2人は、山の斜面を駆け下りた。さくらは恐くて、みずほにしがみついていなければならなかった。みずほはそれを楽しむように、更にカーブでスピードを上げた。 街まで降りてきて、メットごしにさくらは「死ぬよ!」と抗議した。 「タダでジェットコースターに乗れたよーなもんだろ、ラッキーだと思えよ」 みずほは平然とそう言ってのける。…そうしてバイクは、みずほの自宅にまで戻って来た。 「お、お母さん居るんじゃないの…?」 「居ない。今日は何か、女子大の同窓会っつってた」 ………さくらは内心、少しだけ胸を撫で下ろしていた。あの愛妻弁当を毎日作り、皺一つ無くみずほの制服をプレスする彼の母。 きっと綺麗なんだろうな…、会えば気後れしてしまうと思う。 「みずほ、お母さん似…?」 彼はその問いには答えなかった。 「兄弟、居るの?」 「居ない」 「そ、そうだったね」 知らない間に緊張しすぎていて、自分が何を口走っているのかよく分からなくなっている。彼が一人っ子だと知っているはずなのに、話題を無理やり引っ張ってきたせいで、さくらはそんなマヌケな質問を口走っていた。 ガレージにバイクを停めた彼に付いて一戸建ての石で出来た表門をくぐり、二、三段ある石畳の向こうにある洒落た洋風のドアを見上げる。ドアの両サイドには、零れそうなほどの花を咲かせた秋の鉢植えが品よく飾られていた。 彼の家は、中流とは言い難い十分な広さと風格を備えた二階建て洋館だった。広い玄関の石畳に靴を脱ぐ。…ガランと静まり返った家の中。さくらの自宅とは全 く違う、落ち着いたヨーロッパ風の調度品の数々。玄関脇の木製シューズラックの上には美しく大きな花瓶がいくつも並び、白い陶器製の西洋人形も置かれてい た。見事に活けられた花もある。とにかく、造花も含め、花に埋め尽くされている玄関だった。 たたきを上がってすぐの階段を登ると、そのまま右手に長い廊下がある。しばらく進んだ先の左手のドアを、みずほは押し開けた。─────彼の部屋。 そこは絵に描いたような幸せで豊かなドラマの世界を、そのままセットごと運び込んだような部屋だった。 早い話が、特別な彼らしくなく、あまりにもそこは普通だった。8畳くらいのフローリングに白い壁。部屋の突き当たりにベッド。生成り色した無地のベッドカ バーと上掛け。それからベッドとL字型の位置並ぶ本棚、学習用のデスク。造りつけのクローゼット。少し離れてTV、オーディオ。 片付き過ぎもしていないし、散らかり過ぎもしていない。カーテンの代わりに、ベッドのある壁際の窓には淡いパープルのブラインドが吊るされていた。 「ギターはっ?」 突っ立ったまま辺りを見回していたさくらが、妙に高い早口で訊ねる。以前、ギターを聞かせてやる、と彼が言っていたのを急に思い出したからだった。 「向かいの部屋」 「え! 向かいの部屋もみずほの部屋?!」 「…余ってんだよ、部屋数が。ばあちゃんも死んじまったし。だから物置きに使ってるだけだ。…お前ん家にひと部屋分けてやりてぇよ」 みずほはそう言いながら、階下へと降りてしまった。 「……………………」 一人、部屋に取り残されると、急に胸騒ぎがしてくる。心もとないような居心地の悪さ。ブラインド越しに見える外は、もう日が暮れて暗く染まりつつあった。 TVに向かい合うようにして、背の高いルーバー調クローゼットの扉にもたれ、膝を抱える。 さくらは訳も無く落ち着かなかった。 程なく、みずほが戻って来た。 手にはジンジャーエールのペットボトルと、スナック菓子と、アイスクリーム。 「………食うか」 差し出されたアイスクリームは、一つしかない。 「ううん、いいよ、…グラスは無いの?」 「いーだろ? そのままで」 長身が、さくらの隣りにドカリと腰を降ろす。 放り出された彼の脚は、いつも長くて邪魔そうに見えた。 そのままで、って…。じゃあ口付けて飲めって事? このペットボトル一本を? わー、出来ないよっ。そんな平気な顔で言わないでよ…っ。 「ねぇねぇ、アルバムとか無いの? 見たいな」 さくらは沈黙をかき消したくて、思い付きを口にした。 「え? オレの? ガキの頃の写真? …何でそんなもん興味あるんだ?」 「えっと…何となく…、ホラ、よくありそうじゃない、そういうシチュエーション」 「どーいう?」 「だから………ドラマとかでさ、彼と彼女が…」 言いかけてさくらは、急に恥ずかしくなり口ごもる。みずほは面倒臭げに舌打ちしながら、仕方なくベッドの下辺りを物色し始めた。 「ガキの頃のやつは多分、ババァの部屋だろ。あいつ『あの頃はよかった…』なんて、あれ見ながら泣くんだ」中学ん時のくらいなら、あるかな、と。背中を屈めるみずほに、さくらは申し訳なくなり「いいよ、いいよ、ムリしないで」と、声を掛けた。 余計にみずほの眉間に皺が寄る。 「んだよ、てめーが見たい、っつったんだろが」 「…でも…中学の頃のみずほなら、知ってるもん」 …まだガサゴソと、積まれた本類を引き出しながら、彼の背中が「同じクラスになった事ねーじゃん」と呟く。 「うん、でも知ってたよ。あたしホントは…みずほのファンだったんだ」 彼の動きが止まった。さくらを振り返る。 「? …何よ?」 やっぱり流し見られると、ドキリと心臓が止まる。 「オレのファンだったって?」 確認するように訊かれて、ますます恥ずかしくなり、さくらはうつむいた。 「なんだ、お前も一緒か」 「───…え? 何て?」 よく聞き取れず、さくらは彼の傍に寄った。ようやく探し出したのは、中学の制服姿を身に着けたクラスごとの集合写真と、その他の数点。卒業アルバムの間に挟まっていた。 「うわ、やっぱ今とは違うね…!」 両手で集合写真を持ち、はしゃぐさくらに対して、みずほの声は低かった。 「お前も、オレの見た目とだけ仲良くしたいんだ………」 「みずほ…」 カオを上げた先の彼は、うつむいていた。子供みたいに。 「違うよ、そんな事ない」 「だったら」 彼が隣りの瞳を見る。珍しく彼の表情は、彼の感情を映していた。僅かに揺れている、彼の瞳。 こんなカオしたみずほを見るのは初めての事で。さくらは戸惑いを隠せなかった。 「なんでオレと付き合うの、嫌なんだよ」 彼の声には力が無くて、さくらはその場に身動きが出来なくなってしまった。時間が止まったみたいに。 「嫌じゃないよ、嫌だなんて言ってないよ、あたし」 みずほの目は、さくらの言葉に反応しない。 「ホントだよ? ただその………、この前はちょっと戸惑っただけっ、急にあんな事言うんだもんっ、と、友達だと思ってたのに─────…」 言いよどんださくらの声は、流れるように静かな唇に遮られた。 余りにも、前触れのないキスだった。 「……………」 うわ………、ちょっと待ってよ…っ、もうっ。 柔らかな乾いた感触に、思わずまぶたをギュッと硬く閉じる。この前よりも、じっとりと時が間延びする。 また目がまわる、どうしていいのか分からない─────…。 今日のは何だか夢の中に吸い込まれそうなキス。何とも言えない、セピアがかった切ないキス。 溶けるように重なる唇の温度。 そのキスはそれ以上、深くはならずに。 「───…でも、友達なんだろ…?」 再び低く響いた彼の細い声は、微笑ってもいなかった。 我に帰って、急に襲う気まずさ。鼓動が一気に速まっている。 「お…、お試し期間って言ってたじゃないっ、みずほ」 彼の目を見る事が出来ずに、さくらは視線を泳がせた。少し恐いような雰囲気だった。 「───…あ! ねぇ何これ!」 話題を探すように、ベッドの陰のプラスチック盤を手に取る。 「…AV」 「え?! ウソ! わ…! これ全部…?!」 ぎこちない空気をかき消すように、わざとテンションの高い早口で問うさくらに対して、みずほの声は相変わらず暗い。ラベルの貼られていない黒いプラスチックの箱が、10枚くらい。 「………お母さんに見つかるよ?」 「いーんだよ」 無表情と低い声のまま予想外の答えを淡々と返され、さくらはもうどうしていいのか分からず、混乱していた。 映画か何かなら、一緒に観れると思って手に取ったのに…! 助け舟は、とんでもないところに2人を陥れる沈没船だった。 みずほはやはり今も肩を落としたまま。慌てる様子もなく、少し不機嫌そうにどこかよそを見ている。 更にベッド下の奥から、市販のパッケージものまで出てくる。さくらはあきれた。 「こ、こんなの、どこで買えるのっ?!」 「どこでだって…今ならネットでも買えるし」 「えー、そんな事していいの?! 高校生なのに?!」 「………フツーだろ?! 逆にAVと縁のないほーがヘンだって」 「そーなの?! ホントに?!」 ─────みずほの口から「普通」という言葉が出る違和感に、さくらは興味を示した。 「そっか………フツーなんだ…」 「女は?」 一人呟き、納得するようにうなずいているさくらに対して、逆にみずほは問い返した。 「………え? 何が?」 「キョーミ無いのか?」 「え?! どういう事?!」 みずほはもう、怒ったような、いつもの無表情に戻っている。 「そういう事とか」 「そういう事って!」 なぜかさくらは声を荒げた。多分、頬は赤くなっていた。 「でもキョーミありありじゃん、みんな」 「みんなって?」 「どの女も。AVの中では」 彼女は絶句する。 「─────…。みずほ、AVはヤラセなんだよ?! 本気にしないでよ」 もうっ、と。耳まで朱に染まった顔を見られたくなくて、思わずそっぽを向いた。 「ホラ、やっぱり観てんじゃん」 「何を!」 「AV」 「観てないっ!!」 「じゃあ何で、AVはヤラセだとか言うんだよ、テメェ」 「……………………」 「…お前が変わってんだって。お子様なんだよ」 「そんな………!」 「優等生なだけなんだって。他の女はみんなAVみたいなんだって」 「─────………」 少し中身がお子様なのは、みずほのほうなのに。そのお子様にお子様と言われて、さくらは少し癪に障った。 「じゃあ、今から観ようよ、これ」 「─────…え?」 「あたし観た事ないんだもんっ、いいでしょ?」 「………いいけど………」 「どれにする?」 みずほを睨みつけるように見上げるさくらは、まだ赤いカオをしていた。みずほは考えるようにしばらくそんなさくらを眺めると、まぁいいか、とばかりに肩で小さく息を吐いた。 「じゃあどれでも。好きなの選べば」 「どんなのがあるの?」 「汚いやつ、犯罪系のちょっとヤバいやつ、SM、裏モノ、…あと、フツーのヤツ」 「───…じゃあ、みずほのオススメのヤツにしてっ」 恥ずかしさを隠すため、さくらは挑むような瞳を崩さなかった。呆れ顔のみずほは「じゃあ、これかな」と、その中から一本を選んだ。市販のパッケージのもの。 「これが、オレの今んとこダントツ。絶対、今にバカ売れの大ブレイクだ」 みずほがそこまで力を込めて宣伝する、その一本。 「調教シリーズ・1?!」 パッケージタイトルを見ただけでもう、さくらが眉をしかめる。 「………2作目は?」 「まだ出てない」 「何がそんなにいいの?」 「この女優かな。カオもスタイルも雰囲気も申し分なし、カンペキ。メチャクチャイケてる」 「これにする」 さくらはその言葉で決めた。なぜなら、その言葉に負けた気がしてちょっと悔しくなったから。 このみずほが、そこまでイチ押しで「タイプだ」と言い切る女性を、見てみたくてたまらなくなったからだった。 3分後、TV画面を前にさくらは早くも後悔していた。ますます気まずい居心地の悪さが、部屋全体に重くのし掛かる。 「…こ、これって汚いやつ? ヤバいやつ?」 「………普通のやつ」 AV女優はセーラー服を着ていて、とても長い髪を持っている。小柄で大人しくて、内気な感じの清純路線。人形のように長いまつ毛。 ビデオの冒頭は彼女の自己紹介のようなプロフィールで始まる。 16歳だとか高校生です、だとか、伏せ目がちに呟く美少女。 「ウソだよねっ絶対、こ、高校生だなんてさ」 さくらの声は、さっき以上にますますハリを持って高くなっていた。 「…あーそりゃウソだろーな、18禁だし」 「な…何でこんな可愛いコがAVに出るんだろ?」 「やっぱ、金じゃねえ?」 「ウソ、信じられないっ」 「たった一回、やる事やってまとまった金になるんなら、おいしいって考えるんじゃねぇの」 「で、でも………ッ」 「じゃあきっと何か事情があったんだよ。金が必要だったんだ。…うん、きっとそうかも」 みずほはだらしなく、沈み込むようにクローゼットにもたれ、スナック菓子を食べ始めた。輸入物のオレンジ色した、筒状のパッケージ。 ─────やがて画面の中では、教師に呼び出されたセーラー服姿の美少女が、おそまつな舞台セットの中で、待っていたもう一人の男性教師に後ろから抱きつかれている。 用具置き場のような薄暗い部屋。 「これ、よく出来てんのはさ、とりあえずストーリー仕立てになってんだよ」 隣りのみずほは、手にしたポテトチップスで画面を指差す。 「どういう事?」 「フツーのAVは大抵、どっかのマンションの、ベッドしか置いてないトコでいきなり始まって、終わるだけのつまんねーモンでさ。…でもこれはひとまず、サル芝居だけど話の筋がある。セットもあって、他のやつより金かかってる」 表情を崩さない、淡々としたみずほの視線の先、大画面ではセーラー服の上だけすでに下着姿にされている彼女が、一応弱々しく抵抗している。不自然なほど豊かな胸の谷間に、締まった細い腰。コンピュータ・ゲームのキャラクターのような身体つき。 床に膝立てて座るスカートの中に、背後の教師の腕が滑り込む。さくらの動悸はますます気まずい胸騒ぎと共に大きくなっていた。 「こ、こーゆーカンジがみずほの好みなんだ、ヘェ」 隣りでポテトチップスをかじる音と、画面の中の乱れ始める息遣いが交錯する。 「でも絶対16って事ないと思うな、こんな16歳居ないよ、こ、こんな巨乳のさっ」 喘ぎ声をかき消すように、さくらは頭に浮かぶ全てを、次々矢継ぎ早に口にした。 「何、お前妬いてんの? 自分が巨乳じゃないから?」 みずほは相変わらず、無表情。 「バッ…、違うよ、別にいいもん、このままで…!」 「───…今ならシリコンとか色々発達してるから大丈夫だって」 「何がよ?! あたしはこのままでいいんだからねッ」 「やっぱ妬いてねぇ?」 「……………っ」 みずほの視線は、目の前の画面を見飽きた表情で、子供向けアニメでも観るように眺めている。さくらは言葉に詰まってしまった。立てたカラーデニムの茶色い膝を引き寄せ、寒くもないのに身を縮める。 やがて、抵抗しつつも喘ぎ出す、人形のように美しい彼女。 「ひどいッ教師がこんな事していいの?!」 「…落ち着けよ、ヤラセだって」 ─────初めて目にするAVは、さくらの予想を遥かに超える衝撃だった。湿って絡みつくような生々しさが、映画やドラマの中のセックスシーンとはまるで違っていて。 「こ、これでフツーのなの?!」 「………うん」 「じゃあ、犯罪ものってどんなの?!」 目を逸らしたいけど、逸らせない。 みずほのほうを見るのも気まずかった。 せめて今のさくらにとって救いなのは、みずほがいつもの雰囲気と変わらない事くらい。 「女子トイレに隠しカメラ仕掛けたりとか…マジもんで電車の中で痴漢、とか」 「何それ?! そんなの観てるんだ?! サイテー!」 「そんな大した内容じゃないって」 「でも平気で面白がれるんだ、みずほってそういう性格だったんだ」 「───…ヤラセだって言ったの、てめーじゃんよ、さくら」 みずほの口調に険は無い。むしろ、なだめるような声。 もうこれ以上耐えられないような限界と、引き込まれそうな好奇心と。彼女の胸の中では、2つの感情がない交ぜになって、濁流が全身を駆け巡るような思いだった。 「ア、アァ…っ、ァ…せ、んせい…っ」 美少女の唇は震えるように嬌声を溢れさせ、次第にそれはねだるような甘い粘り気を帯びて、切迫して来ていた。 …とても、演技だとは思えない。 よせた眉で頬をバラ色に上気させながら、彼女は背後の男に懇願する。先生のを入れて、と。 これは女子高生が2人の男性教師によって「調教」されてゆく、という脈絡のないストーリーのようだった。 不快さと、いたたまれないような感覚と、怒りにも似た羞恥と。…けれどその他にも確かにさくらを釘付けにする何かが、そこにあった。 そのためにさくらは身構えたまま、画面から目を離せずに居た。 気持ちが高ぶり、心臓は今にも口から飛び出しそうなほど脈打っていた。知らず握り締めている拳が汗ばんでいる。 恥辱される女子生徒。 いくらお金のために仕事でやっているとは言え、目の前の、さくらとさして年代の変わらない美少女は、本当に平気なのだろうか。 記憶の片隅に流れ去りつつあった数週間前の電車の中での不快感が、せり上がるような吐き気と共に生々しく蘇える。 寒気に全身が粟立ち、油汗が滲むような、あの耐え難い不快感。 ─────乱れる美少女の喘ぎ声。白い喉元に張り付いている後れ毛。ねだるような、鼻に掛かる声。震えるまつ毛。 「ごめんなさい先生…、だから…もう…っ」 訳の分からないセリフ。 さくらの目が回り出す。混乱し始める頭。 「 ! 」 いきなり、画面が途切れた。 ─────見ると、隣りで半ば寝そべるような格好でスナック菓子を食べていたみずほが、リモコンを手にしていた。 |
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