神様の声が聞こえる



流依と別れて数カ月が立つ。僕らは連絡を取り合わなくなった。もともと少ない電話とメールの回数。食事の誘いをしなくなれば、当然それはぱたりと止む。
けれど何も感じない。ただすこし、寂しい夜を紛らわせる相手がいなくなっただけ。
それだけだった。
失ったはずの幼い恋の残滓は、僕に恋人を失わせて、それでもなお僕の胸をきりきり縛る。
自業自得。
自分の幼さを、呪わずにはいられない。


「わかれたぁ?!」
「あぁ」
最近流依とはどうなんだと聞かれて、僕は素直に事実を述べた。すっとんきょうな声を上げる樹に、淡白に頷いてみせる。
週に一回、五人で仕事をするバラエティが終わった後の楽屋。樹の横では智紀が口をぱくぱくさせている。
「ちょ、ちょいまてプロポーズがなんでいきなり別れ話になるんだ?」
ようやく呼吸を取り戻したらしい創は、早口で僕にまくしたてる。僕は少し哀しい青年を演じて、戯けたように言う。
「しかたない。別れちゃったもんは。逃げられないように指輪を差し出したつもりが、突き返されちゃったんだ」
「お、お前も不憫だなー」
「だけどこんだけ長く続いていきなり・・・なんでだよ」
「さぁ、なんでだろな」
服を私服に着替えながら僕は曖昧に笑う。長く続いていた僕らの関係。なのに、悲しむとか、後悔とか、そんなもの、僕の胸のうちには一片もない。
流依を傷つけたことにたいしてすら。
酷い奴。
僕は自嘲の笑みをこっそりと浮かべる。
酷い奴。
自分勝手、わがまま、傲慢。
「なぁ」
今まで楽屋で沈黙を守っていた流が口を開いた。僕はいつもの笑みを浮かべて彼を見返し、そして、血の気が引いていくのを感じ取った。
流のまなざしが誰かに似ている。
全てを見透かしたまなざしに似ている。
「それ、“なつめ”って人に、関係あるんか?」
「ないよ」
僕は即答する。即答することしかできない。彼女に関しては余裕がない。演技を、上手くすることができない。
彼女は僕を浅ましい僕に戻す、世界唯一の鍵だから。
だから、悟られないように、笑顔をつけて、即答する。
「何いってるんだよ、流」
「・・・お前っていっつもそうやんな」
流は疲れたように深くため息をつき、僕の目を見据えてくる。
あぁこの人は、観客ではなくなった。
一瞬そんな考えが僕の頭をよぎる。
「いっつも、何でもない顔して、何も俺たちにはいうてくれへんのんや!なんなんや!俺たちは赤の他人か?!部外者か?!違うやろが!なんで大事なことはいっつも俺たちにいわへんのんや!いいかげんさらせやてめえ!」
ぐい、と襟首をつかまれて、僕は彼を見下ろした。視界の端で、皆が驚いた顔で、流を見ている。
激昂する彼を、僕は冷ややかに見下ろした。
「そんなんやから、流依ちゃんにも愛想つかされるんやんか?!」
「そうだな」
ごっと
視界がぶれた。
背中から床に叩き付けられる。口の中にじんわり広がる血の味。ちかちかする視界。僕はかぶりを振って、創たちに取り押さえられる流を見上げた。
「もうやめろよ流・・・」
確かに流は喧嘩早いところがあるが、ここまで怒るところをみるのは久しぶりだった。僕は壁に手をつきながらふらりと立ち上がった。
「・・・智紀。だけど流がいってることも、俺には少し、分かる」
少し哀しそうに笑う創。
「お前、俺らが気付いてないと思ってた?」
「・・・何を?」
「お前が、おれたちから一歩線を引いてること」
僕は面を上げて、僕を見つめてくる四人を見返した。
どうして僕は、笑っているんだろう。
殴られた頬がじんじんと痛いのに。どうして僕は笑っているんだろう。
「俺たちを最初に引き合わせたんはお前やった。智紀」
「緊張してた俺らと簡単に仲良くなって、互いを引き合わせたのは、お前だった」
「だけどお前はいつまでたってもおれたちから一歩引いてた」
「いつまで、たっても」
「だったら、何」
身体がふわふわ浮いて、酷く現実感がない。僕は僕を見つめる友人を見据える。
「だったら、なんだっていうんだ。それで僕がお前らに迷惑かけたか?いいだろ。放っておいてくれよ」
「おま…」
「流、お前は何を勘違いしているのか知らないけれど、流依は俺の幼さと自分勝手さにいい加減愛想を尽かした。ただ、それだけだよ」
前髪をかきあげる。鬱陶しい。汗で張り付いている。いい子ぶっていても仕方がない。友人を演じていても仕方がない。僕は僕の仮面を捨てて、卑屈な笑みに口元をゆがめる。
「お前らには関係ない。何もだ!」
最初に。
部屋をでたのは流。彼を追いかけて匡と樹。
創は俺の前で立ちすくんでいた。瞳が揺れている。悲哀?それとも怒り?
僕に、他人の思いなど、分かるはずもなく。
他人に、僕の思いなど、分かるはずもなく。
創もまた拳を握って流たちの後を追っていった。
僕は、ひとりぼっちになる。
突き放しているのはいつだって僕なのに。
遠くへ追いやっているのはいつだって僕なのに。
どうしてこんなにも泣きたくなるのだろう。


「どうしたの、その顔」
どこをどう徘徊したのかはわからない。
気がつけば、どこかの街の一角に僕は座り込んでいて、目の前に、いつものように繰り返し現れた幻がたたずんでいた。
両親がいる家には帰る気がしなかったし、とまらせてくれるような人もいない。何か電車に乗った記憶はあるが、どこをどう歩いたのか、覚えていない。
記憶が、飛んでしまっている。
僕は幻に微笑んだ。女々しい僕をきっと君は笑うだろう。馬鹿ねというだろう。それでいい。
そしてそのまま、全てがブラックアウトしていく。

 傷みなく。
何かが僕を侵食していく。
繰り返される過ち。馬鹿みたいに、僕は学ぶことがない。
僕はまた何かを失おうとしている。

光が、うっすらと僕の瞼の上をかすめていた。
瞬きを繰り返して身体を起こす。顔の傷みに僕は顔をしかめた。ぱさりと何かが落ちて、慌ててそれを拾う。しめった、タオルだった。
どうやら僕の瞼を刺激していた光は、窓からこぼれるネオンの明かりであったらしい。色と光の洪水は、夜を遠くへ追いやっている。
何時、というか、そもそもここはどこだろう。
僕が寝かされているのは小さな寝室だ。備え付けであるらしい寝台の上。ホテルのようだがそれとも少し違う。フローリングの床に、衣類が丸めて放ってある。僕の荷物も置いてある。
ずきずきと痛む頬に触れれば、明らかに腫れているのがわかった。ため息をついてしまう。これでは、仕事ができない。鏡を見る気も起きなかった。
寝台からおりる。窓から外をみやれば、ここがかなり高い位置にある部屋の一室だということが分かった。遥か眼下に往来する人々。尾を引いて過ぎ行くテイルランプ。
かた、と、背後で物音がする。
振り返ればそこには、いるはずのない人物がたたずんでいた。
「・・・棗?」
最初は幻かと思った。それほどに、僕の目の前には頻繁に彼女が現れる。まるで麻薬の幻覚のように。
けれど彼女は疲れたように息を吐いて、裸足の足をぺたぺた言わせながら歩み寄ってくると、僕の頬に触れた。
「大分腫れたわね」
幻ではない、と確信したのは、その頬の手の冷たさがとてもリアルだったから。
まぎれもなく、現実だったから。
その手を取ろうとすると、彼女はひらりと身を翻す。まるですり抜けたかのように。
「コーヒーでいい?それとも紅茶?」
「・・・コーヒー」
「分かった」
「棗」
ん?と首を傾げて彼女が振り返る。相変わらず淀みないまなざし。だけど目元が、昔と同じように心なしか少し優しい。
「ここは、どこだ?」
「私が借りてるマンスリーマンションの部屋。あんたその顔でふらふら夜の街徘徊してたのよ。危なっかしい」
「・・・棗がここまで運んできたのか?俺を?」
「ほかに誰が運ぶの?」
彼女はにこりと笑い、すわってて、と手を一振りした。僕は寝台によろけながら近付き、そのまま倒れふした。ただ、目だけをいつまでも冴えさせて。

「人を傷つけた」
「あんたが人を傷つけるのは今に始まったことじゃないでしょう」
あまりにもどきっぱりと言われて、僕は思わず嘆息する。
テーブルも何もないフローリングの床の上、フリースの膝掛けを絨毯代わりに広げて、僕と棗は向かい合っていた。
「分かったでしょう智紀。あんたを見ている人は、ちゃんといるわ。私でなくても、時間をかけて貴方を見つめてくれていた人は確かにいるのよ。流依もそう。貴方の、仕事仲間の人たちしたってそう。そして、無論今井のご両親も」
ず、っとミルクティーを彼女はすする。僕もそれに習って彼女が入れてくれたコーヒーに口を付ける。彼女は僕の好みを覚えてくれていたらしく、砂糖の入れ加減から暖かさまで、僕が望む通りだった。
「貴方はいつだって、分かってもらえないと決めつけて人から一歩置いている。智紀を信頼していた彼等にして見れば、ものすごくショックなことだと思うけど」
「・・・そうだな」
「だけど」
くるくると渦を巻く、ミルクティーに視線を落としながら彼女は言葉を紡ぎ続ける。
「人に踏み込んでほしくないって思う部分があることも、確かだわ。智紀は、その兼ね合いがへたくそなのよ。全て嘘で塗り固めてしまうから、結局しんどくなって、息苦しくなって、八つ当たりして、あんたを見てくれている人たちを傷つけていくんだわ」
「僕が傲慢なのは今に始まったことじゃない。棗だって知ってるだろう?」
「えぇそうね。知ってるわ。知ってた。最初っからね」
僕は面を上げて、棗を見遣った。陶器のカップを包む白い手。細い指。その指に、鈍く光る銀の指輪。
つや消しをしてある。プラチナではないのかな、なんて僕はそんなことを思ったりした。
他人のものである、証明。
「傲慢、わがまま、自尊心が強くて、うぬぼれやで、劣等感が強くて、甘えたで、どうしようもなく弱くて、なのに変なとこに自信満々で」
「いうなぁ」
「だって本当のことだものね?あと、盲目。あんたってみてるようで全然人のこと見てないのよね」
何かを含んだ言い方だった。僕は沈黙した棗を見遣る。笑おうと思ったのに、顔が引きつって泣いているみたいになってしまう。
「そんなふうにばかばかいうのって、棗ぐらいなもんだよ」
「そうね。あんたのさすがの演技も、私には通用しなかった」
「だけれど君は、俺を、僕を、見捨てなかっただろ」
「見捨てたわよ。言ったでしょ。できれば他人のままやり過ごしたかった」
「最初に突き放したのは僕の方だから。それは見捨てたうちに入らない。本当に他人のまま突き通したいなら、こんなところにつれてこなければよかったんだ」
僕はからっぽになったコーヒーカップを床にことんとおいて、棗にすがった。見たことのない夫だか恋人だかに対して、ひとかけらの罪悪感すら抱かない。今度は彼女は逃げず、まだ少し中身の残っているカップを僕のカップの横に並べ、僕の背中をさすった。
「最初から、君だけが薄汚い僕を知って、最初から、見捨てなかった。薄汚い僕をそのまま受け入れたのは、棗だけだった」
「だって仕方がないでしょう」
棗は少し困ったように言った。
「好きになるって、そういうことだったんだもの」


TOP  BACK  NEXT