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社会人編

志奈子・2〜

「日高先生、やっと連れてきたんだ?」
近隣の同じ中学教師同士の交流といっても、10人ぐらいで男女も半々ぐらいのざっくばらんな雰囲気だった。まだちゃんと返事もしていないのに、日高先生のカノジョとして飲み会に連れて来られたわたしは、少し後悔していた。
「こいつね、志奈子先生のこと褒めるくせに、全然連れてこないからみんなからせっつかれてたんですよ。イイヤツなのはオレたちが保証しますからね」
「あ、はい」
こんな風に扱われたら、『実はまだ付き合ってません』とか『別れました』なんて言い出しにくいんじゃないだろうか?
いつもならそんな軽はずみな返事はしないのに……やっぱり今日のわたしはどうかしていたんだ。
「こらこら、志奈子先生は騒がしいの苦手なんだから、あんまり近付かない!!」
やたら寄ってくる他の男性教師を牽制して、日高先生はわたしを女性教師達の隣に座らせた。
「初めまして、M中の正岡です。噂はかねがね……なのになかなか連れてこないから、みんなヤキモキしてただけだから気にしないでね」
「あ、はい。ありがとうございます。でも……噂って、どんな?」
「S中に新任の先生が入った時点でチェックされてるのよ、連れて来いって。なのに大人しい先生だからとか、男の人苦手みたいだとか言って日高っちが連れてこないから」
気軽にそう呼ぶ正岡先生は日高先生より5年先輩で、現在8年目のベテラン教師だ。明るくてしっかりした姐さんタイプ。身長も凄く高くて180cm近くあるんじゃないかな?バレーで、高校大学時代は国体に出たこともあるそうだ。体育の先生で、顧問をしているM中の女子バレー部は現在県内でもベスト4に入るほど強い。日高先生が新任当時はまだS中にいらして、同じ体育教師の先輩として面倒見ていた時から『日高っち』と呼んでいたらしい。それが生徒達にも広まって、今でも日高先生はよくそう呼ばれているのだそうだ。
「で、男の人苦手ってほんと?」
「いえ、そんなことないです。ただ飲み会とかそういうのが苦手で……いつも日高先生に助けて貰ってます」
「なんだ、そうだったの?まあ、こいつは面倒見もいいからね。でもあんまり黙ってると先走っちゃうよ?ホント思いこみ激しいから」
けらけらと笑いながら、わたしを飛ばして日高先生の背中をバンバンと叩く。
「あーもう、何言ってるんですか!僕の権威ってのがなくなるじゃないですか……」
「どんな権威よ?」
「ったく……智恵先輩には敵わないなぁ」
わたしを挟んで二人のやりとりが続くのをぼーっと見ていた。こんな風に明るいノリで話すなんてわたしには出来ないのに……二人でいる時だって、日高先生が話しているのをわたしが聞いてることが多かった。そんなので楽しいのかなと思うけれども。
甲斐くんといる時はあまり話したりしなかった。もっとも話す必要もないくらい抱き合っていた事が多かったから。それでも、二人でいる時は黙ってDVD見たり、わたしが家事している間は甲斐くんが本を読んでたり、音楽聴いてたり……二人とも、家族と一緒に時間を過ごす方法を知らなかったから。
「志奈子先生?」
「えっ、はい……な、なにか?」
「いやだな、もう!ぼーっとしてるから、もう酔ったのかなって。大丈夫?」
正岡先生の問いかけに、一瞬ビクッと身体が跳ねる。反対に座ってる日高先生も心配そうにコチラを見ていた。
「あ……はい、大丈夫です。あんまり、アルコールに強くないだけです」
「志奈子先生は、もうその一杯だけにしておけば?」
「じゃあ、代わりに日高っち飲んでよ」
「なに言ってるんですか、僕は今日車だから飲めないでしょ」
「あ、そっか……送り当番だっけ?」
「本当は智恵先生の番だったの交替したんじゃないですか。ま、今日は僕が志奈子先生送ってくからなんですけどね」
「まあまあ、お熱いことで。でも送りオオカミにならないようにね〜」
普段、学校の飲み会の時は日高先生も車を置いてくる事が多かった。だけど今日はわたしの為にわざわざ飲まずにいてくれるのは申し訳なかった。
「すみません……日高先生、わたしのせいで飲めなくて」
「そんなの平気平気。いつもは運転手順番に決めてそいつが飲めないんだけど、今日は僕がそれ買って出ただけだから」
「ありがとうね〜替わってもらっちゃって。でも、お昼過ぎに連絡してくるから驚いたわよ。それじゃあ、感謝の気持ちを込めて、飲ませていただきまーす!」
そう言って正岡先生は、手にしていたビールジョッキの半分位を一気に飲み干した。
「また、先輩は……無茶しなさんなって。悪酔いしても知りませんよ?」
日高先生は、彼女が持っていたビールグラスをひょいっと取り上げた。
「もう、返してよー!このくらいで酔うわたしじゃありませんって」
「智恵、あんたペース早すぎ……」
正岡先生の反対側から顔を出してきたのは髪の長い眼鏡の先生だった。
「志奈子先生、わたし智恵と同じM中の児玉奈美よ、よろしく」
「あ、オレはK中の……」
一斉に始まった自己紹介を一通り聞く間、正岡先生はひたすら飲み続けていたようだった。

「ごめんね。普段はこんなこと無いんだけど……」
すっかり酔いつぶれた正岡先生を、児玉先生は自分の車に押し込んだ。
「じゃあ、わたしはN町方面送っていきますので、後はよろしく」
そう言って先に出た児玉先生の車を見送って、残りのメンバーを乗せた日高先生の車は順番に他の先生方を送り届けていった。
「最後になって悪いね」
「いえ……大丈夫です」
他の先生がいた間はそれなりに話していたのに、誰もいなくなった車内では、カーステレオの音とエンジン音しか聞こえなくなっていた。ほどなく車はわたしのアパートの部屋の前に停まる。
「志奈子先生……今日は一緒に来てくれて、ありがとう」
サイドブレーキを引いたまま話しかけられて、わたしは車から降りることも出来ず、シートベルトを外す手を止めた。
「それで……返事なんだけど。このまま……付き合ってもらえるのかな?」
このままというのはたぶん、今日のメンバーのほとんどがそう思っているだろうからということだと思う。
「ちょっとずるいけどね。志奈子先生を逃げられなくして……そうでもしなきゃいい返事貰えなさそうで怖かったから。先生はずっとそういう雰囲気になるの逃げてる様な気がしてた」
思わず言い当てられてびくりとした。そう……逃げてたかもしれない。今日だって、お昼に出る時も普段なら日高先生の車に乗ったりしないのに、校門を出たところに停まっている車に見覚えがあって……甲斐くんの車のような気がして、わたしは怖くなった。だから誘われるまま日高先生の車に乗ってお昼を一緒にしたり、そのまま飲み会に付いて来たりした。
「志奈子先生が……好きです」
日高先生は左手をシートにかけてこちらを向き、真剣な目でわたしを見つめ、そう口にした。
「わたしなんかで……いいんですか?」
「志奈子先生が、いいな」
わたしなんかの、どこが?見た目は地味でも、母親に似て淫乱な身体をした、恥ずかしい女なのに……
「日高先生が見てるわたしはごく一部でしかないですよ?先生は……きっとわたしのこと、買い被ってるんです」
「何をですか?いつでも一生懸命生徒に向き合ってる……そんな先生の姿があれば十分です」
「日高先生は……今まで他に女性と付き合われたこと、ありますよね?」
「え、まあ……それは、数えるほどですけど」
「わたしには……今までそういう人、いなかったように見えますか?」
「……それは、いたってことですか?」
わたしは視線を外して小さく頷いた。
「曖昧な関係でしたけど……無かったとは言いません」
「そう……ですか。てっきり僕は……それじゃ、男性と付き合うのは初めてじゃないっていうことですね?」
「はい」
あれを付き合ってるというなら……そう言っておいた方がいいと思った。初心な振りをしてもよかったかもしれないけれども、本気で付き合うなら、ちゃんと言っておいた方がいいだろう。けれどどうしても、セフレの彼が居たなんて事は言えなかった。それだけで軽蔑されそうで……
「じゃあ、遠慮しなくてもいいですね?」
「え?」
「今日来てくれたことで、OKだと思ってますから」
そう言った後、日高先生の顔が近付いてきて、そっと唇に湿った厚ぼったい唇が触れた……
触れるだけのキスが遠慮がちに離れていく。
違うんだ……キスも。たぶん今からの、全部……
そのキスにあっけなさを感じていた。わたしの知ってるキスは、もっと……激しくて、呑み込まれそうなほど、甘いキスで……
「志奈子先生?」
「え?あ……はい」
いけない……知らず知らずに比べてしまっている。一緒にしてはいけない、日高先生は本気でわたしのことを考えてくれているんだから。
「明日、よかったら出掛けませんか?」
「は、はい」
「映画とか、どう?何か好きな映画とかある?俳優さんとか……よく観るのは邦画?それとも洋画?」
映画……甲斐くんとも行ったことがなかった。借りてきたDVDを一緒に観るばっかりで……
「あの、わたしあまり……映画とか知らなくて。洋画でも邦画でも観ますけど、それはテレビでやってるのぐらいなんです。わたし、映画館とか行ったことないから……」
「そうなんだ?それじゃあ、今何やってるか調べておくよ。任せて貰っていい?」
「あ、はい」
「それじゃ、明日10時に向かえに来るから。用意してて」
10時ってことは、お昼食べてから映画を観るのかな?夕食はどうするんだろう?その後は……もし、身体の関係を求められたとしても、今更もったいぶったってしょうがない。この身体はもう、抱かれることに慣れきっているのだから。
「わかりました。待ってます」
顔を上げてそう答えると、今度は引き寄せられてキスされた。
――――違うんだ、こんなにも違う。
今わたしにキスしてるのが甲斐くんじゃないんだと、不意に思い知らされて涙が込み上げてきた。
「え……志奈子せんせ……」
「ご、ごめんなさい……」
嗚咽がこぼれて、わたしは彼の腕の中の温もりに思わず身体を寄せていた。
「志奈子……って呼んでいい?可愛いよ……キスだけで泣いてしまうなんて」
その人とはちゃんと付き合ってたわけじゃなかったんだね、って言われた。
違うって、言いたかった。だけどその言葉は呑み込んだ。そう、一緒に住んでセックスしてた。だけど、デートも最後の一回きりで、映画すら観に行ったことがなかったなんて。そんな説明のしようがない関係……わたしと甲斐くんは人に言えるような間柄じゃなかったのだから。

泣き止んだわたしは、部屋まで送るという彼の申し出を辞退して、一人で部屋へ戻った。
「キス……しちゃった」
甲斐くん以外の人と。それで、甲斐くんの感触が消えた訳じゃない。別れてこの街に来た当初、毎夜と言っていいほどわたしを苦しめた、甲斐くんとのキスの記憶。わたしに触れる指先、温かな体温。それが全部、先ほど与えられたものとは違うってことに気付かされた。いつも軽くコロンの匂いがしていた甲斐くん。時々煙草やお酒の匂いもしたけれども、日高先生みたいに日向の……汗や砂埃の匂いはしなかった。あれが日高先生の匂いなんだ……
慣れなきゃ……そう思っていた。もう、思い出したり比べたりしてはいけない。日高先生にも失礼だ。
「明日は……そうだ、この間買った服着ていこう」
一昨日のフォーラムの帰りに、宮沢さんと寄ってショッピングセンターで買ったワンピースとカーディガン。一人じゃ買わないだろう可愛い柄のワンピースと、それを覆い隠すほどの長目のカーディガン。マネキンが着てるのを見て思わず買ってしまったものだった。
「デート、だよね」
甲斐くんと行ってみたかった映画も、子供の頃行けなかった遊園地も、日高先生なら連れて行ってくれそうだ。
「忘れられる……きっと。恋愛も、結婚も、悪いものじゃないって……少しは思えたから」
甲斐くんのおかげで。彼と過ごした日々があったから……
だから大丈夫。わたしはそう自分に言い聞かせて、お風呂に入る為に立ち上がった。


翌日はお天気も良く、迎えが来るまでの間に掃除と洗濯は済ませた。それから出掛ける準備……いつもよりオシャレな服に、きちんと化粧もした。教えて貰ったのは氷室さんだったな……綺麗だけれども優しくて気が利いて、素敵な人だった。あんな人になりたかったな……同じ教師としても尊敬できる人だった。何よりも、あの甲斐くんの横にいて見劣りしない人だったから。
今日のわたしはどうだろう?
鏡に向かってチェックしながら、その隣に日高先生でなく甲斐くんを想像してしまう。以前よりはマシになったと思うけど、氷室さんに敵うはず無いのに……
日高先生は時間通り迎えに来た。今日の彼もいつものジャージ姿じゃなくて、Tシャツにジャケット、ジーンズにローファー。並んでもおかしくない姿に安心した。甲斐くんは、どっちかっていうと流行物をよく着てたから、少々おしゃれしても並ぶのは難しかった。最後の日だけ普通のジャケット姿で安心したっけ……
その日は、日高先生に連れられるまま映画観て食事して、なんて当たり前のことが自然に出来た。彼が向けてくる好意がくすぐったくて……でも、すぐに手を出してこないのは大事にされてるからだろうか?昨日急に泣き出したりしたから、遠慮しているのだろうか?
違うのに。
わたしの身体は、誰よりも淫乱で……身体だけの付き合いを何年も続けてしまうような女なのだから。
いっそのこと、甲斐くん以外の人に抱かれて、彼の残した身体の記憶の全てを消してしまえば……毎夜、疼く身体に悩まされなくてもいい。日高先生に抱かれて、何もかも忘れてしまえれば……
「疲れた?」
「あ、いえ」
食事の帰り、車に乗り込むと彼の手が伸びてきた。
「っ……」
一瞬、身体が怯んでいた。びくりと跳ね上がるわたしに苦笑いすると、日高先生は車を駐車場から出した。  
勘違い、させたかもしれない。
嫌いだとか、嫌だとかじゃない……なのに、どうして身体は緊張して強張るのだろう?どうして……この優しい人にあんな困った顔をさせてしまうのだろう。
「志奈子……先生」
「はい」
今日一日、志奈子と呼んでいたのに。アパートの前に車を止めた時には、また元の呼び方に戻っていた。
「学校があるので……普段はそう呼ぶことにするよ」
「……そうですね」
「キス……していいかな?」
昨日は断らなかったのに、今日はそう言ってから唇が重なってきた。わたしは出来るだけ力を抜いて緩めていると、ゆっくりと彼の舌がわたしの唇を割って入り込んでくる。
「んっ……」
ぎこちない動きに、彼がそんなにキスの経験が多くないことが判ってしまう。だって甲斐くんのキスはもっと……もっと……
――――だめっ!
一瞬、自分から求めて動きそうになっていた。違う、今キスしてるのは日高先生だ。わたしが不慣れだと思いこんで、優しく触れるだけにしてくれているのだから……
淫らに求める自分を晒すのが怖かった。そんな自分の正体を、彼にさらけ出して軽蔑されるのが怖かった……あんな自分を受け入れてくれるのは甲斐くんぐらいだ。彼にしかわからない、同じ様な環境で育ち、互いにセックスでしか温もりを得られなかった二人にしか……。
あっけなく離れて終わるキスに物足りなさを感じる自分が嫌だった。
「それじゃ……明日。おやすみ」
見送られて車を離れる。辺りはそろそろ薄暮で暗くなってきていた。ちらりと見えた黒い車の向こうに、オレンジ色の薄い曇がたなびいて見えていた。
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