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社会人編

57
卒業式〜甲斐・14〜

志奈子のことを完全に諦めてから、オレは腑抜けのように暮らしていた。以前よりも……
夢も希望もないっていうのはこのことだ。前はまだ少しでも希望があった。志奈子とやり直せる人生を思うことが出来た。だけど、あれからのオレは、自分の人生から志奈子を消すことで必死だった。
なにをどうやっても消えやしないのに……
最後に抱いた志奈子のカラダを反芻して想いに耽る。カラダも、心さえもこの手の中にあったというのに……最後まで志奈子はオレの所へ戻ってきてはくれなかった。
そりゃそうだろう。オレなんかと比べて、あの男のほうがよほど将来的にも人間的にも信用できるはずだ。
久しぶりに抱いた時の志奈子の肌の感触、ナカの締め付け、襞のねっとりした絡みまで鮮明に思い出せる。だけどそれと同時にオレの心を占めるのは、泣いてる志奈子の顔、快感に溺れて素になったときの表情、そして漏れる言葉だった。
何度もオレのことを好きだと口にしておいて……去っていった志奈子。
遊んでみようともした。酒に溺れようともしてみた。だけどそんなもの全て、志奈子の元へ行く前にやり尽くしたことだった。
仕事に打ち込むしかない……今のオレにはそれだけ。
幾ら何をやっても志奈子はいなくならない。
オレの中から……
心も身体も志奈子を欲しがって止まないのだから。


『甲斐さん、なんかおかしいよ』
「何が?」
しばらくしてから例の少年から連絡があった。翔平には志奈子の周辺に何か変わったことがあったら教えて欲しいと伝えていた。意外にもヤツは律儀に、それはこまめに連絡してきてくれた。
オレも諦めると言いつつ、実際は志奈子が結婚してしまうまで、その情報に耳を傾けてしまうのが現状だった。
『なんかさ、ふたり離れてるんだよね……前みたいにいちゃいちゃしねえの』
いちゃいちゃは余計だと思いながらも、その言葉に少しだけ心が騒ぐ。だけど、自分と別れてからそんなに日はたってない。まさか……いや、たぶん翌日約束があると言っていたのに俺が離さなかったから、バレたとか?
丸二日、抱き続けていた……抱きたくて、抱きたくて、夢にまでみた志奈子の身体を、これでもかと抱き潰した。何度も何度も、志奈子の中に放つあの快感……思い出しただけで、身体が脈打ち震える。
「とりあえず様子見て……何か変わったことがあったら知らせてくれ」
『了解』
鼓動が早くなる……目を閉じれば鮮明に思い出せる一番最近の記憶。2年近く女を抱かずにいて、忘れかけていた志奈子の感触が一気に戻ってきて、我を忘れて貪ったあの日。
相変わらず柔らかな肌だった……吸い付くようで、オレの愛撫に敏感に応えてる。志奈子の中は濡れてオレに絡みつき、そして搾り取るように締め付けてきた。
「くっ……」
あれからも、何度思い出して抜いただろうか?これからもこうやって……志奈子の幻影を思い出し妄想の中で貪り続けるのだろうか?
「だめだ……忘れるなんて無理だよ。志奈子しかオレの中にはいないんだ……」
2年の間に思い知らされていた。他の女なんてもう考えられなくなっていることを。
「忘れなきゃ……諦めさせてくれよ!」
志奈子が結婚したとでも聞けば諦めもつくのだろうか?子供が出来たとでも聞けば忘れられるのだろうか?
「さっさと……結婚しちまえ」
ヤケクソになってそう口にするけれども、本音はそうじゃない。
「志奈子……」
水嶋さんと呑んだとき、何度か潰れたオレは、ひたすら彼女の名前を呼んでいたらしい。酔って他の女を志奈子の名前で抱ければよかっただろうが、そんなこともうとっくにやりつくしている。やっても虚しくてしょうがないだけだから。結局呆れながらも付き合ってくれる水嶋さんに甘えて、オレは何度も何度も彼女の名前を繰り返し呼び続けながら、意識が朦朧とするまで酔い潰れるだけだった。

馬鹿みたいに落ち込んだまま、親父や朱理の引っ越しに付き合わされていた。このふたりは、結局式を挙げずに入籍だけして、クリスマス前から一緒に住み始めた。そのあたりから親父がしょっちゅう店を休むものんだから、オレが代わりに出る羽目になって……昼間は会社、夜は店と忙しく立ち回り、落ち込む暇がなくなったことは有り難かった。おまけにふたりは新婚旅行と称して年末から正月にかけて海外に遊びに行くらしい。
「いいのかよ、妊婦が動き回って」
「もう安定期に入ったんだもの、少しぐらいなら大丈夫よ」
「へえ、そんなもんなの?」
朱理の父親、氷室コーポレーションの現社長は、娘可愛さにこの結婚に折れたけれど、まさか相手がオレじゃなくてうちの親父の方だと知った時にはかなり落ち込んでいた。オレも水嶋さんと一緒に社長室へ呼ばれて、それを嘆かれたけれど、どうしようもなかった。仕事上、オレをどうこうするつもりはないと言われたが、その分水嶋さんに一任というか丸投げされていた。つまりは彼の元、新しいプロジェクトに向かって一緒に動けということらしい。
水嶋さんの始めたプロジェクトは、まだ立ち上げたばかりでメンバーもそんなにいない。最初から側にいる分、水嶋さんの考えがわかるので、指示を待たずに動く分、与えられる仕事の量も増えて……忙しくなればなるほど没頭出来てかえってよかった。
少しでも時間があれば志奈子を思い出してしまう。抱いたのが良かったのか悪かったのか……
あの夜の記憶と、鮮明に残っている志奈子の感触は、しばらくオレを苛み続けた。


『なんかさ……顔色悪いんだよね』
年明けてから、さらにこまめに翔平から連絡が入り出した。
『この間は、なんか気分悪そうでさ、あんまり食べてないっぽい……痩せたんじゃないかなぁ』
「本当か?」
幸せじゃないのか?体調を崩すほど辛い目に遭ってるのか?
まさか……あの日のことが、相手にバレて責められてるとか?
『でも、日高っちがこまめに面倒見てるよ。最近はまた一緒に車に乗って送り迎えしてるの見るしさ』
「……そうか」
違ったのか。思わず肩を落とす自分が情けなくなる。志奈子の幸せを望まなくちゃいけないのに、不幸を喜んでどうする?
『オレももうすぐ卒業だし、受験あるから、あんまり情報送れなくなるよ。一応、サッカー部の後輩になにかあったら知らせるように頼んでるけどさ』
「すまないな、いつも……あいつが、結婚するまででいいから」
それで最後にする。諦めると心に決めていた。
『わかってる。まあ、気を落とすなよな』
オレは、中坊に慰められてんのか?
情けないと思いつつも、今のオレには翔平からしか志奈子の様子を聞くことしか出来なかった。

『な、あいつら結婚するかも……』
「そうか」
覚悟はしていた。その報告を聞く日を。もっと早いんじゃないかと思っていたほどだ。
『日高っちが結婚するかもって噂がでてるんだけど、志奈子先生とは別れたとか別れてないとか、噂が二分してるんだ。でも、サッカー部の練習表見たら4月の頭が連休になってるんだよなぁ。あの練習バカの日高っちが週末、それも続けて練習休みにするはず無いんだ。他の部のやつらにも聞いてみたら、何人かその日部活休みの先生が居るって』
「……そう、か」
『志奈子先生の卓球部は、元々土日練習しないしなぁ……またなんか判ったら連絡するよ』
「いつもありがとうな。そのうち傲るよ」
『いいって、じゃあまた』
やっぱり……結婚、するのか。
本格的に覚悟決めなきゃ……ダメだよな。

「甲斐くん、よかったらお昼一緒しない?」
「あ、はい……いいですよ」
今日は同じ部署の宮園さんに誘われて外にランチを食べに行った。ここのところ誘われたらできるだけ断らずに行くようにしている。別にそれで気分がかわるとかそういうのではないけれども、独りでコンビニ弁当よりも、すこしは食べた気になるから。朝は栄養補助食品のゼリーで済ませるし、夜は忙しくてあまり食べないから、まともな食事は昼ぐらいだ。せめて一食だけでもしっかり食べておかないと仕事するのに体力がもたない。たまには飲みにも行こうと誘われるけれども、あのバカ親父がオレに店を任せてくるから、週末も相変わらず夜は店に顔出さなきゃならなくて、そんな余裕はなかった。
夜、店に顔出しして帳簿チェックして、最後まで居たら仕事にならないから後は任せて部屋に戻るけど、圧倒的に睡眠時間は減る特に、土日は俺が早い時間から顔を出してると知った常連が、無理矢理オレを指名してくるしな。
「おい、いい加減に店へ戻って来いよ、親父!」
『あん?なんだよ、おまえは新婚家庭に水をさす気か?』
「そうじゃないだろ?自分の仕事しやがれっ、つーの」
『ははは、さすがにバテたか?』
「違うだろ?オーナーとして示し付かないだろうが」
『何言ってんだ、おまえでも代理は効くんだよ。みんなおまえの事認めてるからな。なんなら今の仕事辞めて、オレの代わりに店やるか?』
「生憎オレは今の仕事が気に入ってるんだ!簡単に辞めるか、クソ親父!おまえのおかげで社長の覚えがやたらよくってな!」
娘婿が40過ぎの水商売一筋の男では、後継者としては期待するわけにもいかないらしく、どういう因果か社長の目が甥っ子の水嶋さんと、娘婿の子であるオレへと矛先が向いているらしい。やたらと構って来て、重役のいる食事の席や、大手の取引先とのゴルフなんかに、オレたちを連れ回そうとする。まあ、親父のやったことを考えると断れないんだけどな。朱理の親父さんも、癖はあるけどいい人だ。ぞんざいに出来なくて、まあ、言われたとおり食事やゴルフ、あとやけ酒にも付き合ってるってわけだ。その合間に店だから、目が回る忙しさで志奈子の事を始終考えなくて済むことには感謝していた。

『甲斐さん!大変だ!』
「なんだよ……オレはあんま寝てないんだぞ?」
例の少年から連絡が入ったのは3月も半ば。急ぎで連絡くれってメールが入っていたけれど、店に寄ったときに常連客につかまって、やたら飲まされて……部屋に帰ってそのまま寝入ってしまっていた。そういえばこいつはその県下でも有名な私立の進学校に受かったって言ってたな。今度会った時には、お祝いにファーストフードじゃないちゃんとした食事を奢ってやろう。
『日高っち、結婚するの……志奈子先生じゃないんだ!』
「えっ……なんだって?」
『前にこの学校にいた正岡って先生。なんか志奈子先生も仲いいみたいでさ』
志奈子は、あの男と結婚しない??
まさか……あいつはそういったじゃないか?
だったらなぜ、オレとやり直してくれなかったんだ?
『オレのカノジョがさ、それ直接聞いてきたから間違いないよ。でさ、そのあと志奈子先生のケータイにメルアド登録するときに……中を覗いたらしいんだ』
「え?」
『先生が、日高っちと長いこと話し込んでたから、その隙に見たらしいんだけど。重要そうなのを自分のアドレスに転送かけたんだって。それをオレも貰ったんだけど……』
「おい、おまえそれは……」
大丈夫なのか、と言いかけた。あまりよくないことだ。そんなことを無関係の中学生にさせてしまった。
大人である自分がこんなことを頼んだために……オレは酷く罪の意識を感じていた
『わかってるよ、よくないって。けど彼女はさ、志奈子先生がおかしな事言うから、心配になってメール覗いたんだよ』
「おかしなこと?」
『日高っちと結婚しないってわかった後、好きな人がいるかって聞いたんだって。そしたら別にいる、でもその人は他の綺麗な人と結婚したんだって。片想いだけど忘れられないって……さ。少なくとも正岡はカッコいいけど綺麗って柄じゃないぜ』
「本当か?」
他に……誰が居る?それが日高の事じゃなければ……オレのことか?
まさか、オレが結婚したって思ってる訳じゃないだろうな?
『それと、メールに書いてあったんだけど……志奈子先生、コドモ出来てる』
「……なんだって?」
『正岡先生とのメールのやりとりに、産婦人科とか、身体は順調だとか、実家近くの産婦人科に行きましたとか、そういうのが入ってんだよ!』
「まさか……」
『おまけに、なんかレントゲン写真みたいなの?』
「エコー写真か?」
前に朱理に見せられた。『これがあなたの妹か弟よ』って……なんだか影みたいに映ってるのがそうらしい。
『どう考えても、日高っちの子供なら正岡先生に相談しないよな?あんた、心当たりあるんじゃないの?』
「……ある」
大ありだ!あの時、オレは避妊しなかった。出来てしまえばいいとも思った。だけど……志奈子はピルを飲んでると思っていたし、彼女も拒否しなかった。オレたちのセックスはいつだって何物にも遮られることのないものだった。だから……
『ったく、いい大人が避妊もせずにヤッたわけ?オレでもちゃんとゴム付けるよ?出来ちゃったらヤバいじゃん』
「ヤバくない……」
『えっ?』
「オレは、責任取れる大人だからな。全然ヤバくないんだよ!」
そうだ、責任取りの結婚でもなんでもいい。こうなったら無理やり籍を入れてもいいんだ!
オレの……子だ。志奈子とオレの……
そう、欲しかった。二人を結ぶ命、絆が。
すごく嬉しかった……だけど、彼女はどうしてオレに言わないんだ?オレの子を、産むつもりはないのだろうか?いや、さっきの話しだと産婦人科に通って、産む気……だよな?
ひとりで、か?そんなことさせられない……その子は、オレの子でもあるんだからな!
「とにかく、おまえそのメールのコピーとかオレに送れ!」
「わ、わかったけど……悪用しないよな?」
「全部オレがやらせたことだ。責任はオレが取るよ」
「サ、サンキュー。樹理のやつがちょっとわるいことしたって気にしてたからさ」
「いや、そのおかげで……わかったから。このことは……」
「もち、誰にも言わねえよ。あ、おまけにすげえいいのあるぜ。樹理おススメのやつ。それみて決めちまえば?」

すぐにメールは送られてきた。
詳しいことは、翔平から送られてきたその内容でだいたいわる。正岡という先生に送ったメールとその返事が数通。添付されていた数枚の写真。その中に、やはりエコー写真があった。
志奈子は妊娠している。
結婚するのはあの日高って教師と正岡っていう教師のようだった。志奈子はどちらとも仲がよく、彼女の体調を心配する言葉がメールには詰まっていた。
そして母親のこと……。いままで、その話題には避けるようにしていた。オレが両親のことを話したがらないとの同じように。その母親とのことも少し書いてあった。会いに行ったことや、産んでもいいと言ってくれたことなんかも……。
そっか、母親とも和解し合えたんだな。それと、そんな大きな問題を相談できる友人ができていたことに驚いていた。高校大学時代の志奈子には、親しい友人はほとんどいなかった。そんな志奈子に、ようやく信頼できる相手ができたんだ……そのうちのひとりが、あの教師だっていうのはちょっと気にくわなかったが。おそらくイイヤツなんだろうな、たぶん。
それと、正岡って先生から送られてきた数枚の写真。ケータイで撮ったんだろう、白いウエディングドレスを着た志奈子の姿。衣装選びに付いて行ったときに撮った写真だろうけど、彼女がどんな思いでこのドレスを着たのか、想像するだけで胸が苦しくなる。
オレが誰か他の女と結婚したと信じて、諦めて……独りで子供を産んで育てようとしている志奈子。自分が着ることのできないそのドレスを身にまとい、照れてるというよりもどんな顔していいかわからないまま微笑もうとしているその表情を見せられて、オレはどんなことをしても、彼女にドレスを着せてやりたいと思った。朱里もまだお腹が目立たないうちにドレス姿の写真を親父と一緒に撮っていたはずだ。嬉しそうにそれをオレに見せながら、式は子供が生まれて体型が戻ってから挙げるのだと張り切っていた。
できれば、それよりも早く……

翔平に、こんな夜中まで起きてていいのかとメールを入れると、<明日は卒業式だけだから>と返ってきたので、もう一度ケータイにかけ直した。
「明日……卒業式か。おまえんち、親は来るのか?」
『ああ?うちのくそババァは来ないぞ』
翔平が母親だけの母子家庭だって言うのは前に聞いていた。女手一つで育ててもらったのはいいけど、忙しくて構って貰えなくて、寂しくて女の温もりを求める……オレとよく似たところのあるヤツだった。
「オレが行ってもいいか?」
『ええっ?あんた来んの?』
「ああ」
『へえ……志奈子先生、奪還しに来るんだ?』
「……そうだ。けど、おまえの卒業もちゃんと祝ってやるよ」
弟みたいだというには年が離れすぎてるか?けど、あと数ヶ月もしたら、マジで弟か妹が出来るんだけどな。
それと、オレの子も……
『へへ……なんか嬉しいな。ババァは忙しいって、そういうの出てくれないからさ。他人でも嬉しいよ』
「おまえ……素直だな。オレも、おまえぐらい素直だったら……こんなことになってなかっただろうな」
親父に反発して、女舐めて、自分の心に気が付くのが遅かった。全部無くして、気が付いた時に志奈子はもう手が届かないところにいた。
もっと、早くに好きだって言えば良かったんだ。結婚しよう、オレのものになって、一生側に居てくれと言い続ければよかったんだ。抱くだけでなく、言葉で伝えるべきだったのに……
『な、なに言ってんだよ。まあ、昼前には式終わって、みんな外に出てくるから、そのぐらいにメールするから来いよ。あんたみたいなのが卒業式の初っぱなから来てたら、式の間中騒がしくて困るだろ?それこそ、志奈子先生ぶっ倒れちゃうよ』
「そうだな、じゃあ、そのくらいに行く」
よし……オレは、今度こそ失敗しない。
今度こそ、志奈子の手を掴んで離すもんか!


翔平の指示通り、卒業式の後オレは校門付近で連絡を待っていた。しばらくすると、志奈子と可愛らしい女生徒のツーショット写真が送られてきた。どうやらこれが翔平の彼女らしい。志奈子はちょっとふっくらした感じだろうか?黒のフォーマルスーツでは躰の線はよく判らない。お腹も、出てると言えば出てるのだろうか?
『甲斐さん、近くに居るんだろ?志奈子先生オレのカノジョがキープしてる。すぐ来て』
かかってきた電話はどうやら繋ぎっぱなしのようだった。
受話器からぼそぼそと会話が聞こえる。
『……聞いていい?……答えて……結婚しないんだよね?』
『……そうよ……』
とぎれとぎれに聞こえる女ふたりの会話。
『……先生の好きな人……誰なの……』
『……何を……』
『先生は……たよね?ショーヘイのこと相談したら……わかるよって……それって先生も好きな人が居たからだよね……』
その答えが聞きたくて、オレはケータイを耳に押しつけた。
『そうよ……好きな人、居たよ』
『それは……日高先生じゃないよね?』
『もちろんよ』
近付いてくれたのか、声が聞き取りやすくなる。
『その人のことは、今でも好き?』
しばらくの沈黙の後、はっきり聞こえた。
「好きよ。ずっと……」
その声は、受話器からじゃなく、少し離れたところにいるオレにも直接聞こえた。
「だってさ、甲斐さん。聞こえた?」
驚いた顔の志奈子が振り返りオレを見ていた。生徒達に囲まれてるあの教師の姿も手前にあったが、無視する。
今は……志奈子だけだ。
「結婚はしないんだよね?」
翔平がもう一度志奈子に問いかける。
「しないけど……なんでそんなこと……」
ちょっと怒ったように彼女がオレを睨む。何を怒ってるんだ?
「やっぱりしないって」
翔平が今でも好きなその人の名前を言ってと強要する。側にいた女の子も必死に教えてと志奈子にしがみついていた。
このぐらい、素直に一生懸命言えたらよかったんだよな、オレたちも。
「おい、おまえ達……そろそろ」
あの男が間に入って止めに来たのを、オレは避けて志奈子に近付いた。
「か、甲斐くん……!」
志奈子が俺の名前を呼ぶ。
「それが先生の好きな人の名前だよね?」
翔平の言葉に志奈子はゆっくりと頷いた。
本当なんだな?オレ……なんだよな?
「志奈子……オレのこと、好きなんだよな?」
うぬぼれじゃなければ、ずっと……初めて身体を重ねたあの時から、そうだよな??
おまえの身体は、そう答え続けていたはずなんだ。
オレのことが好きだって……雄弁にそのカラダが語っていたはずなんだ。
「結婚なんてしないんだろ?」
オレの問いかけに、再びきっと目を尖らせて睨んできた。
「……しないわ。でも、甲斐くんは朱理さんと……結婚したんでしょ?子供も出来たって……」
強い口調……今なんて言った?オレが結婚?朱理と、子供?なんだよ、それ全部親父の事じゃねえか!なんだよそれ?オレは結婚してないと大声で返した。
「それ誰が言ったんだ?朱理が結婚したのはオレの親父、子供ももちろん親父の子だからな」
「嘘……おとうさんって、あの?」
知ってるはずだ。あの女好きのクソボケ親父め!おまえは息子の幸せを奪うのか?自分だけデレデレと若い嫁もらって鼻の下伸ばしやがって!産まれてくる子供を楽しみにしてるとこ見るとちょっと辛かったけど……後で朱理に聞いたんだ、親父の本音。
『史仁にしてやれなかった分も、可愛がってやりたいんだって……言ってたわよ』
突然オレが出来て、戸惑った若い頃の親父。本当は、オレの母親に対してちゃんと本気だったって、後で気が付いたけど遅かったのだと教えてくれた。傷つけて手放したその人は二度と戻ってこなかったんだと……オレのことも無かったことにしたいほど傷つけたのは自分なんだと。
けど、志奈子の勘違いもおまえのせいだったのかよ、クソ親父!代わりに迎えに行ったことはあったけど……そのことを言ってるのか?勘弁してくれ。
「マジで疑ってたのか?」
何処で見てた……いや、知ったんだ?
「だって……デートだってしてたし」
「してねえよ」
なんでそうなる?オレは朱理とふたりきりで出掛けたことなんかないぞ?他に人が居たか、車で送り迎えするときぐらいだ。
「でも、ずっと香水とか匂いしてたし……週末は帰ってこなかったじゃない」
それって……ああ、店で働いてた時の事を言ってるのか?違うとオレは否定した。当然、客とも寝てない。というか、一緒に住んでて、あれだけ毎日抱いてて……他に女居るって、どうして思えるんだ?
オレ、結構盛ってたと思うぞ?志奈子のカラダに溺れて、こいつ以外抱けなくなって……抱いて抱いて抱きまくって。あれだけやってても疑われるって……やっぱ言葉が足りなかったせいなのか?ずっと、セフレだって思わせていたオレが悪いんだよな。一緒に暮らしてる時点で、そうじゃないって判ってるはずだと思い込んでいたオレがいけなかったんだ。
「でも……」
「他に聞きたいことがないなら、今度はオレが聞きたいんだけど」
一番聞きたいことはもう、聞いた。俺が好きなら……どうして、オレに何も言わなかったんだ?たとえ、オレが朱理と結婚するって勘違いしてたとしても、オレにも責任のあることだろう?
「そこに……オレの子がいるのか?」
志奈子の腹の辺りにそっと手をかざした。驚いた顔の志奈子がオレの顔を見て、それから日高の方を見た。そいつは、知ってたんだよな?翔平が送ってくれたメールにも書いてあった。子供が出来たと判った時、父親になってもいいとヤツが言ったことを。
「ごめん……先生……」
翔平の彼女が謝った。ケータイからメールを勝手に自分のケータイに送ったことを。だけどそれを翔平は自分がやらせたと言った。全部自分がやらせてオレに連絡したんだって。
こいつ、中坊のくせにやってくれる……ちゃんと彼女守ってるんだ。いい男になれるよ、おまえは。
「オレが翔平に聞いてたんだ。おまえの様子とか……知りたくて。ごめん、ストーカーみたいな真似して」
オレも、子供に責任かぶせるつもりはない。オレが全部やらせたんだ。こんなガキに愚痴って、頼んで……情けないけど、それほど切羽詰まってたんだ。
「ごめんなさい、先生。でも、黙ってちゃだめだって言ったじゃない!だからわたしショーヘイにはちゃんと思ってる事みんな話してるよ?おかあさんにも……そしたら色々話してくれて少しはわかりあえたと思うもん。ちゃんと言わなきゃって、伝えなきゃダメだって言ったのは先生でしょ?」
翔平の彼女が『言って』と何度も志奈子に言い縋る。
「好きなら好きって言うんでしょ、先生!」
志奈子が頷いて、そっと彼女の手を離すと、その子は翔平に駆け寄っていった。
志奈子はオレをまっすぐ見詰めている。
「甲斐くんは、結婚しない?」
「ああ、志奈子以外とはするつもりはない」
一歩、志奈子に近づく。
「朱理さんの子供は……」
「親父の子供だから、産まれたら異母兄弟になるな。この歳でおにーちゃんとおとうさんに、いっぺんになるんだよな、オレ」
またもう一歩志奈子の側に。けど考えたらすごいよな。自分の子と親父の子が同い年か?
「じゃあ……その子がオレの子なら、なんで言わなかった?」
朱理とは結婚しないと言ってるのに。
「だから無理だって思って……」
「無理じゃない!オレが、ダメなんだ……志奈子じゃないと」
何で無理なんだ、違うだろ?何度も志奈子じゃないとだめだと言ったはずだ。
「……甲斐、くん……」
志奈子のオレの名を呼ぶ声。もう周りも見えていなかった。
「言えよ、志奈子……オレは言ったぞ?何度も、志奈子が好きだって。途中から、志奈子のことセフレだなんて思ってなかったし、おまえ以外誰も抱いてない……おまえだけが好きで、大事にしたかったから、おまえが望むように手放した。だけどその後酷く後悔したんだ。そして、もう一度手に入れる為にここに来たんだ。まさか、もうピル飲んでないとは思ってなかったけど、オレは……いつ出来てもいい気持ちでずっと抱いてた。一緒に住むまえから、ずっとだ」
「嘘……だって、甲斐くんは、わたしのことなんか……」
そう思わせたオレが悪いんだよな?最初から言葉にしなかったから。
「最初が最初だったから、オレたちは互いに思ってることを口にしなかった。だから……遠回りしてしまったんだよな?」
目元に涙を溜めて堪える志奈子の頬を撫でて、その涙を拭ってやった。
「愛してる、志奈子……もう一度やり直そう」
お願いだから、この言葉を受け入れてくれ!もう、これ以上はないオレの気持ちの全てだった。オレはたまらなくなって志奈子のカラダを抱きしめた。
「あ、あたしも……好き……だったの。ずっと……愛してた……」
そう言って志奈子がオレに強くしがみついてきた。ああ、志奈子が……オレを自ら求めてくれているのがわかる。
「過去形にすんなよ……今も、だろ?」
「うん……今も」
志奈子がその問いに頷く。声にならない声で、愛してると……言ってくれたのがわかった。
「志奈子……」
さらにに力をこめようとしたけれども、お腹に子供がいるんだよな?だったら、あんまり強く抱きしめ過ぎたらダメだと少しだけ腕の力を緩めた。
このカラダの中に、新しい命がはぐくまれてると思うだけで身体が震えた。オレの……オレたちの子供。間違いなく、オレたちが愛し合って出来た子供なんだ。
「もう、離さない。オレの子……産んでくれよ。オレたちで、育てよう。オレたちがして欲しかったこといっぱいしてやるんだ」
「うん……うん……」
志奈子は泣いていた。オレの腕の中で震えるように泣きながら。だけどあの、オレの欲しかった笑顔で涙を流しながら、何度も頷いてくれた。
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