxyがJam,Kidsの為に小さなデモンストレーションをした。そのバックダンサー(と言えば聞こえがいいが、要するに習ったステップを後ろで簡単に踏んでみる)に、僕と創と数人が指名された。僕はステップなんか分からず、適当に、思い付いたまま踊ってみた。そしてそれは意外にも、多くの一目を引き付けた。
僕はそのとき酔ってしまった。
自分の動作で他人を酔わせる、その快感に。

「馬鹿じゃないの?」
本気で、その道を目指そうかと思うんだ。
そう言った僕を、棗はものすごい剣幕で詰った。
僕は真剣だった。あの世界に本当に魅了されてしまった。たった一度の快感が、僕を塗りつぶしていた。その真剣さを見て取ったからだろう。棗は切れるような鋭利な視線で、僕をまっすぐ見つめ静かに呻いた。
「本当にそれでいいわけ?・・・永遠に、演じていく生活よ。観客の前でも、スタッフの前でもこれまでと同じように今井智紀を演じていくつもり?」
アイドルとは、ファンが求める理想の姿を追い求めなければならない節がある。笑顔を振りまいて、ファンに優しくして、私生活さえ演じなければならない。その舞台をおりるその日まで。棗はそのことをいっていた。
けれどその生活は僕が今まで歩んできた道と相違いない。棗と出会った、二年間だけだ。
僕が、演じる必要がなかった幸せな二年間。
「人気なんてそんなに続かない。ただ、やってみたくなったんだよ。チャンスが与えられるのなら、やってみたいと思ったんだ」
その時僕は高校をやめるつもりはなかった。東京へ週に数度通うことを考えていた。むしろ将来、売れなくなったところでさっさと引退して、ごくごく普通のサラリーマンにでもなろうと思っていたぐらいだ。
ところが棗は僕がそれで食べていけるかどうかということは、何の心配もしていなかった。彼女はぬばたまの黒い瞳を爛々と輝かせて、事もあろうかこんなことを宣うたのだ。
「ぱっと出のアイドルで、終わったりしないわ智紀。智紀はいつまでも、人を引き付け続ける俳優の一人になる。おりることすら、許されないような、一人に。それって、とっても辛いことじゃない?」
ホストという仕事を僕はよく知らない。けれどその世界は、絶えずヒトを引き付けなければ商売にならず、芸能界と似た部分があることはわかる。その世界を幼い頃からみ続けてきた棗は、人を惹く人間とそうでない人間を見分ける眼を持っていた。
「でもそうなったらいつまでも演じ続ける人生なのよ智紀。それってとってもしんどいことだって私は知ってる」
僕達は喧嘩をした。幾度となくした喧嘩だけれども、この喧嘩ほど激しいものはなかった。僕は無意識のうちに、棗は僕からはなれることができないと思い込んでいた。
僕は、僕が思っている以上に傲慢だった。

些細な亀裂だった。僕は春休み中、神奈川の実家に、レッスンに逃げた。その間棗は幾度か電話をくれた。何を話したらいいのか分からなかった僕は、全て居留守を使ってしまった。
棗は、春休みが終わる前日、僕を迎えにきた。
「一緒にかえろう」
桜の花が膨らんだ、夕焼け色に染まった公園で、ボストンバックを小わきに置いた棗は僕にそう言って手を差し出した。
「あんたの人生だもの。私はもう何も言わない。だけど、帰ろうよ。もうやめようこんなの。しんどいだけよ」
「帰らない」
僕はその頃Galaxyの人たちにかわいがられて、正式なバックダンサーの位置も射止めつつあった。弟分としてかわいがられ甘えられる位置を見つけてしまった僕。あの派手な喧嘩をした気まずさと、陳腐なプライドが僕が素直になることを許さなかった。
「帰らない」
僕は繰り返した。彼女なしで、僕はこの世界で生きていける。演じ続けていくことができる。彼女の会うまで、僕はずっと一人だったのだからーー。
「帰るも何も、ここが僕の家だから。棗」
「・・・そう」
 棗はボストンバックを抱えて、僕の横をすり抜けた。元気でね、そっけなく、彼女は言った。

三年の半ば、僕は高校をやめた。最後の学年はそれでなくてもほとんど出席していなかった。ずっと東京でレッスンに明け暮れていた。朝から、晩まで。
棗の言葉が、僕を支え続けた。彼女が断言したのだ。誰よりも眼を引くスターの一人になるのだと。おかしな話だった。彼女とあんな別れ方をした後悔が僕をレッスンに打ち込ませ、彼女のあの一言が、僕の向上心と不屈さを支え続けた。
僕が、迂曲左翼を経てMARIAの一人としてデビューを果たしたのは、それからまもなくして。
新人歌手としての流依とテレビ局で再会し、付き合いを始めたのは、その後だ。


「本当は、もうやめたかった」
 僕は棗にすがりつき、声を絞り出すようにしていった。
「何もかも。あの、高校の頃に戻りたい。だけど戻れないことは分かってるんだ。僕を知って誰もが僕に絶望して見放すだろう。僕は、ずっと恐かった。誰にも見放されていくこと、誰にも愛されないこと。こんな僕を知って、誰が愛してくれるんだろう。流依を含めて、みんな僕のことを好きだと言う。けれどそれは一体誰だよ。僕じゃない。こんないい加減で傲慢な奴を愛さないに決まってる。全部見抜いて、それでも好きだといってくれたのは過去でたった一人、棗だけだった。棗だけだった」
「智紀」
「馬鹿みたいだ。殴られたところが痛いんだ。確かに痛いんだ。けれどどうしようもなく、こんな僕を暴いてくれたことが嬉しくて」
棗を失った代償に、僕が得た人々は、確かに僕を見ていてくれたのだと頬の傷みが教えてくれる。それは確かに嬉しいのに。なのにどうして。
「僕は傷つけてばかりいる」
「それは智紀が逃げているからよ」
棗は僕の頬をその冷たい手のひらで挟み、面を向けさせた。僕はまるで女神に見入られたかのように彼女の眼に映り込む僕の姿を見ていた。
酷く憔悴した、男の顔を。
「どんな智紀でも、貴方を好きになってくれたひとは貴方を好きになったまんまよ。流依にしろ、貴方の仕事仲間にしろ。本当の貴方を見てそれでも貴方から遠ざかるのだったら、放っておけばいいの。それこそそういう人間は“観客”なのよ。アイドルに夢見ているファンと同じ。だけど例えただのファンでも、貴方を本当に好きな人はそのままの貴方をうけいれるだろうし、ますます貴方のことを好きになるだけだと思うわ。好きになるって、そういうことだと思う。私が智紀のことを、どうしようもなく好きだったのとね」
「なつ」
「逃げるな智紀」
まっすぐに、自分を射ぬく眼差し。僕は彼女から少し離れてすとんと膝をついた。
「皆が理解しないんじゃない。理解する前に、智紀は逃げているだけよ。見限られる前に自分から見限っているだけ。ご両親が捨てたことが、そんなにまだ意識の奥に残ってるの?流依にもその傷を作った仲間の人にも、ちゃんと謝りなさい。貴方を見ていた人よ。そして少なからず、智紀自身だってその人たちを認めていたはずよ」
遠くに自動車のエンジン音とクラクション。それらを従えた音楽のように、彼女の声は流麗に夜の室内に響き渡る。
「きちんと謝って。彼等は傷付いた分、ちゃんと智紀を好きなはずだから。智紀が選んだ世界で、きちんと一緒に歩ける人間をみつけなければ、肩の力を抜く場所を見つけなければ、智紀が辛いだけよ。逃げるな。逃げずにきちんと向き合いなさい。もしそれで駄目だったら、全部やめて戻ってきさえすればいい。私は嫌いたくっても、智紀を嫌うことなど、できやしないのだから」
棗の手が離れる。彼女は自嘲気味に笑って膝立ちの僕を見上げていた。
「少し休んだら帰りなさいよ智紀。忘れないで。彼等はあんたの言葉に傷付いたんじゃないと思うわ。何年も何年も、流依も含め、みんなあんたが向き合ってくれる日を待ってるだけよ。向き合う前に、あんたが逃げようとすることに怒ってるだけよ。あんたが一歩引き下がることで、もう流依たちは少しずつ傷付いてた。自分達には、甘い夢を見させる必要はないんだぞってね」
「棗」
「・・・私の眼って節穴かしら。あんたって今思えば骨の髄まで芸能人よね。ファンサービスに決して手を抜かない」
僕は苦笑して、こわごわと今度は棗の身体を抱きしめた。すがるのではなく、腕の中に閉じ込めるように。棗は逃げなかった。腕にかかる重みと微かな体温が、彼女が幻ではないのだと改めて告げていた。
「いいや、棗の眼は正しかった。現に結構、俺単独でも売れてるもん」
「自分でいうかしらそういうの」
「棗がいったんだ。決して、ぱっと出のスターでは終わらないんだって。いつまでもテレビに出続ける一端の役者になるんだって。芸能人になるんだって」
僕を、ほかのKidsの仲間たちと一線隔てていたのはおそらくそれだ。彼等は、ステージの上に躍り出る栄光を夢見ていた。それがいつ潰えるとも分からないままで。僕は、その先を見ていたのだ。そして、これからも見続けるだろう。
そこまで考え僕はたとえ誰に嫌われても、この舞台をおりるつもりが自分には全くないことを知った。あれほど疲れた、おりたいと願っていたのに、僕はこの生活を、心底愛してしまっていたことに気がついた。なんてことだよ。ならばその世界にい続けるためにも、やはり棗のいうとおりに逃げず向かい合うしかないのだ。
「棗。・・・頑張るから」
「えぇ」
「見ていて」

見捨てないで僕の神さま。まるで迷子の子供が親にすがるような必死さで、僕は彼女を抱きしめる。まったく情けない限りだ。どうしてこんな情けない奴を、彼女は一時でも好きになってくれたのか。未だに、見捨てないでいてくれるのか。
ふと、これは頬の傷みとそこからくる熱のようなものに浮かされた僕がみる、幻覚なのかもしれないと思った。抱きしめている感触は本物なのに、あれだけ傷付けた僕に言葉をくれる彼女の存在が急にリアリティを失う。以前楽屋で投げかけられた冷ややかな視線と、彼女の「他人のまますれ違っていたかった」の一言があるべき姿なのではないかと思った。僕は、彼女を傷付け拒絶した。あの春に、手ひどい形で彼女を突き放した。しかも夫だか恋人だかがいるはずだ。なのにそれでもこうやって自分の腕の中に彼女がおさまっていることが、信じられなかった。
僕は彼女の眼を覗き込んでいった。
「一度抱かせて」
 君が現実であると、確かめさせて。
彼女はびっくりしたように眼を見開いたが、苦笑していいよといった。僕は立ち上がり、彼女の手を取って立たせた。フローリングの床に踏み出した裸足の足には、奇妙な浮遊感。
ネオンの明かりだけが、燐光のように僕らを一晩照らし出していた。


「アホか!」
これまで僕が思っていたことを、言葉拙く説明して頭を下げた後、もう一度、殴られた。今度は腹だったけれど。
殴ったのは当然流で、そのあと顔がぐしゃぐしゃになるほど泣いたのも流だった。創は流の後ろで苦笑して僕を見下ろし、今日呑みにいこうかと言った。匡と樹は咳き込む僕の肩を叩いてぐしゃぐしゃ頭をかき回した。僕の眼が回るほど。
後に出番寸前になって大慌てしたのは、いうまでもない。

「そう。棗がね」
もう二度とくることはないのかもしれない。そんな風に思っていた洋食屋には、あっさりとまた舞い戻ってしまった。しかももう二度と一緒にはこないだろうと思っていた流依と一緒に。
「なんで棗にはわかっちゃうのかしら。私ずっと不思議だった。棗には貴方の演技だとか、そういうものを超越して全部見越してしまっている感じよね。四人で遊んでいてもいっつもそう。今日は智紀の機嫌が悪そうだとか、機嫌よさそうとか。私からみたら、全部同じ智紀だった」
ナイフとフォークを皿の両脇において、彼女は少し哀しそうに笑った。
「智紀もそうだったわよね。具合悪そうなのだとか一発で言い当ててた」
「そうだったっけ?」
「えぇ。・・・あぁこれが、恋人同士ってやつなのね、って妙に納得したわ。高校の頃。・・・そして私にはそんなことできなかった。でも嬉しいよ智紀。きちんと話してくれて」
それから僕達は何事もなかったかのように料理に舌鼓をうち、世間話に興じた。多分今までで一番気楽な食事の席だった。高校の頃、四人で弁当を広げていた時を彷佛とさせる。
「ねぇ、棗とはよりを戻したの?」
ワインを傾けながらふと流依が尋ねてきた。
「・・・いいや。あれから、あってないし。連絡も、取り合ってない」
 あの夜は確かに夢ではなかったけれど、高校の頃を取り戻そうとは互いに言わなかった。またいつでも会えるような気軽さで、じゃあねと言い合って別れた。それっきりだ。
「・・・ごめん智紀。私今本当にこの人アホかしらって思っちゃった」
「えーっと。どうしよう反論すべき?」
「すべきじゃない。だって、なんで連絡を取り付けないの?とんで会いにいかないの?言わせてもらうわ。智紀には、棗が必要よ」
「でも棗は」
「棗は結婚なんかしてないわよ。言っておくけど」
僕は思わずナイフを取り落としそうになった。空中でそれを器用に受け止めて、目を瞬かせながら流依を見返す。
「棗がしてる指輪。見覚えがあったでしょう。銀の。もう燻し銀みたいになっちゃってたね。でも棗とっても大事にしてた。男よけだなんて言って棗は笑ってたけれどね」
あぁ、そうか。
彼女の指輪を見て、ずっと引っかかっていたものがあった。違和感。既視感。あの、指輪の姿形。
あれは、僕が彼女に贈ったものだ。
「まさか、気付かなかったの?」
沈黙を以て答えとすると、流依はあきれたように盛大にため息をついた。
「あーもうよっぽど参っちゃってたんだね智紀。なんか七年、私何見てたのかしら」
「流依」
「もういいから。電車に乗って棗の実家にいく!」
ぴしっと出口を指差し流依は言った。
「実家に住んでるって聞いたわ。仕事の都合で年の三分の一だかをこっちで過ごすことも。私はずっと知ってた。知ってて、言わなかった。私も謝らなきゃいけないのよ智紀。私たち、嘘ばっかり、演技だらけの恋人同士だった。さすが芸能人よね」
流依の声は、少しかすれていた。震えていることも分かった。けれども、僕には彼女の肩を抱いて慰めることは、もうしてはならないのだ。
「私、もう一つ嘘をついたの智紀。貴方を歌った歌。やっぱり棗を歌っている歌でもある。だってあの詩を作ったのは、棗だから。私が歌う歌、時々棗に詩を書いてもらってるの。私歌の才能は棗よりあったらしいんだけど、作詞の才能はどうも棗の方が上らしくて。貴方にも、メールで見せてたわよね。貴方が特に気に入ってた歌は、ほとんど、彼女が作った歌よ」
僕は勢い良く席を立ち、流依を見下ろした。彼女は穏やかに微笑んでいる。肩の荷物を下ろしたかのように。
「貴方が私の歌を好きって言う度に思った。互いが互いの声を、この七年聞き続けている・・・神様の声を聞くようにして」
「流依」
「・・・また食事に誘ってもらえると嬉しいわ」
「・・・約束する」
「行って」
僕は財布から一万円紙幣を数枚抜き取りグラスの横におくと、出口に向かって駆け出した。僕が高校時代を過ごしたあの街につく最後の電車には、おそらくタクシーを飛ばして走らないと間に合わない。
僕は、本当に馬鹿だと思う。
かつて、僕とよく似ていた優等生の仮面を被っていた少女。彼女はどんな風にして、この七年間人と向き合って、僕にあんなことが言えるまでになったのだろう。
唯一心を開いていた僕に拒絶されて、彼女はどれほど傷付いたのだろう。
何を差し置いても、最初に謝らなければならなかったのは。
棗にたいしてだったのに。

 ぽたぽた涙がスカートにしみを作っていく。周囲の人間たちがちらちらと視線を送ってくる。
けれど泣かずにはいられない。
「本当に、好きだったんだもの・・・!」
でもその人が耳を傾けているのは、自分の声ではなかった。なかったのだ。
人目を集めることに慣れている、スポットライトの下の人間であることを、流依は少し嬉しく思った。

列車の窓を、景色が滑っていく。都心のあのきらびやかな様相から、ぽつぽつと、明かりが灯るだけの田舎へと。
僕は規則正しい列車の揺れに身を任せて、目を閉じる。
彼女と向き合うことの期待と恐怖、一切合切を閉じ込めるようにして。



――新春

 都心の一角に鎮座ましますホールに向けて、人々が列を成している。その年齢性別をあえて告げるならほとんどが若い女性だ。OL、女子高生、小中学生のあどけない顔もちらちら混じる。
「でもさいきんさーよくなったよねー今井君」
「演技かっこよくない?この間のドラママジ泣きしちゃったんだけど」
「前のにこにこーっとしてるのも良かったけど、なんか最近人間味がでてきたっていうか」
「ねー」
足を止めて耳を傾ける。少女たちの会話。胸中で、こっそり苦笑する。
ほらね、仮面を少し脱いでみたところで、貴方を置き去りにする人なんてここにはいない。
「次の方窶煤v
かつん、とヒールをならして前へとすすむ。
神様は、今日も歌を歌っている。


『始めましての人も久しぶりぃな人もこんばんは!MARIAでっす!!』
流の声に呼応するように、歓声が、この大ホールをゆるがす。僕はほかの四人に並んでステージの上に立ちながら、観客席を見渡していた。
ついこの間まで、この観客席が僕を追いつめたものだけれど。今となっては僕を再び奮い立たせるものになる。これだけの人々を僕は酔わせている。その感覚に、陶然となる。
年明けの五人そろってのコンサート。これだけの規模のものは久しぶりだった。五人とも、それぞれの仕事が忙しくて、なかなか揃うことがなくなってきていたから。
僕はだんだん俳優の仕事が増えている。皮肉なのは、僕が“演技”の量を減らしてからその仕事が急に増えたことだ。トータルプラマイゼロ。歌よりもやっぱり役者の方が年期が入っているだけあって受けがいい。最近、人間味がでてきたとかなんとか。
僕はふと、ホールの角の席に腰掛ける棗の姿を認めた。その距離はとても遠くて、顔も分からないぐらいなのに、目があったと分かった。微笑むと、微笑み返される。胸の奥が、ほの温かくなる。
『ごめん』
高校の頃、幾度も通った棗の家の前で、僕は彼女を抱きしめて繰り返し謝った。どれだけ、自分は彼女を傷つけたのかもう考えたくもなかった。拒絶されても仕方がなかったのに、彼女は唇の端を笑みにまげて、僕の両頬をぱちんと叩いて、それで、僕を許した。
――向き合ってもらえない方が、心ない言葉よりも傷付くことはあるわ。智紀。
そして向き合うことができずに、仮面を被り続け、独り舞台を演じている方が、よっぽど寂しい。ちゃんと私のところにもきたね。偉いね。彼女は、最後に言った。
――お帰り智紀。
僕はそうして、あの過去の残滓に別れを告げる。新たに僕は未来を得て、もうあの傷みに苛まれることはない。
そして許される限り、この舞台を踏むだろう。僕の人生における“観客”の数はうんと減ったのだから。もう、必要以上に疲労感を覚えることもない。僕は、このホールにいる人々だけを、酔わせればそれでいい。
歓声の中に、名前が混じっている。僕の名前も呼ばれている。僕の視線は相変わらず棗のほうを向いていて、彼女が、小さく口を動かすのが分かった。
それだけで、届いてくる、声。
――智紀。
今日も神様の声がきこえる
『それじゃぁテンションあげていこか!みんなついてきいや!一曲目は・・・』
世界のどんな声にもかき消されずに。
僕を今日も導いている。

(fin)



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