「社長、こちらの書類を確認下さい。今回の契約の分です。」
「ああ、わかった。」
 
副社長の前田から書類を受け取りチェックしていた時のことだった。
 
携帯が無機質な電子音を鳴らした。
登録のない番号を見て、俺は躊躇せずに通話ボタンを押した。
 
『あの...』
 
か細い女の声だった。聞き覚えがある、親父の愛人の声。
 
「誰だ?」
 
わかっていて聞く。かけたほうが名乗るのが常識だろう。
 
『あ、き、貴志田...です...』
「ああ、何の用だ?今、手が離せないんだが、」
『あの、彼が...桐吾さんが...』
「危ないのか?」
『はい。い、今すぐ、こちらに...』
 
予想していた内容だった。だが...
 
「社長、会議の時間です...」
 
前田の呼びかけに俺は手を少し上げてさえぎる。
こいつは学生時代からの友人で、副社長だが、俺の秘書まがいのこともやってくれる。
ベンチャー時代からの常だった。お互いが一番信用できたから。だから、親父のことも全部知っている。
しかし、今から取引先が来て契約を交わすと言うのに、社長である自分が居ないわけには行かない。
 
「手が空いたら行く。直ぐは無理だ。」
『え...?』
 
俺のその言葉に、信じられないといった響きの声が返ってくる。
わかっている。
だが、俺が行ったところで永らえる命でもあるまい。俺が必要なのは、後からなのだから。
 
「奎吾、急いでくれないか?もう向こうさん来てるからな。」
 
わかったと頷きながら携帯に向かって一言「じゃ」と告げて通話を切った。
何か言いたげな声が聞こえたが、蓋をする。
 
「今行く。」
 
俺は携帯の電源を落とし、応接室に向かった。
 
 
 
無事契約を取り交わし、祝いの席でも俺は笑っていた。
親が死にそうでも、俺は笑える人間なんだと思ったら、余計に笑えた。
親...父親だと言っても、抱き上げられた記憶もなにもない。顔だって写真でしか知らなかった。成長するごとに似てきたと、誰もに言われたが嬉しくなんかなかった。
家を出た親不孝モノの親父のことを良く言う奴なんて誰も居なかったから...
親父のようになるまいと、見も知らぬ親父を意識して、そして忘れようとした。
俺の親父は祖父だった。彼が、俺にすべてを与えてくれたんだ。
その腕の温もりも、抱き上げてくれる強さも、生きることのすべてを教えてくれたのもすべて祖父だった。
俺に親父は居ない。祖父だけで十分だった。
あの時は、未成年だったので、たまたま名前を借りただけだ。
それだけだ...
 
「おい、奎吾、なに悪酔いしてんだよっ!」
「俊介...」
「行かなくていいのか、親父さん危篤なんだろ?」
「.....もう、遅いさ。」
「なっ、おまえ...」
 
奴は舌打ちすると相手側に周り、15分で俺を連れて外に出れるよう取り次いだのだ。
いつの間にか来ていた担当部長とうちの生え抜き常務たちが入れ替わりに席に着く。
 
「行くぞ、病院か?」
 
俺を車の助手席に押し込むとナビを操作しながら聞いてくる。
 
「...いや、自宅だ」
 
住所を告げると、さっと登録して車を走らせた。
 
今更、もう遅い...
親父が長くないのは、あの時見た様子でもわかっていた。
だが、俺はあれ以来顔も見に行くことが出来なかった。あの愛人の若い女を見たくもないというのもあったが、俺なぞ居なくても、あの女が看病してるだろうし、看取るはずだ。
最後まで二人にさせてやるさ。
親父の愛人の面倒など、見る気はないが、あの女なら...
そう、今だけだから、別れを惜しむといい。
俺は、惜しむものなど、あの男との間にはなにもないんだ。
 
 
 
「ほら、着いたぞ!?どうする俺も行くか?」
「いや、いい...その代わり、車置いていけよ。」
「なにっ??じゃあ、オレはどうやって帰ればいいわけ??」
「歩きでも、タクシーでも?」
「へいへい、我儘になったね、うちの社長は。」
 
そういって車を停めると、さっさと降りて鍵とペットボトルの水を渡してきた。
 
「珍しく酔いやがって...少しだけ酔いを覚まして行けよ。」
 
去っていく俊介の背中をサイドミラーに確認して俺は少しだけシートを倒した。
あまりに酒臭いのが俊介にもわかったのだろう、少しだけ休んでから行くほうがいいだろう。
いや...行ってどうする?
どうせ明日にならなければ所定の手続きは出来ない。
明日まで待つか?それとも...
一人の男が死にかけている、その自宅のドアは閉まったままだ。
しばらく休むと書かれた店の張り紙を見て数人の客が帰っていくだけだった。
 
 
さすがに11時を回って、俺はゆっくりと車から降りる。
仕事柄、喪服は車に積んである。俊介と俺は背格好も似てるから、奴のフォーマルでもあつらえた様にぴったりだった。
 
「俺だ。」
 
インターホンを鳴らして、そう告げても誰も出てこない。
ドアの取っ手を回すと、鍵もかかっていなかった。
 
「居ないのか?」
 
俺は仕方なく勝手に上がって、あの、突き当りの部屋に向かった。
 
真っ暗だった。
開いたドアの中は真っ暗で、月明かりの中、女が座っているのが見えた。わずかに照らされたその横顔がまるで人形の様に空ろだった。
 
「おい、何やってんだ?真っ暗だぞ!」
 
急いで部屋の灯りをつけるが、彼女は微動だにしない。
ベッドの上の親父は白い布で顔を覆われていた。
やはり遅かったのだ。
わかってはいた。だが、俺では駄目だったのだから。
 
「遅かったですね...」
 
華依がようやく口を開いた。
 
「仕事だ。」
「お酒の、においをさせて?」
「付き合いだ、大事な取引先とのな。」
「どうして...自分の父親でしょう?」
「父親...ああ、戸籍上のな。」
「え?」
「抱き上げられた記憶もない。そいつの顔も写真で見て育ったんだ。いろんな話をあちこちから聞くまで、俺は親父は死んだものだと思って育ってきた。何を、嘆けとでもいうのか?そりゃおまえにはこいつとの思い出が山ほどあるだろうがな、俺のほうにはまったくないんだからしょうがないだろう?」
「そ、そんな、はずは...」
「ないんだよ。祖父の葬儀の時に初めて会って、その時のこともまともに覚えてないしな。」
 
俺は彼女の反対側に腰掛けた。
そこしかなかったから...
しかし、男が死んだっていうのに、涙ひとつ流さない。
取り乱しもしない、気丈な女だ。
俺も、同じだしな。
流す涙もない。
二人朝の光が差し込むまで、何も話さなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
あっという間に、彼の葬式が終わり、それでも日々は過ぎていく。
彼が――桐吾さんが逝ってから、もう一週間という時間が流れていた。
 
 
 
 
 
あの後、朝になってから病院へと桐吾さんの死亡診断書を取りに行き、けれど葬式の手配や手続きをどうやってして良いのか判らなかったあたしは、全てを奎吾さんに委ねることとなってしまった。
 
喪主は?
葬式の費用は?
戒名は?
来てくれそうな人間は?
親戚への連絡は?
 
それはもう、面倒な作業だったと思う。
それなのに一言も文句すら言わず、それどころか冷たい態度で接してくるくせに、懇切丁寧・・・という言葉が似合うくらいに全てのことを手伝ってくれた。
親戚や連絡する人などは居ないと言うあたしに、彼は
『あの人は家を出て行った人だから、こちらの親戚にも連絡はしておくが、来てもらうことはない』
と冷たく言い放った。
それなのに、どこか痛ましい表情を少しだけ垣間見せたことが、あたしをホッとさせてくれていたと思う。
この奎吾さんにとって桐吾さんという存在は、たった一人の父親なのだ・・・・だから、少しでも傍にいて欲しかった・・・・そうは言っても今更なのだけれど・・・それでも、彼の死を悲しんでくれる心があったらいい・・・・そう思っていたのだ。
 
 
 
そうして行われた彼の――桐吾さんのお通夜には、本当に近所で仲の良かった人たちと、よく店に来てくれる常連さん達がやってきてくれた。
全ての面倒な手続きは、きっと嫌々だったのだろうけれど奎吾さんが一手に引き受けてくれ、あたしはそれらを淡々と見つめることしか出来なかった。
そんな中、夜の訪れと共にパラパラと人が集まりだした我が家は、それなりに故人を悼む場へと変わっていく。
大した席を設けたわけでもないし、誰かに連絡を入れたわけでもないのに集まってきてくれる人たちは、多方面でお世話になってきた方たちばかり。
そんな場に相応しいものを用意してくれたのも、奎吾さん本人だった。
今は少しだけ居心地の悪そうな態度で席につきつつも、その場に留まってくれている。
それだけなのに、あたしは安心しつつ弔問客の相手をして過ごしていた。
 
「華依ちゃん・・・・大丈夫?」
 
そう言って声をかけてきてくれたのは、近所の不動産屋さんをしている人の息子さん。うちに弔問してきて下さっている方の中では一番若い方だと思うその人は、最近になってお店の常連である父親と共に店へ通ってきてくれている人だ。
チラチラと奎吾さんを見ながら、何を気にしているのか判らないけれど、不安そうな顔をしながら声をかけてきた。
 
「あ、わざわざ来て下さってありがとうございました」
 
一応の返事と挨拶をしながらもその人へ頭を下げると、急に近寄ってきてこそこそと内緒話をするかのように耳元で話し掛けてきた。
 
「一人で大丈夫なの?何か手伝えることはない?不安なら、傍にいるけど・・・」
 
そんな風に言われるとは思っていなかったせいで、思わず彼から身を遠ざけながら小さく『大丈夫です』と答えはしたものの、相手はなかなか引き下がってはくれなかった。
 
「何か出来るコトがあれば、何でも言ってくれていいんだよ?遠慮なんかしないで」
 
尚を言い募ってくるその人へどう対処して良いのか判らないまま、曖昧な笑みを見せ同じ返事を繰り返す。
すると、視界に奎吾さんが席を立ってその場から立ち去ろうとしているのが飛び込んできた。
目の前にいるお客さんには悪かったけれど、今のあたしにとって安心出来る相手は彼一人だと勝手に思い込んでいる現状では、優先順位も奎吾さんの方が上となってしまうのは当然のこと。
慌ててお客さんへ『少し席を外します』と声をかけて奎吾さんの後を追った。
後ろからお客さんから何か声を掛けられたけれど、そのときにはもう奎吾さんのことで頭が一杯になってしまっていた。
玄関を出る手前で奎吾さんへと追いつき、漸く声をかけることが出来た。
 
「あ、あの・・・ど、どちらへ?」
 
どうにか声をかけた・・・というのが正確だっただろう言葉は、どこか追い縋っているようにも思えたけれど、あたしは気にしなかった。実際に、どこかで彼のことを頼りにしている自分が居たのだ。
すると、ゆっくりと振り向いた彼は、いつもの冷淡な表情を称え、また怜悧な目をあたしへと向けてきた。
そうして言い放った言葉は、その場の空気すら凍らせてしまえるかのような、そんな言葉だった・・・・。
 
「車ででも休んでくる。俺にとっては知らない人間の葬式に出てるみたいなものだからな」
「・・・・・・え?」
「変な目で見られるのもごめんだ。」
「・・・・・・っ!」
 
一瞬、何を言われたのか判らず、彼のことを凝視してしまっていた。
けれど、その意味を頭に入れる頃には奎吾さんが玄関のドアへ手をかけ、外へと出ようとしている時だった。
このまま行かせたくない・・・・そう思った瞬間には、言葉が口をついて出てきていた。
 
「そ、それなら、桐吾さんの部屋を使ってください」
 
珍しくハッキリとした声が出ていたと思う。
彼を一人にさせたくない・・・・そう思ったのが先か、それとも一人にしないで・・・と思ったのが先か、それは判らなかったけれど、どうしても奎吾さんをこの家から出してしまいたくなかったのだ。
彼のスーツの袖の部分へ手をかけていたのも、いつもの自分ではあり得ない行動だっただろう。
 
「は?」
 
そう言って振り向いた彼の顔は、先ほどまでの冷淡な顔ではなかったような気がした。
 
 
 

 

      
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