マスター編・8
 
 
やはり、野良猫の別れた夫だった。
 
「よかった、結婚したんだね?」
それも、馬鹿みたいに俺たちの関係を誤解しやがって、ほっとした顔を彼女に見せていた。
 
思わずむかっ腹が立った。
子供が駄目だったと口にした時のこいつの顔を、今この場でこの男に見せてやりたい。
あの時、笑顔のつもりだったのだろうけど、野良の屈託のない笑顔を知っていた俺には、その顔が泣いているようにしか見えなかった。
もちろん、別れた理由なんてはっきりとは知らない。だけど、相手の男が抱いてる小さな子供と、向こうにいる奥さんらしき女性が連れている子供の年齢を見れば大体わかる。
野良は子供を産めなかった。
向こうの女は二人も産んでいる。
それが現実だ。
 
そしてもうひとつの現実。
 
野良は結婚したわけじゃない。メイドとして俺のところに来ているだけだ。
幸せは、何一つ手にしちゃいない。
その現実を相手に告げる気にはならなかった。
「誰なんだ、茉悠子?」
俺は野良の肩を抱き寄せて笑顔で甘く囁いてやった。
演技しろ、馬鹿っ。
気がつかない鈍感娘に『あわせろ』と合図を送って、俺は夫か恋人の振りをした。
『幸せなんだね』という問いにも、俺は笑顔で答えてやった。
「ええ、俺が幸せにしてますから。」
今のこいつを惨めな目に合わせたくなかった。
俺は元気な野良しか知らない。こんな、おとなしい、言葉を全部飲み込んだような、薄く笑う大人の顔をした野良はしらない。
 
 
「おい、アレでよかったのか?」
妻と子供の元に戻り、仲良く並んで立ち去る後姿を見送る野良の作り笑いした顔を見ていた。
「ありがと。」
早くいつもの調子に戻って欲しかったのに、なのに、素直に俺に礼なんか言うな、泣きそうな顔して笑うなよ…
「うっぐっ…」
泣くなよ…声を殺して、泣くな!
「無理するな。」
崩れ落ちそうな彼女を支えるその腕に力が入ってしまいそうだった。
何だ、この気持ちは?抱きしめてやりたいなんて、熱もないのに、また野良が泣くからか?
「馬鹿…気い使っちゃって…」
ようやくこいつらしい言葉が出てきたので、少しだけ安心した。抱きしめようとしていたその腕を解いて、くしゃっと野良の頭を撫でてやる。
「車に戻るぞ、ほら、それまで我慢しろ!」
本当に我慢していたんだろう。車に戻ってから野良の涙は止まらなかった。
 
俺は、どうしていいのかわからずに最近あまり吸わなくなっていた煙草に火をつけた。
自分の女なら抱きしめればそれですむ。キスをして涙を忘れさせるほど抱いてやればいい。
だけど、この場合どうすればいいんだ?
仕方なく泣きやむまで待つつもりで煙草の煙を吐き出した。
「なあ、あれ、元旦那だったんだろ?」
何も知らずに夫の役を買って出たものの、事情を知らないまままた再会でもしたら、益々彼女を傷つけることになると思い一応聞いてみた。嫌なら応えなくて良いし、俺も知らぬ振りをつづればいいだけだ。
ただのメイドならそんな気も使わないが、こいつは野良だ。たまたま我が家にメイドが来た。それが野良で、その雇い主は飼い主みたいなものだ。それに、こいつは昔から俺にとって他の女とは少し違った存在だったから…。
野良の存在が、どれほど俺の毒気を抜けさせていのたかに気がついたのは、高等部を卒業してしばらくたってからだった。
 
俺は大学は外部受験したし、卒業後は男ばかり集まる所にしか顔を出さなかった。野良のその後なんて気にもしてなかった。だけど、からかう相手が居なくなったのは、俺にとって寂しいものだった。高校時代、四六時中あの女のことを考えずに済んだのは野良猫みたいなオモチャが居てこそだった。
高校卒業後、再び遊びはじめ、富美香と関係を持ったのもその頃だ。
2年後の同窓会の時に、ちらりと聞いた噂が『長岡が結婚して玉の輿、子供も出来るらしい』だった。野良の遠縁だというクラスメイトから出てきた噂だったから信憑性があって、皆が信じたのだ。きっと幸せになったと。
 
「聞いていいか、なんで…?噂じゃお金持ちの家に玉の輿に乗ったって聞いてたぞ?なのに…」
「そうだね、言っといた方がいいのかな?19で子供が出来て結婚して、流産して、その1年後に夫の浮気相手の女性に子供が出来るのが判って、離婚したの。」
 
呆れた…
 
それは省略しすぎじゃないのか?だが、それほど言いにくいこいつの過去を、俺は何だって好きこのんで聞き出そうとしてるんだ?自分でもそっちの感情の方が理解出来なかった。
「俺がもしおまえの彼氏だったら、もうちょっと聞きたいと思うぞ?おまえが苦しんだこととか…」
そうだ、しっかり者のメイドとしてうちに来たけれども、中身は昔の野良のままで安心したのは俺の方だった。
だけど、時々見せるあの寂しげな笑い顔がどうにも似つかわしくなくて、おふくろを思い出させた。
だから気になっていた。
野良は言った。なにも判らずに結婚してしまったと。聞けばバイト先の仲間だと思っていたあの男に酔った勢いで無理矢理ヤラれて、子供が出来てすぐに結婚したというのだ。
「おまえな、それって強姦だろ!?」
俺はため息と共に苛立ちを隠してそう言い放っていた。
無性に腹が立った。俺は遊びで女を抱くし、酷いやり方をする時もある。だが大抵そんな趣向のある女に限定するし、これでも避妊は怠らない。『出来ちゃったの』と言われて責任とらされるような遊びはしてないつもりだった。『今日は大丈夫だから』なんて言っても聞かないし、最初っからゴムはつける。唯一、避妊しないのはリングを入れてる富美香だけだ。
「そうだけど…ごめんって謝ってくれて、責任とるからって、ずっと好きだったって言われて…子供が出来たって判ったときも、すぐに彼の実家に連れて行かれて、結婚するって言ってくれたの。彼のお母さまがすごくいい方で、わたし可愛がってもらえた。だけど…その間に彼は会社の女性と…浮気してた。しょうがないよね?結婚しても奥さんとは出来なかったんだもの。悪阻も酷かったし、出血も少しあったから、お医者様にしない方がいいって言われてたし…」
「ふうん、おまえが初めての妊娠や悪阻で苦しんでるその間に他の女抱いてたってのに、しょうがない?そんなんでおまえ済ませてよかったのか?」
呆れを通り越していた。
ずっと好きだったら犯してもいいのか?だったら俺だって、あの後、何度も澄華を犯しているさ。兄貴と結婚して義姉になったとしてもお構いなく身体の関係を強要してる。手錠でも鎖でも何を使ってでもその身体を拘束して、思う存分蹂躙している。血の繋がりがあったとしても、彼女がそれを赦してくれたら何度だってやっている。だけど、俺はその最後の一線は越えられない。惚れているからこそ、血の繋がりは越えられても無理強いは出来ない。泣かせたい訳じゃないのだから…それに今じゃ兄貴の妻な訳だし、俺はあの優しい兄貴を裏切るような真似も、彼女の同意なしには出来ないと思っている。彼女が俺を選んでくれたら、その時は…全てを捨てようと、ずっとそう思ってきた。
自分でも最低だと思う俺よりも最低だぞ?あの男!無理矢理なんてもってのほかだろう?それも酔って意識無くしてる処女の女に無理強いかよ?おまけに、あの優しそうな顔で浮気?妻の妊娠中、出来ないから浮気したっていうのはよく聞くが、体調悪い妻を放っておくなんて、俺でもやらないぞ?
親父はちょっとでもおふくろが調子わるいと言ったらべったりだったし、自分が出張で居ないときは必ず息子に付き添わせてたぐらいだからな。もし俺が本当に想う相手と結婚できたなら、彼女にそんな思いはさせたりしない。苦しんだり不安になっていたら抱きしめて、あの夜のように添い寝してやって…って、それは野良だろ!違う、俺が思い描いていい相手は澄華だけだ…
俺は何を例えてるんだ?馬鹿な考えを頭から追い出す。
しかし、野良はその後に、妊娠中に浮気現場を見てしまい、その時に事故に遭い子供を流産したなんて大事なことを、後で付け加えやがった。
野良の顔を見ていられなかった…
嗚咽を堪えて話すその姿はあまりにも辛そうで、話させたのは俺だけれども、無理に平気そうな顔をするのが余計に痛かった。
 
だから車をスタートさせた。
帰り道をゆっくりと車を走らせる。薄暗い夕刻を迎えた街の景色の方が、ざわめく駐車場より気持ちが落ち着くだろう。彼女は外の景色を眺めながらぽつぽつと口を開いた。
なぜその後も離婚せずその家にいたか。
それは簡単だった。野良には行くところなんて無かったんだ。
義母には感謝していたが、見方を変えれば酷い仕打ちでぼろぼろになった嫁を追い出して家名に傷を付けるより、抱え込んでおいた方が害もないって所だろう。まあ、野良は逆恨みして仕返しするような事が出来るヤツじゃないけれども、結局向こうに子供が出来たと告げられるまでその家に居たらしい。
「わたしもね、もっと早くに出て行くべきだったんだけど、行くところ無かったのよ、どこにも…だから、わたし…」
せっかく泣きやんでいたのに、また声を詰まらせる彼女の声に俺の方が辛くなった。
 
俺も、この家をいつ追い出されるか不安だった。
親父の子じゃないと判れば、どんな対応されるかが怖かった。だけど、どんなに素行が悪くても、俺のことを信じてくれた親父や兄貴に感謝してもし尽くせない。母も、一番辛かっただろうに、俺への愛情をすり減らすこともなかった。俺は、この家に帰ることの出来る自分が幸せだと思っていた。
だが、野良にはなにも無かった…
実家も家族も、もう何も残っていない。唯一手に入れた嫁ぎ先にも居られなくなったのだ。
迷子の野良猫。コイツの面倒を見るのは俺でいい。
そう思ったとき、俺は彼女にこう伝えていた。
「今は、あるだろう?野良は…うちに必要なんだから。」
その言葉を聞いた途端、わんわんと泣き出した野良に困り果てたが、運転中どうすることも出来ず、シフトを握っていたその手で彼女の頭を何度も撫でてやるしかなかった。
家にたどり着くまで、ずっと…
 
 
 
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久石ケイ