「そうだな...私にも時間がないことだし、簡潔に言ったほうがいいな」
 
あまりの物言いに親父がため息をついたのも判っていた。少し俯いたその顔がだんだんと力を無くしているのも判っている。
だが俺に何を言いたいんだ?
横に若い女を座らせて、手など握り合って仲のいい所を見せつけるつもりか?
だが、こんな病気で老い先も無い男の面倒を看る女なんて、目的は知れてるさ。
金か?財産か?それにしても、いくらなんでも若すぎるだろう?俺より若いはずだ、この女は。
 
「まず、遺産のことだが―――私の所有しているいくつかのモノをお前に渡したい」
 
そう言って視線で頼むと、隣にいる女はベッドサイドから書類袋を持ち上げて親父に手渡した。
先ほどから一言もしゃべらない女。笑顔で介護してる様子でもない。ただ、親父の側に縋り付くように寄り添っているその姿が癪にさわった。
 
「ココの中に入っているモノがお前にやれるものだ。一応は遺言状を書いて置いたが、出来ることなら直接手渡したかった...だから、今日ココへお前に来てもらったんだ」
 
親父が中を取り出そうとして、その手が震えていることに気がついた。
もう、自分で何かを持つことが出来ないほど弱っていたのか、この人は...
女が側にいるのは自分が縋っているのではなく、親父を支えているものだったのか?それでも、その態度はあまりにも親密で、まるで男女の仲を証明しているようにも見えた。互いに全てを許し合った、そんな風に見えたのだ。
 
「お前の祖父さんが俺に渡していた会社の株だ。元々、私が家を出る時に、生前贈与という形で渡されたものだが、これにはいっさい手をつけていないから、好きにするといい...だが...」
 
親父は遠慮がちに言葉を詰まらせた。
今さら、何を遠慮することがあるんだ?俺を市河に残し、好き放題して死んでいく今、若い愛人に身の回りの面倒を看させて、全ての財産を彼女に渡すとでも言うのかと心配していた。市河の株を、こんな赤の他人の彼女に渡すわけにはいかない。それをまた余所の大口株主にでも売りつけに行かれちゃ溜まらんからな。今は叔父が1/3以上、俺がそれに満たない数で、あとは複数の大口株主に分散している。
親族株が過半数で、叔父は俺に経営に参加しないなら株を譲れと言ってきているし、買い占めが始まったら乗っ取りの可能性もある。親父が祖父から株を生前譲渡されているのは知っていた。その株は本来俺が受け継ぐべき物なのだから、こうやって返してもらって当たり前なのだと思う。
 
「ココの土地と店は、華依に残すつもりでいる...いや、元々が華依のものになっている...それを...私にこんなことを言う権利など無いのは承知の上でお願いしたい...これから先、若いこの娘が一人で店の経営も大変だと思うんだ。だから私が死んだ後、彼女を助けてやってくれないだろうか?」
 
なんだって??
やっぱり、この女、『カイ』という女は財産狙いだったのか?既に店と家屋の名義変更も済んでるなんて用意周到じゃないか。後は土地だけ、後で俺が文句言わないように今のうちに納得しろってことか?
土地なんていらない!金も、全部自分で手に入れてきたのだ。
なのに、助けてやってくれだと?
自分の愛人の面倒を息子の俺に見ろって事かよ!!
 
ふははっ!おもしろいじゃないか。
店も
家も
この『カイ』って女も、
その身体も
全部面倒見てやろうじゃないか。
どうせ、病気の親父にはたいしたことは出来なかっただろう。たっぷり可愛がって、やるさ。
親父が世話になった分だけ...そう、2,3年だけな。
それ以上は知ったもんか。
こんな、親父の女なんか...
 
「いいですよ。面倒みましょう。」
 
俺は名刺を出してサイドテーブルの上に置いた。
ITベンチャーから立ちあげた会社も、今では立派な株式会社で、複数の業種を分散して経営している。名前こそまだ有名ではないが、内部では評価されている。いずれ株式も上場するつもりだ。
もし、市河を手に入れたとしても、そちらに手を出すのではなく、こっちの会社に取り込むつもりだった。
そう、役員も全て一新するために。叔父の息のかかった人間なんて誰一人残すつもりはない。
 
「話がそれだけなら失礼する。」
 
俺は株式証書一式入った書類を手に立ち上がった。
 
「身体、大事にしろよ。親父」
「奎吾っ」
 
親父と呼んだだけで、目の前の男が嗚咽する。若い女に縋って、今だけ喜んでいるがいいさ。
あんたの愛人は俺が可愛がってやる。
 
 
 
部屋を出ると『カイ』が後を着いてきた。
一応見送りはしてくれるらしい。
 
「あんた名前まだだったな。」
「貴志田、華依(きしだ かい)です。」
「いくつだ?」
「22...です」
「へえ...その歳で。店、やってけんの?」
「......」
「何かあればここに連絡をしろ。それといざというときの手続きは、肉親でないとややこしいからな、親父が死んだときは、俺が書類や手続きは全部引き受けよう。」
「もう、亡くなったときのことを考えてるの?」
 
またあの目だ。俺を睨み付ける、深い瞳...演技だろう、どうせ。親父が亡くなったら態度を急変させる癖に。
 
「次に会うときは親父の葬儀の時だろう?」
「...ひ、どい」
 
その言葉通り、この家に再び足を踏み入れたのは、親父が息を引き取ってからだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
冷たい背中を見送った後、手に残された名刺を握り締めずにはいられなかった。
あの、奎吾という人には、人間の心というものがないのだろうか・・・・あんな・・・体が弱った人に対して冷たい、あまりにも情を感じさせない態度を取れるなんて・・・。
それだけじゃない。
あたしに対しても、まるで馬鹿を相手にしているかのような態度・・・・決して、自分が利口だとか頭が良いとは言わない・・・けれど、人から見下されるような人間であったことなどないつもりだ。
ちゃんと、自分というものがどういう存在なのか弁えて生きてきた。
それなのに、どうしてあんな風に見下すような、馬鹿にするような態度を取られなくちゃならないのか・・・・。 
ふと、握り締めてしまった名刺に目をやり、けれどこれ以上はあの人のことを思い出すだけでも悲しくなってしまうため、その名刺をジーンズのポケットへ突っ込んだ。
どうせ、あの人のことだから、今連絡したところで何かをしてくれるようなことはないだろう。
それなら、あたしは今まで通り、彼のことを――彼の傍に居て出来ることをすればいい。
本当は・・・・出来ることなら、あの人が彼の傍に居てくれることをお願いしようと思っていたけれど・・・・・・・。
 
 
 
 
 
 
 
それから、あっという間に時間が過ぎていった。
彼の時間は、後僅かだと判ってはいたけれど、日に日に弱々しくなる姿を見ているだけでも寂しくなっていく。
彼の息子である奎吾さんが来たときには、まだ起き上がれるだけの体力があったというのに、今ではもうベッドで座っていることすら侭ならない。
既に延命処置を拒否してしまった彼に残された道は、精々が痛み止めを使うことと、点滴を使ってある程度の栄養を入れることくらいで何もすることはないのだけれど、それでも何かあっては困るということから近所で往診してくれる医師を紹介され、その人が毎日往診するのを待つのみだ。
 
昨日までは座れていたのに――。
昨日までは話が出来たのに――。
昨日までは重湯でも口に出来たのに――。
昨日までは手を握り返してくれたのに――。
昨日までは――昨日までは・・・・・。
 
こうして、段々と彼の体力と生命力がなくなっていく様を目の当たりにさせられて、息をしているのすら苦しくなる毎日。
愛する存在を失うのは、もう二度としたくなかった・・・・それなのに、どうして神様は意地悪なんだろう・・・。
あたしから、どんどんと大事な者を奪っていってしまう。
 
初めはお母さん。
もううろ覚えでしかないけれど、微かに残った記憶にはよく笑う人だった。
暖かい陽だまりの匂いがする、優しい女性(ひと)だった。
あたしを抱きしめてくれる腕が、胸が、もう体では思い出せないくらい遠い昔に、逝なくなってしまった人。
 
次はお父さん。
いつだって元気で、カラカラと笑うそんな人だった。
何かあると必ず頭を撫ででくれるその手が温かくて大好きだった。
朝から『おはようっ!』と元気に声をかけてくれて、いつも通りに出かけたまま還らなくなった人。
 
そうして彼。
今にも息をするのも止めてしまいそうな彼。
いつだって傍に居て抱きしめてくれた彼。
悲しいことも、楽しいことも、嬉しいことも、苦しいことも、全部一緒に共有してきた彼。
そんな彼すらも、あたしの前から逝なくなろうとしているのだ。
 
どうして?
そんな答えの出ない問いかけを一体誰に向けて聞けばいいのだろう。
『生きていれば悲しいこともある。けれど楽しいことも、たくさんあるさ』と笑って言ったのは誰だっただろうか。
 
ベッドサイドに座りながら彼のことを見下ろし、あたしはただそんなことばかり考えていた。
無性に泣きたくなる気持ちを抑えながら――。
 
 
「起きてるの?」
 
そっと声をかけてみると、少しだけ身動ぎした彼。
何か言いたいことでもあるのだろうか?と彼に近づいてみれば、とても頼りない手があたしへと伸ばされた。
口元をジッと見つめれば、その唇がゆっくりと動き出す。
 
『ありがとう』
 
そう言ったのだろうか・・・・?
いきなりことで、あたしはどう返事すればいいのか判らないまま、彼のことを見つめ続けていた。
もう、彼に残された時間はないことを、このときになって悟ったように思う。
慌てて、いつも来てくれる医師に連絡を入れると、また彼のことを見下ろした。
彼の言いたいこと、思っていること、それは判らない。
けれど、何となく感じるモノが無いわけじゃない。
だって、とても長い時期(トキ)を二人で過ごしてきたのだから・・・・・。
 
「今・・・連絡してみるからね・・・・」
 
泣きそうになる気持ちを抑え、あたしはある場所へと連絡した。
携帯を握り締めた手が震えているのすら、自分では気付くことも出来ないほど、本当に動揺していたのだろう。
医師が家にやってきたのを迎え入れ、そのままあたしは彼の部屋に戻ることもなく、携帯のボタンを押していった。
例の・・・・丸めてぐちゃぐちゃになった名刺を見ながら・・・・・。
 
 
「あの・・・」
『誰だ?』
「あ、き、貴志田・・です・・・」
『ああ、何の用だ?今、手が離せないんだ』
「あの、彼が・・・桐吾さんが・・・」
『危ないのか?』
「はい。い、今すぐ、こちらに・・・・」
『手が空いたら行く。直ぐは無理だ』
「え・・・?」
『じゃ』
 
取り付く島もなく、そのあと流れてきたのは電子音のみ。
呆然とするあたしは、その後、医師と看護師から声がかかるまでの時間、その場で立ち竦んでしまっていた。
それからはもう、まるで他人に起きたことを見ているかのようだったと思う。
医師が彼への処置をしている最中に戻った部屋では、何だか妙に淡々と時間が過ぎていった。
彼の顔が少しだけ歪んでいるように思え、傍に行き手を握り締める。
医師の顔は、暗に『もうだめです』と言っているのが判った。
最後の瞬間すらも、あたしはまるで夢の中に居たかのようにすら思えてならなかった。
医師が来てからどのくらいの時間だっただろうか・・・決して長い時間じゃなかったくらいにしか思い出せない。
ただ『死亡診断書を出しますので、後から取りに来てください』と言った医師の言葉を、どこか遠い世界から聞いているように感じていた。
 
 
 
夕刻――夕日が部屋の中に差し込んでいる最中、ゆっくりと眠るように彼は息を引き取った。
まだ、元気で居た頃と同じように、頬には赤味が差し柔らかい表情を湛えながら、彼はそっと逝ってしまった。
あたしだけを置いて―――。
 
 
 
 
 
そうしてあたしは、また一人ぼっちになってしまったのだった―――。
 
 
 

 

      
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