親父に指定されたその日の午後、俺は小さなバーの前に立っていた。
昼間だから勿論営業していないが、ここが親父の店で、この裏に住居があるのだと聞いていた。
店の横に小さな門があり、キイッと鉄の取っ手を押し回して足を踏み入れると、石畳みのポーチの周りにうっそうと繁った緑草がズボンの裾に絡む。
どうやら植えられているらしいが、花はほとんど咲いていないそれを間違って踏むと、鼻の奥がスーッとする様な爽やかな匂いがした。
 
玄関のドアにはすぐにたどり着く。店の敷地の奥行き分だけの庭のようだった。
インターホンを押すと返事はなく、ただ無言でドアが開けられた。
 
 
「市河...奎吾さん?」
 
「ああ」
 
中から顔を見せたのは、20代前半の線の細い顔立ちの女性だった。
一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに平静を装った涼やかな顔に戻った。整った顔立ちで鼻や口も小作りなのに、やたらと切れ長でキツく開いた目元が印象的だった。
 
「どうぞ」
 
なんで女が??誰だよ...
そう疑問に思いながら、当たり前のように前を歩くその女性の後についていく。
肩のラインで無造作に切りそろえられた柔らかな栗色の明るい髪が揺れている。白のブラウスシャツにジーンズと、やけに中性的な恰好がよく似合うスレンダーな身体つきだ。
目の前で揺れる腰は、まだ少女の堅さを残しているかの如く、小さく幼く見えた。
 
「どうぞ」
 
通されたのは一階の突き当たり、奥まっていたけれども日当たりの良い部屋だった。
広い、キングサイズのベッドに横たわっていたのは、いつか見たあの人なのだろうか?
目を疑うほど痩せ衰え、髪も白くなり果てている。
パジャマから覗く手首も骨張って、昔のあのたくましい彼はどこに行ったんだろうと目を疑う。
 
「奎吾か...」
 
勧められたベッドの前の椅子に腰掛ける。
女はベッドの反対側に回り、親父の身体を起こしてクッションで支えてやった後も、そのままその隣に手をかけたまま座っていた。
親父の女か?それとも娘??
年齢的に言えばそれもおかしくはない。だが10年前、父親の口から『奎吾は、私のたった一人の子供だから』と聞いている。
では愛人?恋人?その手の添え方からしても、このふたりがただならぬ関係であることは見て取れた。
赤の他人であるはずがない。
ムカムカとこみ上げてくる感情を抑えつけて、ただ無言で座っていた。
用件はこちらにはない。向こうが話さなければ終わらない。
 
「立派になったな...元気だったか?」
「おかげさまで。あの時の会社は順調に業績を伸ばしていますよ。」
「そうか、市河の家は?」
「叔父達は健在ですよ。会社の方はあまり調子よくないようですが、手助けするつもりはありません。」
「奎吾...」
 
親父は辛そうに眉を寄せた。それを見ていた彼女が、その手をそっと包み優しく撫でた。
イラつきがMAXを越える。よく何を考えているか判らないと言われるが、そう言うときは大抵はらわたを煮え繰り返してる時がほとんどだ。
 
「用件は?」
 
冷たく告げた言葉に、女が俺を睨み付ける。
 
「そんなに暇ではないんですよ。」
 
自分でも怖いくらい冷たい物言いだった。
判っている。
目の前にいるのは実の父親で、その横にいるのはその愛人かも知れないが、父親は余命幾ばくもなく、最後の望みを息子である俺に告げようとしているのだから、素直に聞いてやればいい。
だが、それほどぬるい考えで荒波を渡ってきたわけではない。
弱いもの、不必要なモノは断ち切ってきた。
ただ、今心の奥底から盛り上がってくるこの感情が、憎しみなのか、何なのか、今の俺には判りかねた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
彼の息子が来ると教えられた時間になった頃、インターフォンの音がリビングに響き渡った。
一瞬どうしようか迷い、けれど訪問者が誰なのか予想出来ていたコトもあって、そのまま玄関へ向かうと扉に手を掛けた。
そうしてその場に立っている人を見上げた瞬間、あたしは息を呑んでしまうことになる。
何しろ、そこに居たのは・・・・彼の、出会ったばかりの頃にソックリそのままな姿があったからだ。
いきなり飛び込んできた懐かしい姿に、あたしは一瞬、初めて彼に会ったときのことを思い出さずにはいられなかった。
こんなにも似ているなんて・・・・そう思うと胸が苦しくて、情けないけれど涙が溢れてしまいそうになった程だ。
けれど、そんな顔を見せる訳にいかず、息を呑んだのもほんの数秒のこと。
 
「市河...奎吾さん?」
「ああ」
 
その返事を聞き、あたしはスッと扉を大きく開けてその人物を家の内へと案内する。
少しだけ震えてしまう体を叱咤して彼の元へと案内した。
家の一番奥にある、彼が気に入っている部屋はこの家の中でも一番日当たりの良い部屋。
優しい日差しが部屋一杯に入り込んできて、病気で気鬱してしまいそうな彼を優しく包んでいる。
部屋のドアの前、そこまでその人を案内すると、あたしはそっと中へ促すように声をかけた。
 
「こちらです・・・どうぞ」
 
 
 
 
 
彼と対面したその人・・・・彼の息子という奎吾さんは、まるで他人に会うかのような態度で接してきた。
彼が優しい眼差しで見るのも嫌悪感を表すかのような態度に、胸が苦しくなってしまう。
この人がどんな人なのか、どんな風に育ってきたのかは判らないけれど、あまりにも冷え切ったその眼にあたしこそが嫌悪を感じそうだ。
彼が病気などしていなければ、こんな風に痩せ衰えていなければ、間違いなく親子だって周りからも見られていたことだろう二人。けれど、こんな風になってしまった彼と並んでも、間違いなく親子だって判る二人。
それなのに奎吾さんの態度は頑なで、彼が何かを話すたびに冷たい感情の篭っていない瞳で見下ろしてくる。
まるで自分には何も関係ないとすら、そう思っているかのように―――。
 
「用件は?」
 
あまりにもぞんざいな態度に、彼のことを睨み付けてしまった。
自分には、そんな資格なんてないのだというのに・・・・。
今朝から体調が思わしくない彼の体を支えながら奎吾さんへ視線を合わせると、嫌味だとハッキリ判る言葉を投げつけられた。
 
「そんなに暇ではないんですよ。」
 
その言葉は、どんな言葉よりも彼を間違いなく傷つけている。
だって、普段は決して他人から向けられる感情に気など取られることもない彼が、ビクリと体を揺らしたのだ。
確かに、奎吾さんの態度が軟化しないのにはそれなりの理由があるのだろうと思うけれど、それでも彼が残り少ない時間の中で、どうしても伝えたいことがあるというのなら、奎吾さんには聞く権利というものがあるはず。
それだけじゃない――相手が病気で弱っているというのに、どうしてこんな態度を取れるのだろう。
しかも、生き別れたままだったとは言え、奎吾さんにとっては父親に当たる人。
そんな奎吾さんの態度は、あたしには、どうしても理解できなかった。
 
「そうだな・・・・私にも時間がないことだし、簡潔に言ったほうがいいな」
 
まるで自嘲じみた笑みを称えた彼は、少し疲れたように項垂れつつ言葉を吐き出し始めた。
それは、独白するかのような、そんなもの。
 
「まず、遺産のことだが―――私の所有しているいくつかのモノをお前に渡したい」
 
そう言ってあたしの手を握り締め、何かを促すかのような態度を取る彼に、仕方なくベッドサイドに置いてあった書類袋を手にした。
その中に入っているモノが何なのか、それは知らないコトだったけれど、それでも彼がずっと大切に持っていたものだ。
あたしには関係のないものだと思い、ずっと彼の傍にありつつも中身を見たことすらなかった。
だって、あたしにはそんな権利などないのだから・・・・。
 
「ココの中に入っているモノがお前にやれるものだ。一応は遺言状を書いて置いたが、出来ることなら直接手渡したかった・・・。だから、今日ココへお前に来てもらったんだ」
 
彼はあたしから手渡された書類袋を手にすると、中身を確認するかのように袋から取り出す。
その際も、もう自分一人の力では何も出来ず、あたしが手を貸さなくてはいけなかった。
 
「お前の祖父さんが俺に渡していた会社の株だ。元々、私が家を出る時に、生前贈与という形で渡されたものだが、これには一切手をつけていないから、好きにするといい・・・・だが・・・・」
 
彼は一旦そこで口を噤み、そしてゆっくりと深呼吸をする。
もう、随分と体がついていかないのだろうことが、その仕草からも判ってしまい、あたしは悲しくて仕方なくなってしまう。
また、彼の手があたしの手に触れ、そして強く握り締めてきた。けれど、その力も随分と頼りなく感じるのは気のせいなんかじゃない。
 
「ココの土地と店は、華依に残すつもりでいる・・・・・いや、元々が華依のものになっている・・・・・それを・・・私にこんなことを言う権利など無いのは承知の上でお願いしたい・・・・これから先、若いこの娘が一人で店の経営も大変だと思うんだ。だから私が死んだ後、彼女を助けてやってくれないだろうか?」
 
ゆっくりと、吐き出すように繰り出した言葉に、奎吾さんの目が釣りあがったようにすら思えた。
薄っすらとではあるけれど、眉間にも皺が寄っているようにすら思える彼の相貌は、ある意味で拒否を露にしているとすら思えるもの。いや、実際に拒否しているのだろう。
目は口ほどに物を言う・・・・その言葉は、真実なのだと目の当たりにして気付く。
奎吾さんは、心底、あたし達を軽蔑するような目で見ていたのだ。
唯一、彼が見ていないことに安堵感を覚えたけれど、もしかしたら肌で感じ取ってしまうのじゃないか?というくらいにキツイ双眸をしている奎吾さん。
あたしは心から、遣る瀬無い気持ちに襲われた。
彼は、こんなにも奎吾さんのことを思い遣っているというのに、奎吾さんには伝わってくれないのだろうか・・・。
こんなにまで・・・・彼は奎吾さんのことを信じているというのに・・・・。
決して自分には見せてくれなかった、その姿を・・・・奎吾さんにだけは見せているというのに・・・・。
この感情が何を意味しているのか、判らない訳じゃなかったけれど、それを表に出すことだけはどうしても憚れて、二人を前にしながらあたしは目を逸らさずにはいられなかった。
 
 
 

 

      
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