「Honey Trap」
アタシは、机の上の書類に目を置いたまま、ぼんやりと「昔」のことを思い出していた。
もう……10年ほども前のことになるのかしら。
大学時代の女友達と久しぶりに飲んだ帰り、アタシは「あの子」を見つけたの。
見るからにチンピラって感じの人相の悪い男たちに囲まれて、虐められる子犬みたい縮こまって泣きそうな顔してた。
中学生くらいだろうか、服装だけは一人前に粋がった格好をしていたけれど、あの童顔じゃね。
あれで繁華街をウロウロするなんて、「絡んでください、カモにしてください」って言って歩いているみたいなものよ。
バッカじゃないの、そう思って1度はやり過ごそうとしたんだけど、困っている人を見ると放って置けないのがアタシの性分。
気がついたら、そのチンピラどもと彼の間に割って入って仁王立ちしてた。
今思えば、無茶なことしたもんよね。
1歩間違えれば、輪姦された上に東京湾の底か奥多摩の山中で永遠の眠りについていたかも知れないのに……て、それはちょっと大袈裟だけど。
まあ、とにかく。
そのときはお酒が入って気が大きくなってたのと、当時勤めてた会社で上手くいかなくてむしゃくしゃしてたのが重なって、アタシとしてもどこかで発散したい気分だったのは確か。
「ちょっと、大の男が寄ってたかって何してるのよ、相手は子供じゃないの」
「うるせえ、女は引っ込んでろ」
「引っ込んでられないわよ。この子、アタシの弟なの。あんたたちの欲しいものって何、お金? だったら、こんな子供じゃなくてもっと金持ってそうなのを狙いなさいよ、情けないわね」
驚いたような顔で私を見上げてきた子犬ちゃん、……じゃない、その絡まれてた男の子に目配せすると、アタシは財布の中から数枚の札を抜き出して放った。
「ほら、欲しいもの手に入れたらさっさと消えなさいよ。いつまでもグズグズしてると警察呼ぶわよ」
チンピラたちは、アタシみたいなのに反撃されてしばらく呆気に取られていたようだけど、警察という言葉を聞いてあたふたと逃げ出していった。
アタシはほうっと息を付いて、足元にしゃがみ込んでいる彼を見下ろした。
「あ、あの……ありがとうございました」
「別に、アタシは自分のするべきことをしただけよ。ていうか、あんたもあんなのに絡まれないように気をつけなさいよね、男でしょ」
「は、はい、スミマセン。あ、そうだ。俺、金払います」
「お金?」
「さっき、私の弟だって言って、やつらに渡してくれたでしょう、金」
「ああ……」
ああいう解決の仕方が良かったのかどうかわからないけど、まあ、あの場合はしょうがないわよね。
「いいわよ、そんなの」
お金がまったく惜しくない、と言えば嘘になるけど、まさか自分よりも10歳ほども年下に見える中学生からそれを受け取るわけにはいかないでしょ。
「でも……」
「男のくせにグダグダ言わないっ。お子様は早いとこ帰って寝なさい。そのうち補導されるわよ。そうしたら、アタシだって助けてあげないから」
彼は、しばらく複雑な表情でアタシを見つめていたけれど、そのうちこくんと小さく頷いた。
「わかりました、今日はこれで帰ります。だけど俺……」
言いながら、真面目な顔でアタシの手を握り締める。
「あなたが俺を必要とすることがあったら……困ったときでも悲しいときでも、寂しいときでもいつでもいいです、俺、真っ先に駆けつけますから」
あらまあ、子供なのにずいぶんとカッコいいこと言ってくれるわ。
そしてアタシは、彼に向かって苦笑交じりでこう答えた。
「そうね、あなたがもう少し大人になったら、そのときにはお願いするかも知れないわ」
それから、アタシたちはお互いに名前も聞かずに別れた。
う~んと、本当は聞いたかもしれないけど、アタシはすぐに彼のことなんて忘れてしまった。
とりあえず、酔った勢いっていうのもあったわけだし、ねえ?
それに、行きずりの中学生をいつまでも気にかけていられるほど、アタシも暇じゃなかったの。
あのあと、アタシは結局仕事にやりがいを見つけられなくて会社を辞めてしまった。
そして、脱OLして起こしたのが今の会社。
運良く、時代の風潮にも乗って大成功したわけだけれど……。
――プルルルル……。
突然、内線電話が鳴って、アタシは現実に引き戻された。
受話器を取り上げ耳にあてると、流れてきたのは聞きなれた秘書の声。
「何の用?」
「本日の午後のスケジュールが出ましたので、これからお届けに上がります」
そんなこと、わざわざ電話で知らせてこなくったって、直接出向いて来ればいいじゃないの。
本当に気が利かないんだから。
「わかったわ」
アタシは、冷たく言って電話を切った。
それから、なんとなく溜息を吐く。
こういう態度、やっぱり改めた方がいいのかしら。
他人に対して必要以上に突っ張ってしまうのは、アタシの悪い癖なのよね。
こんな風に虚勢を張ってしまうようになったのは、いつ頃からだろう。
社長と呼ばれるようになって、夢見ていた成功も手に入れて、会社も軌道に乗っている。
この10年で、望んでいたものは全て手中に収めたような気がしてたけれど。
なのに……この虚無感ってなんだろう?
もしかしたら、アタシは「成功した女性実業家」という肩書きと引き換えに、大事なものをたくさん失ってしまったのではないだろうか?
そう思い出したら、わけもなく胸の中に焦りが生まれて。
それ以来、「自分」というものに自信が持てなくなってしまったの。
もちろん、言い寄ってくる男の人はいっぱいいる。
でも、これって仕事のコネ目当てじゃないの、とか思ったら本気になんてなれるわけないじゃない?
そうこうしているうちに、だったら最初から本気にならずに済む遊びをすればいい、なんて考えるようになってた。
それで、手を出したのがホスト遊び。
女を扱いなれた彼らのソツのなさが、アタシには心地良かった。
考えてみればそれも寂しいことだけど、だって仕方がないじゃない。
アタシだって女だもの、ひとり寝が辛い夜だってあるわよ。
そういうとき、彼らなら擬似的にでも楽しませてくれるし、身体的な満足も与えてくれる。それで彼らにはお金が手に入る。いわゆる、ギブ・アンド・テイク。
30も半ばを過ぎた独身の女社長、なんて、傍からは華やかに見えても内情はそんなもの。
でも、そんなのホストの前で弱気を見せちゃった言い訳にはならないかな。
アタシ、あのときのことは酔っていたせいかよく覚えてないんだけど、あるホストの前で「寂しい」って泣いてしまったみたいなの。
実際、お酒の力でも借りなきゃ本音も言えない、寂しい女なのよね、アタシは。
社内にだって、わざわざ社長のアタシを選んでコナかけてくる男性社員なんているわけがないし。
それに、悔しいけど、彼らにとって、アタシはストライクゾーンよりも少し上みたいだしね。
そう、あるひとりを除いては……。
――コンコン。
軽いノックのあとでドアを開けたのは、最近秘書にした若い男。
彼は、アタシがデスクの前に座ったままぼんやりしているのを認めると、軽く一礼して入室し、後ろ手でドアをパタンと閉めた。
そして、少し心配そうに眉を顰めて聞いてくる。
「お加減でも悪いのですか、社長?」
「いいえ、余計な心配は無用よ。確認するから出してちょうだい、スケジュール」
いけない、いけない、とアタシは自重する。ここは会社なんだもの、個人的な考え事でボーっとしているなんて、社長としてあるまじき行為だわ。
彼の手からワープロ打ちのスケジュール表を受け取り、ざっと目を通す。
それから、妙なことに気づいて、デスクの脇に立つ彼の顔を見上げた。
「ちょっと、ここにある空き2時間は何なの?」
取引先の重役と会合をかねた昼食をとったあと、会社の方に訪ねてくるクライアントとの面会時間まで、移動の時間を含めた賞味3時間が空欄になっている。
アタシは、その箇所をとんとんと指差した。
すると、怪訝な表情を浮かべているであろうアタシとは反対に、彼はにこやかな笑顔になった。
「もちろん、僕に付き合っていただく時間ですよ。2時間もあればたっぷり楽しめるでしょう」
どんなことでもね、と意味深に続ける。
アタシは、それこそ耳までを真っ赤に染めた。
「何言ってるの、どうしてアタシがあなたに付き合わなくちゃいけないわけ、ふざけるのもいい加減にしなさい!」
秘書の分際で社長に向かって自分に付き合えだなんて、いい度胸だわ。
いっそのことクビにしてやろうかしら。
確かに軟弱な見かけによらず有能ではあるけれど、時と場所も弁えられないような人間ならこちらも考え直す必要がある。
そんなことを頭の中で目まぐるしく考えていたら、突然身体が反転した。
目の前に、アタシの顔を覗き込む彼がいる。
180度回転したエグゼクティブ仕様の革張り椅子の肘掛に両手をついて。
「な、…なによ」
「ふぅん……まだそんな口のきき方をするんだ」
「どっ、どういう意味?」
彼は答えの代わりに、アタシの頭のうしろに腕を回して、髪の毛をきゅっと掴んだ。
否応なく上向かされると、そこに唇が降りてくる。
そして、有無を言わせない激しいキス。
文字通り、口中を蹂躙するような。
「俺は、あなたが好きだと言ったはずだよ」
長い長い口づけのあとで、形の良い唇の端を上げて彼は囁いた。
言葉遣いまでが少し粗野になってるわ。
「口で言ってわからないなら身体に教え込むよと言ったのを忘れたの?」
「そんなの、勝手すぎるわ。アタシの気持ちはお構いなしなわけ?」
「それは違う。俺は、あなたの気持ちを汲んだんだよ。俺の胸で、寂しいと言って泣いたあなたの気持ちをね」
彼が、あの夜のホストだったと気がついた(気がつかされた)のはつい先日のことだ。
われながら、何という不覚。
1度でも関係を持ったホストを秘書として迎えてしまうなんて。
そして、そんな策士な彼の術中にまんまとはまってしまうなんて。
そう……アタシはもう、彼に夢中。
身も心も、彼にすっかり溺れてしまっているの。
「さっきは何を考えていたのか言ってごらん」
「言わないわ。言ったらきっと笑うもの」
「笑わないよ、約束する」
「……アタシたちの、最初の出会いのことを思い出していたの」
あの日、チンピラの前で大見得切って助けてあげたのがあなただったのよね。
もう2度と会うことなんてないと思っていたのに、結局はあなたの言った通りになっちゃった。
「ねえ……あの台詞、本気だったの?」
「もちろん。俺は、あなたが俺を必要としてくれるのならいつでも側にいるよ」
アタシを見つめる彼の瞳が甘く滲んだ。
もしかしたら、潤んでいたのはアタシの目だったかも知れないけど。
「離さないわ……これは社長命令よ」
「それがお望みとあらば、喜んで」
アタシはもう抜け出せない。
彼の仕掛けた、甘い罠から。
= fin =
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