2 盗み見たキス。
 
話はどんどん進んでいった。
夏休みに撮り出せるように、ストーリーから煮詰めなければならない。
まさきを除く他の部員達はもう楽しくて仕方ないというように、無責任発言を炸裂させた。
「………キ、キスシーン?!お前ら正気かッ?!…だいたい文化祭だぞ?!学校行事だぞ…?!そんなん許されると…、」真っ赤な顔して怒るまさき一人に。
「言わなきゃいいじゃん、誰にも。上映しちまえばこっちのもん」
部長は至って冷静なまま、サラリと告げる。
「そんな事ばっかり言うなら、ちいちゃんがやれよッ!オレに押し付けんな、ちいちゃんが主演で撮ればいい!」
「─────オレは監督。決まってる」
「…ッソ!…辞めてやる、こんなクラブ!」
にわかに、ちいちゃんの表情が真剣味を帯びて引き締まった。
「───…お前いいのか…?そんな無責任な事して。武士道に反するぞ」
「え─────ッ、何だよそれッ!反則だよ、ここでそんな事言うの!」
再び、ちいちゃんの目が細められる。
「いいよな?やってくれるよなー?まさき」
 
「…ちいちゃん、すごく人気あるみたい。あたし、正直フクザツだよー」
放課後、お隣さんの聖は、まさきの自室に上がり込んでいた。
彼女にとっては勝手知ったる我が家のようなお隣の家。2階にある東側の和室がまさきの部屋。聖のため息は、まるで「あたしの彼氏すごく人気あるみたい…心配」とつぶやいたように聞こえた。
「…ふーん…」
まさきは内心、ほんの少しうろたえた。それを聖に悟られまいと無表情を意識する。
「由美先輩とさ、仲いいのも気になるんだ…」
「───…。」
─────確かに、由美先輩とちいちゃんはクラスも同じだし、部活動に関しても二人で話して決めている節がある。
今度の映画にしても、まさきの恋人役には、ちいちゃんが強引に「中目由美(ナカメユミ)」を選んだ。
「話題性狙うなら、渡辺聖ちゃんにしませんか?」との男子部員の意見にも耳を貸さず、「主役が二人とも揃って演技サイアクだったらマジでいーもん撮れないから」
という有無を言わさぬ理由で、恋人役を「中目由美」にしてしまった。
その時の「由美先輩」の反応はと言えば、どう見ても「その件は事前に聞かされて承諾済み」だった。
…二人の間には、何だかまさきや聖が入り込めないバリアがあって。それはたった1歳という年の差なのかもしれないけれど、とてつもなく厚く立ち込めているもの。
「ねぇまさき、…考えたくないんだけどさ…、ちいちゃんと由美先輩ってさ…、やっぱ…だと思う?」
畳の上、ひざを抱えて小さく座った聖が泣きそうな瞳で見上げてくる。
「─────…って、何?」
分かってて聞き返す。やはり無表情を装ったまま。
夕暮れもどこかへ去った初夏の窓。群青色の中、細い雲が波みたいにたなびく。
「…だって由美先輩、昔タレント養成スクールみたいなところに居たんだって。親の趣味だったらしいけど。子役モデルとかもしたことあるって誰か言ってたよ?」
「だから?」───半ば苛付いたように間髪入れず遮るように問う。
「まさきぃー、」すがるような目。
「…だったら何だよ?…どうせ聖、ちいちゃんの妹じゃん。」
「そうだけど…。イヤなの、とにかくイヤなの!分かってよ!」
小さな子供みたいに甘えた高い声で駄々をこねる親友。
…こんな風に、「女」を武器に使える彼女のしぐさに、実は時折うんざりしているまさきが居た。もちろん決して彼女にそれを告げたりはしない。彼女も無意識でしていることなのだから。…そしてこの無意識なしぐさが、男の子達をときめかせている事も頷ける、と心の中で一人まさきはため息をついた。
さっきから話題に上っている「由美先輩」にも、聖と同種類のそれがある。
「女に生まれた」という事を最大限の武器にしているような、ちょっとしたたかな要素。
弱さを強調することで、自分の思い通りに事を運んでしまおうという甘えに見せかけた狡猾さ。
2年生ながら「由美先輩」はどちらかと言えば女っぽい外見とは裏腹にやや子供じみた性格。もっとはっきり言えば、可愛い子ぶってわがままを押し通すタイプ。
1年の女子部員の中には、露骨に「由美先輩」を嫌う者も数名居た。
…もちろんそこに、「成瀬廉(ちいちゃん)と仲がいい事への嫉妬」も含まれる。
「まぁ、飲めば?」
ペットボトルの水を差し出した。
聖は目をこすりながらそれを受け取り、けれど飲まずにうつむいたまま「まさきが男の子だったらよかったのに。」と小さく独りごちる。
「何それ」
「…だってそしたらあたし、まさきとつきあえる。ちいちゃんが誰と付き合おうと、こんなにも気にならないよ。」
……………聖のセリフに、冗談などカケラも混じって居なかった。
 
「……………。」
その夜、独り和式布団の中で仰向きながら、月明かりの下まさきはぼんやりと天井を見上げていた。
─────…どちらが、楽なんだろう。…聖はちいちゃんと血の繋がった兄妹。どんなに好きでいたって、報われる可能性はゼロ。
だけど、可能性がゼロってのは、ある意味幸せかもしれない、とまさきには思えてしまう。
…選択の余地が無いのなら、諦めるしかない、ってこととイコールなのだから。しかも、一生切っても切れない「兄と妹」という絆付き。
それは世界広しと言えども、この地上でただ一人、聖にだけ許された特権。
だけど、ほんの1%でも可能性を残されているこんな自分は、これからも生殺しだ、と思えた。
…もちろんまさきには端から彼とどうこうなりたいとか、そんな願望さえなくて。
きっと、現時点では思いつめている聖の心のほうが苦しそうだ。きっとそうなんだと思う。
窓の外を見る。半月は綺麗に白く光っていた。…明日も、間違いなく晴れ。
ため息をつき、寝返りを打つようにまさきは長身を縮めた。
─────…明日も、来る。絶対。
 
真っ白い早朝の光の下。公園のベンチにだらしなく身体を預け、長い脚を放り出したまま、こちらに向かって手を振る男前。…やっぱり来てた。
「おー、まぁ飲めって。」
「…ちいちゃん、今の酒勧めるオヤジみたいだった」
「…何?お前、親父さんから酒勧められてんの?」
「バカ。うちの家風知ってんだろ」
まさきはちいちゃんの隣りに腰掛け、彼に手渡されたペットボトルを受け取る。
恒例になりつつある、早朝の日課。
ちいちゃんは、以前のように桶川家の玄関先まで姿を現すことはなかった。
…実はいつかのあの翌日、春色したの空の下、早朝6時半。木戸を開けてそこにちいちゃんの姿が無く、落胆したのをまさきは苦く思い出していた。…そして独り住宅街を抜け、この大きな公園に入って。─────見つけたのだ、ベンチに座る彼を。
胸がドキリと大きく高鳴った。
恥ずかしさがこみ上げるほど。
………どうしようもない位、彼と会えることを期待していた自分を発見してしまった。
ごまかしようの無いほどの、この想い。─────恋。
そしてあの胸の高鳴りは、その後もここで彼の笑顔を見つけるたび、繰り返されている。
「よしッ、オレも走ろーっと」
立ち上がるちいちゃんの横顔。見上げながら、まさきも従う。
「…明日、雨かもな」
ゆっくり走り出し、隣りのまさきにつぶやく彼。
「…だな、多分」
「─────…。なぁ、明日も…」
「え?」
ちいちゃんの横顔を見ながら、まさきは合点した。
「じゃあ明日は道場に来れば。裏から回ってくれば、お隣りさんにも分かんないよ。」
ちいちゃんの流し見た目が輝く。
「何?そんな嬉しいか?」
赤面しそうになる、そんなカオされると。…一瞬、子供の頃の目だった。
「嬉しい!…マイ竹刀、持ってこうかなぁー、なんて。もう短いか、子供用だもん」
「……………。」
はしゃぐちいちゃんの気配や息使い、身体からほのかに伝わる熱を左側に感じながら、まさきもなんだかフワフワとした気分だった。
 
翌朝。まさきの祖父は、道場に見つけた懐かしいその顔に、皺の刻まれた目じりをより深くして出迎えた。
嬉しさを隠し切れない様子で側により、自分よりも随分と高くなった身長を見上げ、「よく来たな」、とちいちゃんの肩をさすった。
鏡面のように磨かれた床。
張り詰めた空気が支配するこの長方形の箱は、ちいちゃんにとてもよく似合った。
彼は袴姿でこそないものの、正座した視線は誰よりも剣士然としていて、身のこなしも、文句のつけようがなかった。独り、黙々と素振りを始める。
「どうだ、少し」
嬉しさを隠せない祖父が、そう提案する。地稽古をつけてやろうか、という申し出に、ちいちゃんはうなじに手をやり、
「オレ調子に乗りますよ」と前置きしてから、
「でも今日はもう時間が…」と残念そうに返事した。
「朝ごはん食べてけって。お母さんが。」
 
───ちいちゃんは3年のブランクを感じさせない笑顔で、和朝食の茶碗を遠慮なく「おかわり」と母に差出し、母をよろこばせた。
まさきの父は、そんなちいちゃんにある相談を持ちかけた。
それは自分の仕事を手伝わないか、というものだった。
父は今、数件の剣道場で師範を務めている。そのうちの一つは、文化センター主催の子供向け道場だった。今、アルバイトの助手を一人募集中なのだという。
まさきもテーブルにつきながら、そんな話を初めて耳にしていた。
「ただし道場だけじゃなくて、文化センターの細々した雑用やら掃除、事務仕事もさせられるけどな」
まさきは、自宅道場で、やはり子供達を教えている。父や祖父の助手として。けれど、そんなバイトの口があるなんて、今まで一言も聞かされてはいなかった。
抗議しようと口を開きかけると、母が無言で制する。
ちいちゃんは、またこの前のように見開いた目をキラキラ輝かせ、身を乗り出すみたいに、「面接、行きます!」と告げていた。
 
「一石二鳥だ!」丁度バイト探してたし、竹刀振れるし!と。靴を履きながら、ちいちゃんは笑顔を絶やさなかった。上機嫌の彼。
…まさきは、「ついでだから一緒にガッコ行こう」と言われ、断った。
「聖が迎えに来る。…オレだけ先に出てたら、あいつヘンに思うよ」
あ、そっか、と。ちいちゃんは考えるようにうなずき、「じゃーまた部活でな!」と玄関ではなく勝手口から姿を消した。
彼は一端自宅に戻り、着替えてから登校しなければならない。
…今、どこに住んでるんだろう。今の彼の家は、ここから駅3つ離れた、例の文化センターのある少し大きな隣り町らしい。
お母さんと二人、どんな暮らししてるんだろう。それとも、お母さんは誰かと再婚してるんだろうか。
そんな事も、聖の口からは聞かない。
背後のダイニングでは、家族の会話が漏れ聞こえる。
「ちいちゃん、格好良くなったわー、ダイちゃんとはあんまり似てないのね」
「でも聖ちゃんとはよく似てるよ。…しばらく見ないうちに一人前になったなぁ、あんな立派になってるとは」
彼の消えた戸口にたたずみながら、まさきは一人複雑な思いに駆られていた。
父も祖父も、子供の頃からちいちゃんの才能を認めていた。…実の子である自分よりも。
彼が隣りの家を去ると知った時にも、彼が剣道から離れることを二人はとても惜しんでいた。…そして祖父は今日、おそらく再認識したのかもしれない。父はまもなく、再認識するのかも知れない───…、「やはり娘のまさきではダメだ」と。
 
シナリオが上がり、撮影が始まった。
部室にある古い撮影器具の他に、デジタル式の最新機材を部内の誰かが持ち込んで。
周辺機材を含めると定価50万は下らないそれを、手に入れられるラッキーな子供も学内には居るのだ、とまさきはヘンなところで感心した。…実は、それは例の2年の「由美先輩」のものだったのだけれど。この時、まだ誰もそんな事は知らなかった。
『映画を撮る』と言っても、本格的なものではない。上映時間にして約30分ほどの小作品。
撮影出来る場所・撮影編集技術・キャストの人数の少なさを考慮してシナリオを練ると、必然的に学園青春ドラマに落ち着くしかない。…もちろん、それを学園ホラーにする事も、メッセージ色の強い、問題提起型なシリアスなテイストに仕上げる事も、前衛的なアート作品にしてしまう事も可能だけれど。
結局今年のテーマ『ヒット作品を作るぞ!』に基づき、受けのよさそうな恋愛もの。
無難なシーンからそれは徐々に撮られていった。まさきもしぶしぶ、慣れない演技をこなす。
元来、生真面目な性格の彼女は、掛かり始めたら素人なりに真剣に取り組んだ。
何事にも手を抜けない性格なのだから、仕方が無い。
どこから用意されたのか、どこかの高校の制服。…誰かの兄弟のもの?学ランではなく紺色したブレザーだったけれど、男物のそれをだらしなく着崩したまさきは、校庭での撮影中、やはり学校中の女の子から騒がれた。
 
明日から、夏休み。─────夏休みと言っても、どうせ毎日登校して撮影を続けるのだ、実感はあまり沸かない。今日は朝から半日かけて、校内中の大掃除をする。
まさきのクラスは、図書室と隣りの視聴覚室。…図書室では大量の紙のゴミが出て、昼休み前、ようやく掃除時間が終わる頃、まさきはナイロン紐で十字に束ねたそれを両手に一つずつ下げ、体育館裏にある焼却炉に向かった。
「!」
ふいに、片方の荷物が軽くなる。
3階から階段を降りかけたところだった。振り向くと、同じクラス、そして同じ部活の高原が居た。
「…いいよ、一人で運ぶ」
まさきは無愛想に荷物を取り返す。
横に並んだ高原は、じゃあ、校舎の下まで来たら代わってやるよ、と、あっさり手を離した。
えんじ色したカーゴパンツのポケットに両手を突っ込み、歩き出す。
まさきは、彼が嫌いではなかった。必要以上に自分を女の子扱いもしないし、逆に「何だその男みたいなしゃべり」などとからかいもしない。
「あーあ、今日も暑いねー、レフ板持ってたら目に汗が入ってさ、拭けないし」
そう、彼は撮影現場の裏方で。
一年だから仕方ないけれど、やはりまさきにすれば申し訳ないな、と思えてしまう。
「高原と変わりたい。レフ板掲げてていいんなら、オレ一日中だってやるから、もう出演はカンベンして、って思う」
高原を遠回しにねぎらう。彼は白い歯を見せて笑った。
校舎の下まで来て、再度「代わろっか?」と彼は尋ねた。
まさきが「いい、運べる」と言うと、もうそれ以上は何も言わない。
…代わりに、焼却炉の中に放り込んでやる、と言って手ブラのまま付いて来た。
まさきはやっぱり、彼のこういうさり気なさに心の中で感謝した。
「オレとお前、丁度身長同じくらいか」
「高原何センチ?」
「72cm」
「ちっちぇー!」
まさきが声を立てて笑う。
「バッカ、1メートル抜かして言っただけじゃん!…お前は?」
「71m。」
「ななじゅういちメートルゥ?!でっけー!」
今度は高原がそう言い、更に大声で笑った。
「………シッ!」そして、自ら高笑いしておきながら、いきなりまさきを制する。
「?」体育館の脇。
口元に人差し指を立てられ、知らず息をひそめながら、まさきは視線で「何?」と訴えた。
「…部長とベラだ」
「!」
………ベラとは、「由美先輩」の事らしかった。
1年の、彼女を嫌う男子部員達の間でそう呼ばれている。
やや大きめの魅力的な唇は元々赤みを帯びていて。けれど彼女はけっこうおしゃべり。
…そんなところから高原がそう呼び出したのだった。
振り向いた高原が背中をかがめ、フェンスと体育館の壁の間、まさきを手招きする。
…どちらにせよ、焼却炉はこの建物の向こう側で。表から回っても裏のこの狭い猫の抜け道から行っても同じだった。まさきは高原に続き、忍び足でそっと進んだ。
 
ちいちゃんと由美先輩は、口論しているようだった。誰も来ないような、こんな場所で二人きり。
「…だったら、あたしのデジカム返して!」
「…そんなん今さらだろォー?!反則だって、それ」
「───…だからって、あたしは…っ、…ぅ、」
いきなり、勢いを失くした由美先輩は、今度は口元にに右拳を当て、俯いてしまった。
そのまま、無言になる。慌ててなだめすかす様子のちいちゃん。
「待て待て待て、泣くなって…、な?頼むから………」
「…じゃあ、キスしてくれる………?」
「?!」
───…上目遣いの彼女のセリフに、驚いたのは、ちいちゃんよりも、隠れて見ている2人だった。
当のちいちゃんは、先ほどとあまり変わらない困り顔で、うつむいたままの美人を見下ろしている。
由美先輩はくぐもった涙声で更に続けた。
「………だって…、あたし、ファーストキスだもん、…なのに何でそれがよりによって後輩の女の子相手なのよ…、そんなの絶対イヤ。ファーストキスは好きな人とでないと、ヤだ…ッ」
「!」─────いきなりの告白。
今度は、わずかにちいちゃんの目が見開かれる。
息を呑んだまま、まさきと高原は事態を見守った。
「─────…、」
ちいちゃんが、由美先輩の両肩に手を置く。
「……………ッ、」知らずまさきの肩にも力が入った。
 
「─────…これでいい…?」
ささやきの後、そっと唇が触れる。…彼女の唇に。
まさきは目を伏せる事が出来なかった。
夢か幻のように、ナチュラルなスローモーション。
ちいちゃんの唇と彼女の唇は、確かに重なっていた。
「……………。」
音の無い、真昼。風もなく、鳥の鳴き声が微かに聞こえるだけ。
自分の心臓は、耳の辺りにまで飛び出しそうなくらい、ドクドク脈打っている。
目の前の、まるで映画のワンシーン。…それはちいちゃんじゃないどこかの俳優のよう。
…すごく、優しいキス。
それは深くなりもせず、でもいたわるようにしばらく続いた。
 
夏休み。
今年も父の道場に通う子供達を、飯ごう炊さんに連れて行く。年に一度の恒例行事だった。
「え?!ちいちゃんも行くの?!」
まさきは朝の公園で驚きの声を上げていた。
「………んな、露骨に迷惑そうなカオ、やめてくんない?」
「……………。いいよ、お父さんが決めたんなら、別に」
前触れもなく走り始めたまさきを、慌てて白いTシャツ姿が追うようにベンチから立ち上がる。
「お前ッ、ここんとこ何かオレに冷たくない?…オレの勘違いか?」
「─────………。」
勘違いな訳ない。図星だった。
まさきはあれ以来、ちいちゃんを避けていた。…もっと正確に言えば、怒っていた。
…自分も、あんな風に───…「由美先輩」みたいにねだれば、この目の前の男はキスしてくれるんだろうか。…きっと、そうなんだろうな。
そう考えると、無性に怒りが込み上げてきて、抑えられないほどだった。
昔から、ちいちゃんはその人懐っこい笑顔や親しみやすい雰囲気とは裏腹に、実はとてもワンマンな性格だという事をまさきは知っている。
何でも自分で勝手に決めて、周囲には事後承諾。…目的を達成するためなら、多少の手段は選ばないところがある。…この春っぽい親切な雰囲気に包まれて、普段は隠されているけれど。
…言い換えれば、リーダーシップを発揮する性格。…言い換えれば、ズルイ。
だからこそ意地でも───…まさきはあんな、由美先輩のようなやり口を使えない。
ちいちゃんの性格を知っているから。余計に自分が傷つくと知っているから。
 
………後ろを無視して走りながら、ふいに疑問がよぎった。
…ちいちゃんに、好きな人は居ないのだろうか。…ひょっとして、ちいちゃんも由美先輩を好きなのだとしたら…?
だったらちいちゃんは「手段を選ばない卑怯者」じゃないって事になる。
…ちいちゃん、好きなのかな…由美先輩のこと。
─────けれど、それもまさきを苦しめる。
ちいちゃん、この前のがファーストキスだったんだろうか。
…それとも、違うのかな。
…そんな考えに至り、心臓がギクリと止まる。
会わなかった3年間に、彼女はいた?
あれくらいのこと、もうどって事ない…?ちいちゃんにとっては。
 
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