「あれっ、アキ兄っ?!」 「おー?…お前…ハル?!」 「うっそ偶然っ!こんなとこで…!」 あたし達は東京駅の八重洲中央口を出る直前、待ち合わせ場所で有名な“銀の鈴”のすぐそばで同じように目を見開いていた。 夏真っ盛り。とんでもなく暑い熱帯夜。 「…出張帰り。…疲れたー、」 「あたしも日帰りでいきなり上司の代わりに名古屋まで行かなきゃならなくて…会社終わってから新幹線飛び乗って、何とか最終の便で帰って来た」 「あれ、じゃあ同じ便に乗ってたのかな。…とにかくオレもうフラフラ、あービール飲みてー」 「あたしもー!生中…じゃ足りないよっ、生大!」 アキ兄はあたしのセリフに、背中を仰け反らせて豪快な笑い声を立てた。 のけぞり過ぎて、肩から掛けていた大きな出張用バッグが彼の背をもっと引っ張り、よろめいたほど。 「おーしっ、じゃあ一杯だけ飲んで帰ろ!」 アキ兄の提案に、あたしの心は大きくときめく。 嬉しいっ、絶対このままここで「バイバイ」なんて言いたくなかった。あまりにも名残惜しかった。 ─────あたしの中にほんの少しだけ、…1%くらいの期待はあったかも知れない。 終電間近のこの時刻。 もしかして一杯だけのはずが会話が弾み、山手線も逃しちゃって、アキ兄のおうちに泊めてもらえちゃったりして…! けれどそんな期待を意識しそうになった瞬間、あたしは慌ててその思考を消した。 ミスプリントの用紙みたいにクシャクシャに丸めて心の中のゴミ箱にポイと捨ててしまう。 ダメだよっ、今日久しぶりにアキ兄とバッタリ会えただけでもラッキーじゃない、何考えてんのっ。 ………けれどあたしのほのかな期待は、現実のものとなった。 明日は日曜日。 アキ兄はてっきりそこいらへんのチェーン店居酒屋にでも入るかと思ったのに、「せっかくだから」と、ちょっとオシャレなバーに連れてってくれた。 ゆったりとした、赤いベロア貼りのソファー。 カウンターを突っ切って奥の席まで行き、向かい合って4人席に腰を落ち着ける。 疲れた身体をそこにもたせかけたら、このままもう起き上がれなくなってしまいそうなほど心地よかった。 駆けつけ一杯目のビールを2人して景気よく空け、間髪入れず彼はワインをオーダーした。 「意外、アキ兄がワインなんて。…何かイメージじゃないよ」 彼は白い歯を見せて声を立てず微笑う。 そしてそのまんま、何となく店内を眺めている。 遠い目。横顔。伸びをするみたいに両腕を頭の後ろで組んで。 夏物の紺スーツから覗いている、手首の時計。緩められたネクタイ。髪はサラリーマンっぽくなくて、明るい茶髪。しかもややロン毛。すごく今っぽいヘアスタイル。 だけど可愛い感じじゃなくって、彼はかなり男っぽい。Jリーガーみたいなイメージ。 ───…やっぱ格好いいな………。 あたしは吸い込まれんばかりに、彼を見つめた。 あたしの初恋の人。 あたしのお兄ちゃんの同級生で親友。 結局、あたし達は2時間近く飲んでしまった。気がつけば2時間経ってた、と言ったほうが近いかも。 昔話に花が咲いて、お互いが息せき切ったように相手の言葉の端を取る。 地元から出てきて、東京で働いているあたし達。だけど顔を合わせるのはきっと、お正月に地元で会って以来、半年ぶりくらいだったから。 しかもお正月にはちゃんと話するヒマなんてなくって挨拶程度。…こんな風に向かい合って2人で話すのって、もしかしたら3年ぶりくらいかも知れない。 アキ兄が言う。 「お前ももう25かよー。どうよ、彼氏とかケッコンとか。」 あたしは内心ギクリとしながら、ごまかすようにエヘヘと笑った。 「考えらんないよ、仕事超忙しいし。そんなヒマないもん。だけど…、」 「だけど…?」 彼のグラスを持つ手が止まる。 やだなっ、そんなまっすぐこっちを覗き込むみたいに見ないでっ、緊張しちゃうじゃんっ。 「いやぁ、これ言うと愚痴になるから」 あたしはごまかすようにアハハと声を立てて、また笑う。 「いいよ、愚痴れば?オレにまで気を遣う事ないじゃん」 「───…セ、セクハラがさ、ちょっと今悩みの種かなーなんて…ハハハハ」 「へっ?!」 「いや、あたしの考えすぎっていうか、あたしがただ単にマジメすぎるだけかも知れないけどっ…。上司とか会社の人達がねー、すぐそーいう事言ってくるっつうか、勘ぐってくるっつうか…。それがかなーりストレスでねー」 彼はあたしの遠回しな言葉の意味がよく把握出来ず、きょとんとまばたきをしている。 「だからぁ、『まだ彼氏出来ないのか』とか、『そんなんじゃ嫁にいけないぞ』とか、『お前まさか60までここの会社に残るつもりじゃないだろうな、そんな厚かましい事考えるなよ』とか」 「───…何それ、ひでぇな。人の事だろ関係ねーじゃん」 「でしょー?!アハハ、これでもモテないの気にしてるのにさ、あたしだって彼氏居ればとっくにケッコンしてるって!…きっと上司連中は軽いノリで何にも考えずに言ってくるんだよねー。あっ、解ってるんだよ、からかわれてるだけだって。だけどやっぱいちいちグサッとくるワケよー」 「……………………っ、…ハル………、」 にわかにアキ兄の表情が慌てる。 「───…えっ………、あッ…!」 あたしは全然悲しくなんてないはずだったのに、前ぶれもなく涙を一粒零していた。 「わっ、何これっ、…まさか酔ってる?!あたし…っ、」 彼以上にあたしのほうがうろたえてしまう。 ビックリした…っ、何泣いてんのっ?!あたしってばっ。 …てかっ、わー恥ずかしい…っ!よりによってアキ兄の目の前で…っ! 慌ててバッグからハンカチを探してたら、あたしよりも先にアキ兄の大きな手がハンカチを差し出してくれる。 …クシャクシャのハンカチ。 その差し出し方や皺クチャのハンカチを目にした途端、ホッとして余計に泣けてきてしまった。 「…ごめんね…、」 両目を手で覆い、うつむいてしまうあたし。 「どしたの、ビックリするじゃん」 必死で肩に力を入れて、泣くまいと頑張った。 …けれどあたしの涙腺のスイッチは勝手にオンになったままなかなか止んでくれなくって、途中からはもう、声を殺すのだけが精一杯になってしまった。 「………っ!」 ふいに肩を抱かれてビクリと驚き顔を上げたら、心配そうな顔はあたしのすぐ横にあった。 彼が席を移動して、あたしの隣りに座ってくれていた。 何も言わずにただ肩や上腕の辺りをそっとさすってくれる。 「アキ兄…、」 余りにもその手が安心出来る手で、けれど同時に胸が痛いほど高鳴ってしまって─────…、あたしは余計に切なさをこらえなければならなくなってしまった。 判ってるんだ、彼が今どれほどの優しさと気遣いをあたしにくれてるのか。 アキ兄と会った15の時から、あたしのお兄ちゃんは2人になった。 夏彦兄ちゃんと、アキ兄。 あたしより1学年上の、16歳。 出会った時あたしは中学3年生で、アキ兄は高1だった。 あたしはアキ兄と会ったあの日の事を、今でもハッキリと覚えてる。 …あたしの受験が終わって春休みに入ってすぐだったと思う。まだ少し寒かった。 お兄ちゃんが友達を家に連れてきた。それが彼。 『晃(アキラ)』って名前だったから、夏彦兄ちゃんは彼を『アキ』と呼んでいた。 一目惚れってあんな感じ、というのをあたしはあの日初めて知った。 …初恋。 2階にあるお兄ちゃんの部屋に、飲み物を持っていって。2人はあぐらと立て膝で床に腰をおろし、あたしがペコリと頭を下げながら上目遣いにチラリと彼を伺い見ると、彼は「ナツの妹?可愛いじゃん」と言ってスマイルを作った。 もちろんその時の「可愛いじゃん」はお世辞だったんだと思うけれど、あたしは男の人からそんな事を言われた事が過去に一度もなかったので、これ以上ないほどに真っ赤になってしまった。 どちらかと言えば快活で、男の子とでもあまり意識せずにトモダチしちゃえるあたしだったのに、その時に限って肩をすくめうつむいたままなかなか赤い顔を上げられなくなってしまったのを見て、本物の兄貴のほうはあたしを指差し大笑いした。 「アキ!ダメだって、こいつ本気にするじゃん!…どーするよ?!この先ハルに可愛いなんて言う男が登場しなかったら!ヤバいって!」 あたしはゲラゲラ笑い続ける兄にも、その後彼から投げ掛けられるであろう酷いからかいにも耐えられなくて、逃げ出すようにその場から走り去った。 バタン!と大きな音をさせて扉を閉めると、廊下に立つあたしの耳に部屋から彼の声が届いた。 「…別に…悪くないじゃん、ホントにそう思っただけだけどなぁ。そんなにヘンな事言ったかなぁ。」 彼の独り言めいたつぶやきに、兄は余計に呆れていた様子だった。 当時からアキ兄はすごく格好よかった。…少なくともあたしには世界で一番に見えていた。 髪は当時からやっぱり少し長めだった。けれど茶髪にはしてなかった。今よりも当然ながら少年っぽかったけれど、年齢の割には大人びていた。あんまりオシャレとかには興味がない人で、兄と同じ山岳登山部に所属していた。 兄はいかにも運動部っぽくすごく短い髪をしていて、同じくファッションとかオシャレとかそういう事には必要以上に興味はなく、カラリとした性格で男友達はやたら多くて、2年になるとクラブの部長に抜擢されていた。彼ら2人は男子校で、あたしは別の高校に入学が決まっていたけれど、その後も兄がよく彼を家に呼んで遊んでいたのでそのたびにあたしはお茶を運び、やがて気がつけば男同士みたいなノリで3人、ゲームしたりバカ話で盛り上がったりするようになっていた。 アキ兄はサラリと、優しい言葉とか女の子をときめかすような言葉を言う時がある。 「あ、ハル。ちょっとじっとして。」 ふいにそんな事を言われ、ドキリと固まるあたし。 「───…何か付いてる、」 彼が顔を近づけて、あたしの頬に指先を伸ばした。 彼にしてみれば自然な行動。別にあたしの気を引こうとか、そんなんじゃない。 けれど彼に夢中だったあたしはそれだけで心臓が口から飛び出てしまいそうになってた。 「あ!ハル、何お前赤くなってんの」 ホンモノのお兄ちゃんのほうが決まってそんなあたしをからかう。あたしは兄貴のチクチクする硬くて短い髪やら肩を、何度も思い切りはたく。 アキ兄はあたし達兄妹のやりとりなど聞こえていないように自分の指先にあるゴミを目に近づけてじっと見つめ、「…女の子のまつ毛って…長いなー」と感心したようにつぶやいた。 余計にあたしは頬を染めなければならなかった。ナツ兄はもっとゲラゲラ笑った。 「絶対タラシだよねー、アキ兄っ。…いっつもそうやって女の子ナンパとかしてるんだ、ふーん」 これはその時のあたしに出来る精一杯の虚勢だった。 実際、そう口に出しながらあたしは心の中では「どうか否定して」と祈り続けていた。 アキ兄の彼女の話とか、聞かされたらどうしよう…っ。嫌だよ、絶対嫌。…だけど …っ、ホントのとこどうなんだろ…、彼女…居るのかな…。だって超モテそうだし。 実際、街歩いてて逆ナンされまくってたって全然おかしくないよ…っ。 けれどアキ兄は指の先にあるまつ毛からあたし本人に視線を戻すと、いつもの様子でサラリと言った。 「………モテねぇよ。…てかじゃまくさい、女なんて。ホラうち女ばっかりじゃん、ばあちゃんとお袋と妹2人。…どいつもこいつもワガママばっかだし、めんどうな事は何でもすぐオレに頼んでくるし、それだけでもう大変。彼女どころじゃないでしょ」 あたしは慌てて身を乗り出す。 「じゃ、じゃあっ…、彼女とか、居ないのっ…?」 ナツ兄がまた余計なちゃちゃを入れてくる。 「あーお前ーっ、もしかしてアキに惚れてんの?!」 「バッ…!そんなはずないじゃんっ!あたしだってヤだよっ、アキ兄なんてっ…!」 ああっ、…バカだっ、ついこんな心にも無い憎まれ口叩いちゃうなんてっ。 隣りの兄貴はそれを聞いて横からあたしに更なる憎まれ口を返す。 「オレだってお前みたいのが妹だなんてヤだよ。…アキんとこの妹なんてなー、2人とも超―――っ可愛いぞ?!驚くぞ?!あーあ、オレもどうせならあんな妹がよかったよ、こんな男みたいな妹じゃなくってさ」 このセリフは後から考えれば、兄貴なりの、アキ兄へのフォローだったのだと思う。 あたしが放った「あたしだってヤだよっ、アキ兄なんてっ…!」って言葉への。 …で、肝心のアキ兄はと言うと。 あたしの心を知ってか知らずか、彼は事もあろうかこんな衝撃的な言葉を残したのだ。 「…オレはうちの妹よりハルのがずっといい、一緒に居て楽だし楽しいし。ナツ、何ならお前うちの子になる?おれここんちの子になるからさ。そしたらハルがオレの妹になるじゃん。」 あたしの心は一気にどよめきさざめいた。 目が回る…! アキ兄が…っ。大好きなアキ兄が、自分の妹よりもあたしの事妹にしたいなんて…っ! あたしにはその言葉だけでもう十分だった。 だって、知り合ってすぐに彼の事を『アキ兄』って呼び出した日から。…あたし多分、彼の彼女にはなれないってどこかで諦めてたんだ。…だからズルいけど、彼をあたしの第二のお兄ちゃんって位置に置いた。 彼の事を『アキ兄』って甘えるように呼ぶ事で、自分をとても安心させてた。 だって───…だって、妹って、彼女と違って、一生傍に居られる立場だもん…。 もしも彼に彼女が出来たとしても、あたし妹としてだったらずっと彼の傍でこんな風に笑い合える。バカな話して、時々一緒に遊んで、気の置けない関係。 ………もしかしたら彼女よりも近い関係。 そんな関係を勝手に頭の中で作り上げる事で、自分を安心させたかったの。 「好きです」ってとても告白する勇気が出ないから、ズルいかも知れないけど、妹の位置をキープしたかった。 ホンモノの兄貴のほうのナツ兄は、おそらくこんなあたしの気持ちを知っていたと思う。 だからニヤニヤ笑いを見せながら、言わなくてもいいのに余計な言葉を投げ掛ける。 「…じゃあやるよ、こんな妹。けどこいつきっとずーっと彼氏も出来なくって、いつまで経ってもお前に付きまとうかもよ?知らないよー?そうなっても。」 「………いいよ?別にハルだったら。」 きゃーん、何て嬉しい言葉をサラッとくれるの…っ?! けれど本当の衝撃はこの後待っていた。 短い髪のナツ兄が声を潜め、あたしにイジワルするように彼に問う。 「でもさ、ハルの奴きっとマジでお前から離れねーよ、いつかお前が誰かと結婚したらさ、ヤな小姑になると思うよー?お前の嫁さんにこっそりイジワルしたりさ、ひょっとしてイジメ倒して追い出すかも知んないよ?お前の気付かないとこで」 「そっ…そんな事するわけないじゃんっ!もぉっ!何でそんな事言うのよっ、お兄ちゃんッ…、」 もうっ…、やめてやめて! あたしのイメージ悪くしないでよ…っ。 あたふたしまくるあたし。バカ笑いしてお腹抱えてるホンモノの兄貴。…そしてその横で一人、なぜかそれほど慌てもせず平然とお茶をすする、ややロン毛のアキ兄。 ─────直後。 爆弾発言とはまさにこの事っ。 アキ兄のつぶやき。 「───…あ、なぁハル。だったらさ、もしも10年後オレもお前も彼女とか彼氏とか出来なくて一人だったら、オレ達結婚しよっか。」 「?!」 「…したら嫁と小姑の争いなんてないしさ、一石二鳥」 「……………っ………、」 あの後、あたしは何て返事したっけ。 きっと「あわわわわ、」とか「でっでっでも…っ、だってっ!」とか、日本語にならない音を発し続けてたと思う。 アキ兄までもが、そんなあたしを見て声をたてながら笑った。 その笑いを見ながらあたしはようやく、2人の男にからかわれていたのだと気付いたのだ。 ─────アキ兄はあの時、あたしの気持ちを知ってたんだろうか。 これはあの日から10年、あたしの脳裏にくすぶり続けてきた疑問。 「───…アキ兄、」 「………ん………?」 「彼女居る………?」 ビールとワインでぐるぐる回っているあたしの脳は、涙が止まるとくぐもった声でそんな問いを口にしていた。 …考えるよりも先に、口走っていたと言ったほうが正解かも。 「居ねェよ」 「───…ふーん………。…作らないの…?」 「…うん。」 「───…女は面倒くさいから?」 あたしはクスっと小さく微笑う。 「その通り」 彼も小さく笑い返した。 「…もっとグチってもいい…?アキ兄」 「おー、グチれグチれ。オレも後で倍グチるから。」 あたしはまだ目に涙を溜めたまま、彼のさり気ない優しさに心から感謝した。 「…今さ、あたしある人から付き合ってって言われてるんだよね…」 隣りに居る彼がこちらを見る空気が変わるのが判る。あたしの頬に視線が当たっている。 「それって取引先の課長さんなんだよね。ちょっと年離れてるんだ、31歳の人。…だけどあたしその人苦手で…、何度も遠回しに断ってるんだけど、けっこうしつこくてさ、」 「………うん」 「でね、この前その人から食事誘われて…最初は仕事の打ち合わせって事で、あたしのほうの上司も一緒に合流するはずだったんだけど、行ってみたら上司は来なくって。あたし結果的にお酒まで勧められて、…その…何て言うのか…誘われて断ったら怒らせちゃったんだぁ、相手を」 「─────………。」 「そしたら次の日、あたしうちの上司に呼び出されて。先方の会社から、決まりかけてた企画をやっぱり断るっていう返事が来たって…。」 「……………、何それ?ひでぇな…、」 「何か、うちの上司もあたしとその人をくっつけたがってるみたいなんだよね…、まぁ上司の成績と直結してるからそう考えても当然かも知れないけど…。だから、何とかもう一度その課長と会って企画の検討をお願いして来いって言われちゃって…、」 「───…それって………、」 言い渋るアキ兄。 「…やっぱそういう事だと思わない?」 今回の仕事を取るために、課長と付き合え、と。上司は遠回しにあたしに催促してくる。 あたしは知らずため息をついてしまってた。 こんな事、お酒が入ってなければ例えアキ兄にでも口走ってなどいない内容だった。 もちろん職場の人や、女友達にも話してない。 だけど上司は週明けもう一度取引先の課長と会って話を聞いてもらって来なさいと言う。 針のムシロ。 「………正直、どうしていいのかもう分かんないよ…。一生懸命仕事してきたけど…、あたし働くの好きだし、頑張るのも好きだけど…、こ、こういうのって…っ、やっぱ仕事のうちだと思ってこなさなきゃならない事なのかな?!」 「んなワケないだろ、あってたまるか。…辞めちまえよ、そんな会社」 「でも…っ、辞めたら次の仕事見つかんないかもしんないし…、」 「─────…実家帰ればいいじゃん」 「ヤだよっ、何かそんなの負けたみたいだもん…っ、今も、ホントはすぐにでも辞めたい気持ちで一杯だけど…っ、今こんな理由で辞めるなんて…っ。あたしあの取引先の課長とか、平気で汚いやり方使ってこようとする上司に負けたみたいじゃん…っ。」 「だけどさ、」 「───…じゃあ、アキ兄ならこの場合どうする?あたしの立場ならどうしてる…?! 会社辞める…?!」 彼のほうを見上げれば、彼の顔色が変わった。 そしてしばらく沈黙する。あたしの目を見たまま。 あたしも彼の言葉を待った。 「─────…辞めるのは悔しいな………、仕事にやりがい感じてたら、尚更」 店を出る。 「あづいーっ」 ムッとくる熱気と湿度。それが一気にあたしめがけて纏わりつくような不快感。 「あづいか」 暗い通りに出て待っていると、会計を済ませた彼が追いついてきて微笑う。 「あぢいよーっ」 前髪以外、全部かきあつめて後ろでしばってるヘアスタイルのあたし。髪は肩につくかつかないかくらいの長さだからやまほどのヘアピンであちこち留めてないとパラパラ落ちてくる。耳辺りのピンを1本留め直す。 「うん、マジあぢいな、今夜は」 何となく彼が歩き始めたので、あたしもその後を付いて歩いた。 4cmヒールの脚がよろめいてしまう。咄嗟に彼の腕があたしの脇を支えてくれる。 「お前、うちどこ?」 あたしが場所を告げると、「遠いなー!」と彼が唸るように呆れ顔を見せた。 「…終電ないしタク代出してやろうと思ってたけど、…ヘタしたら万超えるじゃん」 「…あぁ、いいよ大丈夫だよ…、自分で払える…、そんな普段お金使わないもん」 あたしは男の人からごちそうしてもらったりするのがとても苦手だし慣れてなかった。 だからさっきのお店の代金を払ってもらっただけでも申し訳ないのに、その上タクシー代までなんて、とんでもない事だった。 少し考えるように間を置いて、アキ兄はこう提案した。 「…明日日曜だよな…。じゃあさ、これからオレん家で飲みなおさない?」 「えっ…!」 あたしの頬は一気にカアッと熱くなる。───…そんなの、まるであたしが今夜最初に期待した夢みたいな展開じゃない…っ。 うまく断る方法がわかんなくって、あたしは笑い声を立てながらバシバシと彼の背中を叩いた。 「またまたまたーっ!何それぇ、アキ兄いつからナンパ師になったのぉ?!」 「そんなんじゃないって!…お前は妹じゃんっ、ハルにそんなハンパしたら、オレ、ナツに殴られるし!」 今もまだあたしの腰に彼が手を回してるから、あたしも腕を回した事であたし達はまるで男同士、酔っ払って歩いているオジサン連中みたいだった。…2人でヘラヘラ笑いあい、フラフラ千鳥足で大通りへと向かう。…ホントはビール一杯とワイン一杯ずつ、お互いに大して酔ってるわけもなかったけれど。 コンビニでお酒や歯ブラシ、安いコスメなどちょっとしたものを買う。それからタクシーに乗っておそらく20分。けっこう便利な場所でタクシーは停まった。 アキ兄の住み家は、綺麗でもなく汚くもない小さなハイツで、唯一の難点はエレベーターがない事だったけれど、そのお陰で3階の彼の部屋まで、彼はあたしに気遣って肩を貸してくれた。 あたしは酔っているという事を多いに利用して、今夜だけのラッキーにあやかる事にした。ホント言うと少しは酔っていたかも知れないな…、お酒じゃなくアキ兄の男っぽい格好よさや魅力に。何だか思考はフワフワしっぱなしで、自分が何を口走っているのか判んない状況だったし、まだ心臓はバクバク言い続けていた。 「…ようこそ我が家へ。」 「───…えーん何これ、汚い部屋ぁ」 ヒールを脱ぎながらちょっぴりホッとしているあたしが居る。 綺麗に片付いてなくてよかった…。彼女の影が見えなくてよかった…。 短い廊下から左側はおそらくトイレとバスルーム。セパレートになってて洗濯機も置けるスペースがある。右へ折れると、キッチン、ダイニング、少し広めの部屋。 「…あれ?こっちの部屋は?」 廊下を挟んでもう一つ部屋がある。 「あー、そこちょっと前まで同居人が使ってた。会社の後輩。…でもそいつ酒グセ悪いし女連れ込むしさ、挙句の果てに会社やめちゃってさ。この前出てった。だから空いてる」 「ふーん…。…んで、こっちがアキ兄の部屋なんだ?」 「おー。ごめんな片付いてなくて。」 「いいよー」 …でもホント。マジに雑然と散らかってて、洗濯し終えて取り込んだままの靴下は放り出されてるし、まさしく男の部屋って感じ。 彼が先に入って、寝室のエアコンをオンにした。 「うわー、嬉しいっ、エアコンだぁ」 「何言ってんのお前」 「だって、うちのエアコン1週間前に壊れたんだよー?賃貸だから大家さんに言って取り替えてもらう事になってるのに、なかなかなんだもん…っ、今日なんて絶対、うち帰ったら蒸し風呂状態だったと思うよー、だからホント助かったぁ」 彼は笑いながら冷蔵庫のドアを開け、缶を2本取り出してダイニングテーブルに置いた。 「それはラッキーだったじゃん、さっき八重洲口でオレと会って。まぁゆっくりエアコンを満喫してって。」 こうしてあたし達の二次会は始まる。 今度は飲みながら彼の仕事やプライベートをこわごわつついたら、アキ兄は苦笑しながら「けっこうお前の状況と似てるかもよ?」と告げた。 「どういう事…?」 あたしはさっき山ほどグチってしまった借りを返すべく、身を乗り出して聞く体制に入る。 さっきのお店で、成り行きとは言えあたしがずっと胸の奥に溜めてたつらさを吐き出させてもらった分、今度は彼にも楽になって欲しかった。もしもストレスがあるのなら、今夜あたしと会った事によって彼が「少し楽になったな」って思ってくれれば最高だから。 ところでアキ兄は大学卒業後、着物を販売する会社に就職した。…昔ながらの呉服屋、と言ったイメージではなく、全国的に店舗展開して大掛かりにイベントを開催、大量に売りまくる企業だ。 「───…仕事はまぁ、やりがい感じてるよ。…そりゃ中には妙にオレに色目使ってくるセクハラおばさんみたいなお客も居るけどさ、値打ちのある品を値打ちの判る人が買い上げて下さる瞬間ってのは小さな感動があるっていうのか…。」 「ふぅん…。」 彼は営業マン。それでも数ある店舗の中で相当の営業成績を上げてるらしいのは、兄貴から聞いて知っていた。 「日本の歴史や伝統に携わる人達の熱意とかこだわりとか…すごい技術を見せ付けられて、この仕事通して日本人である事に誇りを感じられるし、これが後世にまで受け継がれて行くには、その伝統にお金を出す人達の存在も欠かせないわけだから…。そんなお客様と職人技術の伝承の橋渡しをするのがオレのような呉服屋の営業の仕事だと思ってる。…ただ物を売るだけなら他の商品を扱ったっていいわけだし、それだったらここまで熱意持ってやれてないかも知れない。」 まっすぐな視線でそう語る彼の顔は、本当にステキすぎるよ…。あたしでなくたって、 どんな女の子だってきっと好きになってしまうと思う。 けれどふいに、そんな彼の表情に翳りが差す。 「───…だけどさ。時々はバカらしくなる瞬間とかもある訳さ。…オレは何してるんだ?!ってさ」 「え…?どうして…?」 苦笑いしながらビールの缶をぼんやり見つめているアキ兄。 「…会社側はさ、オレにやたらいいスーツを着ろ、ヘアスタイルに気を配れ、って言ってくるわけ。」 「……………?」 「判んない?」 あたしのキョトンとした顔に気付いて、彼が説明を付け足す。 「結局、オレが売るなら買うって言う盲目的なお客をたくさん作れ、ってワケだよ。お客というよりオレのファンみたいな?…まぁその方法の全てを否定するわけじゃないけどさ…。着物の価値なんてわからなくっていいんだ、要するにオレが『これいいですよ、お似合いです』って言えばどれでも買うようなお客がたくさん欲しいんだよ、企業としては」 「あ、ああ…うん、…そっかそっか…」 「ホストが二十歳そこそこの学生にあの手この手でドンペリボトルキープさせるようなもんだ」 「す、すごい例えだね…っ、」 あたしの笑顔はひきつる。何て返事していいのかわかんなかった。 「───…半年に一度、海外ツアーがあるんだよな。…お客様とうちのスタッフとで行く、ツアー」 「何なの、それ」 「お得意様を集めてさ、感謝を込めたパッケージツアー。オレは添乗員さん。…例えばオーストラリアとかベルギーとか、海外旅行に行くんだよ。そこではオレ達は大量の高価な宝石を売る。現地の店へ連れてってさ」 「へっ…?!」 「───…これも商売だ、お客様がよろこぶなら、と思って割り切って、出来るだけ楽しい旅になればいいか、なんて自分をごまかしてるけど…。やっぱ何か違うなぁって思うよ。そこまで気にする必要ないのかも知れないけどさ…。オレが世間知らずの若造で、考えが甘いだけなのかも知れない…。…でさ、ついこの前もそのツアーがあったんだけど」 「…うん、」 「…東京支社の支社長の娘が付いてきててさ」 「─────………、」 「───…向こうのホテルに着いてみたら、オレと同室だった」 「ウソ!」 彼は手で目元を覆うと疲れたように笑う。 「………苦手な女の子なんだよなー、またその支社長の娘が。…もうホント、やられた!って感じだったよ」 「そっ、それでどうしたの?!」 「え、…もちろん部屋変えてもらって、その場で日本に電話して支社長に抗議した」 「そしたらッ?!」 あたしは興奮せずにはいられない。 「───…娘との結婚を考えてもらえないか?って。娘は本気らしいから、って」 「……………。」 もう言葉が出てこないよ…っ。 あたしは多分、呼吸も忘れてた。 何それっ?!何なのよっそれ…! 彼はイスにもたれ、疲れたように両腕で前髪を後ろへかき上げるとため息をつく。 「───…今回の京都本社出張もさ…、また来てたんだよ…、支社長の娘…またもやオレのホテルの部屋、彼女と同室で予約されててさ」 「こ、今回はどうしたのっ?!」 「…今回も部屋変えてくれって言った。…けどムリで、仕方がないから自腹切って個室に泊まった」 「えっ、ひどいよ何それ…、」 妙な安堵とモヤモヤが、あたしを複雑な気分に追い込む。 「帰りもその彼女から逃げ回って、結局最終の新幹線。…とにかく余計な疑い立てられるようなネタ一度でも作ったらもう、向こうの思う壺だから」 「だけどさ、支社長の娘でしょ?!冷静に考えたらおいしい話ではあるよね…、」 アキ兄は片手を振った。 「…やめてくれ。…ホント、ダメなタイプの女の子なんだ。…ちょっと冬美みたいなさ」 「………、」 不意打ちみたいに、彼の口から零れた名前。 ─────冬美さん。 彼の顔を、チラリと盗み見るように見上げた。幸い彼はあたしの方を見ていなかった。 ─────彼には、忘れられない女の人が居る。 だからきっと、彼女を作らないんだ………。 何となくあたしはそう思った。 結局それからもアキ兄とあたしは夜中の宴会を続けた。途中からはウーロン茶になってたけれど。 彼は「ゴメンゴメン、マジでグチってしまった、」としきりに反省し、あたしは「そんな事ないよ!お互い様だし!」としきりにフォローした。 その後は敢えて楽しい話ばかりに終始し、こうして夜中の4時を回る頃、あたし達は床に着いた。 アキ兄のベッドにあたしは横たわる。…彼はフローリングの床にそのまんま。 徹夜してふやけた脳と、アルコールでぼんやり働かない思考。 やっぱりこの日はどうかしていて、あたしは静かな四角い空間の中、アキ兄に包まれているようなシーツの上で、ポツリと彼に言葉を零した。 「………ねぇ、覚えてるかな…?アキ兄。…昔ね、あたしが15の時にね、お互い10年経っても彼氏彼女が居なかったら、結婚しようかって言ったの。」 ホントに───…何てスルリと身体から抜け出るようにその言葉は落ちてしまったんだろう。 もしかしてもう寝ちゃったかと思っていたら、あたしの視界の下、仰向けになっていた男っぽい身体は、ボソリと低い声を漏らした。 「───…お前、いくつになったっけ?」 「………25だよ…」 「………ウソ…、ちょうど10年なんだ………、お前と会ってから」 「─────…うん」 「…そっか…。早いなぁ………」 「うん…早いよねぇ…。…でも長かった………。いや、やっぱ早い…」 彼がプッと吹き出す気配。 「お前、酔ってるな」 「うん、酔ってるよ」 即答しながら、「酔ってる」って言葉の便利さをあたしは初めて知り、しみじみと心の中でその便利さに感謝した。酔った勢いって事にして、何でも言えそう、今なら。 「─────…ねぇ、偽装結婚しちゃおか」 「……………、………へっ?!」 彼の返事が戻るまでに、数秒の空白があった。 「ギソウ、ケッコン…?!」 アキ兄が確かめるように、音を繰り返す。 あたしはガバリと上体を起こすと、ベッドのへりに身を乗り出して隣りの彼を見る。 あたしの肩までの髪がバサリと頬に掛かって落ちてくる。 「そうだよっ!…アキ兄、あたしいい事思いついたっ!あたしとアキ兄がケッコンした事にしちゃったらさ、あたしの問題もアキ兄の問題も一挙にカタがつく!」 「─────………。」 彼は瞬きも忘れてあたしを見てる。 なかなか返事が返って来ない。 勢いで口走ったものの、じっと目が合ったまま無言の時がじっとりと流れると、あたしもだんだん焦りを感じてきてしまって、またも首筋や頬に朱が走り始める。…きっともう真っ赤っかだっ…。どうしようっ…。 そうしたら。 「─────…そうだよな………。それいいかも知んない」 アキ兄は驚き顔に目を見開いたまま、表情を変えずそう告げた。 お前、エアコン潰れてるし。オレのとこ越してくれば。…あ、でもここの部屋だと狭いかな、───…まぁそれはまた今度お前が来てから考えればいいか。…偽装結婚ったって、籍はどうする?入れるのか?…会社の色んな保険とか手続きが要るよな…。 「─────…おいっ?!ハル?!」 あたしは自分からぶっ飛び提案をしたクセに、彼の返答にどうやら気絶してしまったらしかった。 ぐったりと倒れこんでしまったあたしに、彼は相当焦ったみたい。だけどそんな事は意識を失ったあたしは知る由もなかった。 |
||
←BACK | NEXT→ | |
Copyright (C) 2008 Tamako Akitsushima, All rights reserved. Design By Rinju |