4.
 
『工藤さん、中上です。望月さんが使っていた保険証から通っていた病院がわかったの』
椎奈が居なくなって半年、何の成果も出せない興信所は2月前にこれ以上は無理ですと向こうから断りを入れてきた。地道に連絡しながら待っていた工藤の元に中上から連絡があったのはもう4月の終わりだった。
「本当ですか?」
『ええ、こちらではわからなかったんだけど、会社の方に半年分の使用報告書が来たの。退職しても退職前からかかっていた病院にはかかれるからね。FAX送るわ。どこに送ればいい?』
工藤が告げた自宅のFAX兼用のパソコンに病院名が送られてきた。
『見てもらったらわかるけど、望月さんは退職前からわざわざその病院に通ってたみたいなの。きっと...計画的ね。』
「はい...」
そこにあったのは東京所在の産婦人科名だった。まさか東京都だったとは...さすがに工藤も考えつかなかった。なぜ東京なのか、それは後回しだ。やはり産婦人科に通っていたのだ。そしてその診察期間は終了している。
『やっぱり...これが原因だったのね。』
「オレの...オレの子なんです。椎奈は、自分一人できっと...」
『どうするの?工藤くん』
「明日から有給取って東京に行きます。いえ、もう今夜発ちます。ちょうど連休ですし、向こうに行って探した方が早い。この住所なら...」
その産婦人科の所在する地名には見覚えがあった。そこは去年、工藤が1年間暮らした街だったのだ。
『そう。工藤くん、早く見つかるといいわね。』
この人もこの半年間会社側に働きかけて、絶えず椎奈の情報を工藤に与えてくれていた。椎奈のことを他人事に思えないとも言ってくれた。
『わたしも、あの時彼の子供を産めていたら...』
そうつぶやいた中上は、自分が病に倒れた彼の子が欲しいと思ったことを話してくれた。本当に好きな人の子なら自分一人になっても産みたいと思ったことを...
 
 
「京香、オレ今から新幹線乗るから...望月の家には連絡した。確認がとれるまで待っててもらうから。」
椎奈の実家と、京香に連絡をすませると工藤は駅に向かった。
『工藤、何かあったら必ず電話してよね!』
「わかってる。」
椎奈を抱いてから1年近くになる。電話で問い合わせると確かに望月椎奈は出産していると返事をもらった。だけどそれ以上は電話では教えてもらえなかった。
「椎奈...」
オレの子を産んだのか?自分一人の力で...
工藤が恐れているのは自分が父親になることではない。もし、椎奈が自分を必要としなかったら...椎奈の側に支える人間が他にいたら?工藤は自分の存在が否定されることを恐れた。幼い頃、あれだけ信じて愛情を求めた母も父も工藤を捨てた。工藤の存在もなにも必要としなかった。まるで邪魔者のように祖母の元に置き去りして、それっきり連絡を取ってこない母、たまにしか顔を見せない名前だけの父親だった。幸いなことに優しい祖母は工藤に愛情を注いでくれた。頑固な祖父はいろんなコトを語ってくれた。でも心の片隅にいつもあった。
(オレはいらない存在なんじゃないのか?)
だから必要とされれば嬉しかった。好きと求められれば嬉しかった。けれどもその反面いらないと拒否されるのが怖かった。だからいつだって先に自分から一歩引いて先にいらないと思うようになった。向こうから言われたとしてもそのころには心はもう向かっては居ない。いや、最初から心など許してないのだ。
(一番怖かったのは椎奈に拒否されることだった。)
どんどん工藤の心の中に入り込んでくる親友の存在に正直戸惑った。だけども親友と思いこむことで均整を保っていたのに、それを崩してしまった自分。
(もし、椎奈にオレなんかいらないと言われたら...?)
考えるだけで恐ろしかった。けれどもそう思われてもしょうがない自分だ。気がつかなかったといえ、身体だけ抱いた形になったしまった事実。誰が聞いたって工藤はひどい男でしかない。
(なぜあの時、もっと慎重にならなかったんだろう?)
工藤はふと最初に避妊しなかったこと思った。もしかしたら、自分は椎奈との間にだったら出来ても構わないなんて思ったのだろうか。
(オレの身体の方が心より正直だってことか?)
最初っから暴走気味だった身体は椎奈を抱くことに歓喜していたのだ。椎奈を欲しくて欲しくて...何度も抱いたのだってそれで説明がつく。
(オレは、椎奈との子が欲しかったのかも...)
離れようのない深い繋がり。椎奈だったら、自分の母親のように子供を見捨てたりしない。たとえ一人ででも立派に育てるだろう。もてる限りの愛情を持って。椎奈はそんな女だった。
(椎奈だったら、母親になってくれる...)
それは自分のだろうか?それとも自分の子の...いずれにしても椎奈には工藤の<絶対>があるのだ。それは親友としての<絶対>でもあったけど、本質的には人としての<絶対>でもあった。
(椎奈...逢いたい、逢って抱きしめたい。愛してると何度も伝えたい...)
1年の間椎奈だけを求め続けた工藤の心も身体も、椎奈に飢えきっていた。
(椎奈...)
目を閉じても椎奈の顔ばかり浮かんでくる。
(頼む、オレを...オレを拒否しないでくれ!)
新幹線の座席に工藤は身体を小さく丸めて震えそうな身体を必死で押しとどめることしかできなかった。
 
〜椎奈〜

椎奈が自分の身体の変化に気がついたのは工藤とのことがあった翌月だった。
遅れすぎた生理は結局来なかった。
それもそのはず、工藤にはもうすぐ生理だと告げた椎奈だったがそれはとっさについた嘘だった。生理までまだ日がかなりある。
初めての行為に身体は慣れなかった。だけども信じられないほど優しい工藤の愛撫に椎奈の身体は溶けた。心も溶けていた。
(構わない...)
心のどこかでそう思っていた。
(だって、どうせもう誰ともこんなことしない。工藤とだけ...)
椎奈はそう思っていた。これが最初で最後なら、そうなっていても構わないと...だけど工藤にだけは迷惑かけられないと。彼にはちゃんと彼女が居て、いつか誰かと一緒になるのだ。そんな時に、自分の存在がじゃまをしちゃいけない。ましてや子供なんかが居たとしたらそれこそ工藤に申し訳ない。自分が頼んだことだ。抱いてもらえただけで幸せなのだ。それ以上の贅沢を言ってはいけない。そう言い聞かせる椎奈だった。
だからこそ、身体の中に芽生えた小さな命はこの上なく嬉しい天からの贈り物のように思えた。最初だけで、後はすべて避妊をした工藤だった。失敗したのだって椎奈が発作を起こしかけて身体を痙攣させてしまったからだ。お酒で体温は高かったし、聞かれても生理が終わったところだと言ったら安心はしてくれた。全く安心なんてないに決まってる。けれども工藤がそう思ってくれていればそれでいい。このことは自分の胸の中にだけしまっておくつもりだった。もし、知られてしまっておろせと言われたら辛いし、責任を取ると言われても嬉しくない。だから一人で、なんとかして産んで育てたいと椎奈は願った。
(工藤にとってはすごく迷惑なことだもの。好きでもない、一度抱いただけの女に子供が出来て産みたいなんか言ったら迷惑だよ...)

椎奈は幼なじみの苑子を思い出した。大学に入ってしばらくして苑子が結婚したと聞いたのだ。遊び仲間との間に赤ちゃんが出来て、そのまま結婚したと...大学卒業間際に苑子と逢うことがあった。どこかで不意に出会ったのだが、近所なのだからしょうがない。実家の近くのアパートに親子三人で住んでるのだと言った。
『出来ちゃったからおろすしかないなぁって思ってたらさ、あいつが産めっていってくれたんだ。嬉しかったなぁ...本気でちゃんと相手されてたんだって思えてね。生まれるまでも生まれてからも大変だったけど、まあ、なんていうか、お金も知識もなかったけど、それなりに幸せだよ。』
愛される女の顔で柔らかく笑う母の顔した苑子が居た。椎奈は嬉しくなって何度もよかったねを繰り返した。苑子と彼との間には愛があったんだ。だから出来たことがわかるとすぐに彼は真面目に働き始めプロポーズしたのだろう。苑子もいい母親になろうと努力していると言った。椎奈は無条件で苑子を祝福した。昔のことなどもうどうでもいい。苑子にとってももう工藤は過去の存在だ。旦那さんが一番なはずだ。
それに比べ苑子に工藤のことを聞かれてもさりげなく相変わらずとしか告げることの出来ない自分。
そのときはっきりと認識した。自分には、この先何かできることもたぶんない...
男性恐怖症で、土屋とも別れ、唯一触れられる工藤とは一生そんな関係になるはずもなく、半分以上諦め状態の椎奈にとって、母親になることなど、まず無理な現実。それが今...
(ここに、工藤とあたしの赤ちゃんがいるんだ...ごめんね、お父さんの愛はないかも知れないけど、その分あたしがいっぱい愛してあげるからね。だから元気に生まれてくるまでがんばって!)
ドラッグストアで購入した妊娠検査薬で陽性反応が出た後、椎奈は密かに動いた。ここでは産めない、それが真っ先に思ったこと。工藤に迷惑はかけられない。だから...
平日が代休になる椎奈の仕事は都合がよかった。休みの日に遠くの街まで足を伸ばし、その街の産婦人科を訪ねた。
「妊娠3ヶ月に入ったばかりですね。」
聞き慣れないイントネーションでしゃべる医者のせりふはまるでブラウン管の中の出来事のように思えた。触診は嫌だったけれども、母親になるのに発作なんか起こしていられないとがんばった。
当然のように医者はどうしますかと聞いてきた。
椎奈はもちろん産みますとはっきり答えた。気持ちが決まると早かった。まわりに気づかれないように、田舎に帰った振りをしたりして住む場所や働く場所を探した。出産までのわずかな間でも働きたいと思っていたし、いくら貯金をしていると言っても一生食べていけるほどではないし、子供を育てるのにどれだけかなんて想像もつかない。切りつめれるだけ切りつめて、子供には出来るだけのことをしてやりたいと願った。
エコーでわずかに映る小さな命の影に感激して、大事に大事に病院を出た。
ここは工藤が1年前住んでいた街。
寂しがった工藤が何度も電話をかけてきては聞かされた。工藤の居た賃貸マンションの近くには庶民的な定食屋があり、休みの日には日に何度も食事に通ったとか、そこのおばちゃんはいい人で、人情深く、一度財布を忘れた工藤に、また明日でいいと笑顔で見送ってくれたこととか。それと銭湯があってそこの絵は富士山じゃないんだとか、そんな諸々の話。聞いているからこそその初めての街が椎奈には懐かしくも暖かく感じられた。
戸籍もすぐに移せるようにしたし、移してすぐに母子手帳もこちらでもらった。銀行口座も新たに開設してお金を移した。ウイークリーマンションを借りて、二重生活のようになったけれども椎奈はすでにこの街の住人になろうとしていた。
退職願を出し、月末で退職を決めた後は田舎に帰る振りをして大人しくしていた。
椎奈は誰にも告げず、手がかり一つ残さず姿を消すつもりだった。
だけど一つだけ...藤枝についた嘘が椎奈を苦しめた。
工藤とうまくいったと嘘を言った後だったので、藤枝は工藤と結婚するために田舎に帰るのだと早合点した。
『おめでとう』
そういわれて、どれほど辛かったか...工藤に連絡されても困るので、藤枝と口を聞いたら嫉妬するからと、そんな嘘までついて牽制していた。
京香に知らん振りするのも辛かった。何かあっただろうとうすうす気づいていた彼女は椎奈が話してくるのをずっと待っていてくれた。
未来も、工藤に対するカモフラージュで知り合いの人を形だけ紹介してもらった。でも実際逢う気にもならずお茶して、その後はまともに連絡もとっていなくて申し訳ないことをしてしまった。
退職の日、職場のデスクはもうかたづける必要のないほど綺麗だった。
(続けたかったなぁ...この仕事。でもすべて諦めていたのにお母さんになれるんだから...こんなに幸せなコトってないよね?)
椎奈は自分のおなかにそっと触れて確かめる。少しづつ大きくなってくる下腹。生理が来なかった時点で2ヶ月目に入ることは初めての診察で教えられた。見てもらった時点で3ヶ月目に入ったばかりだった。もうそろそろ5ヶ月目に入る。つわりも少しあって辛かったけれども、ちょうど暑くなり始めた季節だったのでダイエットと胃炎のせいにした。一度倒れてしまったのは失敗だったけど、貧血も軽い方だし、吐き気も吐いてしまうほどひどくはなかった。
立ち仕事が長いのでコルセットで少し締めた。下に落ちないように、それとクーラーで冷えすぎないようにするためにだ。
おかげで誰も気がつかなかった。元々身体の線の出る服を嫌っていたのが幸いした。

「お世話になりました。」
「幸せになるのよ、望月さん。」
そう中上さんに言われて、あたしは素直に笑うことが出来た。
(あたしは、この子と二人で幸せになります。)
そう心から思っていたから。
寮は朝の間に退寮手続きもすべて済ませた。身体一つであの街まで行くだけなのだ。
椎奈は挨拶をすませると駅にむかった。荷物も移動しているから、軽いボストンバック一つもって新幹線に乗った。
目を閉じて座席深くに腰掛けておなかに手をやる。
(がんばろうね!お母さんもがんばるからね...)
がんばると決めたのに、赤ちゃんのためにも笑顔で、泣かないと決めたのに...
動き出す新幹線の窓から見える街の景色を見ていると、もうここには帰ってこないと決めてただけに切なくなる。
もう二度と会えない。
京香にも、未来にも、三宅にも...それから家族にも、会社の仲間たちにも。
それから...工藤にも。
友達でいいからずっと側にいたかった。だけどももうそろそろ限界がきていたことにも気がついていた。
だからこれでいい。
居なくなったあたしのことは親友として心配してくれるだろう。
でもみんなそれぞれの生活があるのだ。自分一人姿消した程度で何もこの世は変わらない。
さよなら、みんな...あたし絶対幸せになるから、だから忘れてね。あたしのことは。
あたしは、この子がいれば、それだけでいいから、がんばるから...

(工藤、さよなら。大好きだったよ。口に出して伝えたかったけど、だけど...ごめんね。)
涙を堪えて眠ったふりをして目を閉じた。目を開けたら、新しい生活が始まる。

圭司...
眠りに落ちた椎奈の唇がかすかにそう動いた。
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〜あとがき〜
椎奈ようやく登場〜〜。実はすごく現実的に動いていた椎奈。
次回より舞台は東京です。行ったことありますが住んだことありません。記述がおかしくても笑ってすませてやってください。東京のイメージは真っ黒なうどんのつゆ、ですからね〜(笑)
 

 

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