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日高&正岡

同僚・その1


「はい拾って!それ、それ、それ」
台の上からレシーバーに向かってスパイクを連打する。
「ぼーっとしてんじゃないよ、しっかり捕らないと!」
「はいっ!」
「次!」
「おねがいします!」
蒸し暑い体育館の中でネット越しに叫ぶ。
「しっかりセッターに返して!」
毎日手にテーピングをまいて白いバレーボールを打つ。これがわたしの日常。
M中学体育教諭。バレーボール部顧問、正岡智恵。32歳……独身、男なし。

身長175cm、高校大学とバレーボールで国体に出場してならしたわたしは、中学教員としてもバレーボールの指導にすべてをかけていると言ってもおかしくない生活だった。朝も夜も部活指導。汗だくになって休みなく練習と試合の毎日。おかげさまで指導した中学のバレー部は県大会常連校。そこからまた強い高校に引き抜かれていく生徒もいる。自然とそのネットワークは広がり、注目期待され、生活のほとんどをバレーに明け暮れている。これじゃ学生時代とさして変わらないと思うけど、好きだからしかたない。中学の部活指導なんて無償でしんどいけど、そのぶん生徒たちの笑顔や成長、かたちにならないいろんな見返りがある。
そんな生活をしていれば遊ぶ暇もなく、彼氏なんてできるわけもない。とうとう膜張ったまま30歳過ぎてしまった。まあ、いい加減そっちは諦めの境地なのだけど。
好きな人は……いないわけじゃない。
前のS中で同じ体育教諭をしていた日高くん。好きっていうより、可愛い後輩のつもりだったんだけどね。仲間内で飲んだりしてる間に彼を男性として意識している自分の気持ちに気がついて……5歳も年下なのに本気になって馬鹿みたい。だけど、さすがに向こうが相手にしないのはわかっていた。教師になって1年ほどで別れたらしいけど、当時は大学時代からのカノジョも居たみたいだし。
だから……今年に入ってS中の新任教諭に若い女教諭が入ったと聞いて、嫌な予感はしてたんだよね。
船橋志奈子先生。噂では、いまどきの若い子には珍しくしっかりした子で、真面目で良妻賢母になりそうなタイプだって。実際に会ってみると、メガネの奥の意思の強そうな目が印象的で、真面目すぎるというか、少し近寄りがたい雰囲気もあった。それとは対照的に柔らかそうな胸と身体。女のわたしでも美味しそうって思うぐらいで……どうやら日高くんは彼女に夢中のようだった。

「日高先生、やっと連れてきたんだ?」
久々の飲み会に、奴はようやく彼女を連れてきた。シャイで人見知りするとか言って、1年以上なかなか連れてこなかったので、みんなお待ちかねだ。
教員同士の職場結婚も多く、みんなが応援する気満々。そうしむけてから連れてきたのも彼自身だった。
「こいつね、志奈子先生のこと褒めるくせに、全然連れてこないからみんなからせっつかれてたんですよ。イイヤツなのはオレたちが保証しますからね」
「あ、はい」
よく飲む女性が多いこの中では、お酒の場に慣れない彼女が男性陣の目にはやたら新鮮に映ったらしい。あいさつや話し方がしっかりしていて、背筋が伸びた感じは女性陣、特に部活指導組に好印象だ。
何よりも近くで見ると、すっごく色白でふっくらとしたきれいな体つき……いいな、わたしは背ばっかり高くて筋肉質でちっとも女らしくない。これだから、年齢以上に誰にも相手にされないのだと思う。まあ、化粧とか構わない方だから余計だけどね。たまの飲み会ぐらいきれいにしてくるけど、今夜は比べられるのがいやになるほど差がついていた。
心は泣きたい気分。どうせ言ってもしょうがないし、そのあと困ってしまうからと、今まで何にも言わなかったのは自分なのだから、こればかりはどうしようもない。
「こらこら、志奈子先生は騒がしいの苦手なんだから、あんまり近付かない!!」
ほかの男性教諭をけん制するためか、しっかりとわたしの隣に座らせてくる。よっぽど大事なんだね。
「初めまして、M中の正岡です。噂はかねがね……なのになかなか連れてこないから、みんなヤキモキしてただけだから気にしないでね」
面倒見ろってことならみようじゃないの。それほど信頼されているんだと思う。新任でS中に赴任してきた日高くんは可愛い後輩で、わたしのことを尊敬して目標にしているのだと言ってくれた。嬉しかったけれども、すでにその時点で恋愛対象外ってことになるんだよね。まあ、それはしょうがないと思っていた。M中に転任しても、こうやって近隣の若い教諭たちが集まる飲み会で顔を合わすこともしばしば。彼女の話は以前から聞いていたし、彼ほどの男が本気になればなびかないはずはないと思っていた。
だって、予想以上にいい子だったから。
まだ可愛いだけのおバカな女子大生の延長みたいな子だったら、ちょっといじめてやろうとも思ったけど。真面目で、しっかりしてて、努力家で……一番嫌いになれないタイプだった。ちょっとバリア張った感じがして、男の人が苦手って本当みたいだった。
「で、男の人苦手ってほんと?」
「いえ、そんなことないです。ただ飲み会とかそういうのが苦手で……いつも日高先生に助けて貰ってます」
ストレートに聞くとそう返事が返ってきた。
少しだけ、彼女と日高くんとの間に感じた温度差。きっと彼が押しまくったんだろうな。
「なんだ、そうだったの?まあ、こいつは面倒見もいいからね。でもあんまり黙ってると先走っちゃうよ?ホント思いこみ激しいから」
ふざけたふりして、彼女越しに背中を叩いてちょっとだけスキンシップ。いいでしょ?このぐらい……仲いいとこ見せておきたいじゃない?こっちは5年以上の付き合いがあるんだ。もちろん教師同士だけどさ。
「あーもう、何言ってるんですか!僕の権威ってのがなくなるじゃないですか……」
「どんな権威よ?」
「ったく……智恵先輩には敵わないなぁ」
ちょっとぼんやりとわたしたちのやり取りを見ている彼女に少しだけ優越感。馬鹿だね、そんなのなんの意味もないのに。
「志奈子先生?」
「えっ、はい……な、なにか?」
「いやだな、もう!ぼーっとしてるから、もう酔ったのかなって。大丈夫?」
本当に人見知りするタイプのようで、こちらから話しかけないと彼女からは積極的には話してこない。お酒もどうやらあまり飲んでいないみたいだ。すっごくまじめなタイプなんだとよくわかる。ちょっと悪いなと思ってフォローしておく。この辺りが自分でもずるいなって思うんだ。
「あ……はい、大丈夫です。あんまり、アルコールに強くないだけです」
「志奈子先生は、もうその一杯だけにしておけば?」
日高くんったらナイトぶっちゃってさ。だからちょっと意地悪言ってやった。
「じゃあ、代わりに日高っち飲んでよ」
「なに言ってるんですか、僕は今日車だから飲めないでしょ」
送り当番自分で変わっておいてね。
「本当は智恵先生の番だったの交替したんじゃないですか。ま、今日は僕が志奈子先生送ってくからなんですけどね」
「まあまあ、お熱いことで。でも送りオオカミにならないようにね〜」
そう言うと、すごくすまなそうな顔した志奈子先生が謝ってくる。
「すみません……日高先生、わたしのせいで飲めなくて」
ほんとに真面目なんだ。これはもう応援するしかないかな?
「ありがとうね〜替わってもらっちゃって。でも、お昼過ぎに連絡してくるから驚いたわよ。それじゃあ、感謝の気持ちを込めて、飲ませていただきまーす!」
そう言ってわたしはビールジョッキを一気に半分位飲み干した。よし、飲んでやる、今夜は!
「また、先輩は……無茶しなさんなって。悪酔いしても知りませんよ?」
日高くんがわたしの飲みかけのジョッキを取り上げる。なんで?わたしなんかどうでもいいでしょう?
「もう、返してよー!このくらいで酔うわたしじゃありませんって」
「智恵、あんたペース早すぎ……」
同じ職場の奈美まで……こいつは知ってるからね。わたしが、彼を好きだってこと。何度も一緒に飲んでてバレたって言った方が早いかな?視線とかそんなのでわかるらしい。自称恋多き女だそうだ。全くないわたしよりはいいと思うんだけど。
その後も、美奈の忠告を無視して飲み続けて……へべれけの酔っぱらいが一丁あがりだ。

「ごめんね。普段はこんなこと無いんだけど……」
すっかり酔いつぶれたわたしを美奈が抱ええて車に乗せてくれる。
これから……彼は彼女を送って行くんだ。部屋まで送って、それから……どうするの?考えるだけで悪酔いしそうだった。
彼から学生時代にもそれなりに彼女がいたことは聞いている。わたしがS中にいたころはまだ学生時代の彼女と続いてたはずだし、最近は忙しいのと出会いがないのとで独り身だって言ってたから安心してたんだ。だけど、すぐに好きな人が現れた。彼女みたいに自分から言い出さない子はどう接していいのかわからないなどと、わたしに相談してくるもんだから馬鹿丁寧に答えてやったわよ。
『ゆっくり接していって、打ち解けて話せるようになってから申し込め』ってね。
どうやらその通りにしたらしい。いいなと言い始めて1年。ようやく付き合えるようになったことを、嬉しそうにメールで報告してきたんだもの。『よかったね』という以外どう返事すればいいのよ……
「諦めれば?」
車の中で奈美が口にする。今回ばかりは分が悪い。もう対抗のしようもないから。
「そうだね……もういいかげん諦めなきゃっていうか、諦めてたつもりなんだけどなぁ」
諦めていた。だから自分の気持ちを口にしなかったし、これからも仲間でいようと思ったら、このまま何も言わずにいるしかない。
完全に諦めていた。だから親の進める見合いもしてみた。何人かの男性と会ったけれども、こちらも値踏みしていれば向こうもしているのだ。望まれるのは女性らしい、家事のできる女性。結婚した後も仕事していいけれども、子供ができたら辞めてほしいというのが見える。わたしは……今の仕事に誇りを持っているから一生続けたいと思っている。自分じゃなければと言ってくれる生徒や父兄がいる。そして、それだけの結果を出してきたのだから。
それなのに、見合い相手が望むのは、平凡な主婦であって母であるわたしなのだ。
だったら、わたしじゃなくてもいいよね?そう思うとどの話にもいい返事はできなかった。もちろん向こうだってほとんどがお断りだ。
まあ、身長が175cmもあればそれだけでも断られる要素になる。サバ読んで171cmとか169.8cmって書いても、並べばわかるものね?

なのに……どうして??
日高くんと志奈子先生は、そのあといくら誘っても、飲み会には顔を出さなかった。忘年会も……新年会をどうするか聞くつもりで電話したら、去年の秋の終りに、ふたりは別れていたのだと言われた。
「どういうことよ!」
『仕方ないだろ……昔の男が忘れられないっていうんだから』
そんな、あんなにおとなしそうな子なのに、男がいたっていうの?誠実そうで、信じられると思った……わたしのこういう勘は滅多にはずれない。
「まあ、終わったことなんだ……それよりも心配なのはすごく体調悪そうで。だけど僕が世話焼くわけにもいかなくてな。これ以上誤解されたら彼女がかわいそうだろ?だからさ、もしよかったら……智恵先輩、彼女の様子見てやってくれないかな?あの子は、人に頼るのも、やさしくされるのにも慣れてない。そこに付け込もうとしたんだけどさ、僕じゃいまさら友達にはなれないだろ?だから……相談とか乗ってやってよ」
別れた彼女のフォローまでわたしにやれっていうの?
ほんとに、どこまでも彼女にはやさしくて、わたしには残酷なんだね。
いい奴だってわかってる。わたしの事も、頼りになる姉貴程度にしか思ってないことも。わかってたけど、その頼みごとを無下にできないのもまたわたしだった。

「船橋先生、ちょっといいかしら」
志奈子先生が校門を出たところで、わたしは彼女を呼び止めた。これは……日高くんが心配するのもしょうがない。顔色は悪いし、かなり……痩せた?だけど、昨日の彼の声の調子を思い出すと、いくら具合が悪そうでも、思わず口調はきつくなる。
「どういうこと?日高っち、あんたと別れたって言ってたけど、本当なの?どこが悪いって言うのよ?あんないい奴、ちょっといないわよ!」
さすがに校門ではまずいと思い、彼女を近くの喫茶店に誘った。だけど、わたしの中にある苛立ちは納まらない。だって、せっかく彼に選ばれたのに、なんでって……
「わかってないわ!あいつ凄く落ち込んで……飲み会も、忘年会も来なかったのよ?おかしいと思って、ようやく昨夜事情を聞いたら……あなたと別れたって言うじゃない?」
「……すみません」
だけど返ってくる返事は『わかってます』『すみません』そればかりだった。よく、わたしみたいにビシバシやってる女のほうが強いように思われてるけど、実際、こうやって頑として動かない無口な女のほうが強い。
「すみませんじゃ済まないって言ってるの!!」
思わず大きな声を出してしまったけれども、目の前ですまなそうに下を向いたままの彼女がかわいそうに思えてグラスの水を飲み干して、一息付くと声のトーンを落とした。
脅すつもりも責めるつもりもなかったのだ……日高くんが心配している、力になってやってほしいと言われたから来たまでで。その理由をまず聞きたかった。わたしは人を間に挟んで話を聞くのが嫌いだ。その人の主観が入るから、どうしてもその人寄りになってしまう。人間なんて都合のいいように解釈したり、理解しようとしたりするものだから。彼女の口からきちんと聞いておこうと思っていた。

彼女には好きな人が居て、学生時代からずっと付き合ってたそうだ。こっちに来る時に別れたのに忘れられなかったのだろう。恐らく自分の事はあまり話さないタイプの彼女は、あまり余計なこともしゃべらない。それは一度会った時に感じていた。だから、わたしは先に自分の事を話した。
腹を割って話すには、まず自分の一番話しにくいことを話して相手を信用していることを示すのも一つの方法だから。
「あのさ、わたし……日高っちのこと好きだったんだよね」
「えっ?」
驚いた顔を上げて、じっとこちらをまっすぐに見つめて来る。素直何だな……人の真剣な話しを聞くときはちゃんと目をあわせてくる。この子がいい先生をやってるっていうのも、わかる。だからざっくばらんに、日高くんに片思いしてたことも、諦めてお見合いしたことも話した。
「こりゃ敵わないなって、すっぱり諦めてこっちは見合いまでしたのにさ……勝手に別れたりしないでよ」
ほんと、それが正直な気持ち。あいつの本気も、わたしの本気も……どこに行けばいいの?
「前の彼が忘れられないっていうのも……判るよ。わたしだって、全然諦められなかったから。たぶんあいつが可愛い奥さん貰うまで、ずーっと諦められないんだと思う。何かある度に、呼び出されて愚痴聞かせられるのもなんだけどね……あいつにとってわたしは頼りになる姉貴分だから。あんたのことは、本当はまだ許せない。あんなに真面目で、一生懸命想っていたあいつの気持ち踏みにじったんだからね?だからといって、わたしが想い続けたところで両想いになれっこないっていうのもわかってる……」
そう、それ以上にはなれなかった。
『正岡先生みたいな指導員になりたいんですよ』
そう言って尊敬はしてくれても、女としてみられたことは一度もない。おそらくこの先もないだろう。わかっているし、そうさせているのも自分だ。告白したりしてあいつを困らせるつもりはないから……これからも同じ教師としてやっていくしかない。だけど、きっとこの子にとって日高くんはそんな存在だったのかもしれない。先輩風吹かせて、一生懸命指導しようとした彼の姿が目に浮かぶ。彼女もそれに応えようとして、その一生懸命さに惚れたんだ……たぶん。
同じかもしれない。理想の姿を見せてしまったら……自分を落とすことができなくなる。
「あいつにとってわたしがずっと先輩であるように、あんたにとってもあいつが先輩なんだよね」
静かに頷くのを見て、説得は無理だなと思った。これほど一途な子なら、きっと元カレの事も忘れられなくて苦しんでいるのだろう。ほんと、見ればみるほど顔色が悪い……ってまあ、わたしが緊張させてるのがいけないんだけど。
「ね、顔色悪いけど、大丈夫?」
「平気です……」
そうは答えたものの、すぐに『すみません』と言って席を立った。口元を押さえてトイレに……って、まさか??

そっと後を追うと、洗面台にせき込むようにして吐いているのがわかった。だけど実際には何も吐いてない……恐らく胃液しか吐くものが残っていないのだろう。これは、結構辛いと思う。
「日高っちの?」
その問いに、ハッと上げた顔は血の気を失って青白いを通り越して真っ白だった。恐らく貧血も起こしているのだろう。
これでも体育教師、保健ももちろん教えている。この歳にもなれば友人の何人かは出産しているし、身内にだって妊婦はいるから。だけど違う、彼とはそんな関係じゃなかったと言う。確かに、深い関係だったとは聞いていないけれども、言わないだけだと思っていた。あまりにもこの子が男性経験なさそうだから遠慮してたってところかしら?でも、これは間違いなく悪阻の症状だ。
「ホントに?実はね、日高っちに頼まれたのよ……お正月明けからずっと、あんたの体調悪そうだから様子見てやってくれって。自分は何もしてやれないから、話しでも聞いて相談に乗ってやってくれないかって……わたしに頼むのよ?ほんと、無神経な奴なんだから」
「それだけ……日高先生に信頼されてるんですね」
本当に、嬉しいような、嬉しくないってやつだわ。少しおどけて答えると、少しだけ彼女が笑ったような気がした。もちろん表情はそのままだけど……たぶん、この子は顔に出すのに慣れていないんだ。幼いころからあまり話しかけられなかったり、構われなかった子は情緒不足になりやすいという。あまり笑わない、無表情な彼女はきっと、感情を大っぴらにすることすら慣れていないのだと思われた。
「でも、本当のとこどうなの?自分一人でどうこうできる問題でもないでしょう?」
わたしも馬鹿だと思う。何もわざわざ面倒なこと聞かなくてもいいのに、と。でも、教師が未婚の母って教育委員会や保護者連がうるさいのだ。このまま教師を続けるのも難しいだろうし、堕ろすなら早い方がいい。その場合……また色々あるだろうから。まだ子供は産んだことはないけど、やむなく中絶した話や、欲しくてもできない話も友人から聞いている。中には教え子がって話も最近じゃ珍しくなくなってきてる。
聞くと、生理は2ヶ月来ていなくて、判定薬も陽性だったそうだ。ただ、まだ医者には行ってないらしい。確かに行きにくいわよね。独身で、この辺りの産婦人科になんか、下手に出入りしていたら学校関係者や保護者に見られたりして、どんな噂になるか想像できてしまう。
「わかったわ。何か出来ることがあったら相談して?必要なら産婦人科に行くのも付き合うし。どうせならこの県内よりもっと離れたとこのほうがいいでしょ?どうするつもりなのか早く決めないとね。これは女として、同じ教師として、ね。マズい事になる前に……そうでしょ?」
ありがとうございますとお礼を言う彼女をアパートまで送っていくことにした。これ以上彼女を責めても意味がない。彼女はそれ以上に大きな十字架を背負おうとしている。おそらく日高くんもそのことに気がついたのだろう。だからこうしてわたしに話させたのだ。自分じゃ話してくれないことがわかっているから。
ま、わたしの気持ちなんて考えてもいないんだろうけど。結局わたしは彼女を放っておけなかったんだしね。
本当に真面目でいい子なのだ。控え目で余計なことを口にしない、甘えようとしない……こういう懐かない子って好きなのよね……
「それで、本当にどうするの?」
「どうするか、もう少しだけ考えたいんです……」
アパートの前に車を止めながらもう一度聞く。すると彼女は助手席でそっと自分のお腹に両手を置いて愛おしそうに……微笑んだ。たぶんほんのちょっとだけ。
「だって、ここにいるのは……カレの子なんです。向こうは遊びだったかもしれないけれど、わたしが本当に好きになった、たったひとりの人の子供なんです」
もし、自分が同じ立場だったら……やっぱり産みたいかもしれない。彼女の中には、自分がいつか結婚して幸せになるという選択肢がないのだ。それは、わたしもそうだからよくわかる。たぶんわたしみたいなのは貰い手もなく、一生生徒たちにバレーボールを教えて終わるかもしれないのだ。子供は好きだ……もし自分が、好きな人の子供が産めるなら、悩んで、考えて……産んでしまうかもしれない。
「わかったわ……悩みなさい。でも身体に無理がない用にね。ストレスはよくないわ。子供には全部伝わっちゃうそうよ。お母さんの感情が……」
「そう、なんですか?」
「そうよ、お母さんが幸せな気持ちでお腹の中にいれば、子供はすごく楽なのだそうよ」
「わたし……今苦しめてばかりかもしれません」
「何も食べてないでしょ?それもよくない。ちゃんと食べなさい」
「でも……匂いとかダメで」
「よく友人が小さな塩のお握りを作って持ってきていたわ。授業の合間ずっと食べてたわ。『おいしいの?』って聞いたら『コレしか食べられないの。一番おいしいものの究極だ』って。だから試してみて?」
そうアドバイスしたら、その後も何度かメールや電話で相談があった。塩握りなら食べられましたとか、ほんとに素直にお礼を言ってきて……だめだ、この子ったら可愛いって思ってしまった。一生懸命な子に弱いのよ。日高くんが惹かれたのも無理はない。わかるわ……しっかりしていそうで、何かが足りないの。わかってしまう人は、彼女が危なっかしく見えてしょうがないのだろう。なのになかなか頼ってこないし、来ても遠慮がちだわで、彼女が人に何かしてもらうことに慣れてないなんてすぐに分かった。今まで何もかも全部自分でしてきたのだ。それこそ幼いころから……生まれ育った環境やなんかを少しずつ聞いていくうちに、わたしは絶対にこの子の味方になるって決めたのだ。誰もいないのなら、せめてわたしが味方になるって……そう決めたらわたしは突っ走る。誰がどう言おうと。
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