翌日。何の予定もない日曜日…。
目覚めるとおひさまはとうに空高く、今日も真っ白に輝く晴天だった。
─────…身体を起こして隣りの床を見ると、硬いフローリングに腕枕で横たわるミディアムロン毛の彼。
時計が嵌まったままの腕。首筋辺りの、浮いた筋肉。…普段のカジュアルできさくなイメージからは少し離れた、静かな彼の伏せられたまつ毛。横顔…鼻筋。
「……………………、」
思わず熱く見つめてしまう。
 
昨日の出来事の色々が、頭の中を早送りで駆け巡った。
そしてハタと思う。
彼はどこまでを本気にしただろうな…。
もしかしたら寝る直前の偽装結婚の話なんて、とっくに酔っ払いのたわごとジョークで片付けられてるかも知れない。
「─────…ま、それはそれで仕方ないか…。」
だけど、アキ兄の部屋にあたしは居る。
彼の部屋に今、間違いなく2人きり。
何だかそれだけで、くすぐったいようないい気分。…こんなスペシャルな日曜日ってある?!
 
そおっと忍び足でベッドから抜け出して、ダイニングまで来て見ると、昨夜の空き缶がテーブルに散らかったままだった。
 
 
 
高校3年生のあたしは、何が何でもアキ兄や兄貴の居る大学に入りたかった。
そして無事入学を果たした後、迷わずワンダーフォーゲル部に入部した。
最初は気付いてなかった。
アキ兄に好きな人が居るって事。
一つ年上の、3回生の人だった。
彼女はとても長いまっすぐな黒髪をいつも綺麗に手入れしていて、長い爪を持つ人だった。
普段キャンパスで見かける時には必ず上品なスカート姿で、日本的な古風美人。
だけどあたしは彼女の時折覗くやや粘着質な女っぽい部分が苦手だった。
そんな彼女はアキ兄目当てで入部してきたのだと、周囲の誰もが気付いていた。
いつもアキ兄に纏わりつき、ネコのように彼に甘えてた。
だけどあたしは心のどこかで信じてた、アキ兄は彼女を好きじゃないし、彼女とは付き合ってるわけでも何でもないって。
ある夏の日、あたしは部室にアキ兄と2人だった。
今度の週末の登山の話を少しして、「ハル、うまく1年の奴ら纏めてくれよ、頼りにしてるから」なんてちょっと嬉しくなる言葉ももらって。あたしは浮かれてた。
「何、お前彼氏居ないの?」
ひょんな事から、普段は滅多にしないような話題になる。
窓から差し込む日差しが背中に当たり、ジリジリと焼けるようだった。
「居ないよ、居るわけない。…面倒くさいだけじゃんっ、ねー?」
彼に同意を求める。『あたしはアキ兄と同じ主義だもん。』そんな、無意識のアピール。
当然でしょ。アキ兄もそうでしょ?
あたしは心の中で、アキ兄への忠誠を誓うようにそう告げる。
そうしたらいきなり、突き放されるような言葉。
「───…確かに面倒くさい。…どうして女の子ってみんなああかなー」
「?!」
そのニュアンスにあたしは嫌な胸騒ぎと違和感を覚える。
え?え?
だって…っ、彼女作らない主義だよねっ?アキ兄っ。面倒くさいんだよね?妹たちでうんざりなんだよね…?!
───…だけど、恐る恐る尋ねずには居られない。
「…アっ…アキ兄…、彼女居るんだ?!」
彼は首を縦に振った。
「………トモダチの紹介で。」
う、ウソでしょっ、ウソだよ…っ。
心臓はまたバクバク鳴り始める。
「だっ、誰?!うちの部の子?!」
今度は彼は静かに首を横に振る。
「バイト先の友達の紹介。………何となくいいかな、って思ったけど…。やっぱ、しばらく経つとうちの妹みたいにさ、あれ買ってとか、あそこのレストランのコース食べたいとか、色々注文ばっか」
「……………………、」
あたしはもうグラグラ。
信じられない…っ。信じられないよ…っ、じゃあ最近じゃなくって、ちょっと前からその女の子と付き合ってたって事…?!
ウソだって言ってよ…っ、お願い…!
「へ、ヘェ…、やっぱ大変かぁ」
それでもあたしはムリして平静を装い、笑顔を作ろうと努力してしまう。
彼の気持ちを理解できる、いい妹でありたかった。
「あとさー、オレの服装とか、色々指摘してくんだよな。もっと高いブランドの服着てくれとか、ブランドの香水つけろとか。…オレ別に服なんてユニクロでいーもん。…お前どう思う?」
「へっ?」
「好き?インポート物のブレスとかピアスとかしてる男」
「……………、わ、分かんない…、」
「オレもーっ。…なんつーか、この頃だんだん分かんなくなってきた、オレがヘンなのかな?!って。」
「ヘンって?」
「…んーとな、例えばオレだったら…、好きな女の子とだったら、山のてっぺんでおにぎり食べるだけでもハッピーな気がするんだよ。…別に高級住宅街にある隠れ家的フレンチレストランじゃなくってもさ。」
「うんっ、あたしもそのほうがいい!青い空の下でさ、一緒にお弁当とか食べるほうが幸せ感じると思うっ」
アキ兄は声を立てて笑う。
「あははーっ、でもそんなのヘンなんだってさ。…ハル、お前もヘンって事だな。カノジョに言わせると。」
─────ギクリ。…『カノジョ』だって。
だけどあたしは締め付けられる胸の痛みを隠しながら一人夢を見る。
………あたし、山のてっぺんでアキ兄とおにぎり食べたいよ…。その時のアキ兄がユニクロのTシャツ着てたって、全然構わないよ…。
 
…その翌月。大学のサークルメンバー20名ほどで登った小高い山。
アキ兄が手を差し伸べたのは、あたしじゃなく…彼より一つ年上の人だった。
 
 
「もうダメ、苦しくって…っ、荷物重すぎ…っ、」
長い髪を後ろで縛ったその人は、息も絶え絶えにそう訴える。
最後尾に遅れてしまった彼女を振り返り、立ち止まって待っててあげたアキ兄。
あたしはにわかに鳴り始める心音と嫌な焦りをこめかみに感じながら、2人をなるべく視界に入れないように、早足で頂上を目指した。
他の女の子が話しかけてきても、あたしは上の空。
意識はいつも背中のほうにあった。
─────頂上。…見事な快晴の空。
まるでオーストラリアかニュージーランドみたいなイメージの濃青を視界一面に浴びながら、けれどあたしは絶望する。
頂上での昼食タイム。
アキ兄の隣りに腰を降ろして、彼におにぎりを差し出したのは冬美さんだった。
当たり前みたいな自然な仕草。彼の指が彼女のランチボックスからおにぎりを取る。
膝を立て、同じ景色を眺めながらそこで過ごす2人。
 
─────アキ兄はあの人のものになっちゃったんだ………。
 
あたしは空を見上げたまま、目頭に込み上げる涙が零れ落ちないように我慢するのに必死だった。
切なさがナイフになって、あたしの心を切り裂く。
もう上手く笑えない。
頂上で、バカみたいにはしゃげない。
みんなと一緒に写真撮れない。
………だけどあたしは始終、大声で笑ってた。…少しもじっとせずに、その辺りを飛び回ってた。
「ねぇねぇ!じゃあ今度そっち側で撮ったげるっ!もーちょっと寄って!」
誰かのデジカメを手に、色んな仲間の笑顔を撮りまくった。…唯一、アキ兄と冬美さんにだけ背を向けて。
 
2人がいつ別れたのかは、知らない。
けれどあの快晴の日の、トレッキングから数ヶ月後だったと思う。秋には2人は肩を抱き合って微笑っている事もなかったし、冬美さんはサークルの部会にも顔を出さない事が多くなった。
あたしは冬美さんとの事を、一度もアキ兄に聞けなかった。
アキ兄も自分から話さなかった。
だからどうして2人が付き合う事になったのか、どうして2人が別れる事になったのか、あたしは全然知らない。
同じワンダーフォーゲル部で次期部長候補でもある本当の兄貴のほうに訊いても、「知らん。…つうかそんな下衆の勘ぐりすんなよ」と眉を険しくされただけだった。
ちなみにアキ兄があたしに話しかけてくれる時は、いつだって自然な笑顔。いつだってカジュアル。いつだって同じ空気を纏ってる。
それはあたしが中3の時から変わらなくって。あたしはいつも妹みたいな位置で。
無遠慮な手は時々あたしの頭のてっぺんに乗せられたかと思うと首に腕を回してこられ、プロレスのワザを掛けるみたいに自分のほうに引き寄せて髪をかき回される。
「やぁんっ!もぉっ!」
ふざける腕。彼の口元から零れる白い歯。
思いっきり顔をしかめて抗議しながら、いつもそうされるたびあたしの胸は高鳴った。
「お前呼ぶ時、これ便利。…ホラ、取っ手、取っ手」
「違うーっ!」
あたしの、後ろで縛った髪が5cmほどまっすぐに突き出てるのを見ては、アキ兄は面白がって後ろから引っつかんできた。部室で何か用事をしようとしていたあたしはいつも、不意打ちみたいに背後へぐいっと引っ張られ、よろけそうになる。
実は女の子らしさに欠けるとよく言われるあたしとしてはこれでも精一杯自分なりに頑張ってオシャレにしてるつもりだった。アジアンテイストな雰囲気になるように耳と同じ高さで縛って、ピンをいっぱい留めて。その髪をアキ兄に引っ張られるたび後れ毛が元気よくピョコピョコ跳ね落ちてしまい、直すのに時間がかかって苦労した。
アキ兄はやっぱり、そんな時にもあたしを見ていつも可笑しそうに笑ってた。
そんなあたしとアキ兄のやりとりをたまたま偶然キャンパスで目にした同じゼミの女の子達は、「ねーねー付き合ってるのー?」と勘ぐってきたものだった。
そう問われるたび、心が高鳴って落ち着きを失くしてしまうあたしが居た。
…だけど同時に思い知らされるんだ。
あたしとアキ兄は、ただの同じサークルの部員同士。
アキ兄はナツ兄の親友。
ただそれだけ。
ゼミの女の子達の、アキ兄を見る時の視線も、やっぱあたしをザワめかせ、焦らせる。
アキ兄は女の子を放っておかない。みんなが彼を意識してる。
浮き足立ちながら、熱い視線で彼の広い肩とか長めの少し跳ねた髪とか、そこから覗く男っぽい首筋、喉仏、履きふるしたデニムジーンズのやや落ちた腰とか…振り返ってあたしを見た時にこぼれる歯とか。何気ない要素全てを…彼の中にある男っぽさの全てをチェックする。
あたしだけが、それを信じたくなかった。アキ兄がモテるなんて信じたくなかった。
今から思えば大学時代、(ううん、高校時代だって)アキ兄はきっとたくさんの女の子から付き合ってとアプローチされた事だと思う。
けれどアキ兄はそんな話をあたしの前でしなかったし、あたしもそんな話知りたくなかった。
アキ兄はずっと女の子になんか興味なくって、クラブの事にばかり熱中してて、うちのナツ兄と馬鹿な事言ってはふざけてて、ずーっとずーっとそうなんだ、って。信じ続けていたかった。
そしてあたしが25歳になっても、アキ兄には彼女が居なくて。
仕方ないからあたし達、冗談みたいに結婚する。
…おとぎ話よりも現実味に欠けるハッピーストーリー。
けれどこの夢物語を、あたしはずっとずっと胸に抱き続けていたかった。夢から醒めたくなかったの、絶対に。この神話にすがっていたかった。
 
─────秋も更けてきた晩秋のある日曜日。
事件は起こった。
 
………その日、ワンダーフォーゲル部は信州の山に居た。
大して険しくもないコース。岩肌をロッククライミングするでもなく、いつもの調子のトレッキング。いつものノリでお昼過ぎ、頂上まで辿り着いておにぎり食べて。
ふざけて写真撮って、連れ立って山を降りてくる…ただそれだけの行程だった。
けれども午後になり、山の天気は急変した。
さっきまでの青い空が、みるみるうちにグレーのインクを零したごとく薄雲ってゆく。
やがてそれは厚く重い雲に取って代わり、空を見上げる隙にもう、ポツリポツリと雨粒。
帰り道を急ぐ余り、あたし達は通り掛かりの他の下山者達に薦められるまま当初のコースを変更した。
これが仇になってしまった。
コース変更を薦めた中年男性3名はあたし達よりも早足で山を降りて行ってしまい、女の子も交えた我々のグループは遅れをとった。
もう霞の向こうに人影は見えない。
…おそらく道に迷ったのでは?!
そう先輩達が気付いた頃には、誰も不安の余り口を開いていない状況だった。
あっという間に辺りが暗く翳ってゆく。
時刻にすればまだ、それほど遅くはない。
なのに、今にも夜になりそうな気配。
「…気を付けて。出来るだけ固まって行こう、バラけるなよ」
最後尾には、てっきり参加しないだろうと思ってた冬美さん。
彼女はグループから遅れがちで、かなり疲れが目立ってきていた。
彼女と別れてから口を利くどころか視線も合わさなかったアキ兄が、舌打ちするように後ろへ下がった。
…彼女の肩から、奪うように荷物を取り去る。そして時折背後を振り返りながら彼女に歩調を合わせる。
余りにも遅れが目立つ場合には、前の人間に向かってやむなく大声で「ちょっと待って!」と頼む。
群青が辺りを覆い始める。それから湧き出るような濃霧も。
「ヤバい、ホント急ごう」
先頭をゆくナツ兄や先輩達の声に明らかな焦りが浮かぶ。
あたしは歩きながら何度も背後を振り返った。
霧のせいでぼんやりとしたシルエットしか見えない2人。
…ちゃんとあたし達は下山出来てるんだろうか。
それさえも確信がないから、余計に焦燥感だけが膨らんでゆく。
─────そして、最悪の瞬間が待ち受けていた。
「……………ッ!!」
アキ兄が振り返った時にはもう、冬美さんは脚を滑らせていた。
急斜面の、半ば崖のような地形。
彼女の叫び声は濃霧にこだまして、あたし達の耳にはにわかには女性の声とは分からなかった。
直後の、アキ兄の声。
気が狂ったのかと思うような絶叫。彼女の名を呼ぶ声。
その声で、ようやく我々は歩みを止めたほどだった。
 
 
─────彼女は、亡くなった。
 
アキ兄の手元には、彼女の肩から剥ぎ取った荷物だけが残されていた。
翌日、山間に捜索隊が派遣され、冬美さんは発見された。───…すでに遺体だった。
 
あの時アキ兄が何を感じたのか…あたしはやっぱり知らない。
 
だってあの事件の後久しぶりに会ったアキ兄は、拍子抜けするほど、いつものアキ兄と変わりなかったから。
いつもと同じ挨拶。いつもと同じ微笑いかた。
…目の下に少し疲れがうかがえた。けれどもそんなの、「昨日徹夜で遊んでたから」と言われれば納得する程度のもの。
 
けれども、結局その後卒業するまでの2年間余り、アキ兄は彼女を作らなかった。
あたしはその事実が、何よりも彼の心境を語る出来事のように感じた。
『アキ兄の彼女』は冬美さんで最後になった、って。
なぜかそう確信した。
 
 
 
「車で送ってってやるよ」
「えー?!アキ兄クルマ持ってるの?!」
「売ろうかなーと思いつつ…」
お昼過ぎ。あたし達は身支度をして、アキ兄のマンションを後にした。
アキ兄の車は彼のマンションから少し離れたところにある駐車場。
そこまで行って、何とその駐車場の隅、あたしはやっかいなものを発見してしまった。
「きゃーん、犬だよー!」
「え?」
「犬っ、子犬が居るっ!!」
…捨て子の子犬。…茶色くって、耳は短くて立ってて、狐の赤ちゃんみたい。…だけどしっぽはない。
「コーギーだ、可愛いなぁー!!」
あたしよりも先に、アキ兄が抱き上げていた。
どう見ても誰かがここに捨てたとしか思えないその子犬。近くには空いた容器にミルク。古びたタオル。その上に寝かされていたコーギー犬。
脚がダックスフンドみたいに短くって、ちょこんと付いてて。これで歩けるのかな?!って余計な心配をしちゃう。けれどアキ兄が再びコンクリートに降ろすと、おぼつかない脚でそのぬいぐるみみたいな小さな身体は歩き出した。
「おい?!おいどこ行くんだ?!」
しゃがみこんで呼びかけるアキ兄の横顔は、完全に少年顔に戻ってる。
「おーい、どこ行くんだよお前っ」
後ろ姿に呼びかけると、子犬はクルリとアキ兄のほうを振り返り、言葉がわかったかのように今度はアキ兄の元へヨチヨチ戻ってくる。
「おーっ、おりこうだなぁ」
彼が長い指で耳と耳の間や首の辺りを撫でてあげると、気持ち良さそうに子犬は目を細めた。
「あたし飼いたいっ」
「えっ」
アキ兄は驚いた顔を上げたけれど、あたしの挑むような目を観た途端本気を察知して、同じ眼差しになった。
「よしっ。じゃあ連れてくぞっ。」
あたしは無言で睨むようにうなずく。
可笑しいよ、あたし達。任務を任されたスパイみたいにうなずきあって、駐車場の隅から足音も立てずに立ち上がる。そして無駄のない動きでアキ兄の車に乗り込む。
あたしの両腕には、子犬。
「………ねぇ、名前何にしよう?アキ兄」
周囲の景色が背後に滑り出す。
軽快な日曜の午後。真夏の陽射しが今日も照りつけてくる。目が痛いほど。
「ハルアキ」
「えーっ?!春巻き?!」
「ハルアキ!」
彼がハンドルを握ったまま、こちらを見て再度言い直す。
「何でっ?!」
「決まってる、美春のハルと晃のアキでハルアキ」
あたしは思わず吹き出していた。途端に右横からゲンコツがゴツンと飛んでくる。
「何で笑うよ」
「だってぇ」
─────笑わずにはいられないよっ、…てか!恥ずかしすぎるよっ。
「じゃいいよ、春巻きでも」
アキ兄が唇を尖らせて言う。ハンドルを握りながら。
「えーっ、それもやだぁ」
あー、やばい、笑いが止まんないっ。
いつまでもあたしが笑い続けてたら、またゲンコツが飛んで来た。
何てしあわせな午後なんだろう。くすぐったくって、逃げ出したくって。けれど永遠にこのドライブが続けばいいのに、なんて。そんな風にも願わずにはいられない。
 
「…あ、そこ右に曲がって。そしたら2筋目の角、あたしん家」
「オーライ」
…けれども楽しい時間には必ず終わりがくるのだ。
「なぁ、シュウマイのエサとかグッズとか、お前どうするの?」
─────結局ハルアキは、その後ギョーザ、小龍包、八宝菜、天津飯、果ては中華丼やら杏仁豆腐にまで名前が発展し、更にはドラゴンボールのキャラクターの名前を一周し、シュウマイに落ち着いた。(ヘンな名前っ。でも決めたのはアキ兄だからっ。)
「…買いに行く?」
あたしのアパートの前で停車したアキ兄は、ハンドルに両腕をもたせかけたままこちらを振り向いた。
「う、うんっ!」
考えるよりも先に首を縦に振ってしまったあたし。
う、うれしすぎる…っ!どうしようっ!
…こうしてあたしは、思いがけず日曜日、アキ兄と午後のデートタイムを過ごせるラッキーに有り付けた。
 
ペットグッズってけっこう高い。予想外に。
…それでもネコを飼うよりは、犬のほうが維持費は安いんだって。
「何でもかんでも噛むようになりますから。ちゃんと大きくなる前にしつけしてくださいね」
とペット好きなホームセンターの女性スタッフから言われた。また分かんない事が出てきたら、この人に訊きに来ようっと。
…近所にこんなお店があってよかった。ペット飼わなかったら絶対来ないお店だよ。
その後、陽が傾き始めた時刻、あたしはアパートに戻り、玄関のドアを開けた。
「うわっ?!…んじゃこりゃっ?!」
背後のアキ兄が悲鳴に近い声を上げる。両手にペット用品を持ったまま。
「───…すげー、サウナだろこれ…っ!あー、向こうの窓から西日がモロなのか」
エアコンが壊れてるあたしの部屋は、片付いてはいるけれどむせ返るような湿度の高さ。
「………ごめん………、と、とりあえずどうぞ、あがって」
西日が長い線を描いて差し込むあたしの1DKの部屋。(1DKと言っても、キッチンは廊下に毛の生えたようなネコの額で、実質ワンルーム。)
「どこにシュウマイの寝床作る…?場所ねーじゃん…。玄関のこの靴置いてるとこにする?」
「うーん、ホントだ…どうしよう、場所ないな…、」
あたしは慌てて大きめの紙袋に、玄関に置いてあるミュールやスニーカーを放り込んでゆく。そこにアキ兄がホームセンターで買ったばかりのグッズを置く。
けれどもしゃがみこみながら彼は苦笑した。
「…なぁ、これ全部置いたらさ、明日からお前どこで靴履くの」
「あぁホントだよねっ、」
あたしもアキ兄の傍に立ちながら苦笑するしかない。
「アキ兄、…も、もしもよかったらだけど…っ。ごはん食べていく…?」
「いやいいよ。…つうかハル、料理出来んのお前」
「出来るよー!失礼だなぁもうっ。…てかちゃんと自炊してるし!」
「マジ?!たまげたーっ。つうか何か飲んでいい?」
「あっ、ごめんねっ!シュウちゃんの事で夢中になってたっ、お気遣いもせず」
「イエイエ。お気遣いなく。…勝手に冷蔵庫開けていい?…あ、これ麦茶?」
アキ兄は腰を屈めて小さな冷蔵庫を開けている。そしてしばらくその姿勢のまま無言で動かない。
「……………?………アキ兄…?」
「………おおおー?!」
まだアキ兄は腰から90度、上体を屈めたまま。
「どうかしたっ?!」
あたしは一体冷蔵庫にどんなものを入れてたかと不安になり、慌てて駆け寄った。
アキ兄が起き上がる。…手にはお味噌を持っている。
「なぁこれさ、イナカのやつじゃないっ?!」
「…う、うん。そうだよ?お母さんが送ってくれるもん」
「うわー、そうだよな?!あのうちの近所の佐近商店っ!あそこの味噌だろー?!」
何だかえらく感激している。
「オレ何年飲んでないんだろ、この味噌汁っ」
あたしは妙な事で感激しているアキ兄の様子が可笑しくて、小さく肩を震わせてしまった。だって何だかオモチャもらった子供みたいに目を輝かせてるんだもんっ。
「何年なんて大ゲサっ!お正月に実家戻ってたんじゃないの?」
「おー、戻ってるけどさっ、でもホラ正月は雑煮だから、味噌汁出てこねーじゃんっ。
正月以外には帰らないしさ」
「…ああ、言われてみればだね…、」
そうしてしばらくそこに突っ立っていた後、アキ兄が開けっ放しの冷蔵庫に気付いて慌ててドアを閉めた。
「おっと、すまん。冷蔵庫の前涼しくてつい。」
ああー、幸せだなぁ。こんな風にしてアキ兄と2人きり、たわいもない事で笑い合えるの。
「…じゃあ麦茶飲んだらオレ帰るな。…このグラス借りていい?」
彼の手が伸ばされて、すぐ横に立ててあったグラスを一つ取る。
「……うん、分かった。ありがとう、シュウちゃんのものもいっぱい買ってもらっちゃって。」
「…お前誤解すんなよ、あいつはオレの犬でもあるんだからな」
「えっ?!」
立ったままその場で麦茶をグラスに注いでいる長身は、予想外の事を告げてくる。
「えって…。ハル、まさかお前自分一人のもんだと思ってたの?!」
グラスのお茶を少し煽り、再びこちらをまじまじと見て来るアキ兄。
「だって…っ!」
「オレの犬でもあるから。ここに預けてるだけだから。」
「マジー?!」
あたしはまた吹き出す。
アキ兄はそのリアクションを予想していたようで、ニヤリと微笑ってみせた。
 
「んじゃ。…また明日」
麦茶の入ったボトルを手に持たされた。
「えっ?!」
「───…何だよ覚えてないの?明日の夜、また例の取引先の課長と会わないとダメなんだろ?…お前嫌がってたじゃん、昨日の夜」
───…言われてようやくおぼろげながら思い出した、昨夜の話。
そうだった、あたしは明日の夜、仕事が終わってから例の31歳の課長と会って、独りきりで接待しなければならないんだ。
「あの話の後…、どうなったんだっけ…?」
あたしの声に、アキ兄の片眉が持ち上がる。
「覚えてないのかよ?!呆れた奴だな泣きまで入れといて。…だから、お前明日もう一度そいつと会わなきゃなんないだろ?2人きりだろ?そいつと。で、企画の話ちゃんと自分の会社で請け負ってもらえるように頑張って相手を説得する。…そしてキチンと契約してもらえるように覚え書にサインしてもらって、いざそいつがお前にせまって来そうになったところで、お前はこっそりオレにメールする。」
「そ、そんな計画立ててたっけ…?!」
軽く額を指先で弾かれる。
「この酔っ払いっ!オレは真剣に計画練ってやったっていうのにっ!」
「うーごめんっ、…それでっ…?」
「とにかくヤバい展開になりそうだったらテーブルの下からこっそりメールしてこいっ。
空メールでいいから。…したらオレ、その場に出てってやるからさ」
「えっ?アキ兄が?!」
彼はマジメな顔でうなずく。
「そしたらお前はいかにも偶然みたいな感じで、驚いてみせるんだ。『えーこんな場所でっ、どうしたのォ?!』とか何とか。」
「うんうん、それでっ?」
あたしは知らず身を乗り出すようにして、背の高いアキ兄に向かって無意識に背伸びする。
そうしたら彼は最後にグラスをもう一度あおって、空になったそれをあたしの胸に差し出した後、見とれるほどのカオを造った。
「その後、オレはめちゃくちゃスマートに名刺を差し出しながらそいつに言うワケ。」
まっすぐな眼差し。一呼吸置き、男っぽい眉が僅かに動く。
「“どうも初めまして。妻がお世話になっております。”」
「っ?!」
 
 
アキ兄が笑いながら明るく去っていった後も、あたしの心臓は鳴り止んではくれなかった。
おさまるわけない、こんなドキドキ…!
なんなのっ?!なんなのっ、この展開っ。
もうとっくに視界から消えた、彼のオンボロ中古車。けれどもあたしはその場を動けない。
「つっ…、妻がお世話になっております…っ?!」
頬がカアッと熱くなる。首から上までが一気にのぼせる。
つぶやいた声は震えていた。
「うっそ…、アキ兄…、うっそでしょお…っ、」
どこまでがギャグなの?!どこまでが本気なの?!全く解からないよ…っ!
明日の夜、ホントに来てくれるのっ?!
─────いいの?!あたしの事、例え嘘でも…っ、つ、妻だなんて言っちゃって…っ。
あたしっ、アキ兄の奥さん役でホントにいいのっ?あんな格好いいアキ兄の奥さん役で…っ?!
「うわー、ちょっと…っ、マジで困る…っ、」
あんなに憂鬱だった明日。泣きたくなってた月曜日。
土曜日の夜、東京駅八重洲口に独りで降り立った時には永遠に月曜日が来なきゃいいのに、ってバカみたいな事を本気で祈ってた。
今は全然違う。
久しぶりに逢ったアキ兄に、あたしは2度目の恋をしたみたい。
10年間ずーっとずーっと好きだった。だけどここ数年仕事に慣れるのに必死で、時間に追われる毎日の中、少しアキ兄の存在が薄らいでた。
けれどその分、たった2日間過ごした時はもう一度アキ兄の存在をあたしの胸の中心に強く強く焼き付けた。
やっぱりあたし、アキ兄しか好きになれない。
例えあたしが彼にとって、妹と同じラインだとしても………それでもいい。アキ兄に笑いかけて欲しい。あたしアキ兄に追いつけなくってもいいよ、ずっと追いかけてるだけでもいい。片想いでもいいの、アキ兄にとってあたしが恋愛対象じゃなくってもいいんだ。かまってもらえるだけで嬉しいから。
「明日頑張ろう…。」
 
気持ちが高ぶって落ち着かなくって。小さなシュウちゃんが我が家にやってきた事も手伝ってなかなか眠れなくて、夜中何度もベッドを抜け出し、玄関先で丸くなって眠るぬいぐるみみたいなチビを眺めて。
そうして翌日の朝。出勤してみるといきなり上司に呼ばれた。
「………今日の商談には、念のため先週末からこちらの部に配属になった紀本くんにも同行してもらう。」
部長は隣りに立つ見知らぬ女の子をあたしに紹介した。
…漂うような無表情。長くてストレートな黒髪。華奢な肩。
「はっ…初めましてっ。」
慌ててペコリと頭を下げるあたし。
「本部のほうからの配属だし、紀本くんは君の上司という位置づけになるので今日から紀本くんの指示に従ってくれ。」
営業成績が本部でも群を抜いていて、こちらの部門を強化するため急遽配置換えになったという紀本香奈枝。
彼女はあたしよりも一つ年下だったけれど異例の出世でうちの課では営業主任というポストをもらっていた。
24歳の人形のように抜ける白い肌がこちらに向かってゆっくりと頭を下げる。
およそ営業成績がトップだったという言葉からはイメージのかけ離れた、活発というよりも物静かで表情の読めない彼女。
けれどもあたしは再び頭を下げて挨拶を交わしながら心の中である女性の事を思い出していた。
まさかだけど───…。
…紀本香奈枝さんは、大学の時の…あの亡くなった、アキ兄の元カノ・冬美さんとよく似た面差し、雰囲気を纏っていたから。
 
夕刻、会社を後にしてあたしは予定外に課長、紀本さんとともに取引先の課長と会う事になった。
何としても取りたい今回の仕事。
なぜそこまでしてまで?と思うような小さな企画だけれど、うちの会社としてはこの仕事をきっかけとして今後もクライアント企業から更なる受注をもくろんでいるらしい。
うまく行けば、親会社からの発注も見込める。
そのために、初仕事となる今回の企画。
…だからこそ、急遽配置換えしてまで呼ばれた、今あたしの隣りを歩く美しい彼女。
気まずい想いをシャットアウトして何とか満面の笑顔を用意し、接待の席に立つあたし。
けれども先方の課長は紀本さんをひと目見るなり、彼女に釘付けになった。
嘘みたいに円滑に流れる時間。木本さんは決して、媚びるような発言をしない。
けれどもマイペースを崩さない彼女の無表情の奥を何とか覗こうと、31歳の取引先課長は次第に必死になってゆく。もうあたしなんて眼中にない、って感じだった。
「!」
ジャケットのポケットに忍ばせていたケータイが着信を知らせた。
チラリとテーブルの向かい席を盗み見ても、課長はもうあたしになど目もくれてない。
─────『どうなってるの?予定通り行く?』
…アキ兄からのメール。
ちゃんとアキ兄、この店の近くまで来てくれてるんだっ。
そう思うと感激の余り涙ぐんでしまいそうだった。
トイレに立って返信しようかな…、多分もうこの席にあたしが居なくても商談は成立間違いなし。
そうしていたら、うちの課長が「私はそろそろ…」と気を利かせたような言葉と共にその場を立ち去ろうとする。
すると絶妙のタイミングで紀本さんがそれを押しとどめた。
「お待ちください課長。ではこの場で契約書にサインして頂きましょうか。そうしたら書類を課長に持って帰っていただけますし。失くしたり汚したら大変ですから…あたしもいつ酔っ払っちゃうかと思ったらなかなか食事も楽しめません。ねっ?さっさとお仕事関係の事だけ終わらせてしまいませんか?」
腹の据わった彼女の静かな声と、崩さない自分のペース。
含みを持たせたような言い方、とどめのスマイル。
初めて見る彼女の花びらのような微笑みに、うちの社の課長までもが我を忘れていた。あ、あぁ…そうだな…、じゃあ…そういう事で…、」
有無を言わせず、彼女が契約を勝ち取ってしまう。そのきっぱりとした押しの強さと、けれども同時に強引さなど全く感じさせないスルリとした流れ。見事な手管で事を自分の思惑通りにコントロールしてしまう。
「はい、どうぞお使い下さい」
上品な花柄の細いボールペンを彼女が綺麗な指先で差し出しただけで、向かいに座るクライアントの課長はたじたじになった。
あたしはただ舌を巻きながらその様子を眺め、トイレに立つタイミングも逃したまま紀本さんの端整な横顔と黒いストレートヘアを見つめていた。
うちの上司の課長が席を立ち、あたしも慌てて席を立つ。…最後に紀本さんがクライアントと共に談笑しながら出口に歩いてきた。
先に課長が店の扉を開け、続いてエレベーターホールに出たところで、アキ兄と出くわす。「…っあ!」
スーツ姿の彼。
広い肩幅のミディアムロングヘアは、咄嗟に曖昧な微笑みを見せ、課長に会釈をする。
 
待っててくれたんだ…!
 
感激したのも束の間。
「…あの、どうも!妻がお世話になっております!」
アキ兄は、取引先の課長と間違えて、うちの課長に握手を求めた。
 
 
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