2.
 
『工藤っ、椎奈と連絡とってる?!』
「いや、取ってない...どうした、京香?」
この女がこんなに焦った声を出すのは久々に聞いた気がする。工藤は携帯を耳から少し離してからゆっくりと答えた。
椎奈に忙しくなるから電話してくるなと言われてから、工藤は素直に連絡していない。メールは何回か入れてみた。<彼氏とよろしくやってるのか>とか、<オレも今の女はいい女で満足してる>とか、思っても居ないことを悔し紛れに送っては、帰ってきた返事に打ちのめされてやけ酒を飲む羽目になっていた。
<うまくいきそう、工藤のおかげだよ。今夜、彼のところにいくんだ。ありがとう、感謝してるよ。幸せになるから、もう心配しないで、工藤は工藤で幸せになってね。じゃあね!>
最後のメールはそんな感じだった。
『椎奈の携帯に繋がらないの...メールも返事がないの!それって先月末からずっとなのよ、おかしいと思わない?』
先月末...ちょうどあのうまくいきそうメールのあった頃だと工藤は思い出していた。
「わかった、オレ、今日仕事の帰りに椎奈の職場に寄ってみるよ。」
電話を切った後、試しに携帯を鳴らしてみたが繋がったのは『おかけになった電話番号は...』という機械的なアナウンスだけだった。
「くそっ!なんなんだよっ!」
工藤は乗っていた営業車のハンドルを思いっきり叩いた。メールも何の返事もないままで、届いたのだろうかそれすらもわからない。終業時間を待って、工藤は自分の車に乗り換えて、椎奈のつとめるホテルの従業員用通用口の前で車を止めて待っていた。
この春から乗り換えた四駆のボディに身体を預けて、苛立たしげに煙草をくわえている工藤の姿はずいぶんと目立った。ちらちらと横目で視線を送ってくる女性を完全無視しながらそこから出てくるだろう椎奈の姿をひたすら探していた。
「あれ、工藤さん...」
唯一見知った男がゆっくりと近づいてきた。柔らかなほほえみを浮かべたその男は工藤の表情の硬さをみて、怪訝そうに眉をしかめた。
「藤枝...わるい、椎奈はいるか?」
「何言ってるんですか?望月さんは先月末で退職しましたよ。オレがいよいよ工藤さんと結婚ですかってきいたら内緒にしててくれって...上司だってそうだと思ってましたよ。田舎が一緒だから田舎に帰って一緒になるんだって思ってて...」
(なんだって?退職?オレと結婚?田舎?)
「なんだ...それ?椎奈は、今未来に紹介してもらった男と付き合ってるはずで...ちょっと待ってくれ。藤枝、その上司って椎奈が尊敬してた女の人だろ?悪いが会わせてくれないか?ここじゃなんだから、その先の喫茶店ででも、頼む!」
工藤の声の調子からしてただごとではないと感じた藤枝はすぐさまホテルの中に戻っていった。退職の理由は工藤とだとばかり思っていて、これ以上は見てるのも辛かった藤枝はそれ以上椎奈に追求できなかった。みんなにも知らせたがらなかったのも、恥ずかしいのや、仕事を志し半ばでやめていく辛さだと受け取っていた。だが、その相手の工藤が退職を知らなかったなんて...その事実は藤枝にとっても十分衝撃的だった。
「京香、椎奈の実家に連絡取ってくれ!椎奈の奴、会社月末でやめてるんだ。」
『ほ、ほんとなの?わかったわ、すぐに連絡するわ。』
『で、来れたら来てくれ、椎奈の職場の近くのエレナって喫茶店だ。』
それだけ言うとオレは車をその店の駐車場に放り込んでまず未来に電話した。携帯はマナーモードだったので会社名を出してホテルに直接電話して呼びだした。
『何なのよ、工藤。』
「椎奈が先月末で退社してるんだ。誰も行き先を知らない。未来は何か聞いてないか?」
『うそ...まさか...』
「本当だ、なぁ、椎名に紹介した男って言うのは?付き合ってるんだろ?そいつの連絡先教えてくれ!」
『はぁ...?何言ってるのよ、椎奈に紹介はしたけど、その後一度も会ってもらえなくて振られたって聞いてるよ。』
「え...けど椎奈が...」
『わかった、じゃあ聞いてみるけど...』
(椎奈は誰とも付き合ってない?じゃあの電話とメールはなんだったんだ?)
悪い方の考えに引きずられそうになるのを必死で思いとどめて、次に椎奈のいた寮に連絡を取った。
『はい、望月さんなら先月末に出られましたよ。家具も造り付けですからね、大きな荷物は他の寮生さんで分けてくれとおっしゃって、トランクケース一つで出て行かれましたよ。』
寮母らしい落ち着いた声で返事が返ってくる。
「理由は、理由を聞いてませんか?」
『田舎に帰るとしか聞いてませんけど...』
工藤は怒りと喪失感で身体が揺れるのを感じた。
(椎奈...なんでだ?)
考えられるのはただ一つ。4ヶ月前のあの出来事しかなかった。
治療だと言った。親友に戻ると約束して、そして親友に戻った。そのあと椎奈は未来に紹介された男と付き合ってるはずだった。だから工藤はあれからも椎奈に何も言わず居たのに...
(もしかして...オレは椎奈を、失ってしまったのか...)
その考えたくもない事実に工藤は身震いした。椎奈を失いたくないからこそ、椎奈を女としては見てこなかった。椎奈は親友で、ずっと側に居ることを許される存在だったはずだ。なぜなら女はいつだって身勝手で、別れるときはさっさと出て行ってしまう。そして二度と会うこともない。だけど友達は、親友ならいつでもけんかしてもやり直せるはずだった。工藤は今まで頑なにそう信じてきていたし、椎奈も同じだと、そう思いこんでいた。
(なのにオレは抱いてしまった...)
それも治療と称して何度も抱いた。そのうちしゃれにならないほど自分自身が椎奈にのめり込んでいくのを感じていた。
(オレは...オレのせいか?)
工藤は喫茶店の席に腰掛けて冷たいコーヒーを注文した。胸ポケットから煙草を取り出したけれども、それをぐしゃりと握りつぶす。
何度か繋がったキスの後、椎奈が小さくこぼした言葉を工藤は思い出していた。
『煙草の味がするね。』
昼にピザを食べた後一服だけした。その後コーヒーを待たずにまた椎奈を抱いたそのときだったと思う。
『嫌か?』
『ううん、嫌じゃないけど、苦いね...』
『おまえ苦いのビールでもだめだもんな。』
笑いながら交わした言葉。あの瞬間親友だとか、治療だとか、全部忘れていつものように椎奈と会話していた。その後眠りに落ちて、腕の中に閉じこめておいたはずの椎奈は、工藤が目を覚ました時にはもう居なかった。コトの後に女を抱きしめたりしたことはほとんど無い。だけど椎奈はそうしていないと居なくなってしまいそうで、工藤は椎奈をその腕にして眠ったはずだったのに...
(くそっ、こんなことになるなら...オレは、オレは椎奈を離したりしなかった。たとえ椎奈が親友に戻ろうとしても、オレは、無理矢理でも椎奈を自分のモノにしていたのに...)
その激しい想いに工藤自身が躊躇する。親友でなく自分のモノに?それは...
「工藤さん、僕らの上司の中上さんです。」
思考を中断するかのように、藤枝が女性を伴って目の前に現れた。しっかりした顔立ち、きびきびとしながらも優雅な物腰、椎奈があこがれていた女性上司だった。
「初めまして椎奈の、望月椎奈の友人で工藤圭司と申します。」
工藤はいつもの営業の癖で名刺を差し出す。
「中上です。あなたが工藤さん?」
「無理を言ってすみません。私も先ほど椎奈の退職を聞いたばかりで..何か知ってらっしゃることがあれば教えて頂けませんか?あの、椎奈は退職の理由をなんて言ってたんですか?」
工藤は差し出し返された名刺を受け取るやいなや、性急に聞き返した。そんな工藤の焦った姿を見て、藤枝は中上の隣でため息をつく。そんなにも大事ならなぜ?と...最初に引き合わされた時から気がついていた。二人の微妙な関係...親友という名で誤魔化した男と女の姿だった。そして今、頑ななまでに親友の枠にこだわっていたこの男は、目の前から望月椎奈という存在自体が消えて、その定義を完全に覆されたのだろう。
あのとき、工藤とうまくいったのかと藤枝が問うたとき、少し躊躇して答えた椎奈のあの儚げな笑顔は、今考えてみると二人の関係がうまくいってなかったことを匂わしてしまう。ましてや退職して姿を隠したのを恋人が知らされて無いはずがないのだから。
藤枝もまたあの時、もっと聞いておけばよかったと後悔の念を重ねていた。
「望月さんは急な退職でした。先々月の末、私の方に辞職願いがあり、理由は一身上の都合ということでしたので深く追求するつもりはありませんでしたが、私も彼女をかわいがっていましたし、私の後を任せられるのは彼女だけだと思っていましたから...仕事熱心で、将来有望なスタッフでした。その彼女が今回の退職理由だけはきちんと伝えてくれませんでした。そこで彼女とも仲のよい人たちにも聞いてみましたが、田舎に帰るとしか言ってなかったようで...」
「その田舎には帰ってません。」
京香からメールが来ていた。実家には何の連絡も無かったと。
「そうですか、その中でこの藤枝くんだけは工藤って高校時代からの友人と結婚するのかも知れないって言ったのを聞いていたそうです。」
中上の視線が藤枝に移る。
「工藤さん、僕は先々月椎奈さんが貧血で倒れたとき側にいたんです。彼女はうわごとで『圭司』ってあなたの名前を呼んでいた。だからてっきりうまくいってるのだと...だから思い切って聞いてみたんです。彼女は頷いた、だからてっきり、あの夜からあなた達は...」
あの夜...そうか、あれはこの男がし向けてくれたことだったんだ。
「だから先月頭に退職の件を聞いたときも、僕は思わずあなたとのことを尋ねたんです。」
「とにかく心当たりを探しましょう。私も会社側に何か連絡があればすぐにあなたの携帯にでも連絡します。」
「お願いします。」
中上にそう言われて、探す心当たりを検討していると、京香が店に飛び込んできた。
 
「工藤っ!!」
そう叫んだ後京香の手が工藤の頬をしたたかに打ち払った。
「いてっ...きょ、京香...?」
「あんたいったい椎奈になにしたのっ!」
京香がこれほど感情を露わにしたのを工藤は初めて見た。ここに椎奈が居ても同じことを思っただろう。京香が目に涙を貯めて怒りに打ち震える姿はしばらくそこから動かなかった。中上が動いて京香の肩をぽんぽんとたたいて何事か耳元で離すと京香は大人しく席に着くまでは身動き一つせずに工藤をにらみつけていた。
あまりの怒りように上司の中上と藤枝は席を外した。
「いったい、あんたは...椎奈が今までどんな思いしてきたと思ってるのよっ!」
「えっ...?」
京香の怒りは治まっていない。工藤は尋問されるようにそのままテーブルに着いていた。
「あんたは椎奈に何をしたの?あの日、あたしは言ったわよね、あたしは行かないけど、工藤がちゃんと支えてやって欲しいと、あんた一人の力でって...あの後からだよ、椎奈がおかしかったの。あたしは言い出してくれるのをずっと待ってた。だけど椎奈は何も言ってくれなかった。だからうまくいかなかったんだと思ったのよ。それなら、聞くのも可愛そうで聞けなかったのよ!」
確かに京香はそう言った。工藤は言われたとおり椎奈を迎えに行き自分の部屋に連れ帰ったのだ。
「何、言ってるんだ?」
「あんた、まだしらばっくれるの...?椎奈は、ずっとあんたのことが好きだったんでしょう?」
「....ま、さか...」
(椎奈が...オレを...??嘘だろ?じゃあ、オレがやったことは?椎奈が言ってたことは...?)
工藤は京香の言葉を必死で反芻しようとしていた。混乱する頭で必死に...
「あんた、椎奈を拒絶したんじゃ、ないの?」
「いや...してない。オレは...オレは、椎奈を、抱いた...」
「う、そ...だったら、なぜ、椎奈が居なくなるのよっ!!」
京香は立ち上がって工藤につかみかかる勢いだった。
「オレは...椎奈が男性が受け入れられるようにって...抱いたんだ。けれども、その後は親友に戻ろうと言って、椎奈はそれを受け入れた。」
ばしゃっ!
工藤に頭からグラスの水がぶちまけられた。
「あ、あんた、そんなこと椎奈に言ったの...?その手で抱いておきながら、その後は親友に戻ろうですって?いい加減にしなさいよっ!椎奈が、椎奈がどんな気持ちであんたに抱かれたか...その後どんな顔して親友に戻ろうとしたか...考えるだけで、悔しくて、情けなくて...あんまりにも可哀想で...あたしは...工藤、あんたを許せないよっ!」
工藤は落ちてくるしずくをも拭おうともしなかった。急ぎタオルを持って来る店員の手すら拒絶した。
「京香...待ってくれ、オレも最初はそのつもりだった。親友に戻るつもり、いや、戻れると思ってたんだ。だけどわかったんだ...この手に抱いてみて、椎奈がオレにとってどれほど大切な存在だったか...今までは他の女と同じ扱いをしたくなくかったから親友として付き合ってきた。短い恋愛期間が終わってさっさと別れて二度と会えなくなるような、そんな薄っぺらい関係になりたく無かったんだ。だから椎奈を親友と呼んで、大事にしてきたんだ。だけど、抱き始めてすぐにわかった。オレが欲しかったのはこの温もりで、椎奈の心と体と、両方が欲しかったんだって...他の女で代用しようとしても出来るはずが無かった。オレが欲しかったのは椎奈だったんだからな...だけど、最初に親友に戻るって言ってしまった手前、言い出しにくくって...だけどもう止まらなくて、オレは...何度も抱いたんだ。椎奈をおかしくなるくらい何度も抱いた...椎奈が振りをしてたって言うのは、今考えればすごくよくわかるよ。紹介された男も、藤枝のことも全部嘘だって...」
椎奈の気持ちを考えるだけで、工藤は胸が押しつぶされそうだった。
「それをいうんならね、椎奈は今まであんたの女性関係をずっと聞かされてきたんだよ。土屋のことだって、あんたに心がいってしまってるから、どうしても受け入れられなかったんでしょう?土屋は椎奈の気持ちに気がついてたのよ、だから他の女に逃げたの!椎奈は、だから土屋を許せた...自分が悪いんだって、反対に自分を責めてすらいたわ。藤枝のことだって...あんまりあんたに望みがないから、だから代わりでもいいから、椎奈にいい思いさせてやりたくて...あたしも後押ししたのよ。でも、藤枝も本気だったみたいだね。すぐに椎奈の気持ちに気がついたみたいで、あの夜...」
あの夜、藤枝の電話から始まった。あの電話を受け取った時点で工藤は椎奈を抱きしめていたことに気がついた。
「オレは...椎奈にひどいことを...」
「椎奈はあんたが同情か何かで抱いてくれたと思って、それでも、精一杯平気な振りして、あんたを受け入れたんだよ!女が、好きな男に愛情なしで抱かれるのがどれほど辛いかわかるのっ!!」
京香のその目は同じ痛みを知る女の目だった。工藤もそのとこにはすぐに気がついた。
「ましてや男の人を受け入れることを、あれほど拒絶していた椎奈がだよ?たとえ親友でも、好きでもない男と出来るはずがないでしょう?」
そうだった。椎奈がそのことでずっと辛い思いしてきていたことは十分に知っていたはずだった。だから、工藤を受け入れたときだって、発作を起こしかけた。それは最初だけで後は...
「オレは...言おうと思ったんだ。このまま付き合ってみないかって。こんな言い方したら変だけど、椎奈の身体、すごくよかった...今思えば椎奈が気持ち全部で受け入れてくれたからなんだろうけれども、椎奈を抱いた後、もう他の女欲しいとは思えないほどだったんだ。だけど、椎奈から親友に戻るっていうメールが来て、オレはそれをそのまんま受取ったんだ。だからオレは椎奈を抱く前からも、誰も抱いてない、誰とも付き合ってない!なのに、椎奈から未来に紹介された彼氏とうまくいってるって聞かされて、オレもつい...」
「つい、何よ?」
「彼女が出来たって嘘を...その方が彼女も気持ちが楽だと思ったんだ。」
「あんたたちは何でそんな同じようなことやってんのよ?好きだって一言言えば済むことなのに?椎奈もそれで嘘着いたんだね。」
「ああ、このメールが最後だった。」
工藤は椎奈の最後のメールを京香に見せた。
<うまくいきそう、工藤のおかげだよ。今夜、彼のところにいくんだ。ありがとう、感謝してるよ。幸せになるから、もう心配しないで、工藤は工藤で幸せになってね。じゃあね!>
「椎奈...」
京香が声を殺して泣いていた。このクールで滅多に感情を激しく表現しない彼女が、親友の痛みを思って泣いていた。
「オレは、椎奈に会って言いたい。好きだって...親友としてだけじゃない、女として、彼女として、誰より愛してるって...あの夜のことは嘘じゃない、治療でも何でもない、オレのそのまんまの気持ちだったんだって...きっと伝えてみせる。絶対に、椎奈を探し出して、もう一度この胸に...椎奈さえ、帰ってきてくれるんだったら...そうしたら、オレはもう離さない。椎奈を離さない。」
「工藤...」
 
京香はこのせりふを早く椎奈に聞かせてやりたいと願った。一刻も早く工藤の胸の中に戻してやりたいと、それだけを願った。
 
 
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〜あとがき〜
溜まっていた鬱積をすべて京香がはらしてくれました!なんとすっきり〜でも椎奈の苦しみはまだ終わってないですよね。ではまた次回!
 

 

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