風花〜かざはな〜

30

屋根裏部屋で一晩泣き明かしてしまった。
一睡も出来なかったけれども、ココにいてわたしに出来ることはただひとつ。
朝早くに部屋を出て、久しぶりに身につけたメイドの制服。厨房にはいるとコック長のカメさんが朝食の準備をしていた。
「カメさん、おはよう!何か手伝うことある?」
「おはよう、ゆき乃ちゃん。ありがたいけどさ、その前に……コレで、目元冷やしておきな」
それだけ言って濡れたタオルを差し出された。鏡を見ると赤く腫れていた。
だけどそれ以外何も聞かないカメさんの言葉に甘えてわたしはしばらく庭に出て目元を冷やしていた。
「ゆきちゃん……泣いたのかい?」
庭師の友造さんがそっと隣に腰掛ける。だけども何も聞いてこない。わたしが弱音を吐いたり、あったことを言ったりしないのは知っているから。
「大丈夫だよ。もう、泣かないから」
そう、もう泣いても事実は変わらない。すべてに片が付いたらココを出て行こう、そう思っていた。

借金の件は妙さんが何とかしてあげると言ってくれた。そのあと、妙さんの知り合いの住所を教えてもらった。わたしが生まれたとき、母と共にお世話になった家だそうだ。
そこは、今はもうない妙さんの実家の乳母と執事の家だそうだ。そこにいる乳兄姉たちは、今でも妙さんのことを実の兄妹のように思ってくれているのだと、彼女は静かに微笑んだ。
『妙さんも一緒に行きませんか?』
そう聞いたわたしに、自分がココにいなければ誰がこの家を見るのかと言った。だけどおまえはもうこの家にいてはいけない。居ない方がいいと……
そう、だから大学にももどらない。
誰もいないその街で、仕事を探して、ひっそりと一人で暮らそうと、そう思うしかなかった。
昔は、この館の中にしか世界はないと思っていた。妙さんのように館のために毎日働くものだと思っていた。たとえどんな形でも恭祐様のおそばにいられる物だと思っていた……
自分がここをでて、どこかに行くことがあるなんて思いもしていなかった。わたしの世界はここと、生まれた街の記憶だけで、あそこにも帰ることはないと思う。ただ、心配なのは妙さんの体調だった。ずっとずっと見守ってくれていた存在、わたしにとっても大事な人だったから。

「ゆきちゃん、奥様が帰ってらっしゃるよ。お館様も予定を変更されて、今夜館にお着きになるそうだ」
背中から聞こえたカメさんの言葉にびくりと肩が震えた。
今は、逢いたくなかったのに……
それでもここにいる限りはやらなければならないことがある。わたしはタオルを目からはずすと厨房に戻った。
慣れない新人メイド達に指示を出していると、チヅさんに『給仕に出てもらえる?』と言われて断れなくなってしまった。
奥様がいらっしゃるのになれない新人達ではどうしようもないのだとチヅさんは愚痴た。

「おはようございます」
奥様も館に戻られたのは久しぶりだという。
まさか自分たちにあわせるかのように奥様が帰ってこられてるなんて思いもよらなかった。そのうえお館様までもが……それはきっと恭祐様でも知らされてなかったことなのだろう。
わたしは妙さんの代わりにテーブルの準備を済ませて、奥様と恭祐様がテーブルに着かれるのを確認して食事を運んだ。
恭祐様の目はなぜわたしがまたメイド服を着ているのかと非難がましかったけれどもあえてそれは無視をした。
奥様はちらりとわたしを見ただけですぐさまいつものように食事をはじめられる。母と子、久しぶりなはずなのに、余り会話はなかった。最初に『帰ってらしたんですか?』という問いかけに『ええ』と返されただけだった。

奥様は……わたしがお館様の娘だと知ってらっしゃるのだろうか……?
わたしの視線は知らず知らず奥様に向いていた。
「妙は……まだ伏せっているの?」
食事のために視線は下に向けたままそう聞かれた。チヅさんのほうをちらりと見ると、その目はわたしに答えろとそう言っていた。
「はい、まだふらつくそうなので、起きあがれるようになるまで私が代わりを勤めさせて頂きたいと思っています」
「そう……あとで妙に話しがあるから部屋に行くと伝えておいてちょうだい」
「かしこまりました」
わたしはお辞儀をして給仕を終えると後ろに下がって控えた。
久しぶりに着たメイドの服が昔ほど馴染んでい無いのが判る。でもこうやっていると何も考えず、何事にも無関心な振りをしていられるように思えた。
「ゆき乃、紅茶をもう一杯くれないか?」
「はい」
思いが叶ってしまえば、人は贅沢になるのだろうか?恭祐様の側に寄り、お茶を注ぐだけで身体が震えそうになる。視線がわたしを捕らえて放さない……息を整えて平静を装ってお茶を注いだあと、後ろに戻ろうとするわたしに恭祐様が命令する。
「ゆき乃はあとで僕の部屋で荷物を整理するのを手伝っておくれ。僕もしばらく居るから……」
「あの……恭祐様は、すぐに戻られるのでは無かったのですか?会社のお手伝いが……」
「しばらく休む。会社に電話したら父も今日戻ってくると連絡があったそうだ。だから僕もココに残る。母様もしばらくは館に残っていて欲しいそうです。しばらくは旅行に行かれる予定などは、ありませんよね?」
「ええ、ないわ……」
「では、今夜遅くには戻られるそうですので」
いつになく、静かで冷静な恭祐様だった。
恭祐様はどうなさるおつもりなんだろう?


「恭祐様、ゆき乃です」
呼ばれた通り恭祐様の部屋に向かった。
「ああ、おはいり。ちょうど荷物を出し終わったところだよ」
既に解かれた荷物はほとんど片づけられ、残されたのはわたしの荷物ばかりだった。
「……屋根裏に戻ったの?」
ベッドに腰掛けたままで恭祐様は側に立つわたしを見上げていた。
「はい……やはりあそこがわたしの部屋なので」
「そう……ゆき乃はどういうつもり?」
「え?」
昨日の激しい思いを余所に、今日の恭祐様は穏やかだった。
「メイド服なんか着込んで、メイドに戻るの?」
「いえ……ただ、妙さんが臥せっておられる間は変わりをしようと……」
「あのあと妙と話したんだろう?ゆき乃の気持ちは変わってしまったの?」
「わたしは……恭祐様を思う気持ちは同じです。でも、これ以上恭祐様の側には居られない。それだけです」
「僕は……父は、どんなつもりでゆき乃の母親を抱いたんだろうって、考えていた」
「恭祐様?」
「父なりに、ゆき乃の母、志乃さんを思っていたんじゃないだろうか?父のあの性癖は異常だと子ども心に思っていたよ。嫌がる女性を無理矢理抱いたり、そうかと言えばチヅのように何もかも割り切った女に相手をさせたり……それもすべて志乃さんを思ってだとしたら……」
「で、でも、お館様には奥様がいらっしゃるのに……」
「あの二人の間に損得勘定以外の物があると思うの?母は、父のことなど眼中にないし、父も僕を可愛がったことなど一度もない。僕は望まれて生まれてきたのではないと、ずっと思っていたんだよ。だけど、いつも妙が進むべき道を教えてくれたから、必要でないなら必要とされる人になりなさいと……そして、ゆき乃がいつも僕を必要としてくれた。だから僕が僕で居られたんだ。ゆき乃が居なかったら、僕も存在してる意味がない」
「そんな……」
自分がここを出ていこうとしているのを見透かされているような気がした。もしかして、昨日聞いていたんだろうか?妙さんと話してることを……
「ゆき乃を幸せに出来る自分で居たい、それだけだった。ゆき乃が僕を兄だとしか見られないというのならそれでもいい。それでも……側にいて欲しい。ずっと……何も出来なくてもいいから、どこにも行かないで僕の側に居て欲しいんだ」
「それは、兄と妹として、ですか?それとも主人と使用人?」
「ゆき乃が望むのならどちらでもいい。僕はこの爆発しそうな思いも、身体の熱も、すべて押さえるよ。ゆき乃を無くすくらいならその方がまだいい……ゆき乃が嫌がるならもう触れない。でも忘れないよ、ゆき乃の心も、身体も……だって知ってしまったんだ。ゆき乃が僕を好きだと漏らす甘い声、吐息に絡まった切なげな表情、滑らかな白い肌が赤く染まる瞬間、柔らかい唇、張りのある胸、そして熱い潤み……どうすればゆき乃が感じるのかも知ってる。可愛がれば可愛がるほど見せるあの艶やかな表情も、全部ぼくのものだ……だから、それだけで、いい……愛し合えた記憶があるから、なくしてしまうよりいいんだ。ゆき乃以外に誰もその代わりは出来ないのだから……」
身体が熱くなる。わたしだって覚えている。この身体のすべてが、恭祐様の広い胸も、力強い腕も、指先の優しさも、熱い吐息も……甘い囁きでさえ全部思い出せる。
「本当に戻れると?……でも、そう仰るのなら、わたしはおそばに仕えましょう。これから先ご指示を出される言葉と挨拶以外は言葉も交わさず、恭祐様が奥様をお迎えになって、そして、お生まれになったお子様のお世話をさせて頂いて、そして……」
「ゆき乃っ、僕は、妻など迎えない……」
「いえ、それはいけません。宮之原のためにも奥様を迎えられて跡取りを……それが出来ないのならわたしはもう、出て行くしかありません!」
「無理だよ、それならゆき乃に出来た子を養子に迎える。その子に宮之原を継がせよう、そうすれば……」
「ゆき乃は誰の子も産みません!」
「僕も嫌だよ……ゆき乃が他の誰かに、なんて……」
ため息混じりの恭祐様の言葉、いつの間にかわたしの目からはらはらと流れる涙、昨日あれほど泣いて決意したのに……
「二人とも同じ気持ちだ。そうだろう?いくら真実がダメだと言っても、お互い以外に考えられないんだ。だったら、それだけは父にも認めさせるよ。いいね?」
「そんな、どうやって!?」
「自分は異母兄妹を無理矢理犯して子まで作っておきながら、僕たちに何が言えるというんだ?お互いに誰も伴侶は迎えない、それぐらい認めさせるよ……」
「だめです。お館様も、奥様だってお許しにならない!!」
「もう、欲しい物なんて何もない。ゆき乃さえ居てくれれば、僕は実の親でさえ憎み、陥れ、苦しめることも、捨てることさえ厭わないんだよ?それすら認められなかったら……その時はゆき乃、共にここをでてくれるかい?二人で新しい生活を、どこか遠いところに行ってはじめないか?」
「遠い、ところ……」
「ああ、二人で遠いところに……だれも、僕たちを見て血が繋がってるなんて思わないところに行こう。昨日、妙と話してるのを聞いたんだ。ゆき乃だけどこかになんか行かせないよ?」
「ダメ、ダメです!わたしなんかは居なくなってもどうでもいいんです!でも、恭祐様はこの宮之原のご子息ですよ?この館は?会社は??残された人たちをどうされるのですか??」
「前から考えていたんだ。当面の敵は父だったからね、あいつをなんとかして、それからって考えていた。だけど、よく考えたら僕はこの家にも、宮之原にも、なんの未練も思いもないんだ。自分の力でやっていくさ」
そんなこと、可能なのだろうか?お館様がすんなり受け入れるようには思えない。
「明日、妙にすべて話させるよ。ゆき乃もその場に居て欲しい」


「なんだね、私に話というのは……」
翌日の朝、お館様を妙さんの部屋に呼び出した。
昨夜遅くに帰られたお館様はお疲れのようで機嫌が悪かった。いや、この人が機嫌のいいときなどあるのだろうか?実の息子の前でも笑うことさえない方だった。その場にわたし達がいたことをいぶかしみながらもその場を出て行こうとはしなかったのは、妙さんが身体を起こして待っていたからだろう。
「お館様、いえ、玄蔵様お久しぶりでございます」
「おまえ、身体はもういいのか?」
「いえ、あまり思わしくないので、こうやってゆき乃や恭祐さまが帰ってきてくださってるのですわ」
「ふん、おまえにはこの館のことすべてさせてきたからな。しばらくは身体を厭え」
お館様の口からいたわりの言葉を聞いたのは初めてだった。妙さんは一瞬微かに微笑んで、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。今までお任せ頂いて嬉しゅうございました。先代の亡くなられたあと、行く先の無かった私に居場所を与えてくださったのですから……」
妙さんは、いつもお館様を恐れるでなく、こうやって接してこられた。皆が言いにくいことでも、唯一面と向かって忠言できた人なのだ。だからこの館で、だれもが一目置いてきた。そして、その視線はいつも変わらずお優しい。お館様を責めるような視線を向けられたこともあまりなかった。妙さんの思いはお館様には届かずとも、お館様が妙さんを疎ましがることもなかったはずだ。
「これを、お館様に見て戴きとうございます。妙が墓まで持って行くには忍びない内容です」
妙さんから受け取った2通の手紙をお館様は手に取られた。
見る間に顔色を変えていく。
「これは……本当なのか?ゆき乃がわたしの子かも知れないと、それは以前におまえから聞かされていた……だが、志乃が、志乃がわたしの異母妹だなんて……そんな、誰もそんなこと言わなかったではないか!」
「大奥様の手が届かぬようにとの、配慮でした」
「親父殿は志乃に目を付けていたのではなく……あれは娘としてだったのか?では、志乃がわたしを嫌がったのは、それを知っていたからだというのか?だが、志乃は何も言わなかった。何度抱いてもそんなことは……」
「志乃さんも最初は知らされて無かったそうです。それでも……ゆき乃は間違いなく玄蔵様の子でいらっしゃいます。志乃さんは、そのことを母親にも隠してゆき乃を産んだのです。なぜかなど、今となっては誰にも判りません。ただ、志乃さんの意志であったのは間違いないでしょう。そして、ふみさんもおそらく気がついておられたのでしょう……だからこそ、わたしの居るここに、お館様の手元にゆき乃を送り出したのかもしれません。今度こそ、約束を守って欲しいと……」
しばらく沈黙が続いた。お館様の反応はなかった。
「玄蔵様、お願いがあります。ゆき乃を……自由にしてやって貰えませんか?」
妙さんの声が静かに響いた。
「わたしもお給金を頂かずにこの歳まで働いて参りました。その分で、わたしの親の借金と、貴恵の残した借金何とかなりませんでしょうか?いえ、お金の問題では無いのです。わたしは最後までこの館にいるでしょう、でもゆき乃はまだ未来ある娘です。頭もよく、志乃さんに似て器量も気だてもいい。この子は宮之原の家や財産を欲しがるような子でもありません。ただ自由に、どうかゆき乃を自由にしてやって貰えませんか?」
「自由……この娘を自由にしてどうするのだ?普通に嫁になどもう出せんだろう?汚れた血の娘、そして親と同じように実の兄を思い、離れぬ愚かな女。志乃とわたしの娘ならば、わたしが自由にしても構わないのではないか?」
「玄蔵様っ!あなたは……まだそのようなことを仰るのですか?あなたが志乃さんに手を出さなければ、ゆき乃は、普通の家に、普通の娘として生まれて来れたはずなのです!その罪を、なぜ償おうとなさらないのですか?」
「ふん、好きにさせたところでゆき乃は恭祐か、あの藤沢の小倅の元に居るだけだろうが?それとも恭祐、おまえもわたしと同じ罪を背負ってみるか?ゆき乃が好きなんだろう?わたしのことを嫌っておきながら父親と同じ過ちを犯すか?それもいいかもしれんな。甘美だぞ、その罪の味は……志乃の身体も最高だった。それとも、もう味わったのか?」
びくりとからだが震えた。知らずに結ばれた両親とは違いわたしと恭祐様は異母兄妹と知りながらも離れられずにいるのだから……
「あなたのようにはならない……ただ、わたしはもう誰も妻に迎えるつもりがありません。そしてゆき乃も……そのことだけは許可して戴きたいのです。兄と妹として側にいてくれるだけでもいいのです。どうか……お願いです」
恭祐様の言葉にお館様の顔が歪む。妙さんもその言葉にわたしの顔を見返してくる。
居たたまれなかった。その言葉を言わせてしまったのはわたしで、その言葉が意味するものは……
「なにを馬鹿なことを……おまえは宮之原の跡継ぎだ。嫌でも妻を迎え子を作るのだ。嫌なら子どもが出来るまでだけ抱けばいいことだ。その後はおまえの母親のように好きにさせてやればいい」
「嫌です。そんな、あなたのような真似はしない!」
「そんなことが許されるものか……おまえは宮之原の跡取りだ。ゆき乃も約束は守ってもらおう」
「玄蔵様!そんな、お願いです、ゆき乃を自由にしてやってください!!せめてここから出してやってください」
「恭祐が勝手なことを言う限りはゆき乃にも自由がないと思え。今までやって来たこと、私が知らんとで思ってまあ、もうまともに嫁には出せんが、それでもこれほどの器量があれば、どこぞの妾にぐらいはなれるだろう」
そう言い捨てて去っていくお館様の後ろ姿を恭祐様が睨み付けていた。

      

お館様反省の色なしです。(涙)