神様の声が聞こえる



――あんたの人生だもの。私はもう何も言わない。
――だけど、帰ろうよ。
『帰らない』

そう言って、その手を突き返した。



「おはようございまーす」
「おはようございます今井さん」
スタジオ入りした僕を迎えたのは、ADの村中さん。僕より少し年嵩の、眼鏡をかけた温和そうな男の人だ。最近ドラマの撮影でこのスタジオに出入りするようになってから仲良くなった。
僕はスタジオ内がヤケにがらんとしていることに驚いた。セットもキチンとしているし、機材もそろって照明もついている。撮影の準備はしてある。が、その人の少なさに驚いたのだ。
「どうかしたんですか?こんなに人が少なくて」
「あ?あぁ」
村中さんは僕の質問に苦笑した。変な質問をしたとも思えない。怪訝さに首を傾げていると、村中さんは含んだような言い方で僕の問いに応じた。
「実はこの間、衣装が間に合わなかったことがあったでしょう?」
「え?あぁありましたね」
ドラマの撮影で使われる衣装は、自前のときとスポンサー指定の服を使うときがある。先日スポンサー指定の衣装が期日に届いていなくて、ちょっとした騒ぎになったことがあった。その時は前回と同じ衣装を使うことで事なきを得た。僕にしてみれば、どうしてそんなに毎回違う衣装を身に付けなければならないのだろう、という感じだけれど。
「それで、代表の方が衣装とパンフレットをわざわざ届けて謝罪しにきてくれたらしいんですよね」
「それとこの人の少なさとどう関係があるんですか」
「監督が惚れ込んじゃって、その代表の方を口説きにかかってるんですよ」
「口説き?」
「飛び入りで、ちょっと出てくれないかって」
「珍しいこともあるもんだなぁ」
僕は目を丸めて感慨深く呟いた。村中さんは苦笑したまま、スタジオ奥の個室を指差す。
「なんなら野次馬に参加してみます?みなさんあそこにいらっしゃいますよ?」
 
「あ、今井君おはよう」
「おはようございます」
部屋に入り、人だかりをかき分けた僕を、タイムキーパーの弥生さんが認めた。そばかすの残る幼い顔をした人だ。彼女は僕に対してもほかの俳優さんたちにたいしても、分け隔てなく普通に接してくれる。このドラマを手助けしてくれるスタッフは、本当に気安くて、そして踏み込んでくることがなくて、助かった。
「これだけお願いしてるのに、駄目なのかい?」
監督の声が聞こえてくる。僕の目の前に巨漢が壁の如く立ちはだかっていて、監督が口説いているという“代表さん”の姿は見えない。
「よっぽど惚れ込んじゃってるわよ監督」
弥生さんは僕に耳打ちした。
「綺麗な人?」
「美人よー。へたな女優さんよりすごく美人。あれはなんか芸能人になれるオーラをまとってるわね。見える?」
「ちょっとまって今」
「何度も申し上げましたが」
弥生さんの前に躍り出た、僕の身体が、こわばった。
「申し訳ございませんが、私は仕事の謝罪に当社の代表で参りました。それ以外のことをしにきたわけではございません」
低くすぎず、高過ぎず、耳に心地よい音律で、きっぱりと断言する女性。
「私はモデルでもありませんし、する気もありません。カメラの前に立つ気はありません。・・・もうそろそろ、お暇させていただいてよろしいでしょうか?」
「しかし」
「棗」
僕に視線が突き刺さる。
ざわりと、人だかりが割れる。まるで、モーゼの前の海みたいに。
机を挟んでパイプ椅子に腰掛け監督と対峙していた女性は、僕を見つめてにっこり笑った。
「・・・久しぶり。智紀」

「助かった」
僕に与えられた小さな楽屋。そこの椅子に腰を下ろした棗は、僕の手からスポーツ飲料の入った紙コップを受け取ってそういった。
「しつこくて本当に困ってたの。ありがと智紀」
「あぁ、それは、別にかまわないけど」
僕はそわそわしていた。それは楽屋の外でそばだてられているだろう耳に対してではない。目の前に棗がいる。その、たった一つの事実に対してだ。
「会うかな、とは思ってたけれどね」
「・・・どうしてここに?」
「いったでしょ。会社の失敗の代表よ。本当は部署違うのに。お前だったら大丈夫だからいけ、って無理矢理こさされたの」
「・・・それはご苦労様なことだ」
「お仕事だから」
ふ、と笑って彼女は紙コップに口を付ける。飲料水が飲み下される度に音を鳴らす白い喉。それから目をそらして、僕は質問を続ける。
「何の仕事?」
「アパレルの経理部。なんで経理部が広報の仕事のしりぬぐいしているのかは、さっき言った通り。上司に借りがあって、断りきれなかった」
捨てればいいの?とコップが掲げられる。僕はその手から紙コップを受け取って、ふと、その指にはまっている指輪に目をやった。
「・・・結婚してるのか」
「してたら悪いの?」
「そんなことはいってないだろ?」
「そうね。きつい言い方だった」
彼女は鞄を抱えて立ち上がった。すらりとした身体。今時珍しい、緑の黒髪。切れ長の目、そこにおさまるぬばたまの黒い瞳は、どこまでもまっすぐで。
「ありがとう智紀。ごちそうさま」
「棗」
立ち去ろうとした棗の腕をとる。棗は振り返り、とても冷ややかな目で、僕を見上げた。
「結婚するんでしょ?」
「・・・どこでそれを?」
「智紀、私は流依とは友人だってこと、忘れてるでしょ」
力の抜けた僕の手から、棗の腕は離れていく。僕が遠くに追いやってしまった、僕の理解者。
僕の、かつての理解者。
「大事にしてあげてよ」
ひらりと手を振る彼女は、扉を開きながら僕に言った。
「助けてくれたことはありがたかったけど、できることなら」
繰り返し目の前に現れ行く残像は、突然リアルになって僕の心に嵐を呼び込む。
「棗」
「他人のまますれ違っていたかった。ばいばい」
ばたん
閉じられた扉は空間と空間を断絶する。
僕は棗が腰を下ろしていた椅子に、どかりと座り込んで、顔を手で拭った。
突き放したのは僕だった。
『帰るも何も、ここが僕の家だから。棗』
迎えにきた彼女を、冷たく突き放して追い返したのは、僕だった。
なのにどうしてこんな風に突き放されて、僕は泣きそうになっているんだろう。
どうして今頃、こんな形で引き合わせたりするんだろう。


「なぁなぁ。昨日お前んとこの監督、むっちゃ美人を口説き損ねたんだって?」
同じMARIAのメンバーである沢口樹が、俺の肩にもたれかかりながら聞いてくる。どんな美人だった?と問われて僕は簡潔に答えた。
「女神みたいな」
「えぇ?」
「とにかく、美人だけど、近付きがたいってあるだろ?そんな感じの女だよ」
「なぁ智紀。お前その女つれてどっかいっちまったって聞いたけどホントか?」
同じくメンバーの永井匡がこっそり耳打ちしてくる。僕は頷いた。
「高校の。同級生だった、んだ」
「へぇ」
「オイ静かにせぇよ本番中やで」
流が僕らを叱責する。僕らはSステーションの本番中だったのだ。久しぶりの音楽番組だっていうのに。
僕は笑ってごめんという。だけれどカメラとマイクは今歌を歌っている流依に集中している。
流依の歌はいつ聴いてもいい。僕は彼女の恋人であると同時に、彼女の歌のファンでもある。その声と歌い方に、僕は魅了される。
拍手が巻き起こる。CMに入って、流依が僕らのすぐ下の段に戻ってきた。
「なに楽しそうにお話ししてたの?」
くるくる巻かれた淡い茶の髪を払いながら、流依が僕らを見上げてくる。
「あぁ昨日の篠山監督の話。一般人飛び入りで出そうとして、さんざん口説いて結局断られたって」
「あぁ・・・なんか噂してた今日伊藤さんが」
「でさーその口説かれた噂の彼女、智紀の同級生だったんだと」
「あ、せやけど流依ちゃんも智紀の高校の同級生やったんやんな。もしかして知ってるんとちゃうの?」
僕はぎくりとなって口を閉ざす。表情にはあのいつもの笑いを浮かべたままで。流依は、僕のこわばりに気がついただろうか。
「・・・もしかして、棗?」
「・・・あぁ」
「やっぱりしっとったん?」
「・・・むかし、一緒によく遊んだもの。おとといも一緒にご飯食べにいったわ」
流依は、珍しく無表情になった。カラーコンタクトを入れているのか。青い瞳に僕が映っている。
どことなく、おびえたような、僕。
「・・・何か、話したの?」
「・・・世間話。会社の仕事の内容と、結婚したことだけ、きいた。すぐに、帰ったよ」
「・・・そう」
僕達の会話は、端から見て十分に不自然だ。僕はおびえる。棗は、実体がなくともその影だけで十分すぎるほど僕に影響を及ぼす。
僕を、舞台から引きずりおろす。
「つぎ、出番」
創の耳打ちに僕はほっとした。すぐに、演技を切り替えることができる。ふざけたり笑ったり皆が望む、アイドルとしての“今井智紀”。
一体それは、僕がこの二十数年演じ続けてきた僕の姿と、どう違うのだろう。
ただ流依だけが、僕をいつまでも不信そうに見続けていた。


僕が暮らす今井の家は、神奈川の住宅地にある。都心に通う人々のベッドタウンだ。春になればレンゲが咲き誇る畑を見下ろせる閑静な住宅街の一角に車を止めて、僕は玄関へと続く階段を上る。
「ただいま」
「お帰りなさい」
大分遅い時間だというのに、どうやら起きていたらしい。僕は迎えてくれた義母さんに微笑んだ。
「どうしたんだよこんな時間まで起きてるって珍しい」
「ちょっとアルバム整理に夢中になってしまって」
お父さんは寝てるよ。彼女はしわの増えた顔を笑顔でくしゃくしゃにした。

僕と今井の両親との間に、血縁的なつながりは何もない。
僕の両親は僕が物心付くころに蒸発した。僕は五年過ごした施設から、この両親に引き取られた。
僕の演技の歴史は長い。そんじょそこらの役者よりも年紀が入っている。僕は施設に入ってすぐに“いい子”を実演していた。施設の兄妹たちからみていい弟、いい兄を、先生たちからみて手のかからない、けれど少しやんちゃな子供を。あの貧しい施設を早く抜け出すためには、できる限り誰もから好かれるいい子を演じて、誰かに引き取られるしかないーー幼心に、僕は知っていたのだ。
そうして、この今井夫妻に引き取られた。
いい両親だ。少々強引なところがある母親。穏やかで優しい父親。僕のことをとても誇りに思ってくれていることを知っている。僕は彼等の前でひたすら明るく、なるべく穏やかな子供を演じた。時々かわいい悪戯を仕掛けることも忘れなかった。単なるいい子は、かえって疑われる。僕は用意周到だった。
「ほら懐かしくないこの写真」
布団だけがはぎ取られた掘りごたつに足を突っ込んで、僕は差し出された写真を見つめる。小中。制服に身を包んだ僕。友達に囲まれて笑っている。けれどどれも同じ顔。それは、テレビに映る僕の顔と、相違ない。
もらわれ子であるというコンプレックスを、必死に隠そうとしていた僕。いじめを避けるためだった。酷く虐められて顔を腫らして施設に戻ってきた兄姉たちを、何人か僕は見ていた。
誰にでも人当たり良く、運動も勉強もそつなくこなす。委員会にも顔をだして、先生の受けもそれなりに獲得していた。
嫌みなく、完璧な少年は、虐められることはない。実際の親がいないという劣等感をひた隠しにして笑い続けた過去の僕がそこにいた。
「なんでいきなりこんな写真ひっぱりだしてきたんだよ?」
「ふふ。ご近所の方が是非に、っていってね。ちょっと展覧会をしてたのよ」
「まぁそんなことだろうと思ったよ。・・・恥ずかしい写真は見せないでよ母さん」
「見せてないわよやぁね」
近所との付き合いに、僕を引っ張り出さなければなじめない母。彼女は子供がうめない身体であるというコンプレックスから、同年代の女性たちから一時遠ざかっていた。今も会話のぎこちなさを端からみていて感じるときがある。ひたすら遠慮しているのだ。僕は彼女が僕をコミュニケーションツールとして近所付き合いに持ち出しても、何も感じない。ここまで育ててくれた彼女や父に、僕は本当に感謝している。
だけど、どうしても、もう仮面がとれない。
「ねぇ高校のころは?ないの?智紀」
「え?い、やあるけど」
「高校のころの写真も見たくなっちゃった。もってきてくれない?」
「・・・いいけど」
立ち上がって廊下のエレベータを横切り、僕は自室に引っ込んだ。一人暮らしをしないのは、足を悪くした父が僕をどうしてもと引き止めたからだった。僕はいいよと言った。彼等に逆らったことは、あまりない。
高校は、唯一僕が言ったわがままだった。
昔していた部活の試合会場として、訪れた高校。その雰囲気があまりに気にいってしまって、下宿までしてそこに通った。
机備え付けの本棚から、アルバムを取り出す。卒業アルバム。僕は卒業していないけれども、親友だった奴が先生に頼み込んで僕のために貰ってくれた。
そして、もう一つ。
こちらは、スナップ用のアルバム。
ぱらぱらと開く。そこに並んでいるのは主に同じ顔ぶれだ。僕、親友の昌穂に流依。
そして、棗。
そのなかの僕は、不機嫌そうだったり、すねていたり、笑っていたり、眠っていたり、とにかく表情豊だった。どれとして同じ顔がない。コーラス部、壊れてしまったオーディオセットを蹴飛ばす僕。生徒会で散らばった書類にため息をついている僕。クリスマスパーティーで給仕をしている僕。棗と、笑い転げている僕。
乱暴に、そのアルバムを閉じる。
僕は結局卒業アルバムだけ小わきに抱えた。あの高校の頃の残像を、写真と言う形で確認したくはなかった。
――してたら悪い?
白く細い指に似合っていた、くすんだ色の指輪がよみがえる。
「くそ」
僕は扉を力一杯占めた。ばしんという音が、背後で響き渡った。


――歌が好きなの?
『へたくそだけど』
――奇遇が多いわね私たち。私も好き
『歌手になりたいのか?』
――そうね、なったら面白いかもしれない。だけど多分ならないわ
『ふうん。俺なれると思うよ。すごくいい声だもんな』
――あんたに言われると嫌みみたい
『どうして?』
――智紀の声のほうが、よっぽどいい声よ。深くて、なんか洞穴に響く声みたい。神様の声って、こんな声じゃないの?
『・・・槍でもふる?』
――珍しくほめてるんだから、素直に受け取っておきなさいよ

彼女と出会ったのは音楽室で。
綺麗な夕暮れ時に、響いた歌声に最初に惹かれた。
僕は彼女の歌を聴くためだけに音楽室に入り浸った。
次に惹かれたのはまなざしで。
それは人の性質を見抜くことに長けていた。
最後に惹かれたのは彼女の不器用さで。
意地っ張りでコンプレックスだらけで優等生を演じている美少女は。
僕にどことなく似ていた。


「で、プロポーズの返事はどうなったん?」
「さぁ?」
 いつものスタジオの休憩所。並ぶ自動販売機が低く唸っていて、ガラス張りの壁面越しに、見える夜の都心。今日は、テレビがついている。
「さぁって・・・どういうこっちゃ」
流の問いに僕は缶コーヒーをすすりながら応じた。
「いや、指輪は受け取ってたけど、きちんとしたOKだとかはまだ」
「なんでその場で返事貰わへんかったん?てか、指輪もらったらおーけーやろ普通」
「そうだっけ?でもま、返事は後でいいって俺いっちゃってさ。だって俺たち芸能人なんだ。お前だってわかるだろ流。相手の仕事の都合とか」
「そんなん、婚約中にすりゃええ話やんか」
「・・・そういやそっか」
お前なあ、と流が横で脱力する。プロポーズしたらすぐに結婚しなきゃいけないんだって、奇妙な話だが僕は思い込んでいた。
よくよく考えて。僕は流依にいい、流依も頷いた。けれどもしかしたらそれは、本当に彼女と婚約する気があるのかどうか、僕が試されているのかもしれないと、ふと思う。
たった一度の再会が、僕が夢見る過去の残滓を増やしている。
あのひらりとふられた手の指に、鈍く光った、銀の指輪。
何かが一瞬ひっかかったけれど、テレビから流れ出た声に我に返らざるを得なかった。
『さて次は響さんですこんばんわー』
『こんばんわー』
「おお噂をすれば、なんとやら、やな」
 流が明るく声をあげる。テレビの小さな画面の中に、白いレース地のトップスと、濃い色のジーンズを身に付けた流依が映っていた。十代の少女となんら遜色なく、愛らしく微笑む流依。
流依と僕はもう一ヵ月まともに会っていない。
僕達は互いに忙しく、ツアーでも始まれば半年会えないというのもざらにあるからだ。電話はとメールが時々。それだけで続いてしまう、僕らの関係。
流依は例のごとく音楽番組にでていた。彼女はかわいらしいけれど、CMやドラマには一切出演しない。音楽番組と、ときどきドキュメンタリー系の番組にゲストとして呼ばれるぐらい。
僕は半分中身を減らした缶の縁に口を付けながら、ぼんやりその画面を眺めた。
『今日は響さんが新曲を初披露してくれるということで、とても楽しみですねー』
『ありがとうございます』
「・・・新曲?」
僕は身体を起こした。流依はどんな曲でも、たとえ作りかけの曲でさえ、僕には見せてくる。食事の席で、寝台の上で、会えなければメールで。
彼女は自分で詩を書く。その感想を、僕に強請るのだ。
けれど今回それがなかった。こんなこと、初めてだった。
『いつも優しい歌を歌われる響さんですが、今回はとっても切ないナンバーだそうですねぇ?』
『はい。いつまでも忘れられない、失ってしまった恋に苦しむ、女の人の気持ちを歌ってみました。たまにはこういうのも悪くはないかな、と。あ、私が失恋したとかそういうことではないんですよ』
テレビの中、スタジオがわっと笑いに包まれる。隣でつられたように笑う流。僕だけ取り残されたように、身体の芯が冷えていった。
流依は、二言三言会話を司会者とかわし、整った舞台へとあがっていく。司会の女性が、笑って言う。
『それでは響流依さんで、“神様の声がきこえる”です。どうぞ』
かみさま。
今朝見た夢の奥で響いていた声が、頭蓋骨の奥で反響する。
――神様の声って、こんな声じゃないの?
蝉時雨が降り注ぐ、学校の裏庭で、耳にした声だった。
静まり返ったステージにたたずむ流依の美しい顔が、テレビに映し出される。
いつまでも忘れられない恋。
彼女はどうかしらない。
けれど連想したのは、彼女だった。
「な、つめ」
流依の双眸が見開かれる。グロスが綺麗に塗られた唇。それが開かれ、沈黙を破った。

神様の声が きこえる
愛しい貴方の声ににている
惑わせないで
あの頃に
戻りたく なるから

きゅーんとベースがかき鳴らされ、音楽が始まる。少し切ない間奏。ドラムベースがリズムを刻み、リボンでくるくる巻いた長い髪をかきあげる、流依の指が、映る。

失われた日々は二度と
戻らない 知ってるわ
だから耳をふさいで
貴方の 呼び声 
閉め出した

アルバム全て燃やして
贈り物は バザーに
思い出にサヨナラ なのに
どうして 消えないの
貴方の声

僕は思わず立ち上がっていた。流が怪訝そうに目を見開いている。僕はただ、その歌に聞き入った。イントロでも歌われたメロディが、サビとして繰り返される。

神様の声が きこえる
それがかつて私の全て
忘れさせてよ お願い
追いかけてこないで

「どうしたんや智紀」
僕ははっとなって流をみやった。なんでもないと首をふり、ソファーに腰を下ろす。
ただ、耳は相変わらずその歌に傾いている。

唇に触れたぬくもり
そのまま宿した微かなささやき
オルゴール みたい おかしいね
繰り返されて

いつからなのかしら 貴方の
声が蒼から舞い降りてくるの
忘れられない 私の
神様の声だから

微かな戦慄を響かせ曲が終わる。拍手が巻き起こる。流も、僕の横で手を叩いていた。
「これも売れるなぁ。相変わらずええ曲つくるわ」
「そうだな」
僕は放心したように、コマーシャルに移ったテレビをそのまま見つめていた。
あれは、誰の曲?
誰を、歌った曲?
自分でも驚くほどの動揺。唇を噛み締める。少し、血の味がする。
「おい智紀」
「え?」
気がつけば流の顔が間近だった。びっくりして僕はからっぽの缶を取り落とす。それは床の上をからからと滑って、やがて円を描いてとまった。
その缶を拾い上げながら、流。
「お前、最近なんか変なんとちゃう?」
「変?」
「よく、ぼっとしとるし。なぁ、もしかして、流依ちゃんと上手くいってないんか?」
「そんなまさかなこと言うなよ」
冗談めかして僕は手を振った。僕のかわりに缶を捨ててくれた流にありがとうを言う。
「なにか、悩みとか」
「だから、大丈夫だっていってるだろ。気にするなよ」
「・・・でも、お前なぁ」
流はなおも口ごもる。僕はごまかし笑いを浮かべて立ち上がる。
「とにかく、気にするなって。んじゃ、呑みにいこうか」
慣れた微笑がどこかぎこちなくなるのはどうしてだろう。僕は流の肩を軽く叩いて促すと、彼の背後に回って歩き出した。
歌が、いつまでも僕の頭でリフレインしてる。まるで、終わりのないワルツのように。
どうして今さら、こんな風にして僕の心をかきむしる。
僕の想いなんて知らないだろう彼女に僕は問いかける。
歌った流依に問いつめなければ。
僕は流と夜の街へとくり出しながら、そんなことを思っていた。
いつまでも。


僕らが利用する洋食屋のいつもの席で、僕と流依は待ち合わせた。
僕らは向かい合って、料理を征服することだけに専念していた。ナイフとフォークが皿に当たる、かちかちという硬質の音だけが響いて、不気味な雰囲気をかもし出す。
けれどとうとうデザートの段になって、僕は意を決し彼女に問うた。
「棗の、作った歌?」
「違うわよ」
流依は即答した。彼女のフォークが止まり、ケーキの輪気にその先端が触れる。響く、陶器の音。
「ついでに言えば、棗を歌った曲でもない。ただ、昔あの子しょっちゅう貴方の声をそんな風に評価してたわよね。それを、思い出しただけ」
流依はため息をつくと、口元をナプキンで拭った。彼女は少し哀しそうに瞳を揺らし、口元を苦渋に歪めていた。
「やっぱり、忘れられないんだ」
流依は嘆息した。長い長い、吐息だった。
「もうごめん。もう、限界」
流依はハンドバックをあけて、箱を取り出した。僕が先月渡した。指輪の入った箱。僕が彼女に渡したときと同じように、彼女はその細い指で箱を滑らせる。
目の前に、戻された、小箱。
「終わりにしよう。智紀」
「流依」
「私、最初はそれでもいいと思ってた。棗のことを引きずっていても、いつか忘れてくれるって思ってた。いつか、私をきちんとみてくれるって。私を、愛してくれるって。ずっと好きだったわ智紀。きっと棗より、私のほうが好きになるのが早かった。貴方はとても優しくて明るくて、誰にでも好かれて、恋人同士になってからいっそう優しかった。女の子が憧れる、理想の恋人そのままの、智紀。貴方があのこの代わりに私をそばに置いたんじゃないって、私は判っている。私はそう、信じる」
流依は前髪を書き上げた。目が潤み、鼻の頭が赤くなっている。僕はテーブルに手をついて立ち上がった。
「るい」
「だけど!」
語気を荒げて流依は僕の言葉を遮った。僕は、黙りこくるしかない。黙って、彼女の言葉に耳を傾けるほかない。
「だけど智紀。あなたは全然、棗のことを忘れてない。あの歌聞いて、こんな風に連絡入れて、私を食事の席に誘い出した。曲のこと、問いただすために。本当にもう愛しているのが私なら、棗を愛していないなら、こんな風に取り乱したりしないよね?」
「・・・それは」
「あの曲、女の人についてって私いったけど。本当は、あれ、半分貴方について歌ってるの」
「俺に、ついて?」
「私たちが、歌を歌うきっかけになった私たちの歌のセンセイ。放課後の音楽室に、棗の歌だけを聞きに、智紀はいたね。私の歌を好きだっていってくれた智紀。本当は、私の歌じゃない。私の歌の後ろに見えかくれする、棗の姿を探してる。いつだって智紀は、棗の声を探してる。私には聞こえない棗の声に耳を傾けてる。だって棗の声は、貴方の、神様のこえだわ」
流依は立ち上がってちらりと僕の前に置かれた指輪の箱に視線をやった。
「その指輪、私の指より少し小さい。本当は、誰にあげたかったの?」
友達に戻りましょう。ごちそうさま。
在り来たりの言葉を吐いて、流依は僕の目の前を通り過ぎる。遠ざかっていく足音を、僕は目を閉じながら聞いていた。
これは何の映画のワンシーンなんだろう。そんなことを、思いながら。

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