「─────………」
助かったような、宙に浮いたような中途半端な静けさが、部屋に取り残されていた。
………気が付けばもう、部屋の中は青暗い。
立ち上がったみずほが、部屋の壁にあるスイッチの灯かりを付けた。
「………お前ホント、強情っぱりだなぁ」
戸口のスイッチに手を置いたまま見下ろされる。長身の彼は少し呆れたような顔。
「……………」
声も紡げず、何とか彼を見上げたさくらの表情は、不安定に少し青ざめていた。
もちろん、笑顔など作れない。
「顔色わりーぞ」
「……………………」
言われて、彼女の心に負けたような悔しさが走った。
何に、なのかは分からない。
でもきっと、自分一人が顔をこわばらせ、余裕を失くしている事に対して。
…みずほの言う通り、自分は子供なのかも知れない。─────幼い頃から近所でも学校でも、何てしっかりしていてよく出来た子供なんだ、と大人たちから高 い評価を貰っていた。クラスの女子たちを、内心子供じみてるなぁと思う事もたびたびあった。外見もどちらかと言えば大人びていて、バイト先でも大学生と名 乗って疑う客など滅多に居ない。
いつも一緒に居るみずほの事も、男の子って幼いなぁ、と実は思ってた。─────なのに。
知らないうちに、周囲のみんなは自分を置いて大人になっていたのだろうか。
「ヤラセ」に振り回され、感情が嵐の中の小舟みたいに翻弄されてしまった、この25分。
ジンジャーエールを差し出されて、考えるよりも先にそのまま受け取り、ペットボトルごと飲む。
ようやく肩で息をついた。
「………あの後、どうなるの?」
それでも尚、さくらは平気なフリをした。多分、みずほにはバレバレだった。
「あの後…? まぁ、フツーだよ。本番入って、顔射して終わり」
「ガンシャって?」
「……………、まぁきっと多分本番は、ヤってないと思うけど?」
「ガンシャって何?」
「………顔射もウソだと思うぜ? ヤラセだよ、全部ヤラセ。ヤってるフリだけ」
「だから、ガンシャって何なの?!」
「あーもうっ! いーじゃん、そういう事は」
「……………」
「ねぇ、ホントにクラスの男の子達みんな、こんなの観てるんだ」
「…みんなかどーかは知らねーけど。今はネットでもキワどい写真とかいっぱい出回ってるし」
「………ふぅん………、みずほの趣味ってAVだったんだ、知らなかった」
「シュミじゃねーって!」
「でもすっごく詳しいじゃんっ、マニアなんだ、つうかAVオタク?」
「んな事ねーって、何だよお前、ケンカ売ってんのか?!」
「あーいう大人しそうな、お人形みたいなアイドル顔のコがタイプなんだ、ふーん」
「さくら」
「それでもって、巨乳がいーんだ」
「さくら、オレはなぁ」
「何よ!」
立っていたみずほが、いきなり彼女の目の前にしゃがみ込んだ。
真正面に詰め寄る。
「オレは、お前が好きなんだって!」
「…?! ─────………」
その声に、弾みでつい口を滑らせてしまったみずほも、聞いてしまったさくらも、うろたえた。
先程までとは全く違う戸惑いに、さくらの顔が耳まで熱くなる。
すぐ目の前に、立ちくらみを起こしそうなほどキレイな顔がある。
彼も、気まずく視線を逸らした。数度瞬きをする横顔。
みずほの気持ちを知っているつもりが、そこから逃げるようにして全く受け入れてなどいなかった自分を、さくらはたった今、発見してしまった。
嘘か冗談にして、ごまかし続けていたかったのだ。
「……………」
うつむくさくらと、口元を手で押さえているみずほ。微妙な不均衡が、どちらにも傾かないシーソーのごとく曖昧に揺れる。
水を打ったように、音のない密室。
自分達の他には誰も居ない、この四角い空間。
さっきまで画面の中で繰り広げられていた濡れ場の残像が、まだ脳裏にチラついている。
「っ、ねぇ、ギター聞かせてくれる約束だよっ?!」
「………え? ギター?」
何だよ、いきなりこんな時に、と。彼の声には抗議の色が混じっていた。
「いいでしょ? どこ?」
気まずさを振り切るように立ち上がり、彼の脇をすり抜けるようにして密室のドアを開放したさくらは、廊下に出てようやく、水の中に放たれた魚のように呼吸 をする事が出来た。あまりの緊張に、自らの膝が、まるで油をささずにサビついてしまった機械のようにこわばって、うまく動いてくれない。
「………そこ、その斜め左のドア」
背後の、諦めたような声に促されて、さくらは廊下を挟んで向かい側、言われた扉を押し開けた。
真っ暗闇。
「─────………」
いきなり灯かりがともる。背後のみずほが戸口のスイッチを入れてくれていた。
そこは書斎のようになっていて、天井まで届くほど大きな本棚には、今は読まれていない無数の書物があった。他にはスキーの板や、多数のダンボールに詰められた物なども置かれている。
みずほが入ってきて、ギターのソフトケースを引き出す。
「………あと、アンプどこ置いたっけ」
棚の下のほうを探すみずほに、
「ホントにギター弾くんだね…」
さくらは呆れたように感心していた。
何をやっても出来てしまうなんて、ホントすごい。
「みずほが苦手な事って、無いの…?」
「ババァ」
「……………」
「ババァが苦手」
ババァとは、みずほの母親の事。身を屈めてダンボールの中を引っ掻き回しながら、そんな答えを即座に返してくるみずほの背中。そこに彼らしい幼さを見つけて、ようやさくらは少し自分のペースを取り戻しかけた。─────その時。
 
グラリ、と身体が宙に浮く感覚。
「 ! 」
「キャ………」
「地震だ」
東京で生まれ育ち、小さな地震など慣れっ子のさくら。しかし今日は珍しく、横に揺さぶられるような揺れが長く続いた。
バランスを失いかけた彼女の腕を、身を起こしたみずほが咄嗟に後ろから支える。
─────止んだ。
ホッとしたのもつかの間、今度は部屋の灯かりが消えた。…部屋だけでは無い。小さめの窓から見える街には、闇以外見えなかった。近所の窓にも灯かりが無いという事は、この辺り一角が停電したという事のようだった。
「…停電みたいだよ」
少し肌寒い、エアコンの効いていないこの部屋。四方どちらを向いても闇の中、背後に立つみずほの手だけが、さくらの肩と脇の辺りにある。
急に鳴り出す、心臓。
 
やだな、もう。…なんでよ、なんで今日はこんな、胸をすく事ばっかり続くの?!
 
見えないせいで、視覚を除く五感が、いきなり目覚めたように忙しく働きだす。嫌というほど、自らの肌が彼の気配を強く感じた。まるで痺れたみたいに、ピリピリと。
…それから、口から飛び出しそうなほど大きく速くなる、自分自身の心音。
 
やだっ、止まれ、元に戻れ…っ。そんなにドクドクしたら、みずほにバレちゃうよ…!
 
「………み、みずほ」
さっきよりも狭い密室。
「動くな、揺り戻しが来る」
…言い終わらないうちに、再び足元がグラつき始めた。何かを掴もうと腕を伸ばして、手が空を切り、余計にバランスを崩す。
棚の上の軽い置物が、2、3個床に落ちて転がる音がした。
「 ッ、 」
足がもつれて前につんのめり、倒れ込むかと思った瞬間、腰の辺りを強く支える手に、何とか引き止められた。みぞおちを抱かれる。予想外に彼の腕はしっかりしていて、軽くさくらを抱き止めた。けれど、ますます心臓の音が伝わりそうで、さくらは気が気じゃない。
「……………………」
呼吸が浅くなる。
─────…揺れは、おさまった。
「…みずほ」
まだ何も見えない。
背中にある彼の体温と、腰からみぞおちに回された強い腕と。今はそれ以外に、存在の確かなものが何も無い。
「………? みずほ………?」
返事が無くて、急に不安が襲った。
彼は確かにそこに居る。なのに今、どんな表情で、何を考えてそこに居るのかが、まるで掴めない。
「………もう大丈夫………、力抜いて」
遠慮がちに口に出してみたけれど、───…返事は無かった。
灯かりはまだ、戻らない。
「みずほ………? どうかした………?」
おそるおそる訊ねてみた。早く離してくれないと、どんどん狂ったように忙しさを増しているこの鼓動がバレてしまう…。
さくらは先ほどから、そればかりに気を取られていた。
さくらの身体に回された腕の力は、まだほどかれない。
「ね、ねぇ………、どうしたのよ、ねぇ?」
暗闇の中、条件反射的に微笑みを作ってみせる。
「さくら………」
ようやく室内に響いた低いささやきは、ため息のように掠れていた。
力を込める彼の腕に、さっきとは違う別の種類のエネルギーが加わった事を、さくらの身体の中の本能のようなものがすばやく察知する。
「なぁ、オレがこうしてても、やっぱサイアク?」
「………え? イ、イミ分かんないよ………」
「あの…いつかの電車の時みたいに」
「………え?」
「泣きそうか?」
言われて、複雑な想いがさくらの心を困惑させた。
「な、泣きそうなんて、そんな………、で、でも…っ」
身体が石のように硬直してしまっている。どう答えていいのか分からない。
みずほの長い両腕は、改めてさくらの身体をそっと抱きしめた。まるで花束を抱くように。…まるでさっきの、ためらうように優しく触れた、彼の柔らかなキスのように。
そこに攻撃的な要素は、微塵も無い。
「じゃあ─────…」
彼の声は、背後から右の耳元に低く響いた。
低い周波数の振動が、耳の奥を刺激する。
「オレがさくらの事好きでも、嫌じゃないのか………?」
「…嫌な訳…ないよ…、ただ………」
「うん」
「すっごく今、ドキドキしてて………」
吐息がさくらの首筋に触れた。そのまま生温かいものがそこを掠めるように這う。
「………、っ───…」
…暗闇の中、初めて受けるその感触がみずほの唇なのだと理解するまでに、さくらは数秒を要した。
「ドキドキしすぎて、今は何も…上手く考えられないよ…」
彼の手が、ふいに彼女の心臓の辺りを撫でる。
「 ! 」
いきなりそんなところに触れられて、跳び上がるところだった。
「ホントだ」
さくらの薄手のセーターの上から、彼の手のひらが彼女の左胸も掠めた。
「やだ」
ビクリと震える、硬直した肩。
同時に、首筋に降りていた唇は、そこを強く吸う。
さくらは暗闇の中、ギュッと強く目を閉じて息を殺した。思考が回らない。
熱い唇は、そのまま耳たぶを甘く噛んでくる。背筋を何かが這い上がるように駆け抜けた。そのゾクリとした悪寒にも似た痺れに、さくらはますます困惑するしかない。彼女の身体の奥深く、確かに何かが反応する。
「………ッ!」
何度もそこをそうされ、耳の中に舌が滑り込んだ途端に、弾かれたような身体は膝から力を失った。糸の切れた操り人形のように。腰が抜けたように力が入ら ず、支えが無ければ立っているのも難しい。みずほの左手が腰に回されてなければ、そのまま力の抜けた肢体は、今にも床に崩れ落ちそうだった。
身体の中心から外に向かって、四肢が発熱し始めるのが分かる。
こめかみに汗が浮く。
真っ白にフリーズしたままの頭脳は、こんな時にどうすればいいのか、さくらに何の指示も与えてくれない。
…胸をまさぐっていた手が、やがてセーターの裾を割り、服の中に忍び込んでくる。
「や、やだちょっと…、う、ウソっ…」
抗議する間も無く、その手は着衣の下でさくらのみぞおちに触れた。素肌に直接、彼の指先が当たる。焦りが一気に水かさを増し、呼吸を忘れてしまう。思考は白濁してゆく。
熱に浮かされた時のように身体はますます言う事を聞かず、サビついたロボットのようだった。
噛み付くような首筋やうなじへの熱いキス。彼のまつ毛の先がさくらの頬を掠めた。
今まで味わった事も無いような種類の赤いうねりが、身体の中をうごめき始める。
「………ッ、…ァ、…あ…」
息苦しい、…息が出来ない。追い詰められた吐息はたちまち浅く乱れてゆく。空間にこだまする声は、まるで自分のものではないように一人歩きをし始める。耳を塞ぎたいような羞恥。
「さくら………ホントに嫌じゃない…?」
「…っ…、そんな事…っ、いきなり言われても分かんないよ、…でもさっ…」
みずほの指先が、さくらのベージュ色したセーターをたくし上げた。
「 何 」
露になった脇腹に、初冬の冷たい空気が当たる。ゾクリと肌が粟立つ。
「あ、ちょっ…、待って」
下着の上から胸に触れてこられた。
「みずほ、………んっ………」
さざ波立つ何かは、更にうねりを大きくしてゆく。
のぼせたみたいに首が熱い。思考と身体の感覚が分離される。
さくらは何かを振り払いたくて、無意識に頭を横に振った。余計に目まいがひどくなった。
 
─────本当に何かヘンだよ。あたしの身体を、自分以外のものが勝手に乗っ取っていく…っ、視界が薄らぐ、意識、霞む…っ。
やだ、もうやめてそれ以上…!
 
「ア! ………ぁ」
みずほの指が鎖骨から胸までを這う。そのまま下着の中に手を入れられた。硬くなった胸の先端を彼に触れられているかと思うと、恥しさに顔が火を吹く。咄嗟 にその腕から逃れようと、上体を反らせて。デニムのパンツに手を掛けられ、思わず自らの手で彼の手首を掴んでいた。すがるように暗闇の中、彼を振り返る。
「や………やめて」
「何で」
「…恐いよ、ごめん」
何も見えない中、さくらは泣き出していた。
肩を震わせ、声を殺す彼女に、みずほは小さくため息をついた。
「─────…。オレが怖い?」
そっと、うつむくセミロングの髪を、長い指が撫でてくる。
さくらは再び首を横に振った。
「違うよ、みずほのせいじゃない、ごめん」
彼はさくらの乱れた衣服をそっと正した。そして背中から包み込むように大切に抱き締めた。ひどく繊細な抱き方で。
「お試し期間、終わりか?」
「─────…え?」
「オレ、返品?」
「……………………」
彼は今、どんな顔をしているのだろう。声は遠慮がちで、ちょっと細い。再度振り向いたけれど、さくらには何も見えなかった。
「もうちょっと待って………。年内、お試し期間…、ダメ?」
みずほが今度は大きくため息をつくのが判る。落胆かと思ったそれは、安堵のため息だった。
「よかった、もうダメなのかと思った」
さくらもそれを聞きながら、少し安堵した。この、長くじっとりと纏わりつくような困惑の時の終焉を知ったから。
彼のため息と、彼の気配の変化が、それを告げていたから。
 
みずほはさくらの手を引いて、灯かりのない廊下に出た。
「ちょっと待ってろ」
そうして、一人階下へブレーカーを上げに行く。ほどなく、さくらの居る場所にもオレンジ色した光が戻った。
ホッとした途端、さっきまでの暗闇での一連の出来事が、どうしようもない程の圧力でさくらに降りかかってくる。彼女は時間差で訪れた身体感覚に思わずしゃがみ込み、自らの上腕を抱いた。
やっぱり恐いような、膝が笑うような感覚。
みずほの手が、指が、あたしの素肌に触れた………。
わ、脇とか胸とかまで─────…。
ちょっとカサついてて、冷たい指先だった。
心の準備なんて全然ないまま、いきなりあんな事された………。予想もしなかった事。
 
う、うわ───っ。
みずほはどう思ったんだろう、あたしどう思われたんだろう、む、胸なんてロクにないしさっ、スタイルだって特別良くなんて─────…。
 
「降りて来い、メシ食おうぜ?」
階下から呼ばれた。
あやうく、自己嫌悪の波に飲まれて螺旋階段状に真っ暗な奈落まで落ちかけていた思考を、彼の声がここへ戻す。
さくらは慌てて飛び起き、みずほの声のするダイニングへ向かった。
気まずさとバツの悪さを振り払うために、両手で自分の頬を2、3度はたきながら。
 
今夜のメニューはビーフシチューだった。
鍋の乗ったコンロに火をつけ、無表情のままの横顔が指差す。
「そこからシチュー皿2枚出して、あと平皿にメシ、よそえ」
言われたとおり、そうした。
もう何事も無かったかのような、みずほの様子がありがたかった。
柔らかいシャンデリアの光も。華やかで豪華なダイニングの明るさも。全てがさくらをぎこちなさから解き放とうとしてくれているように感じられた。
やっぱりまだ、鼓動は平常には戻っていなかった。だけど、妙に身構えている彼女の心も、少しは落ち着きを取り戻しつつあった。
ヨーロピアンな象嵌(ぞうがん)細工の施された、猫脚の大きなテーブル。中央には見事な大輪の薔薇が活けてある。それは光沢のあるベルベットの、紫がかっ たアートフラワー。他にもたくさんの小さな生花が、コンソールや奥のリビングに見えた。上等な紅茶茶碗が美しく並べられている、飾り棚。
ダイニングテーブルの上にはメモが1枚置かれていた。インポートデザインのメモ用紙。それもやはり、カラフルなバラの花がモチーフにあしらわれたヨーロッパ風。
美しく細い文字で、みずほへの伝言が書かれてある。
『瑞穂へ 今晩はビーフシチューです。暖めてね。冷蔵庫にエビとサーモンのサラダも入っています。野菜もきちんと食べてちょうだいね。』
背を向けているみずほに気付かれないように、声を殺して笑う。
やはり新婚家庭の新妻のような、みずほの母。
けれど彼は背中に目でも付いているかのように、シチュー鍋をかき混ぜながら言った。
「てめー食えよ、ババァの念のこもったサラダ」
「え? 食べてあげなよ、せっかく作ってくれたのに」
みずほは露骨に顔をしかめた。
「ホラ、シチュー皿よこせ」
長い手を伸ばされて、さくらは、さっきこの指が自らの素肌に触れてきた事を思い出しそうになり、慌ててそれを打ち消した。
 
「人ん家ってキンチョーするね、誰も居ない時にお邪魔しちゃってごはんまで………」
「オレ、お前ん家のほうが好きだ」
「え? どうして? 狭くて汚いのに。エレベーターもないよ?」
「ここはババァの怨念がこもってる」
先ほどの出来事をどこか彼方へ押しやるように、2人はいつもよりずっとたわいない会話をしながら食事をした。どこかまだぎこちなくて、お互い上手く笑えなかったけれど。
さくらはつい、みずほの手や指に目をやってしまう。そのたび、焦りと共に視線を泳がせなければならなかった。
彼の指先は、爪の形まで整っていて綺麗だった。
「みずほ、バイトいつから?」
「明日の深夜から朝5時まで」
「え! 深夜なの?!」
「………深夜のほうがオーダー多いんだと、その店」
都内でも、人が住まないような超高層ビルが立ち並ぶ、中心部の商業地域。そこでバブル後も残っているピザ屋は、今やそこ一軒なのだという。
「オレがバイト採用された理由、お前分かる?」
「………? 女店長さんに気に入られたの?」
うっかり言ったこの手の冗談は、彼の気に障ったらしく、みずほはケッ、とイスにもたれた。
もう夕食を食べ終えている。
「『キミ、口堅い?』とかいきなり面接で訊かれて、『友達居ません』つったら、即オッケーだった」
「………何それ?」
さくらには今いちイミが解からない。
「芸能人とか政治家とか…そういう奴以外、あの界隈には住んでないらしい。それに、深夜あの辺でバイトしよう、つう奴もなかなか見つからないんだと。ホラ、フツーは住宅街から夜中通えねーじゃん。遠すぎて」
「なるほどね…。けどみずほ考えてみたらさ、何もバイトしなくたって、何かこう、ズル賢いビジネスとか考え付きそうだよね」
「ハッカーとか?」
「い、いや犯罪に手を染めて欲しくはないけどねっ、何かもっと、こう…、特殊な」
「人に雇われるって面白そーじゃん」
「……………」
「何かこう、誰でもやれるフツーっぽそうなとこがいいんだよ」
「ふぅん………」
聞きながらさくらは、みずほは意外にも普通の男の子なんだ、と。そんな確信を強くした。
 
みずほはさくらをバイクで公団アパートの前まで送り届けてくれた。
もう、彼はさくらに触れてこなかったし、キスもしなかった。
手を振って、みずほのバイクの振動音が通りの角を曲がって消えると、さくらはようやく肩の力を抜く事が出来た。
 
あぁもう…っ。長い一日だった…。頭がパンクしそう。
初めて乗ったバイクのタンデムシートはジェットコースターより恐かったし、男の子と二人、デ…デートっていうのも初めてだった。
一度目のキスも脚に来たけど、二度目がまさかこんな早い今日だとは、予測不可能だった。
………そして、その後の展開なんて尚更───…。
す、好きって初めて言われた、男の子から、面と向かって。
それも生まれて初めて。そんな事自分にはあるはずない、って、決め付けてたのに。
…しかもその相手は、この地球上、最も可能性を考えてなかったみずほだ。
みずほなんだ…、信じられない、あたしなんて半年前まで、彼のギャラリーの一人に過ぎなかったんだよ?! 対等な友達になれるとさえ、実は思ってなかった。
独りでいる彼に勇気を振り絞って話しかけた時も、みずほは別に嫌がって追い払ったりしなかったから、あたしが勝手にこの半年隣りに座ってただけ…。そのはずだったのに。
みずほって何考えてるの?!
ホント読めないよ、あの無表情…!
しかも、ピザ屋でバイト?! それも明日から?!
もうっ、何なの…?
─────でも。きっと、彼の特別さのイメージに固定観念を持ちすぎてるせいで、あたしが振り回されてるだけなんだ。
彼だから、こういう展開も予想できなかったわけで。
普通、付き合おう、って言われてキスされて───…相手の部屋にまで遊びに行っちゃって、成り行きとはいえあんなビデオ観ちゃったりしたら…少女マンガでも次の展開なんて見えてるもんっ。バカバカっ。あたしのバカ。
あぁ、来週からどんなカオして会おう。何話そう…?
これじゃ、電話のほうがずっとラク。
どうなるんだろ、あたし達………。あ、あたしが決めなくちゃならないんだっけ、うわ、困ったな…本当に。
 
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