メイド編・8
 
 
偶然であっても、逢う可能性があったことに気付くのが遅かった。

ここは彼の家からは車でも10分程度の場所。
目の前の彼の腕の中には、1歳ぐらいの赤ちゃん。
二人目、だろうね。だってあの時の子供ならもう3歳ぐらいだもの。
「ひ、さしぶり…よかった、結婚したんだね?心配してたんだ、母も、気にかけていて…」
元夫はこんな顔してたっけ?こんな声だったっけ?焦点の合わない視界にぼやけた顔の見知らぬ男性が居るようだった。
わたしの中の時間が止まる。なんて返事していいのか判らない。
 
「誰なんだ、茉悠子?」
ヤツに呼ばれて振り返る。荷物両手に持って、これじゃ間違えられるだろうな。今はわたしはメイド服も着ていないし、まさか雇い主に荷物持ちをさせて買い物してるとは思わないだろう。
それに…なんで名前で呼んでるんですか?
いつの間にか隣に来ていたヤツが荷物を片手に持ち直して、わたしの肩を抱いてるし?
「なっ…」
なにすんのといいたかったけど、耳元でぼそりと『あわせろ』と、そう言われた。
「茉悠子の知り合いか?けど、俺が知らないってことは高校卒業してからの知り合いだろ。おまえの同級生全部俺と同じだからな。」
一体何を主張してるんですか?どう答えていいかわからず、嘘でもない当たり障りのない関係を口にした。
「えっと、昔バイト先でお世話になった方です…」
「そう?その節はコイツがお世話になりました。気が強いわりにドジだから迷惑かけませんでしたか?」
「いえ、そんな…気が強いなんて…」
そう、わたしは彼の前では本心をさらけ出す事なんて出来なかった。別れる時も。
「そうですか?コイツ、もう我が儘放題で、いてっ」
あんまり調子がいいことを言うので、足を踏んづけてやった。
「茉悠子、幸せなんだ…」
「ええ、俺が幸せにしてますから。」
代わりに答えるな!けど、肘で即されてこくんと頷くと、納得したようなため息で元夫はわたしのほうにその視線を向けた。今まで見たことない優しい視線。ううん、ずっと昔、まだわたしのお腹の中に小さな命があった頃、そんな目で見てくれていたよね?
だけど、消えてしまった命。
悲しみにくれるわたしに義母は同情し、息子の味方はしなかった。わたしに顔向けできず、家にも居辛くなった彼は結局その彼女のところに転がり込み、たまにしか戻ってこなくなった。
他の女性を抱いている、そんな彼には触れられたくなくて、何度か伸ばされたその手を拒否した。
その1年後、彼女に赤ちゃんが出来ていることを、わたしたちに告げた頃には彼女のお腹は臨月前だった…
言えなかったのだ。目の前で抱えていた命を無くしてしまったわたしに、新しい命をよそで作ったことを。
逃げたんだ、この人も、わたしも…
 
「じゃあ、僕は行くね。」
「あの…お母さまに、元気にしてますからとお伝えください。」
「わかった、ちゃんと伝えるよ。」
彼は、ヤツに向かって深々とお辞儀すると、背中を向けた。向こうで同じように頭を下げる彼の奥さんと不思議そうにこっちを見ている子供がいた。
わかってたんだ。
彼に必要なのはわたしじゃなかったって。
お腹の子がいなくなったわたしを支えてくれたのは義母だった。その原因であった彼には出来ないことだったのだから。責任と罪悪感を抱え込んだ彼を支えたのは、今の奥さんだ。そして新たな命を生み出すことで彼を立ち直らせたのだ。
今更、わたしがどうこう言えるわけでもない。彼の手をとろうとしなかったのはわたしなのだから…。
 
 
「おい、アレでよかったのか?」
「うん…ありがと。」
元夫は勝手に誤解してくれちゃったけど、今のわたしの現状なんて、知らせたくない。
でも、出来ることなら会いたくはなかった。
ハウスメイドしながら、一生一人で生きていこうとしているわたしに、子供と一緒の姿は見るのはやっぱり辛かったから。
わたしが産めなかった子供…ふたりも出来てたんだもの。おめでとう、お幸せになんて、まだいえない。
惨めだな…勘違いされて、幸せだと思われてもそれはまったくの嘘なんだし。
本当は…うらやましくてしょうがない。赤ちゃん産めたあの人が、うらやましくて、ねたましくて…
 
「うっぐっ…」
乗り越えたはずなのに…
堪えた声が込み上がってくる。子宮のあたりが重く軋み、足下が崩れそうになるのを、ヤツが引き寄せてくれた。
「無理するな。」
頭をくしゃっと撫でられた。
猫扱いだけど、今はそれでも嬉しかった。ぶっきらぼうだけど、優しさを含んだその手に甘える。
「馬鹿…気ぃ使っちゃって…」
「車に戻るぞ、ほら、それまで我慢しろ!」
必死で堪えた涙を、わたしはヤツの車に戻った途端あふれ出させた。
嗚咽を繰り返すわたしに手をかけるでもなく、そっぽむいて煙草なんか吸ってる…
そっか、煙草、吸うんだなんて頭の隅っこで思いながら助手席で泣き続けていた。
 
 
 
「なあ、あれ、元夫だったんだろ?」
しばらくして、そっぽ向いたままのヤツが肩越しに聞いてきた。
「うん…」
「勝手におまえの旦那の役やっちまったけど、向こうの子供って…」
「そうだよ、離婚が成立したときにはもう、臨月だったの。」
「聞いていいか?なんで…噂じゃお金持ちの家に玉の輿に乗ったって聞いてたぞ?なのに…」
今はメイドって、あまりにも違いすぎる?向こうは幸せそうに子連れだしね。
「そうだね、言っといた方がいいのかな?19で子供が出来て結婚して、流産して、その1年後に夫の浮気相手の女性に子供が出来るのが判って、離婚したの。」
「おまえ、それは簡潔すぎるだろ?」
「そ、かな…」
「俺がもしおまえの彼氏だったら、もうちょっと聞きたいと思うぞ?おまえが苦しんだこととか…」
「判らなかったんだよね…結婚って、誰かかと付き合うってこともわからないまま出来ちゃって」
「付き合ってたから出来たんだろ?」
付き合いだしたって区切りはなかった。だって仲の良いバイト仲間だと思っていたから…。
「同じバイト先だったの。ファミレスの…仲間内での飲み会っていうのに初めて連れて行かれて、わたし飲んだこと無かったから凄く酔っぱらっちゃって、気がついたら彼の部屋で、裸にされてた…。嫌いじゃなかったんだよ、彼のこと。優しい人だなって思ってたし、わたしのこと好きなのかもって…でも、痛みで目が覚めて、抵抗したんだけど遅くって、暴れたから避妊出来なかったって…」
「まさか、その時に出来たのか?」
「うん」
盛大なため息が隣から聞こえる。自分の頭までガシガシ掻いちゃって、ヤツらしくない。
「おまえな、それって強姦だろ?」
苛立ちを含んだ声でそう言われた。判ってる、普通に考えたらそうだもんね。
「そうだけど…ごめんて謝ってくれて、責任とるからって、ずっと好きだったって言われて…子供が出来たって判ったときも、すぐに彼の実家に連れて行かれて、結婚するって言ってくれたの。彼のお母さまがすごくいい方で、わたし可愛がってもらえたんだ。だけど…その間に彼は会社の女性と…浮気してた。しょうがないよね?結婚しても奥さんとは出来なかったんだもの。悪阻も酷かったし、出血も少しあったから、お医者様にはしない方がいいって言われてたから。」
「ふうん、おまえが初めての妊娠や悪阻で苦しんでるその間に他の女抱いてたってのに、しょうがない?そんなんでおまえ済ませてよかったのか?」
「だって…」
最初の行為が無理矢理だったのもあるけれども、それ以来怖くて、抱きしめられたり、軽いキスは平気になったけど、あの行為だけは…ダメだった。お腹に赤ちゃんが居るから余計不安だし、悪阻もキツくて式の後入院するほどだったし。その後も一緒に休めるような状態じゃなかった。だから、きっとわたしも悪かったんだと思う。結婚すると当たり前の夫婦の関係が保てなかったんだから。
「ダメだったんだから、しょうがない…結婚してからも、本当の夫婦になれなかったから。でもね、そろそろいいですよってお医者様に言われたから、嬉しくて、出張から帰ってくる彼に早く告げたくって駅まで行ったんだよね。でも、彼は家の近くまで女の人の車で送られてきてた…ふたりで出張に行ってたんだって。その車から降りてきたふたりがキスしてるのみちゃって…わたし驚いて走り出して、無灯火の自転車とぶつかって赤ちゃん死なせちゃったんだ。」
彼を迎えに行こうと、ほろほろと歩き始めた時、路地裏に隠れるように止められた赤い車から降りてくる彼を見つけた。おもわず駆け寄ろうとした時、同じ車に乗っていた女の人が降りてきて、ふたりに濃厚なキスシーンを見せつけられて、彼が浮気してたんだって気付かされた。相手の女の人は同じ会社の人で、綺麗で大人の女性だった。
もう、遅いんだって悟った。
今さら夫婦の関係を作ろうとしても遅くって、彼は別の女の人を…って。
背を向けて駆けだしたわたしに向かってきたのは、無灯火の自転車だった。
どんって、お腹に何かがぶつかって、体が地面に叩きつけられた。
叫び声を上げて、痛くて、痛くて、うずくまって…お腹から何かがすべり落ちていく嫌な感覚、ぬるりとした下腹部を濡らす何かに恐怖した。
誰かが駆けよってくるのが判ったけれども、わたしは目を開けてその人の顔を見ることは出来なかった。
そのまま、病院に見舞いに来た彼にも顔を向けることはなかった。義母はわたしの味方をしてくれて、息子をなじり、わたしを抱きしめてくれた。だから、その後もしばらくあの家を離れることが出来なかった。
傷ついたわたしに、義母の優しさが必要だったから…
 
車はいつの間にか走り出していた。
ヤツが黙って聞いていてくれたのがありがたかった。何か言われたってしょうがないもの。もう終わった話だしね。
「お義母様もね、子供を流産されて事があったらしくって、凄く優しくしてくださったの。だからそのままあの家に居られたんだけど、彼は帰ってこなくなった。相手の女の人が会社辞めて、しばらくはその人の所に居たらしいの。でも、一度は帰ってきてくれて、何度も謝ってくれたのよ。でも…もう夫婦には戻れなくて、わたしが触れられることを拒否したから、だから、またその人の所へいっちゃった。でも、いつのまにかそっちに子供が出来てて、それすら言えなかったみたいで、女の人のお腹が随分大きくなってしまってから離婚を言い出されたの。わたしもね、もっと早くに出て行くべきだったんだけど、行くところ無かったのよ、どこにも…だから、わたし…」
また涙が溢れそうになる。
「今は、あるだろう?野良は…うちに必要なんだから。」
野良じゃないもん、そう言い返したかったけど
ヤツの言ってくれたその言葉が、何よりも嬉しくて、わたしはまた泣き出してしまった。
 
 
 
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久石ケイ