1.
 
部屋の中の空気がようやく静まっても、椎奈は眠れずにいた。
工藤の腕は温かく、自分を引き寄せて離さない。まるで自分が大事にされてるような錯覚を起こしてしまいそうになる。
工藤の胸に埋めていた顔をそっとあげると、工藤の寝顔が目の前にあった。いつかの夏、京香の部屋で雑魚寝したときに、間近にある工藤をみて、一生こんな時はこないだろうと思っていたのに...
いざそうなってみても、それは幸せでも何でもなくて、ただ胸が苦しくなるだけのことだった。鼻の奥がつんとし始めて急いで椎奈は彼の寝顔に背を向けた。
それでもまたカレの手が伸びてきて椎奈の身体をそっと抱き寄せる。こうやって愛し合った後の彼女の身体を抱いて眠るのが工藤の癖なのだろうかと思う。そうやって何人もの女性と夜を過ごしてきたことを椎奈に想像させてしまう。
けれども椎奈は今までの女性のように愛されて抱かれたわけではない。好きの言葉も愛してるの言葉も、何も存在しなかった行為。
見つめてなんか居られない。それは辛すぎて...必死の思いで嗚咽が漏れるのを堪えるしかなかった。
もうすぐ目が覚めて、それからまた元の親友同士に戻らなきゃならない。
(あれから何度カレと繋がったのだろう?)
信じられないほどの優しさと激しさで工藤は椎奈を求めた。ちゃんと笑えるんだろうか?今まで通りに振る舞える自信は椎奈にはなかった。確かに行為自体は治療だったかも知れない。でも...何度も自分の名を呼ばれ、甘く囁く彼の声に酔い、何もかもわからなくなるほど求められた気がした。身体のあちこちにその疼きは残っている。本当の愛はなかったけれども、工藤は親友として精一杯の想いで椎奈の身体を愛撫してくれた。大事な宝物のように触れて、いとおしそうに何度もキスを贈られた。きっと工藤は今までにもたくさん女の人を知っているからこんなことが出来たんだろう。そう何度も自分に言い聞かせる椎奈だった。
あたりはもうすっかり暗い。夕方、7時を回ってるのだろう。そろそろ帰らなければいけない。椎奈はゆっくりと身体を起こした。涙はもう乾いた。
(もっと愛されたかった...今日だけでなく、ずっと...)
最後に抱かれた後、目が閉じれなかった。目を閉じたらすべてが夢で終わってしまいそうで怖かったから...椎奈はベッドをするりと降り立つとベッドに眠る工藤の寝顔を少し離れて見つめた。
(この距離がちょうどよかったのに...)
椎奈は自分の指先でそっと工藤の薄い唇に触れてみる。昨日から何度も椎奈にキスを贈っていた唇だった。
(ありがとう、すごく大事に抱いてくれて...)
椎奈は衣服を身につけるとそっと部屋を出た。
何もなかったことにしよう、この部屋で自分は工藤に慰められただけ。昨夜からずっと飲んでいたことにしておこう。京香にも言わない、誰にも言わない。
帰りの電車の椎奈は工藤に中でメールを打った。
<ありがとう、やけ酒に付き合ってくれて。もう立ち直ったよ。あたしは大丈夫だから。またみんなで飲もうね〜  親友の椎奈より>
送信。
何もなかったことにしよう、そう言う意味だっていうことは工藤にならわかるだろう。
椎奈は泣き出してしまいそうなのを必死で堪えて帰路についた。
(誰にも言わない...絶対工藤の迷惑にならないようにするから。)
椎奈はそれだけは堅く決めていた。
 
 
しばらくは椎奈は工藤に連絡を取り合ってなかった。
それどころか、京香にすらメールで工藤にやけ酒に付き合ってもらったことしか報告してない。
<椎奈、もう大丈夫なの?職場で藤枝ともちゃんとやれてるの?今日うちに来る?>
京香からのメ−ルにすら戸惑う椎奈だった。何をどう隠して話すか...いや、京香に隠し通す自信なんてない。
<もう大丈夫だよ〜藤枝くんもふつうに接してくれてるしね〜なんかぱ〜っとやりたいな♪>
わざと明るく振る舞ってみせる。実際は全然元気じゃないのに、無理をする椎奈。
<じゃあ、久々に今夜飲む?>
二人で会うのを怖がってるのがわかったのか、急遽飲みに行くことになり、京香の采配で久しぶりにみんなで飲むことになった。工藤は来るだろうか?椎奈は不安になる気持ちを隠せなかった。
「望月さん、顔色悪いけど...大丈夫?」
「大丈夫です、ちょっと貧血かな...急に暑くなったから。」
上司の中上に声をかけられたときは椎奈の顔は真っ青だった。
「無理しなくてもいいわよ?ここのところ調子悪そうだし...」
「いえ、明日休みですし...」
今夜の飲み会は気が重かった。体調はいまいちよくない。
「そう?じゃあ、明日はゆっくり休みなさいよね。」
 
 
「椎奈、久しぶり。」
夕方までにはなんとか調子が戻った椎奈は笑顔を貼り付けて居酒屋ののれんをくぐった。席にはすでに京香と三宅と工藤と、珍しく未来が来ていた。
「うわ、未来久しぶり!!」
未来を挟んで京香と三人盛り上がる。
椎奈は少しほっとしていた。未来の存在が今日はすごく嬉しかった。久しぶりに出会った未来は幸せそうで、その左手には指輪が光っていた。
「おめでとう、決まったの??」
「うん、来年の春だけどね。椎奈には悪いけどうちのホテルで式は挙げるからね。椎奈も是非来てね。よそのホテルの式なんていい勉強になるでしょう?」
「もちろんよ!いつもお世話するばっかりで、式に参加するのは初めてなのよね...あ、もちろんちゃんとお祝いしに行くからね。だからちゃんと新郎側の友人紹介してよね。」
いつもよりはしゃいで盛り上がりを見せる椎奈だった。未来の彼氏は中学高校時代からずっと思い合った相手で、卒業してからは一緒に住んでいた。彼が司法試験に受かって、生活が安定したら結婚するって約束だったのを椎奈も知っている。うらやましいぐらいの話だが、未来はそれだけの魅力のある女性だ。何事に対してもいつも前向きで思いっきりがよくって...椎奈は今はただ祝福しようと笑顔を貼り付けた。工藤は相変わらずの態度で、いつもと変わりない。いや、疲れているのか少し不機嫌そうなだけだった。
「いいわよ、でも別に春まで待たなくったって、椎奈がその気あるんだったら、いつだっていいの紹介してあげるよ。」
「ほんと、その気ありだよ〜!」
未来のその言葉に明るく笑う椎奈。
京香はあまりにも無理して笑う椎奈の態度のおかしさに気がついていた。
工藤の目にも普段と同じように振る舞う椎奈の姿が映ってはいたが、椎奈が未来に男の紹介を頼んだのには驚いた。
(そっか、男紹介してもらうのか...)
そう思うとその後の酒の味はしなかった。
出来るだけ考えまいとしていた。椎奈をほかの男が抱く。そう考えるだけで工藤は悪酔いしそうだった。
(おまえは親友の幸せも喜んでやれない奴なのか?)
一旦女として抱いてしまった椎奈の身体に対する執着心だと自分に言い聞かせた。
アノ夜の椎奈の柔らかな唇、身体、そして甘やかな反応。少女のように恥じ入る表情、何も知らなくて、全部自分が教えた身体の反応、そして暖かな椎奈の中...
思わず身体が熱くなってくる。あれから一月以上たつというのに...
そんな邪念と戦うように工藤は杯を煽った。
 
けれども椎奈も戦っていた。
自分の中の工藤への想いもあのとき抱かれたことも、全部忘れると誓ったはず。長い年月押さえに押さえてきた想いを叶えたあの瞬間を椎奈は忘れてはいない。だけど、顔に出せばきっと工藤に迷惑をかけてしまう。
その場に長くは居られなかった。工藤の視線がやけにきついし、体調もよくない。少しのアルコールで悪酔いしたようで、それを見かねた京香が早々に連れ帰ろうとしてくれた。未来も久しぶりに京香のうちに泊まるらしいと聞いて椎奈は喜んだ。それも全部京香に話しにくそうだったのを悟って未来に連絡を入れておいた彼女の気遣いだなんて椎奈は気がついていない。
 
「椎奈盛り上がってたねぇ、あの藤枝って奴に振られたんだろ?もうすっかり立ち直ってんじゃないの?けど、あの藤枝が振るかねぇ...椎奈にめちゃぼれしてたのによう。」
居酒屋に残った三宅と工藤、工藤もいつもより酒量が上がっている。
「おい、工藤、おまえも静かな分、えらく飲んでるな。」
「そうか...」
少しでも口を開けば椎奈に何か言ってしまいそうだった。だから黙って飲んでいたんだが...
「けど今日の椎奈なんだか可愛かったなぁ。あの酔って目を潤潤させてるとこなんか、思わず支えたくなっちまったぜ。けど、あいつ男に触られるの極端に嫌がるだろ?オレなんかさっきトイレから出てくる椎奈が具合悪そうだったから背中さすってやろうとしたら思いっきり拒否されたぜ。」
「えっ、ほんとか?」
もう大丈夫じゃなかったのか、ひょうひょうとしたファニーフェイスの三宅の顔を工藤は見た。
「ああ、あれじゃ藤枝に愛想尽かされてもしょうがないかな?」
「そんなことないだろ、椎奈はもう大丈夫だよ。」
「そっか、大丈夫なのか?でもよ、あいつ彼氏出来ないじゃん?高校時代から久々だったのによ。」
三宅はアノ事件も、章則のことも知らない。
「そのうち彼氏でもきるさ。おまえに出来たんだからな。」
三宅はまだ椎奈の紹介した彼女と続いてるらかった。
「椎奈はいい奴だよ、幸せになれるさ。」
「ああ、いい奴だ。それはオレも認めるよ...けど、工藤にとってもいい奴止まりなんだな、あいつは。」
「あん?何が言いたい?」
「別に...まあ飲むんなら付き合うぜ。」
さらりとかわされて、三宅に注がれたグラスを一気に空ける工藤だった。
 
「椎奈、本気で男紹介していいの?」
「いいよ、お願いね。」
「ならね、前に椎奈の写真見て紹介しろってうるさいのがいたんだ。来週でもいい?」
「いいよ。」
京香の部屋では3人寝る体勢を整えて話し始めていた。
「椎奈?なんだか眠そうだね。いつもは目が堅いのに?」
未来にそう言われたとき椎奈はうとうとと目を閉じかけていた。最近やたら眠けがひどい。今日はアルコールを取ったから余計だろうと椎奈は京香にもそう言った。
「でも、椎奈トイレでも気分悪そうにしてたって...三宅が言ってたよ?」
「昼間にね、貧血おこしちゃって...だめだよね、もてたいがために今更ダイエットしてもおそいんだけど...」
なんだダイエットかと二人は笑う。とっさにそう誤魔化した椎奈だったけれども、実際ダイエットをしてる訳じゃない。けれどもあれ以来食欲がでない。平気な振りする分、心でなく身体が悲鳴を上げ始めてるようだった。
「あんまり貧血起こすんなら病院行った方がいいよ。椎奈貧血起こすような体質じゃなかったじゃん?」
未来にそうつっこまれて、笑いながらそのうち行くよと椎奈は答えた。
 
 
 
「椎奈っ!」
とうとう仕事中に倒れてしまった。
たまたま側にいた藤枝に支えられた椎奈はそのまま医務室に連れて行かれた。半分気を失ってた椎奈は藤枝が抱きかかえて連れてきてくれたのを知らなかった。
「ん...」
「目覚めました?望月さん。」
目を開けた椎奈の視界には藤枝がいた。
「なんで藤枝くんが?」
「それはないなぁ、望月さんがしっかり僕のスーツを離さないからでしょう?」
椎奈の手には藤枝が脱いでかけられた背広が握られていた。
「ご、ごめんなさい!」
「いいですよ、それより無防備にあんな顔しちゃダメですよ。それに無意識でしょうけど、『けいじ』って名前呼んでましたよ。うまく、いったんですね?」
優しくそう聞かれて、椎奈はなんて答えていいのか躊躇していた。うまくいったけど、結果うまくいってはいない。どちらを告げるべきか、悩んだ末、椎奈は頷いて見せた。
「よかった。これで安心して諦められますよ。もしあんな状態のあなたを放って置くようなら無理矢理にでもあなたを...そう思ってましたから。じゃあ、僕がしたことは無駄じゃなかったんだ。」
よかったとつぶやきながらカレは立ち上がった。
「仕事に戻ります。今まで通り、きっちり仕事しましょう、望月さん。」
明るい声はそう言い残して去っていった。藤枝の去った後、椎奈は大きなため息をついた。
(嘘ついちゃった...でもその方が藤枝くんにはいいかも知れない。)
彼と付き合うことによって工藤の身代わりにしようとしていた卑怯な自分。それに気がついて自ら椎奈を追い出し工藤を呼びだしてくれたのが彼だ。だけども結果、身体だけ工藤と繋がって、また親友に戻った。いや、そうしようとしたけれども、椎奈には出来なかった。工藤に対する気持ちは募っていく一方だ。その苦しみから逃れられず、ストレスで胃の調子もおかしい。
椎奈は少しだけ休んでまた仕事場に戻った。今週中に病院に行こうと考えながら...
 
 
 
飲み会以来椎奈からは連絡もない。
あのときの椎奈はすっかり大丈夫だと工藤にアピールしているようだった。
(椎奈は戻れたんだよな、親友に...なのにオレは...)
あれ以来ほかの女なんて抱いていない。いや、その気になれない。どうやっても椎奈しか浮かんでこないのだ。なんてことだ?こんなこと今迄なかった。一人の女に固執して次の女にいけないなんて。昔散々椎奈に叱られたので、きっちり別れるまで次に行かないようにはしていた。それでも本気になれる相手なんかなかなかいないから誰が相手でも同じだったのに?悩んだあげく工藤は携帯を手にした。
『椎奈?』
『工藤...なに?』
今更もう一度なんて言いだし辛かった。
『いや、未来に男紹介してもらうって言ってただろ?どうだったんだ?』
聞きたくもないことを聞き出す自分に工藤はあきれた。
『うん、紹介してもらったよ。すごく優しくていい人だよ。だからしばらく休みとかもその人と会ってて忙しいんだ。』
電話越しに聞く椎名の声はいつもと同じ、今まで何度も電話したときに帰ってくる声と同じだった。
(完全に親友に戻ったって訳か...)
この声が上擦って甘い吐息とともに漏らす声を未だに覚えている。あれからもう2ヶ月以上たつというのに、未だに夜な夜な工藤の身体にくすぶった熱を呼び覚ます。思い出せば思い出すほど蘇ってくる椎奈の扇情的な姿態と声、男が早々我慢できるわけでもなく...
『そっか、オレも、また新しい彼女出来てな、忙しいよ。』
嘘が口からでる。彼女なんか居ない。あれ以来まるで女断ちの状態の工藤だったのに。
それは椎奈も同じで、未来に紹介してもらいはしたものの、それ以降会おうともしていないことなど彼は知らない。嘘をつくことでは椎奈の方が年季が入っている。もう何年もこの男に対して自分の気持ちを押し殺し嘘をついてきたのだから...
『そ、相変わらずだね。また綺麗な人なんでしょう?今度は長続きしそう?』
『ああ、もちろん。いい女ゲットしたぜ。』
『...じゃあ、切るね、彼から電話かかって来るかも知れないから...この時間帯、電話でれないかもだよ。』
『そっか、じゃあ、用件はなるだけメールですませるようにするよ。』
『うん、そうしてくれると助かるなぁ...』
当分工藤の声は聞きたくない、その声を聞くのすら辛く感じ始めてる椎奈だったのに...その想いは工藤には届かない。
『じゃあ、がんばれよ。』
『工藤もね、ありがとう』
『おう、またな。』
『うん、さようなら。』
さようならと、告げた椎奈の言葉が、工藤が聞いた椎奈の最後の言葉だった。
 
 
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〜あとがき〜
最終編始まりました。ちょっと短いですが、随時UP出来ればいいですね。
工藤よ、今までの分苦しむのだ、それしかないのだ!!最終編が一番の激動になるかもです〜
毎日何度も来てくださってる方のためにがんばりますね〜
 

 

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