神様の声が聞こえる


地平の果てまで観客席が広がっている
そこに腰掛けるのは、時に友人として、恋人として仕事仲間として
僕のそばを通り過ぎる人々だ
僕はその中心に据え付けられた舞台で
一人芝居を演じ続ける
滑稽な
愚鈍な
単純な
“僕”を演じる一人芝居
その芝居に疲れたとき
僕はあのつらぬくようなまなざしを思い出す
僕がこの手で追いやってしまった
僕の永遠の理解者を
僕を安寧の場所へ導いていたその声を
僕は思い出す



街の一角に隠れるようにしてある洋食屋で、僕は言った。
「結婚しようか」
僕のその一言で、流依の表情が凍り付いた。ナイフとフォークを握る手が力なくおろされ、皿にその先端が当たってかちんと音を立てる。
凍り付いていた顔は一度表情を消し、次第に笑っているような、泣いているような、くしゃくしゃの表情に変わる。唇を幾許か戦慄かせた後に、彼女はようやっとといった風に呻いた。
「えぇ?」
「だから、結婚しようかって」
「・・・冗談でしょ?」
流依と僕の付き合いはもう七年近くなる。事務所は当然知っているし、交際宣言だってだしている。僕がこんなことを言い出したのは、本当に冗談でもなんでもなかった。
僕は固まっている流依の前へと、小さな箱を滑らせる。綺麗に包装されたその箱が示す意味を、判らないほど彼女は馬鹿じゃない。
「本気だって判った?」
努めて明るく僕はいい、流依はじっと目の前におかれた箱を凝視していた。
「交際宣言してもう何年かたつし、仕事仲間にも不思議がられるんだ。芸能人同士のカップルってあまり長く持たないのに、僕達は実質七年付き合っているわけだし。もうすぐ、八年だ。そろそろだって思わなかった?」
「思わなかった、わけじゃないけど」
言葉を濁す彼女を、僕はかわいいと素直に思う。僕がそう思うことがなければ、僕達はきっとこんなに長く続かなかったし、これからも続かないだろう。
「でも結婚って智紀の人気に影響しないの?やっぱり結婚っていうのは少しイメージ悪くない?」
「結婚したぐらいで人気が落ちるのなら、僕もそれまでだってことだろ?」
僕、今井智紀は人気アイドルグループを多く有する事務所J&Mに所属するロックバンドグループMARIAのボーカルをしている。自分でいうのもなんだけれども、出す曲はみなよく売れている。最近はStormを筆頭とした新人の後輩たちにお株を取られているために、仕事は役者や司会業の方が主となりつつあって、歌手というよりは“芸能人”と呼ぶべきなのだろう。
僕の恋人である響流依は老若男女を魅了し続ける癒し系シンガーだ。出す曲すべてをオリコンの上位に食い込ませる彼女は、女性歌手においても実力派だった。

彼女の出す曲全て、僕はとても好きだ。彼女の歌にかける情熱も。歌手としての彼女はファンに対して柔らかい笑顔と感謝を忘れない、物腰穏やかな人だけれども、歌に対しては厳しい。気にいらない歌はそれが僕の耳にどれだけ美しく響いても決して公開しない。
その真剣さを、僕は敬愛する。
彼女が紡ぎ出す歌は、人の繊細な部分を真綿か羽根でそっと撫ぜていくような優しく切ないものだ。彼女が、癒し系と呼ばれる所以がそこにある。
「それに――」
「まだ何かあるのか?」
僕と流依の付き合いは、友人の頃を含めるともう十年以上だ。汚い部分も嫌な部分も、もう十分に見せあった。へたな夫婦よりも、上手くやっていけると思う。
ワインを傾ける僕に、流依は重々しく言葉を切り出した。
「・・・本当に私で、いいの?」
 僕の手が、とまった。
瞼を、閉じる。ほんの数秒間だけ。それなのにとても長い時間に感じられた。瞼の裏に描き出された笑顔と耳の奥に弾ける声を、僕は追いやった。
遠い記憶の残像は、まるで亡霊のようにふいに僕の前に現れてはかき消える。
バラエティー番組で司会をしているとき、マネージャーと打ち合わせをしているとき、台本を読んでいる時、眠る前、朝、そして、こんな風に流依と向かい合っているときでさえ。
前触れなくそれは現れて、僕の胸の内をかきむしる。
流依は、その“亡霊”について知っている。僕の口から、僕の心を乱していく残像について語ったことはない。残像が持ち合わせるその声についても。けれど彼女の澄んだ瞳は、全てを見透かしているかのようだった。
彼女の言いたいことは、判っていた。
貴方は、もう、忘れたの、と。
そのあまりに鮮明な記憶を。
「もう、愛しているのは君だから」
言い訳のように僕はその言葉を口にする。それならいいのと流依は笑い、大事そうに箱を取って胸に抱えた。
「ありがとう、智紀」


「今日もよおけきてくれてありがとさん!MARIAです!」
リーダーの流の声に、まさしく“黄色い”と銘打たれる歓声があがる。スタジオがそれだけでびりびりと震える。スタジオに入れる人数はたかが知れているというのに。
「今週もたのしくやってこか、さてさて今日のスケジュールはこないな感じで・・・」
僕らMARIAが週に一回司会をしている番組だ。若い年齢層を中心に人気があるバラエティー。
どっと響く笑い声。僕は仲間の会話に合わせて、笑顔や間の手を挟んだりする。もう慣れたものだ。
慣れ過ぎていて、突然遠くに意識が飛んでしまう。さめている僕が、笑っている僕を見下ろしている。
何を演じているの。愚かな僕。
明るくて、どこにでもいるような青年を演じているの?
その演技が“自然派”と呼ばれて一部の間ではとても評判がいいことを、僕は知っている。
人並みの苦労をちょっとして、けれどたくさん遊び友達がいて、同じクラスメイトや同僚として働いていてもなじむような、そんな普通の人をあえて演じている芸能人の僕。
こんな風に、カメラの回っている世界に立っていなくても、僕は同じ人を演じているだろう。
僕が長年かけて作り出した、今井智紀という人間を。

「へーじゃぁプロポーズしたんか」
 流が感嘆の声を上げた。僕は缶コーヒーを一口すすり、こくりと頷いた。
「あぁだって俺たちの付き合いって結構長いからさ?きちんとしとかなきゃ逃げられるかなーとかって思って」
場所はスタジオを出たところにある休憩所。自動販売機が並んだその空間は、壁一面が硝子になっていて夜の都心を遠くに一望できる。宝石箱を引っくり返したような、とよくいったものだけど、この夜景は宝石箱そのものだと思う。
ソファーに深く腰掛ける僕の横に座った流は僕の顔をまじまじ観察して呻いた。
「へぇ」
「なんだよその、へぇって」
「いや、お前流依ちゃんとは遊びなんかな、と思とった」
「阿呆。なんで遊びの女と七年も付き合わなきゃならないんだ?」
僕は半眼で流を睨めつける。彼は「おお恐」といって諸手をあげ、僕から退く仕草をした。
「まぁ。そうやな。確かに遊びの女と七年も続かへんよなぁ。ごめん。俺の目が節穴やった。普通の結婚した芸能人だって、そんなに続いとらへんし」
だろう?僕は同意を求めて笑う。ただ内心は冷や汗をかいていることは否めなかった。僕と流依の始まり方を、思い出したからだ。
『遊びでもいいわ。付き合おうよ。智紀』
お互いに新人の歌手として、スタジオの裏で再会した僕と流依。僕らはもともと高校の同級生だった。僕は高校三年で退学してしまっていたから、それ以来だった。
僕らは幾度かデートして、そうして恋人としての付き合いが始まったのだ。流依も癒し系として名を馳せるトップシンガーの一人であり、お互いに忙しくほとんど会うことはない。普通の恋人たちよりはかなり淡白だと思う。その淡白さが流にそのような冗談(だろう)を言わせたのだろう。ドライな付き合いだからこそ、長く続いているともいえるのだけれど。
「てか流、なんでこんなところで悠長に腰掛けてるんだよ。俺はお前が着替え終わるのをまってたんだけど」
「あれ、そうやったっけ?」
「呑みにいこうって言い出したの流だろう」
僕らはふざけあって立ち上がる。いつものじゃれあい。いつもの笑い。
静かだ。何者にもかき乱されない独り舞台。
けれど僕は時々どうしようもない孤独を感じる。
時々疲労感に襲われて、この舞台を降りたくなる。
僕が、選んだことだったのに。

――本当にそれでいいわけ?
――永遠に、演じていく生活よ。観客の前でも、スタッフの前でも、これまでと同じように今井智紀を演じていくつもり?
『人気なんてそんなに続かない。ただ、やってみたくなったんだよ。チャンスが与えられるのなら、やってみたいと思ったんだ』
――ぱっと出のアイドルで、終わったりしないわ智紀。智紀はいつまでも、人を引き付け続ける俳優の一人になる。おりることすら許されないような、一人に。それって、とっても辛いことじゃない?

夜の灰色の街の居酒屋で。
僕の目の前では芋焼酎をロックで飲んでいる流がいて、僕は笑ったりふざけたりしながら、彼との会話を楽しんでいる。
実際に楽しんでいるはずなのに。楽しんでいる僕もいるのに。会話は僕の記憶にはとどめられず、酷く冷ややかな僕がまるでカメラをまわす監督のようにことの成り行きを見守っている。
いくら強い酒を飲んでも酔えない。まるでウイスキーのかわりに烏龍茶を飲んでいるみたいな感覚。僕は状況に応じて酔ったふりをする。酒と料理を平らげて、僕らは夜の街へでる。
全てがドラマのワンシーンのようだ。いつだってそうだ。こんな僕をどうみて人々は“自然派”などと呼べるのだろう。僕の全てはこの髪の毛一本にいたるまで、嘘で塗り固められているのに。
僕の現実は。
「へぇ」
「どうしたんだよ流」
「いやなにほらあそこ。いい女歩いとるなー思て」
「お前かわいい彼女に愛想つかされるぞ」
「いい女はいい女。最愛の女は最愛の女。基準が違がうって」
「お前――」
僕は呆れながら流の視線が指し示す方向を見遣った。そのいい女とやらを拝むため。こういう時、男はとことん馬鹿な生き物だと思ってしまう。
だがそんな僕のさめた思考は、“彼女”を見た瞬間に吹き飛んでしまった。
「おい、どうした智紀?」
夜のネオンに照らされた街並を、黒髪の女が歩いていく。
肩口で切りそろえられた髪がさらりと揺れていた。一瞬しか顔は見えなかった。肩に引っ掛けているスーツジャケットの裾が翻って、雑踏にまぎれた。
どうして、判ったんだろう。
こんなに距離があいて、こんなにヒトがいて。
どうして。
「お、おい待てや智紀!」
流の静止も聞かずに僕は走り出す。普段なら足の速さはほぼ互角だが、今は流は酒に酔って足下がおぼつかない。全く酔っていない僕とでは距離に開きがでた。
人込みの間を縫う。僕は舞台からおりていた。誰もたいしても、友人の期間を含めて十年来付き合ってきている恋人や、苦楽を共にしてこの世界で頑張ってきた仕事仲間たちにたいしてすら被っている、舞台用の仮面をかなぐり捨てる。
甘えたで、自分勝手で、傲慢で、どうしようもなく、弱い僕がそこにいる。
街の中心で立ちすくんで、肩で息をする。見上げた空は、ネオンに覆われて明るく、星の輝きは見えなかった。
僕は思い出していた。
僕の現実はいつだって。
「棗!!!」
彼女と存在を分かち合っていたときにしか、あり得なかった。




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